2008年2月26日

都市計画論

我々は宇宙文明に対する地球型の文化都市として、各大都市を自治計画していかねばなるまい。例えば地球固有の重力(月や太陽からの引力と自転および公転からなる遠心力の斥たる)をもって、我々の経済的建築に特有の合理美を斉すのは当然と呼ばれる。あらゆる風土的要求を超えた原型として又如何なる都市も土着ならざるを得ないが、普遍性としての普通さを展開する形が今日、なおうつくしいとされる。
 我々のふくむ個性を内側から湧き出す可能態として打ち破る普遍性こそ、あらゆる都市計画の目標とすべき命題ではある。そして地球型個性はこれをまた超えていかねばならない。従って重力が恰も無効であるかの様な形、すなわち自重解放を目指す絶えざる脱構的改革の努力は、自体として診れば呆気なく、何かしら工学者と建築家の競演による単なる遊びの様にさえ感じられこそすれ、その実は最も地球文明に適応的なかたちを探り出す現実態の様相に過ぎない。とはいえこの努力も建築が宇宙船というよりは土地工作の一種である限り、作庭風印象を以てその配置的限度を任じる他ない。だから市民や官仕がこの形態に関して文化的伝統をあまりにも離れた暴為であると感じられたならば、活発な議論によってその都市庭園という観点から多少あれ修正を計るべきであろう。凡そつねなんどきたりとも、優れた美意識をもつ建築家は時代の多様性とパトロンの使命感に折衷することを通じて、みずからに使命された形を実現するよう務める。結果が都市遺産と呼ばれるものなのであった。
 この多様は又観点を変えれば時代思潮の混沌そのものなのであって、同時にある時代思潮の枠外にはみだすこと容易でない。例えばある政府は生前に散々叩き台にし窒息迫害の憂き目に遭わせた創造的遺産を、市民の美意識がやっとかれの如き近代にいたるにあたって、まるで豹変して国宝あつかい。この様な甚だしい愚かしさは常にどんな時代にあっても必須なのであり、避けきれない。むしろもっぱら営利を度外視して官仕中心で辛抱づよく図る公共計画の方が、民衆の同意をえやすく先進芸術を建築するものでさえある。以上を考慮すれば、我々が国際都市を建設する際には官民競戯を原則と為す。
 なんとなれば官民は癒着しがちである。これを中央集権の腐敗と名づく。膨大な無駄や各種不正のみならず、結果としてこのような悪業を繰り返した国家は逆にまとまれなかった分裂国と同じく世界史上で滅ぼされてきた。より強烈な周辺民族の組織に侵略消失されたのだった。しかし地球中の歴史遺産はつねづね、民間の技と官仕の決断で建築されたのである。