2010年8月25日

場所倫理学

場所倫理かその生態理念の目あては普遍知覚にではなく、つまり神学の完成にでなく単に自律形質間の複合型にある。もし遺伝の成りゆきを見ようと見まいとその複合運命は免れず、秩序化の独自なことわりは自律さにまつわる系統の多岐。場所理念が仮にも普遍道徳らしきものとは異なるのがこれらから分かる。或いは唯一知覚にのぞみがないゆえ孤立や孤独な主観か魂にみなせる世界の根本理由は趣味観に返る。しかも場所の変形や適応度、主には転用さるべき自由な認識の様々に彼らの由や所以は限られゆくのでそこで為しえる最高の理想と雖も完成された趣をこえない。絶対理解は絶えず理想主義的趣味観をこえられない。その魂、心の様に多岐化したり伝わらない主観さが知覚の原理に相対して成し遂げる全ての営みは場面での最善さ、乃ち時勢誇示の適切な功利さへの細やかな注釈でしかない。場所観が趣味の自律へ至る際には知覚基盤への積み重ね、つまり学問の過程が要る。之は理解の前置きに前の世代の術策が高まる丈それをのりこえたり解釈や分析する学習密度が高まるから。学習手段や道具に比べて学的認識の応用は先立つ。世代間の意向差はこの再世代化が忙しい程せばまり、場の必要適応条件を努力量で下げるか当たり前なありふれた段階に仕置く。孝養と向学の適応行動での社会的尊厳に現れる違いは、実質でこの再生能率による。