2006年3月17日

教育改革案

学歴があっても学力がなければ健全な文明をつくる事はできない。アメリカは知的階級による先制支配構造を合理化するプラグマティズムによって、世界に類のない巨大格差社会をも作り上げてしまった。配分はするが調整は進んでしない正義とは、即ち不平等加速の悪戯でしかない。日本はその様な例に則ることなく、所得および学歴も飽くまで指標の1つに過ぎないというゆとりある価値観を展開すべきだ。そして真の学力は外的権威に依存しない、個人の独立した努力によるという成功者の気風を養生し続けなければならない。独学の大成者が少なからず出るのを期待する。後世への勇気感化力の故に天才にはこの道を勧める。勿論、独創性の為の独学のみを学術研究の要点だと見なすのは社会全体の水準の維持から考えて危険なので、学閥・学歴・学力の三種の指標が共存する教養体系を国民が納得することは必要である。そして次第に政治や経済の分野と学究の意義が離立して成長する様に、専門教育という枠組みを発展させ教育改造していくべきだろう。専門教育・一般教育・研究教育はそれぞれ全く目的が異なる。専門学校で為すべき専門教育は政治あるいは経済または特定の専門的職業について活躍し得る人材を育成するもの。大学で為すべき一般教育は教養をつけるもの。大学院で為すべき研究教育は研究者として独立させるもの。
 寛大な入学体制。面接なしに入学動機を知ることはできない。全入時代以後は、現時的知識を試験し学生をふるい落とす為ではなく、よく勉強する学生を招き入れる為の面接による動機づけの確認こそが重視されるべきである。それは在学年次をどれだけ認めても卒業へ厳しい目を向けることで、功利的な学校収入と生徒の頑張りを引き出し、しかも社会からの卒業生への信頼度を高める。