2011年3月30日

個性と善

人は夫々の答えしかださない。言葉が伝わるという事は殆ど偶然の機会による。違う教育条件下では意志疎通へすら不都合が生じるか。定義の連鎖から勘違いした解りをひきだすのはたやすく、文での差延へ態々限る迄もない。人は主観の域で世界を捉えてきたしこれからも。故より偏りのない意見、多くは裁判の際で最大の生殺与奪のはかりをもつそれは、一つの誤認をおしとおす機構の身。法的合理化は必ず差延を伴うから、絶対公正な裁判というものは行われえない。
 多数派が少数派をおさえつける機会として裁判は常態になっている。が、裁判はこうして公平へは十分な機能ではありえない。そこでは多数派の評議にある勘違いがつねに正当化され、より好ましくないと法定づけられた行為者の達が他の者から迫害される。善とよばれる一切の根本法則がこうも不安定な社会機能とはしられてもいない。裁判はつねに妥協や抑制だろう。悪習慣やそれに類した衝動に逸り易い人らは多数派からの勘違いの総体をうけとめる事で、大幅にずれた形質の多数派との折衝を修正や更生として行わざるをえない。と共に、之は本能が社会性をもたない生態についてしかありえないのだから根本的には集団の悪意であり悪業だが、死刑や事実上の終身刑という場合多数派が更生不能さを勘違いする判断は、被疑か犯行の者を現世からいなくさせて彼ら多数派の安寧をえようとする。こう考えれば、多数派の法的意向やそれを解釈する意図が善意か悪意かは到底しりえない。多数派がいかなる衆議を経、又彼らから選出された裁判官らがいかなる事例を創るかがこの世の域で善悪の分かれ目となっている。
 もしこれらの倫理な推論に誤りが入っていなければ、絶対善はありえず、単に彼らの属した時代や国民がいかなる教養の程度をもつかに比較善の慈悲度はかかっている。過酷な刑罰をもつ國は多分にそうでない所より他者の過ちを許容する社会的耐え性や修正の為の方便を少なくしかもたない筈。人は主観に生きており、この見る目は夫々の偏った形質か型でできている。同じ事象をことなってみる人々はかれらの生態体験がことなるかぎり全く同じ認識をもちはしない。
 他人への共感や同情の程度が低い主体は、多く裁判でも悪い判断を下すだろう。つまり同類内での理解力の少ない過ち易い個性らを無闇に過酷な刑で処する。こうして客観性の強さ、客体判断のでき方はその個りが他者の利害とぶつかってしまう機会をより多く避け、協調と離反のどちらの場合にせよ身をより適切に処する能力をもつと教える。客観さが極大化すると、各主観の総合としての国家意識が栄える。これらの客観国は程度問題として各個らの主観のあつまりだが、個々の利害を比べた値でしかみなさないのでより寛大で人を性善に近づけ、いわば物分かりのよさをとぐ。
 議論や討議の習慣、はより慮りある人々からいとわれ易い傾きがあったが、かくみれば客観国でいう風儀とわかる。法定やその分析と批評にもとづく恵みあいには論理だった文旨が繰り返し検証されると共同の意図はすぐれて客観視されやすい。原理主義か原典合致思想というものは、国家の建立には不思議と必要条件。但し、全ての文章と理論は進歩な原理と単に聖典になった教義へ過信を誘なう退歩なそれとにわかれゆくらしい。客観国をめざす地帯では、言論の自由がつねに十分だろう。誤った論旨への反駁と再検証の機会が多い程ひとの倫へも直しがきき易い。