2009年1月30日

魂の行方

極北の国では一般に慰安の社会機構が栄えない。比べ、赤道直下では必ずこの機能が要請される。

 日本という国ではかなり多くの慰安が展開する傾向が見出される。そしてキリスト教道徳の浸透も、畏らく民衆の心理よりは社会条件としての地帯性が妨げの要因である。
 通常、余分の雄が無い場合、彼らが時代社会の命ずる産業を過度に殷賑させることはない。Kapacity戦略の因果は、定員にあると考え得る。この環境条件が産業水準の内部成長へ必要以上の精力を何らかの慰安の算出へと与える。
 一夫多妻型へ適応した生物はその死亡率の高さを見込んで、環境条件最適者への一極依存の方がより有利になる限りそうする。そして人類にあっては、「余分の雄」がこの場面で増加する分だけ彼らの性格に類した慰安機構を形成する。賭博遊治、拳闘競技、投機市場、各種芸能その他累々。従って、仮に一国の文化水準をキリスト教道徳の浸透度という規律から測るなら、国民の一部分が如何に啓蒙啓発に奮闘してみても、定員のありえないreproduce rate戦略型の地区か又は死亡率を極度に低める政経の途、乃至両方かを確保しなくば云われる所の文明化は殆ど無謀に等しいだろう。不運な地域ではいずれ、慰安の必要分が生じる自然からの定めに応じてそれらの時代定型が行動集積してしまうであろう。だから、文明の光はごく限られた理想だし、さもなくば文化風俗の様々に異なる訳もなくなる。

 少なくとも日本では彼らの古代からの独特の風習が扉をして、キリスト教道徳の信念を唯一の神の国への入口だと思わせ難くしている。これらが凡て、極東に浮かぶ小さな島嶼での驚くべき慰安の、宥めの方法の展開する起源であった。
 彼らは十分に文明化した国民を名乗っているにも関わらず悲しむべき陋習を捨て去れなかった。実際、富の偏りと権力の寡占という長らくの民土が理性の自己発展を身分制度の中に規制していたのでその程度を超えては適性を伸ばせなかった結果、彼らは明治簒奪と呼ばれる近世への変革期に至るまで罪の観念すら階級毎に違った内容で、いいかえれば身分の許す我が儘の、放恣への指向の幅でしか捉えきれなかった。
 もし未来に日本人が生き残るとしたなら、彼は風土の有する障害を最も有効に打破した個性であるだろう。島国の環境収容力を考慮に入れて最大の情報産業を興すなら、必ずや余分の雄を剰余価値上で功利化する作為であるだろう。つまり、それは合福祉的娯楽としての芸能を最大の道徳理念と一致させる生業、乃ち政に到る。

 政治が歴史の舞台なら、劇場を逞しくする者は常に卓越した雄性形質を道徳上の義務へ捧げてこそ英雄となる。且つ、彼は原罪の理念を日本人全体の脳裏に焼き付ける役目を果たす。そしてこの様な個性の魂が、連綿と生き残れる場所以外が神の国である理由もない。苟にも侍精神が滅びる世界からは主の尊厳も当然に叶うまい。