世界が同時に比例しつく限り、絶対の進歩は同時にしかみえない。適所毎の生態内での定着さは変異の程を特有の知覚原理にしか戻さないから。
倫理にみた場所比例は、それらの共同範囲を特徴と生態分業に返す。経済関係は必ずしも倫理を媒介せずとも興るが、地政史の域にみた場所比例は必ずこの交易を伴う。というのも、異なる風習のもちこみはその場で要する倫理習性により厳めしい別の特徴を用いらせるので。決定的な倫理別離は、よって地政の圏域と帰一。郷国の差がその侭、べきの問いへもその最善さを異にさせていく。こうして進歩した生態と、必ずしも政治領の理念が一致しない許りか、単に倫理の度や達も場所学領の雰囲気にしか係わらないと結論してしまえる。哲学は何れの政治方針へも最善さの分別を示す筈だが、止揚された倫理論にとっては選れた理性を開陳して終る。
結局、倫理への学は事実上 後自然学の出自の侭に留まり、完成後の倫理がなりたちえないのとにて本来の倫理は社会生物の自律と彼らの生態行動への定格に返る。ゆえ倫理学の科学化や実証論化は、のびた推量の余地をなくさせ、後自然の合理化が生き残りと矛盾していく為にでも不可能。いわば実証への留保な論証可塑さこそが、身の丈を知りその不動の規律を与える重要な習性。理性とは、こうして相対知による自己過信を反省させ、自らの立場が協調性の基礎と矛盾しない名分に基づく様に言いえる為の合目的な実践能力であり、もし理性なしに他の搾取型集団と対峙しても常に自らの立場は不利へ或いは権利剥奪へ追い込まれるかも。選れた理性の持ち主だけが地政史の主導の因みとなり、その倫理気風の代表か象徴となるのは以上で分かる。つまり彼らはその属した集団の名義を代弁する為にしか理性を結局用いえない。もしそうせねば、彼らは必ず自己矛盾するし、自然知識以外のどの比例へも何の特徴も言い及びえないだろう。なぜ国柄が全くことなる複数の理念をうみだすかは以上の為で、それらの弁証は倫理へは以前より折り畳まれた複合さ、乃ち高度の利権教養を必要とさせ、結果各地の文明は地政の為にのみ参照や編入がなされゆく。
自然生態史一般とにて人倫でも大きな集団の前での小集団か弱体集団のくりいれが頻りに行われる。特に、学問の程度はこの理性編入にとっては決定打。この為に、人類文化史の一般原則とは、ヘーゲルが大まかにえがいた如く世界精神の展開ではあるが、現実の民族精神はそれらを地政史実に否応なく導かれつつより偉大な規律の元に団結する方向で、又卑小なる集団からの脱出と頽廃集団の破滅の連鎖から起きる。最終な民族精神は、宇宙の想像無限さからは決して導きえない筈の当為。故に歴史上の民族は道徳を地政哲学の熟達に応じて配分し、又彼らの将来地位もこの洞察に順次くばり仰せる。既に敗退し消失した民族も、その地政か場所が建築的不毛なことをしりえない理性の為に跡形を程度こそあれ残しつつ、或いは何ものこせずより偉大な精神の元に寄り集まった物。こうしてみると、民族神の創作が政を開始する原動力となった過去の逸話はとても示唆に富んでいる。民族精神は、この初動した創作神話の哲学を今日まで物語や聖書の形で残している場合もあるが、それらの言い伝えは各知識人が何を悟りえ、何を信じるべき仰せとしたかを智恵の殿堂な民族語彙の全域に、又その内部での理念伝達へ厳密な場所比例を及ぼし続けている。愛、道、慈悲、忠義これらの単純な言葉はみな先哲の生涯の功徳の結晶であり、我々は之らを民族語彙に受け継げる地位を幸運に思うが、実にそれらの発見者と同じく全ての感謝さるべき伝達者は地霊となって、現世にはいない。業がどの時代まで連なるかは想像もできない程おそろしい仮定だが、現実に、我々の全ての悪徳も、全ての善意もみな祖先が創作した神話の結果なのだ。それらの神話は会話に流通し、或いは人づてに文字を介し、記号と音符にしたためられ遠い我々の子孫が日常語彙の種とする。場所比例の偏りは、こうして民族神学の本質な偏りであり、彼らが参照している全ての文化形質をそれらの創作に加わったいまでは霊となった人為と共に宿し続ける。なぜ悪が死の、よって民族絶滅の原理かはこうして理解できよう。「悪さを為すな、善さを為せ」という最も基本な道徳の命題は、殆どの幼児にでも知覚されているとはいえ、現実の有様は老人の中にすら大幅な偏りを伴って判断力、或いは単に判りの優劣を与える。よく判る人つまり良識人と判らずやの間の溝は、彼らの総合した育ちに最もよく顕れる。
