2010年12月13日

理性の法解釈適性

植民優先の帝国主義が枢軸国側の抵抗の為に矛盾を露呈され終りを告げた過程はみな、背理の露悪に至ったもの。故に実質は、当時の枢軸側が掲げた理念は破られたとはいえ、帝国主義内での民族差別を弱めた功績はあった。もしヘーゲルな世界精神が背理の露悪にとっては理念の後進さでしか示されなかったなら、自由思想は帝国主義の機動力他に出ぬ。自由思想か寛容思想がみいだしたのは、結局は反宗教原理主義の教義たる勝手主義か我儘主義の展開。それらは、国際な富の偏りへどんな留保もおきたがらず、単に社会内闘争を弱肉強食で合理化させる。世界精神からみた背理の露悪は、之らの故に権利の平等として、人格のならびを設けたがった。が、権利が理性中心の営みなかぎり脳性麻痺含む各種の条件者、又他の生き物は使用者下の仲間に加え得ないとされがちだった。野生味にみた実用主義は、よって功利主義の低落でしかない。理性の背理はこうして導け、我々が理性によるのみのいきものならずとしらす。理性が与えるのは人格のならびではなく、単に場所毎の適応放散やそれに伴う進化比例の区別でしかない。そして時の中で唯一の完成後の趣味はみつからない。
 法秩序の区分こそ、真に理性人の適所でありその法則体系への適応手順。理性はこうして法案の原理。且つ、多くの場面でどの法を択ぶかは市民の文明によっており、解釈学がなぜ有用さに還されるかいえば、根拠としての善意が宗教的合意にのみ矮小化されない弁明の余地、異論の隙間を少数派の上にでも開いておく為。