2010年9月9日

人体学

いびきを聞く不快さは、ある調査では黒板を引っ掻く驚愕の叫びに近い周波数と、蚊の唸る音の次に高い。ここから単純に考えて、鼾をする形質が完全に淘汰されずに残ってきた原因は、実はその不快さにあると仮定できる。つまりこの不快さは、夜間の縄張り防衛の役目をかつて担っていたからこその本能へ残存した感覚なのではないか。
 鼾をかく形質の持ち主はそうでない者の居場所に比べ強い縄張りに結びつき易いのは明らか。特に音の絶えた深夜にあって、この範囲への侵入は夜行さのない或いは暗順応の弱い視覚での生き残りに死活的だった。この鼾習性の浮動が起きていた時代はおそらく家父を中心とした幾らかの共同体での村社会だった。そこでは洞穴、掘っ建て小屋に近い住居での定住生活が普通だった。深夜に侵入者をみつけだすに、彼らは無音で過ごすのを潔しとはしなかったろう。狼、熊、或いはあぶ蝙蝠こうもりといった明らかに害をあたえてくる野獣に対して火を炊く事、見張りをつける事を除いて最も役立ったのは実に鼾の発する音の縄張りかもしれない。この時点で浮動的な形質として表れた、のどをつかった無意識の威嚇はそれがない家族に比べて一定数の生き残りを可能としていた。
 他方寝静まる住居への侵入や不意打ちをかけようとする同類内の分子へも、この防衛策は一定の効果をもったのではないか。我々がいびきへ感じるという不快感は殆ど理性的には理由がない。それはただの寝息である。しかし生存にとっては不可欠な何らかの事情に関わる事の為にこの習性か音へかなりの不快をおぼえる者は多くなった。つまり縄張り防衛という機能は、たまたまか意図してかその範囲への侵入者を撃退する又は怪しい者として追撃する効果につながった。要するに他人のいびきが聞こえる範囲へ入れば必ず別の家や共同体によって暴力で逐われる。この被撃退感覚の為、古代の人類社会ではもし無感覚や聴覚域の不足で鼾に不快をおぼえない個体がいれば進んで淘汰されてきた。鼾縄張り仮説はこうして説ける。実際、この形質は治癒の有無に関わらず各人種にかなり広くみられる人類としての想像できる性質の一種。筋肉とみた咽喉の垂体が寝ている間に脱力し易いかどうかは、およそ遺伝する傾向がある。そして村にどれだけこの形質が残っているか、現代でいえばどの地域にその分布が広いかは、共同体がさらされた夜間の不案内者らとの遭遇回数におそらく比例する。よってこの推察がいくらかの真実を含めば、既に古く都市化しており別の見張りによる防衛が可能だった土地で長く定着した人種にいびきをかく形質は少なく、獣しか現れづらい山奥ではそれにつぐ数をもち、交通量の激しいと同時に獣でも人でも夜間にとおりすがる確率の高い街道地帯でいびきの習性は最も残り易い環境条件があっただろう。そしてこの地域では今なお鼾は広く習性にみられ、その遺伝は多く残存しているだろう。
 それと同時に、以上の仮説が正しければこの鼾を聞く不快さは、もし家族の一員のそれに限っては著しい減退を伴う筈で、物音一つしない夜に比べて家族の誰かのかく鼾がきこえる夜はより安心感を伴うという独自調査が特に上述の伝統的な街道地帯では得られる筈だろう。