2011年6月18日

資本商の原理

金利資本商で社会をすぐれた状態へできる、という観点には見逃しも多い。実際に資本商社会を誘う者は低劣や凡俗な人物の数量こそが物事を決めるのをみて、その組織での防衛が偽善や錯誤にみちていると知る。金利資本商は建設的ではない。金融市場や金融業なる生態が之を端的に示す。彼らは目先の美人投票遊び(不確かな偶有の多数派他者についての行動予想への賭け)を溢れた相対な貧困の上で際限なく続け、結果意図せず社会不安を増大させはするが決して有徳さを啓発せずその総量としての資本の意義を理解さえしない。いわば金利資本商は矛盾の総合職で、その品性は世界で最も俗物な者へ与えられるあらゆる下らなさを余す処なく示せる。
 後期資本商が己へ不況という慢性症を示したのが分れば、原理な資本論は公共事業体な政府の有様も一体の経営界とみなす他ない。だから調整しない自由経済論はみな過ちで、そこが弱肉強食とよばれる世界なのを自覚すべき。真に資本系列のよき理念をおいかければ、持つ資財を用い人々へ高い幸福の状況を作り上げるのがもと市場としての使命と分る。もし之へ背けば彼の経営体は失敗。事実、企業や国柄、個性への評定はよさを長期か現実の眼でその点から想定より厳しくもつもの。

副作用な金利の発生は、かくて調整されざる間は全て悪意か悪徳のものとなされるを得る。もし金利がないなら一切の商行為へ人々が羨む理由は何もなくなる。自らしないそれは単に安楽へ伴う怠惰の時と多数決で定められた累進率へ伴い逓減。