2011年6月24日

商業批判

商業そのものが悪意か悪風に近寄るとは、特に貧富差が広がるという点へあたる。交換価を貯えるに味を占めた業者、それが商人で、もし単なる物品の流通のみを肩代わりするなら慈善事業や志願者という身の上に留まっていた。商業は悪意。唯その強度が、占めた差額のがめつさによるというわけ。
 デリダがいう返礼はぶきたる商いは、必ずしも善意ではない。この返礼が感謝でありさえすればよい場合があっても依然として商人気質は己の取り分しか考えていない。不当な差額へすら自己正当化の言い分として、もうけたとかもうかった、とのべるのがこれ。つまり交換差額へ仲介料を上乗せするのは、全て悪意。但しその分け前が少ない方が罪が軽いというのみ。一切の地球宗教が、信仰からの調整を司るのはまこと善意というべき。最も邪悪と見ていい祖先崇拝偶像教としての日本神道へすら寄進とか賽銭というしくみがある。すべて商いにはこれ以下の低落しきった姿しかない。
 日本史で初めて商いを正当化したのは、福沢諭吉だろう。町人道の石田梅岩すら職業倫理へ分限を科す迄だった。だから功利主義や実用主義を富国強兵説へ結び、明治テロリズムによる政治指導者の位ののっとりを画策した彼ら外様下士らの維新元勲といわれた人々は、単に武士道で培われた道徳を投げ捨てて恥じなかったばかりか悪解釈した商業習癖の悪肯定を始めたのだった。実際には、欧米の中で、特に英米の中でさえ商いは倫理で正当化されきってはいない。つまり生業とか職業の必要さからきたその分限しか、社会面からうけがわれていない。