法律の案を一つたりとも練った憶えがなく、かわりに犯罪間際の悪徳を歪んだ習癖としている人格は、常に優れた人格者の品性を謗り、事あるごとにかみつき、その当然の社会な名誉感情を損ねようと躍起になってあらゆる中傷の嵐と冤罪そのものな嫌疑を大勢へひろめまくるが、この民族語に伴う文化習性こそ駆使しているのをさとらない。こうしてあしき民族の絶滅は起き、協調性のよき側面を相互利益の為に駆使できた血統は最高の栄典を授かる。そしてこの言葉こそ、神がはじめに与えたあの栄えある光なのだ。私達は哲学を通してこの本来の言葉を学ぶべきなのであり、それには各民族の智恵の殿堂から偽預言者や過った解釈者がつけくわえた多くの錯誤をとりのぞき、論証界の中で最も価値の高いイデア、つまり揺るぎない理想をその時点でえられる全知識から抽出する他ない。この作業は我々が哲学とよばしめてきた全営みを覆っており、つまりは哲学とは、プラトンの定義に返ればこの善の理想を、アリストテレスのいいかたを借りれば形相としての理想を数えきれない悪徳や無駄な情報の束からえりぬき、その強い意義を回復させる事。之は現にある知識の開発や研究と発見とは異質ではあるが、学問の殿、しんがりとしての本来の形而上学の役割はその体系の不動さか定常観を醸す事であり、つまるところ偉大な精神の及ぼす学識の結論をつける事、総まとめとしての現体系の根本理念を提言しつける事。
どの科学も、そればかりか技芸も、何の為に用いられるべきか自身を説明できない。之は論証界が各体系の客観装置として機能せざるをえないからで、上述の様、最終結論な倫理の智恵こそは場所比例で各々大層趣違えており、その為にであれ理性が究極の洞察をやまぬ実践の積み重ねである地政史の大義に刻み付けるのを疑いえない。この生き残れた集団の成員は祖先が世の宿命に何をみたかをしっており、故に正義とは何かを地位の民族精神に記憶していく。之らの偏りは、最終的覇種樹立に至る全試行錯誤にとっては権力闘争らしく示され行くが、いかなる亜種も、又どの俗書俗説も、邪教や邪宗も、全文明の目撃者となった子孫の倫理結論をは否めず、それ故に理想とは基本善意の積み重ね、乃ち常識量からの判断に返る。至善を悟る者は場所比例の適性の為にそう導かれたに他ならず、良識が程度問題に還されるなら、全ての社会行動と同じく常識量の高下はいかなる神話へも厳密な因果応報を与え直す。神話は精神に比例し、この精神は理論をよりどころとして共同体が作る建築の趣味に千差万別の違いを与える。
精神という概念が現代とらえなおさる可は、それが単に神の意いへの理解度と定義されなおせば、一体、我々がしりえる自然認識の厳密な量感は、その創造への詳しさであり、つまりは他の何ら自然認識を軽微にしか有しない生態に比べればより神の立場と制作力に近づくという訳。だから神話は現に語られつくのであり、建築家、或いは社会集団の棟梁な行政長が為すどの作業、忠告、命令も、みなは神の模倣なのだ。なるほどそれらは全宇宙の造り構えに比べ余りに卑小だが、場所比例に伴って、それはやはり神の為の再創造への試みなのだ。我々の中には行政の皇帝が名目のものであり、かれ自身は殆どなにもしらず、飼われた不自由の仕手であると判る者もいる。そして彼らは次の様洞察もしている。皇帝は神聖なお告げの代理実行人で、そのお告げ、いわゆる天命は本当のところ全くの偶有であると。これが神聖皇帝の権威の源であり、自らは何事もせず、ただとりまく世間の代理に徹する習慣、要は付和雷同と優柔不断の性格が彼を道化一家としてその場まで遠く誘なったのだし、現実に、この性格の決め手の為にごく危険極まりない目にも数多く直面してきた。だが、ここで代理される本心とはいつも民族精神とやらだし、その定義は既に彼が擁する民衆の中の知恵者によりなされ、横流しか忠告されてきたのだった。天命思想の本懐はそれが民族の意志を吸い上げる功利の故に吹き込まれ、こうやって皇帝へ交代の根拠を与えてきたのだ。
覇種の形成は一定の祐徳な精神を伴う民族の完成であり、それがどの程度の行政権の固定を担うにせよ、善意の度ですら実に常識量によっているという単純な真理は、我々が趣味のよしあしにみいだす本物の根拠であり、なぜ私がそれこそ道徳哲学の主義にふさわしいと考えるかいえば、洞察は形相への定着を伴ってこそ理想の地味を保証するから。
もし貴方がみるどの亜種も、単に思想については理想いな云々を述べるかもしれず、しかもどれがまやかしかも見分けづらい。だが仮にこれが偶然でなく既に彼らの宿命なら、可能態と現実態の行き来、乃ち再創造の合間にも趣が不変であるだろう。もしこのくりかえしの検証に絶えず、鍍金と繕いの剥がれが露わならば彼らは借り物の思想で借り物の制作を行う偽の実践者で、その形相は悪である。要するに、場所比例がその生育としての種に与える趣には形相の一律さとして地霊の偏りがあり、と同時にそれらの業は神らしさなる理想性にも雲泥の違いと進化後の姿を宿している。我々の特定な知覚基盤に基づくしかない洞察ではどの生態に究極の神性があると確約もしえないが、少なからず趣味の程がこの地球風の定格らしいのも又周期的生態の常な筈。