2011年2月6日

解釈学批判と正義事実説

解釈論の中に究極の正義はないだろう。かわりに、解釈できる無数の主観がある。事実は解釈より決定的。この理由から、現行の善悪へ法的結論を出す為の弁護制度には情状の余地といったゆとり幅設けへの当て嵌めこそ趨要といえそう。事実への認証が緻密になる事は、多くの場合、解釈への論拠がそうなるよりも正確な義にかなった司法判定ができるのりがある。現代の中でも究極の正義、或いは善は事実上にのみ有り得る。事実外の行いは、みな解釈論やこれまでの法文命題へのとりかたに納まるだろう。そして理想主義か観念論とよばれるプラトニズムの回路は行い、無論言論も含むそれに於いてしか事実上の善悪さがはかれないという現代の命題へは決定的な視座をもちえない。