2010年10月17日

学問の順序

世界文明の中で現存在が求める理由は、完全な普さを達する事はできない。それらのどれも知覚基盤とその上にたつ理性の偏り次第で、唯一絶対の精神とよべる計画主は全世界の外にしかありえない。
 どの宇宙文明学も神を実証する事はできまい。唯一の趣味が不可な如く、宇宙文明への適応はこの趣味観を適所に基づいて原因づける他の目当てがない。つまり自然学習でえられるどの認知も、知としては趣味観の素材の一つとなりその理性型生物の知覚の基盤となって活かされる丈。自然学習の体系が究極の理由や、我々の生存の目的を与え直せない事は旧約聖書が既に解説していた。その通りで、仮に形而上学が理性の強化とで得るどの認識も、自己の論証体系の中で社会適応の為の規則を自然体系と離れた系として再定義できる丈。乃ち信仰の学識は、或いは信の問いは自然知識から直にひきだせないのみならずその修繕にしか役立たない。
 宗教を科学より信じるに足りないものとみなす人々は、上述の信の問いがどの自然界にもないこと、いわば理性自体の論理でしか語りえないのをしらない。信仰自体はその適所で広がるかぎり、科学上の精確な認識への近さに関わらず合理さを伴う。原理主義哲学、或いは故事論は倫理研究へ有効。そして科学の全てはこの研究にとっては詳しい解明へのてだての一つでしかない。神学か神話論、聖書の研究がいかに当面の非科学命題にあふれていても、神の論証が信の領域への問いかけに返る限り必ず、人々は神学をその道徳目標の設定へは援用せざるをえない。
 適所や民族毎に偏りや変異を伴う道徳さは、その神らしさとされる性質がかなり違う事、その為に人間さが異なる精神度へ向けて目標づけられる事による。科学の中へ神学の認識を持ち込むのは賢明ではない。之は神がいないから、いるといいきれないからではなく、単に形而上学が形而下学や数理で定義される実証的な社会科学も含む自然科学の後駆しりがりだから。科学は道徳哲学や神学にとっては利用できるが、逆は偽。少なくとも自然の中の理性的存在、現存在が思索する立場を客観視すればこれは常識的である。斯くの仕組みはカントが分類を考えておいたとはいえ、向きを正確に定義したという点で新たな発見で、学問の順序と呼べる。そして今までの人類の学者達が混乱をきたしてきたのは、主にこの命題をしらなかったから。