全ての文章はその人物の遺書。Memo書きの様なものであっても。
死なないと思っている人物の遺書は下らない。死を想えはその基本的文法。全ての人間は立派な遺書を残すかどうかで分別できる。来世は常に文章の上にある。Da Vinciが生き姿といった作品は、どの技へも正しい。遺書ではない文書はあった試しがない。人は生まれた途端死んでいる。成長がその通り、完全死へ向かっての跳躍なのだ。
命が永続する事を願った古代人は、どうしてそうしたのか。彼らの幸福感はどこから出てきたのか。之は彼らの比べた位にすぎないだろう。今日でも、皇族は搾取の頂点に属している限り、反省や自戒や後悔を浅くしかできないものである。この種の幸福は欺きである、なぜなら彼らの作品は上述の文法をもちえないのだから。同類の搾取による幸福は、単なる悪意の全うだ。
おろかものには低劣な、かしこきものには高貴なしあわせ、と彼らがいうものを官能の計画者は用意した。そのため、この両方の人種は決して互いの領域に踏み込むことがない。理性、或いは知能を持たない生態は悟性的快や社会的尊敬の感情をもちえない。かしこきものはおろかものの進化した姿である。この事実が、質的功利主義をうみだした。質的功利性は進化論と合致している。
多くの文化素、memeのわけは単にこの質的功利性に由来している。だから、死を想え、或いは遺書の文法的帰結のみ高度化の指標ともなってきた。神の素、特に唯一絶対神のそれは古代人があみだした最高の遺産だった。カントが想ったこの遺産は、殆ど彼の崇高さの思いと一致している。我々の中に残された神の内、唯一絶対神についての全ての特徴は、この理説や了見と全くひとしい事が殆どである。我々はこの意味でカントの遺書に預かっている。
無神論者は神をことばのあやだと考えている。理性は知能のことばだから、それを用いる限り知能は神を知覚せざるをえない。今日の水準の知識で我々が神を十分に検証できないからといって、超越論的統覚としての崇高さへの思いは消え去りはしないので、神ということばの中で神らしさは常に人々をとらえて放さない。
自然神学として物理科学を再定義しようとしたカントは、計画論または知的設計論を背後にうみだしてしまった。物神論や汎神論、animismにおちいらないためにはこれらが必要とされてしまうから。つまり、自然科学は神による知的設計の学びとはいいきれない。これを説明する論拠はない。それら、乃ち、超越した崇高な権威からの計画論を含む自然神学とやらと、単なる自然科学は別のもの。
以上の故に、神の非実在性は科学そのものの中では証明できない。自然は神ではないし、神によって設計や計画されたわけもない。それは神話か宗教的心情でしかなかった。神のmemeは単に遺書の中の権威であり、その使用価値は質的功利性と同じ由来をもっている。信じる信じないの問いは宗教論でしかなく、言葉遊びらしさを除けば哲学ではない。神があらわれた経験をもたない人、その実験をおこなえない人が人格神或いは人型をともなう全知全能の姿を想像上の偶像崇拝とみなすのは不思議ではないから。唯一絶対神をともなう遺書の強壮性、その生き残り易さは単純さと有用度のためにいうまでもないが、過去の人類の辿ったか見ようとした筆蹟でしかありえないどの文章も、ある知覚的限定性の洞窟にとどまっているので、全知全能にふれたりそれを完全に定義することさえ侭ならないだろう。精神ということばは、神に精しいと書くが、事実上は知能のよしあしにすぎず、しかも環境への適応性に伴った知能の多重さからいえば将来にわたっても唯一絶対的となりえないだろう。神学の根本的理由付け、つまりその実在性の証明は、おそらくパスカルの賭け(神が実在するかどうか分からないならば、今のところ実在するという意見に賭けないより賭けておいた方が得である)としての道徳的特徴とのしめしあわせの程度にもとづいてのみよりよく趣味的だろう。と同時に、人類の既存の状況から言えば、神の素をより精しく、たとえ否定的側面についてさえもっている生態は、その反対語である獣からははなれていく傾向をえり好み的にもっていく。種は、人類の中にあってさえ神という文字やかみという発音、Godのしるしを保存させ、おそらく遠く先々では各信仰の枠としての使用制限の伝統的次元をまぬがれて、どれかの意味で使いえる権利については保持していくだろう。