2010年9月8日

道徳と幸福主義の一致

私は道徳的に正しい暮らしをしている者で困窮した者を一度も見たことがない。これを思い返せば、道徳が与える良さは、その侭自らの暮らしの良さ。道徳をこの判断の定義とは違って捉えている者は、上述の真理を否むかもしれない。例えば偶然に起きた事故や無差別な犯罪の犠牲者といった風に。しかしこれらの被害は暮らしの良さとは余り関係ない。
 心身のゆとりは、常に道徳と正比例している。多くの不道徳にして下劣なる心の持ち主が困窮や心配や不安や懊悩に陥り、少しも幸福を覚えないのは理の当然。又下劣な者が快楽を低劣な行いへ感ける事をどう捉えるかという疑問へは、それらの幸福は幸福ではなくただの刹那であると言える。
 アリストテレスとミルが共通して理解していたのは、精神の快としての観想とか、日常語でいえば思索や考え事は、常に幸福の定義として他の快楽より適切である、という理性的動物観。この事実を知らないか悟れない者だけが、仏教でいう煩悩に焦がれ一時得られたかにみえる刹那の代わりさらに多大なる苦しみに落ち込む。それは火の美しさに魅せられくりかえし焼かれる虫の息に似ている。その虫は火と、つまりカント用語でいう物自体と一定距離を以て鑑賞できない。この事からも、形而上学が実験科学よりも上位の学問だと古代人らが思ったのにも合理さはあった。
 実験によって物自体を分解して行こうとする接近の態度は、いわば下位の基礎づけでしかありえず、究極の学理へ至り着く道ではない。どの実験科学も特定の思想としての仮説を数理的に定義する為の方法。こうして集めたどの比例法則も、道徳哲学の前置きであり基礎課程。それらの自然界の関係はありうべき理想としての計画を導く仄めかしでしかありえない。