2011年11月7日

比較宗教の試み

嘗てベンジャミン・フランクリンがそれに近い事を構想したのだが、一切の宗教のうち矛盾しないで成立する徳目のみを抽出し、人類の中で他者との人格的関係を愛する集団へ弘める必要がある。
 我々が宗教の根が違う中で互いに敵対しあう悪習はまこと現代で最低の地獄模様となっており、単なる人間の善し悪しに関わらない。その原因は宗教間の比較検討かつ批判的考察を欠いた偏執狂な利己主義にある。

 現代日本ではそもそも宗教への無関心が甚だしい程進んでいるか、たとえば奈良等に特徴的な人口流動性から僻地に伴った各種の派生した個別宗教が覇権争いに似たすみわけと相互への違反を常態としている。そこでは唯一の宗教というものが殆ど信頼も認識もされていないし、尚且つ総合徳目への目覚めも覚束ない。単なる皇帝を偶像として絶対化させる特殊な弊害はいうまでもない。

 世界宗教群の統一にはおそらく危惧もあるだろう。私は以前、天地教という名義で、全ての宗教感情の根本にあるのだろう勧善懲悪による利他行為への従順を抽象しようと試みた。もしこの試みがかなり成功しても、おそらく組織の論理によって宗派に特有の権力の集中は絶対主義に伴う矛盾を起こし、結局、地球内で最大限共有できる宗教社会を確立するに留まるだろう。
 にも関わらず我々は世界宗教間の止揚から最善の道徳とその徳目を伝統的な系譜の上で導き出せるだろう。宗教的孤立より善い結果を造り易い比較信仰の知は哲学が為し得る中でも究極に最も近い智恵となるだろう。そしていままでいわれたこともないが、すべての宗教を信じる人にとっての共通目的は分かり合いと慈悲による相互への不侵害と独自文化の追求である限り、宗教相互の陣営の中にある立派な徳目を総合または捨象して自ら達の信念をより高貴化させるのは元々、個別に営まれてきた宗教創始者らにとっても当為というものであった筈である。

 悪は、悪が破滅の原理な限り好んで行われる訳がない。故に善の為に国際化の上で必要なのは善悪の程を十分に分析できる比較宗教とそれらの哲学的考究だろう。