2008年4月16日

審美論

めずらしさが美の原因なら、それが正格でも破格でも中庸でもありうる。ありきたりは最もうつくしくない。よってある環境ないし時代での美は他ではそうでもない。
 経済性は審美的な起源を持つ。それは適応的希少さだから。経済美である為には貿易的敏捷さを技法として抽象しなければならない。経済は技術。文明の目的が経済なら、その技術構造の時代中意義が人間の環境普遍なtastement。
 経済システムがあらゆる文化を通じて、風土に対する人間の課題。流通は地域間の交易により制度を審査する。ある技法は他ではありきたりかもめずらしいかもしれない。それらの芸術的な脱構築の流行が文明に由来する人類の運動形相なのは、旅のあちこちで観察できる。
 結局、人間形相としての文明も、美的にのみ目的論をtheoriaできるだろう。ミネルヴァの梟は経済システムの審美論として幾度もの夕暮れに、その郷愁を飛び去る姿へ結晶させて呉れている。我々は哲学説の変遷を、早急なマルクスとは違って、要諦の文明らかな伝承としてのみ鑑賞しえるだろう。
 哲学説は社会学の演繹として来るべき未来への予期を与えるが、その本質に関しては単に、新たな最高善の形相を批判しうるに過ぎない。従って優れた哲学説は信仰の仮説を格差づける殷賑として批判に堪える。