2011年3月2日

生物学

ダーウィニズム内では低次な能力とされてきた感情や情緒は、しかし、現代文明の中でも様々な場面で用いられ続けているのが観察できる。
 結びからいえば感情という人類の能力は、有性生殖の枠内では消えさることがない。故に、感情が理知以下にある、といった考え方はなりたちえず、それらは生態によって併在しつづけるだろう。人々の言葉の定義はさほど厳密ではなく、生物学用語ではない理知は、我々のみる感情と大きくことなる才質や形質ではない。理知的な感情とか、感情豊かな理知といった表現がなりたつ為にその詳細な区分は、能力に於ける機能をもった種類へ戻る。いわば理知と感情は言葉の差でしかなく、単に行いについては「一定の手順」がある丈。
 直観か直感とよばれる対象や事態を脊髄反射の如くすばやく判る能力は、例えば閃きとか悟りといったより理知に近いとされる定義へも限りなく似ている。というのも、どの知性も、理由あるふるまいも本能行動がより特殊になった社会的類型でしかない。根本でいえば生態のもつ能力はみな本能が変形されたそれのみ。そしてこの変形でき方、つまり可塑さ、柔らかさが進化として定式化されたことなる生態への性淘汰を通した形質漸進の中身。究極でいえば、生態には本能行動の変化しかない。だから進化とよばれる系統立った変化の列は、本能をとりかこむ生態反応がいかなる条件のもとへ適応し生き残ってきたかを教えるが、何らかの内部発祥の現象ではありえない。遺伝的浮動の効き目を省みてさえ同じ環境条件のもとでくらしつづけた仮想の生態は、その想像できる異系配偶の機会によってさえ大幅に進化する事はないだろう。乃ち能力をとりまく生態条件がその形質への淘汰誘因となる域に限って全ての生き物はつくりなおされる。