2011年2月6日

知識哲学のちなみ

ある民族の立ちが何らかの専門知識を集め易い時その哲学は場所の固有な因果反応によっている筈。ちなみという名詞は彼らが固有の生活体験から、選好みや暮らしの必要の為にいかなる文脈をへているかおしえる。
 ゆえ知識と民族の一員の哲学とは地続き。彼らの知り方は興味や需要により、特有の哲学する者が集めてきた実証知覚の外部化や外聞でしか。科学が普遍語というのは誤りで、知覚基盤どころか民族傾向や人々の文化型へ大幅に依存した代物だろう。科学語か非日常語をつくる作用としての言語の為の言語な数学へさえ好みや達の違いが示される。民族経験とみた文脈の築き上げは自体できえさりはしないだろう。全く無人島の中で無人の内に文脈が消え去るといった特殊事情は、一般ひとはこぶ社会では先ずない。知りえた言葉の粋は何れ社中の共有地となり参照され、消化されゆく。
 知識の道は先導をこえない。彼らの導きが拓いたみちのりを幾らかの人々が辿り出し、また引き返してその場所文明は築かれ、時に潰えるだろう。それらの永続さは知識の多岐か重ね合いの妙による強壮な文化型の定着度へより、普通の生存闘争と趣は特に違わない。そして人類がどの神話を信じているにせよ、自然界は夫々の種への運命の選択を通してより幸運に恵まれて比べて強壮な種を文明間淘汰に於いてえり抜いていく。