2011年6月21日

商いのわけ

商業社会は善意ではなく、又その品性を貶める。商業國への謗りの殆どは真で、そこでのくらし振りを浮つかせる。商業市民は、消費生活とよばれる品物の取引へ関わり余り生産さや創造さがない。
 経済を理とした社交界は何ら市民さの功徳へ期さない。故 商業説な文明は優るものではない。不足の補いが消費なら、この地域は自足が常に最低。消費量を分解する調整商は徴税といわれ、この領分へのみ商業の元来の量は感けう。人が場所柄の特質をひきうける限りその特徴へのぎも又風土の巧みによっている。交換価は、自らが何等かの手で市場での共通貨幣を媒介しより多くの物資をひきよせる為に使われ、他には意味がない。人種が自体の特徴をのばすのも、生態条件が場所へ叶うある相互作用の内だろう。いわば全生態行動で最も合理な特質は、その場で集積されゆく唯一のよさ、を唯状況へ任せおく。かくてよき種は、必然のするどさを姿におさめゆく。

 一般に商業地は、内的増加率へこの種の増産をはかる。高い量産の割合はその種が場で最も殖えやすい条件からきている。商業地は飛び地で、それぞれ異なる消費らしさなのが殆ど。風土は人種と似て場を与えるに特定の材料を余して、彼らへやりとりさせゆく。かくて都市、特に商業大都市はそこでの人が特定のらしさへのとぎを生態へ司っているとしらせる。なぜ商業地が好ましいとはいえない習性を伴うかいえば、この特徴への強調が、常に他の地域でのよさと違和しつけ得ので。つまり最善の都市はない。もしあるなら、習性の次善さが殖える条件毎の比べ分への身な筈。