2009年1月2日

国家論

国家の理由が集団生活による利益という生物の群生に基づくなら、孔子やプラトン爾来の国家論は単にその合理性を基準に謀られて然る可だろう。国家の解消というマルクス式の当為または公理は合理性が進むのなら理想主義よりも又、群生の利点に適うからだろう。我々は民族単位を国々の群生として観察する。地球化現象は群生の瓦解をではなく、組み換えを要請しているが故に先進国間だけには或る考察を突きつける。
 開放市場化という命題が全て、先進国間に共通のnationを育てるのに役立つ大義名分である。開国しなければ押し潰せる威力を有した国家は、他の国家にとっては信用創造の保証人として適当なので、どやされてでも必ずこの世の共通基盤を受け入れざるを得ない。
 開国要求にとって審美的かは、それが同意を得るに十分な道理を説明しているかに掛っている。経済体系の建設は進められなければ止まるかで、生物が群生し、且つ相互に関係するほどの近似の種類であればこそ絶滅、競合、共生の交通は量化しなければならない。そして征服された心情が勝利者への心服を裏腹に一定の恨みを残すことは幾多の民族間興亡の際に、敗者の思想が特有の口調でいつも被抑圧者の最期の祈りの言葉として復活する歴史余事象に観察しうる。それが民族感情、謂われるところのnationalityのありかなのは確かだ。民情は亡びず、恒に征服と伝承の連綿たる輪廻の内へ感応される。故に文学が目指す共感の結束はいつでも、この民族内に共有される世代感情の流れが何らかの事件で変化した際での記録である。仮にこの貴重な記録がなければ民族は空中分解するだろう。
 そしてやむことなき征服を合理化するものもやはり膿まぬままに曳き続く未曾有の、未知の未来に渡る洞察であり、少なくとも敗れ去りし者共の魂を牽き摺る覚悟を以てより偉大な理念を発揮する民族感情の流れ行きなのだ。最も優れた文学は諫早の動乱期をへて刻印された、以前に増して宿命の色彩を濃くした生き長らえる者達固有の使命感の産物なのだ。繁栄した民族が血統の神格化を企つのは自然の道徳であるだろう。我々は嘗て営まれた幾つかの傑出した血族が、彼らの仲間をこそ神の国へ至る入口に立ちしと証拠せしめんとし、当時最大の徳律を集めた聖典へとかの民情を結晶させるのを見た。調整企業たる政治方式の創始は同時に、唯一聖典の醸籃と結社信教の開始であるのかもしれない。これらは乃至マキャベリ式には、外交の手段に欠かせない国家神話を備えた民の知慮こそが、信託の形で自らの血族を物語るため世界史間の威嚇の拠り所となったという予てよりの、異民族侵攻時の悼ましい手形でもある。
 賢者は暫し長者を兼ねる。かしこい者は久しいと箴言集の蓄積が証する。さながら程々に知る者は試行錯誤をやめない。故に、自称するところの世間教育家、ソフィストが跋扈し、世俗の知恵をふりかざしつつ跳梁をも恰も統括する。実際は程々に知る者、半無知者に対してしか教育可能性はなく、真に悟る者は悉く無知な者をこぞって教えて虚栄を貪る無意味を計画しない。無為自然の以前に、それとは宇宙の建築家、万物の総合技術者が放任を数の偶有に委ねたのを知らないあさはか者が何事をか、彼らの無意味さを真似させて二度三度と同じ時間を過ごす模倣の反復を種の頒布には内蔵したからこその過ちだ。このエラーは世俗の総体を作り上げるが、現実には賢人の最大級の能力は幾代をも伝わり人間を心底から修正してしまう独善の理想なのだから、全体図を認識しないでも構わない作業部員には昼夜交代しても世界建設の為には特断不都合を生じないという利点、即ち先人のまねをさせる教育には交換可塑性もあるのだ。
 計画書には欄外があって、但し書きとして裁量の余地を用具の指定に留めてあれど人は自由のことわりを殊更に無文の不運と思い込む。これが究極の知者である神を民族毎に別に称する羽目になった深い因であった。巧みな設計では事前に余裕幅が見込まれる。そして民族が試行錯誤という文化過程を経由してしか目的の建築を出現せしめ得ない設計法には、神の意図に於て至善なる聖典の民が互いに行路を異にする様計られた幾らかのゆとりが、恵み深い神からの優しい思い遣りがいつしか想い起こされるだろう。そして知る者が幸福なのは当為と現状の間を常に見比べられるというこの心のゆとりの所以。苟にも少数の哲学者が悟ったに過ぎなかった信じることの不死という道徳原則は、誠に神の人類に希望された究極目的が幸福であること、そしてそれが遥かに遠い未来にではあるが未完成な魂の今なおつくりあげる理想国が全人的救済たる真理を信じられることから無限に生ずるのを、ゲーテの図示した凛々しい仮想の演技者や、若しくは母の語る何事をも信じる健やかな赤ん坊にしか偶々もたらさなかったと嘆くに十分などと述べるのではない。かかづらういとま、言われる迄もなく、人間では道徳原則が至上の理由である。さもなければその哀しまれるべき人はこの世の住みびとたる資格を生まれながらにか、道端でか喪失していたのだ。前者は生前と、後者は死と呼ばれる。そして自然死は、常に最も幸福に訪れるものである。彼は死の事象を体の衰えと共に来るべき永らくの休息の権利、老養の尊厳と揺るぎなく絶え間ない世代交代の秘められた美しさの内にしか覚えないからだ。欲せよ、敬われれば徳のある人である。
 文化が豊かな事、唯多彩な更に加えてそれらの生じる枝葉の多岐にして根茎の複線の緻密な事は、その文明の華が相応の成果をのこす為に永く厳しい冬場に耐え抜きながら異文化摂取学習に努めた事、既往の優秀さ、祖先の賢明な判断から抽出された民族史実に等しい。かくも文明とはそれを押し上げている文化構造の確かさ、こうも践む足場の堅さに依っている。だれの業であれ。国家と民族とはこうして不即不離で表裏一体の縁起体。俗に国家放棄や民族至上の説が極論を吐くなり野生の環境では、聖典に頼って文学の解釈を各々の文化命脈上で追求して行くのが他でもなく、更々進言さるべき中道。既に死滅した系統も将来の分岐もこの道の上以外には出なかった。群生してしか生態を全うしない哺乳類でも、互恵や同盟を通した交易に関する変容の影響を不可避とし、尚もかれらが民族であればこそ文学を解釈論に於てつねづね合理化の便宜とし、保ち続けなくてはならない。それが国家を神聖さへと導く知識人の一仕事であれば、なのだが。良質な虚実皮膜の説が学才と機知にも基づくなら。