2012年1月31日

人類生物学

羞恥心の発達はもっとも原始的には媚態またはのちに同類への情報伝達を進化させたのだろう。本心あるいは本能のありかを隠す技能が、羞恥心というものと多くの徳、つまり集団適応性の源泉だったらしかった。
 表情がこの働きを司るのをみれば、おそらく恥じを教化させた罪という言葉が人類のなかで役目をもってきたのも同じ起源をもつのだろう。幼年期や、多く子供らしさをとどめている類いの子を相手どってすごしている女性にも殆ど、同質の感情の初期状態が広くみられるのをかえりみれば、羞恥のとおい震源は特に顔のうえにもっとも示されてきやすい表情による。特定の表情のしるしがなんらかの場面で発現しやすいときそれは偶然なまわりのまねと意図された選択によって合理化され、さらに発現しやすくととのえられた。
 われわれが名づけることのできない表情というのは無数にあって、なおかなり簡単なそれは近縁の高等哺乳類でも共通している傾向がある。喜怒哀楽ほかそれらを表す言葉が意味している行いの示され方が、羞恥を起源としておおくの種というものにいくらか共通しているのは、集団性のある特定の場面で要求されていた心体活動が似かよっていたからなのだろう。たとえば突然なはげしいからだの緊張となんらかの憤りは怒りをよび、必然な反撃を隙なく実行させた。これは動物について示威や威嚇をする際にもほぼ同素な姿がみられる。しかし、偶然にまきこまれた様なこの必要に合わない形質というものはこれらの体系から綻びおちやすい。蛇が舌を出す、犬が耳をそば立てる、猫が尻尾を上げる、これらは人にあってはすでに消滅している。発汗や紅潮といった猿の叫びに付随してきた何ごとかしか居残っていない。乃ち、感情の体系は種属または類に特有で、それらの習性はかなり可塑的なので変形が加わり易いのだろう。