2011年5月6日

物と言葉

言葉の比喩さ、比べたとえさは物自体への知覚が言葉の上では不能としめす。「日」の文字は太陽のかたちの省いた型だが、物自体としての太陽の元素ではない。ある馴れによる「ひ」の音も同じ。
 こうして知覚基盤原理のねにあるのはたとえによる定義の連鎖と判る。比喩しか知覚をつくる基盤界はない。辞書とか辞典とよばれるtextの集めも比喩しかのせえないし、人々は理念に於いて乃ちおもな五感の感覚をこえては比喩の内にしか住んでいない。語族を造るのは比喩差だろう。たとえのちがいが彼らにcommunicationの差延を用る。知覚基盤のずれは語族の母集合がことなること、それらの再習得や伝わりがことなる程をもつから起きる。
 感覚基盤にひっかかる各種の要素にしか、人類は物事へ触れる機会がない。体験とか経験とよばれている概念は前者が感覚基盤へのひっかかり、後者が知覚基盤へのそれを含むひっかかり、と定義もされよう。よって、知覚基盤にとってすれば文字列は自体が物であり、そこからよび起されるどの擬似体験風の感覚への比喩でも知覚経験としかいいえない。どの多媒体でも又。知覚の膨張はその為の生業の変容を与える。知覚経験で人類の末裔は祖先が直接体験をえた皆を抽象化の内に省略できる。知覚上位原理は斯くて抽象化の上に咲いた理想主義の花で、知識人の姿勢を擁護する理説。が感覚先鋭人が知覚のそれよりも劣っているとか、生き延びる価値がないとはいえない。基礎な感覚は応用のそれより基盤に近いのみ。象徴や形容の比喩な記号を通したやりとりは各感覚人種を部分集合として経験下に摂りこもうとする。人類史とか人類学という用語は、各文明も一目の元にあらゆる生態内種間組織と同列とする。階級論や民俗学はこの中でどの生態行動も定義に於いて把握させる。そこで、知覚は理解の手段だが、単に生態行動の一部分に留まる。知識文明の系が他の系をおしのけることは考えられなくもないが、杞憂。この生態はより合理性あるので一般な競争優位だが偶然に翻弄される生存確率や、内的増加率の分布図とは正比例しないだろう。つまり知識文明特権論や知識文明選民論は間違いで、知識文明そのものが必ずとりまいた共生の系にしか存立しえない。
 物自体という概念は単子のイデアからきた理念語で、境界の定義しか示さない。現象間の境を決める為に物自体は事との対比でしか、しかも非時間でしかとらえきれない筈。物自体は絶対空間な停止した時間内にしかなく、又境界の定義論のみ。