悪さが対立素としてよきもの、よきひとへ与える反面の影響は常によりよきもの、よりよきひとへの選好を強める効果の為。悪い素や悪い遺伝子は比べの問いだが、よいそれよりも厭われたり疎まれたり、或いは逆に一部で群れ広がったりする。が悪さはかれらのもつ不合理や不条理を温存し次世代での幸福感を質な低次や後退した奇習へと丸め込む。
かくみれば文化素の展がりはよいものへのとぎ過程といえる。もし悪さがいっときその権勢をもったとして、かれらがつくる社会秩序や系の愚かさは伝承でもその生態を卑しく、先行きないものとしていく。絶望や堕ちぶれ、行き詰まり、無知や無恥の連鎖、衆愚、誤った判断の維持つまり狂信、その他あらゆる罪業の根はこの悪さからくると定義しよう。我々へ禍いや恐れ、負の感情を与える全ての要因は同類からの悪影響。もし訳があるなら悪さは同種間での膠着か進展なき行いの継続、要は同系配偶の暗面にありそう。処で学習や適切な行いへの習慣づけ、よい習性とされる多少あれ利他さを伴う自己の学ばれた進歩、誤った理に合わない行いの改め、之らの善へ向かう持たれた志にも関わらず刑罰とその裁判機関は最低限以下の判断力しかもたなかった同類を裁きの名目で虐げたり、我が侭を制限し一定の慣習修正を目指す動機を与えたりしている。司法機関の同類内淘汰力は直には権力とよばれる働きの殿だが、立法理性はこの人倫の総元締めの立場から悪さを善さから見分ける定義を行いゆく。
社会の規律は決して理性の外にない。それは同類の中で最も総合判断へ関心のある個りによりつけられた先鞭であり当文明の通らざるをえない轍といえる。だから社交規則の根本の原理を自ら決めるという能力について、当社会で最高の総べた理性ある人は常に社会法則乃ち倫理の源であり、善さの原因となる。徳治は法治の先にある、といった有り体のおしはかりは道徳言論が立法の原の理や原文へ至るはじめの道なことから、いわば善意の連鎖をうみだす社会分析派の系統へいいえる。既存の社会秩序の内に悪さ、つまり害他のはびこりとその修正可能性をみいだす者らはこの道徳言論から導いて共有化された理性な判断としての立法機能をつくりあげようとする。
法のない社会が又文明にとってありえないなら、政党のもつ共通利害の源は特定の理念といえるだろう。この理念、つまりことわりへのおもいは立法府への議会参加により自らの理性を正当づける法案をおしとおす。斯くして道徳は法律となり、背いたとき当社会で同類からの刑罰を受ける前提条件とされていく。
もし以上の流れが正しいなら、全ての唱導か諭しは何れそれが話されたり、叫ばれたり、記され訓まれていった社交界での共有理念へとあつめ昇華され、必ずや報いられるだろう。そこに他の定義や批評の余地がなければ善さへのいい及びは必然に社会化される。
政治史には退行の時期がしばしある。だがこの時代は別の対流の為に必ず以前より優れた道徳状態や社交規律へしかまとまりつかない。人倫の弁証法はより理性の高い生態を恵む。そしてこれと矛盾した生態は、無法とその原因な不道徳や不倫の社交に沈みこんでいて悪い暮らしを余儀なくしていく。生き残りが最善の目安ではなく、その文明度が本質と再びいわれねばならない、生態学での間接淘汰や分業による階級化と共生からの他種連携を鑑みよ。どの知識も社交さへ導き入れられれば利他を伴う風儀へつくりかえられる。なぜなら完全な孤立した個性はありえず、かれらのなすどの生業も単に文明化やくにづくりの部分作業だろう。このくには、統一政府を伴う一大社交界として特定の法律をその秩序への目安か批判原理としていとなまれる。世界に不文律か不文憲法など文面にやきつけられない種類の立法の態度があるのは、特に解釈論か学の口語な回避をめざすから。そして主観の偏りを極小化するに、事実、成文立法則は常にくにづくりのうえでより賢明だろう。そうすれば特定の理論階層のみにこの解釈の要が流布し、権限の寡占を行わせたり行ったりしてしまう危うさがより少なくなる。同時に、解釈論の抜け道を悪用した無法行為への逆戻りか先祖返り或いは野蛮への退行も、普段の法文検証という哲学か倫理批評の知識層からの防止策のつきつめにより比べて僅かになりえ、且つ事前法にもとづく行政の実例を歴史家の再検証にも堪えるより恒久で長い視野からみなおしていける。