2010年10月31日

倫理感と正義

たまにある様人類の個人毎ではその感覚が偏っているが、少なくとも身近な域では、正義の天秤が全ての脳内には血潮の座として置かれている。そして倫理感と一般によばれるその働きは、各個人の正当意識の平衡がはたされる迄必ず使命に駆られて突き進む習性をもつ。
 正義感の強い人は、単に周りより倫理感の及ぶ範囲が時制からも空間からも広く長い。王者が長い歴史をもつ際には、その人物は正義感についての平衡役を果たせた場合が多い。道徳が王者の資格、という天命思想の源はここにあり、それは又正史に伴う帝政の正当化でもある。是政の為に彼らが用いるのは長期間に渡る正義の天秤の平衡の意志で、之は温故知新から得られる。
 全て政治行動は、行政への抑制も含めこの為。道徳に劣る王が在位している間は、平和が訪れる事がない。それは人倫が安心を得られず、腑に落ちない念いをして転覆や不正を感じるから。まったき政体がない様、世俗の政権は程でしか正義を実践できないとして、歴史自体が正義感の平衡機能に基づくのは明らかで、ヘーゲルのいう世界精神の本質は実にこの倫理感の業が変転しつづけるのみ。だから絶対正義は因果応報を彼らの因縁ではたすが、偶然も含めれば国家内での立場しか変わらないし、倫理はそれしか説かない。正義感は是政の徳という他には意味をもたない。かつ正義感をうみだしているのは、特定の倫理であり、多くは地域毎に異なる場所の倫な事がいえる。
 普遍人倫は神の心にしかみえない。限定された理念を問うしかない限知限能の品種には、個別人倫の正統さを主張できる丈で、一般に独立の地位を保つ役割を果たす。人倫互いの衝突は秩序度の優劣に伴う繰り入れか影響を伴うが、その他どんな目的もない自己展開の理。よって、究極神意への到達という遠大すぎる幻想は一つの当為にすぎず、現実の人類らは人倫淘汰の境から自らの文化形質を選り抜けるのみ。
 浅い正義は低い道徳からきて、この教養不足はみな人倫とぎの対象となるを得る。地域人倫が場所学をこえて意義をもつとき凡そその種の高い道徳が正義の平衡へ導く為に転用される。政が国際化するのはこの場合で、実際のどの歴史運動も巨視で人倫淘汰に伴う世界適者の選抜過程。煎じ詰めれば現実態へ定着された地霊の連続したとぎすましの業がこの世のいけとしいきるものの相。しかもどの姿も究極の形相ではありえず、ただ神のみそうだろう。我々には神という呼称すら仮借なので、場所学は結局、地域神学を哲学化したもの。地域の神らしさは場所のもつ生態の地歴政経による。