2011年8月22日

学習論

生後に再学習がいる、という意味での学習行動は単に習性の命題にとどまるだろう。学習の限度は、常に前世代の持てたそれからの抽出によっている、効率であれ程度であれ。
 ゲルハルト・リヒターの手記に学習の馬鹿らしさが言及されているが、要はその習性が困難なほど自然界の認識は生後にえるべき経過を長期化する傾向をいっている。少子高齢化も少産少死も学習社会へは必然の結末で、しかも文明に関わったすべての人類はジョン・スチュアート・ミルの洞察の通りそれを幸福とみなす理想にみせられる。
 生涯学習者の数量はまさに人類が精神の、つまり知能の快さを他の価値より尊びたがる文明の一般傾向へいいおよぶ。我々が彼らの王である科学者やその原質としての数学する者を神聖視しかねないことこの上ない。自然から習いえることはすべて神の仕業の追認とおそらく予想され設計済みの応用にすぎない、という神智論は神学という聖書解釈の中にすべて思想をとじいれる準備。
 単に仕事に関するかぎり、機械が代わりえるすべての労働はこの質的使用者主義の管理された理想へ追従しがちだろう。本能の退行をよろこぶ、多くの劣った理念は、真実の前では劣悪な前近代生態のための準備や諦観でしかありえないだろう。