2006年2月14日

経済学

生活費分の純情報量係数(スズキ係数)は生産手段が情報そのものに移っていくに従って上昇する。しかし必ずしもやりとりされる情報の質的高度さを意味しない。梅棹の言うところのコンニャク情報、実用内容を伴わない情報以上の何かを保証するのがスズキ係数ではない。ならば、福沢的文明論の視野に立てば情報化自体は何ら文明化とは考えられない。単に生産様式が変化しただけのことだ。けれども我々が産業革命を経て新たな階級闘争の段階に移行した場合に体験した様な民情の一新があり得る。否、それは既に我々を変えているのだ。
 新たな文明のレベルにとって市民啓発は目的化する。最高の市場価値を持つのは又、最大の啓発力を有した情報であるだろう。なぜなら美味しいコンニャクほどに、需要に応じて取り引き価格は上昇するだろうから。或いはその料理の仕方に無際限の工夫が観察できるようになるだろう。栄養の多少にかかわらず、情報の加工の差異によって世人の好みを満たす無数のコンニャク料理が発生し得る。
 だから人は、更に上等な情報を求めて情報網を旅する。それは未来社会人の一生活の部分だろう。もしも可能ならば、情報化とは参加者全員が啓蒙思想家になった状態と定義づけられる。より実用的で、より趣味的な興味を満たす新しい情報を求めて波乗りする、限りない仮想の遊戯人が文明生活の主体となるだろう。その先に何があるのか。スズキ係数の上昇を国家間の競合の主題とするような時代にとって、個人の生活様式は国際化している。英語を操る形而上学的情報人にとっては、IT literacy以外の文化的障壁が存在するだろうか。たぶん、人々は国境を失くしていく。共同化だけが残される。そして文明は初めて地球化されるだろう。現代人にその時の到来を想像するのは易しいが、具体的様相については大体が我々の推察能力を超えている。パピルス或いは羊皮紙に文字を認ためた古代人のうち誰が、blogの予見をし得たものか。
 ただ人は、現れる文明の形相に限りない理想への憧憬を重ねてみることしかできない。