2006年1月29日

地球市民の善導

Globalismで例え文化的最低限度の生活を全世界の住民が保証されて後しかも、日本人だけが地球の諸国民を事実上奴隷的に搾取する状態に成る、というのは、21世紀末までの文明進展の度合いによっては充分にあり得ることだと認めなければならない。
なぜならIT革命の中心地になる得る条件──polis的集中──を備えた東西中心地域は日本だけだからだ。
ならば日本人の地球市民たる正義観はどこに求められるべきか、君は自ら問うだろう。

 万人平等労働の論理がjesus的博愛から欧米列強により導かれ、democratic pragmatismに利用されているのが批判できる。
しかしそれは政治の目的としての理念だとamerican以外に誰が唱えるだろう。
Computer automationが産まれて以来、我々の肉体労働は益々軽減する。
知能労働は遊戯化し、趣味主義的勤労に近づく。
ならば日本人は相対的に、次第に世界中を独特の言語により情報の寡占状態に追い詰めるだろう。

 Aristotelesがなぜ中庸的民主主義を理想と考えたか我々には熟慮の余地がある。
民主政治を資本経済制下で行う限り政策動向の愚衆化は避けられない。
なぜなら扇動だけが権力維持機構に成り下がり、真の少数意見は多数決により却下されるから。
辛うじて間接民主制がこれを抑えているが、大同小異。

よって日本人は考えるだろう。
 国連常任理事国決議を各国首相による投票制にし、尚且つ常任理事国自体の信任をも全加入国間の投票制に還元する必要にある、と。
そうすれば日本人の高過ぎる地位は事情が許す限り相対化できる。
企業倫理は資民主義経済が起動に乗る地点から急激に高まらざるを得ないだろう。because国際貢献による名誉という精神的付加価値。
 さらに知的eliteによるnetの自由言論を武器にした国内世論の良き指導で日本人は政権交代制を活発化する。それは政策中心主義への傾きと更なる政党主義への揺り戻しを経て本来の機能を取り戻すに違いない。