2019年6月30日

長州閥

長州は政権奪えば保守と云ふ外様になったらテロで裏切り

勇気

勇気
2019年
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哲学と物語の違いについて

以前(今から数ヶ月前だったと思う)、ツイッター上で次の様なやりとりをみた。
 Nという匿名の人物が、Iという実名の人物に「左翼」等と言及され、反応した。Iによると、ソクラテスは貴族として矢面に立つ覚悟で哲学的言説を述べていたので、それに比べるとNが匿名で活動するのはおかしいという。
 Nは哲学修士をもち、(当人によれば安月給で)会社をやめてからツイッター、ブログ、ユーチューブなどのSNS上で哲学系、高等遊民などと名乗り、匿名かつ覆面で言論活動をしていた。IはI自身もユーチューブ上に動画をあげており、特にNのユーチューブチャンネルをみて上述の批評を行ったとみられた。ところがIは、ツイッター上でNに真意を問い質されると、半ば謝罪まじりにはじめの意見を、間接的に撤回しはじめた。具体的には一般庶民が実名かつ顔を現して活動するリスクを省みると、必ずしも個人特定可能にするのは義務ではなかった筈で、したがってはじめの指摘は誤りだったとその場ではしていた。
 その後、私はIのユーチューブチャンネルも観察したが、Iは自身の新たな動画の中ではじめの意見を繰り返す場面がみられ、要はIの中で、Nと直接やりとりした時の弁解は決して本意ではないらしい。つまり哲学者は貴族たるべきで正々堂々と実名かつ顔を現し、一個人として活動すべきという立場なのである。
 Nの方はどうかというと、ツイッター上でNや、その場でNに上述のNの真意を聴き取ろうとした私までブロックし、そればかりでなくその場にいたNの取り巻き達を半ば扇動する様な形で「議論は苦手だ」「誰かまとめてくれ」「私は修士だから金をとる」等といい、哲学的討論そのものから逃げてしまった。

 これらをみていて私が感じたことは極めて沢山あったので全てをここで述べきるのは難しい。因みにその場で私はNの取り巻き達の一人に話しかけてみたところ、「Nに対する名誉毀損になる」等、匿名のNにそもそも法的に存在しないだろう名云々をもちだしながら冤罪をかけようとする素振りがみられ、私は呆れた。このNの或る取り巻きは、全ての取り巻き達がそうではないにせよ、Nから得られる私的便益のみに注目し、そもそも懸案の哲学、つまり「匿名・実名問題」に関心がないのである。またNの動画を見る限り、哲学というより、アカデミックな思想史を素人向けにやっているといっていいだろう。
1.IはなぜNを「左翼」と呼んだのか
2.Nはなぜ匿名なのか
3.哲学者は貴族たるべきなのか
4.貴族または哲学者は実名・顔を現すなど個人特定可能であるべきか
5.匿名・覆面で活動する者に名誉は存在するか
6.匿名は卑怯か(またこの場合、匿名のNは卑怯か)
7.哲学は対話術的なのではないか
最低でもこれらの疑問集が私にはあり、IがNに議論をもちかけた形になっていた以上、最後までこれらを詳しく解明すべく哲学的に対話を続けてほしかったのだが、少なくともNの方は上述のようブロックで逃亡してしまい、議論が成り立たっていなかった。それで私自身が事態を分析し直すしかなくなった。
 上述の話の中で、IとNの間でソクラテスの位置づけがやりとりされていた。そこで私は次の様に思った。古代ギリシア史上はじめの哲学者はプラトンによればタレスとされている(ブリタニカ国際大百科事典、小項目事典)が、私はソクラテスがそれにあたると思う。なぜなら対話術の基本に忠実だったからだ。より詳しくいうと、タレスは万物の根源を問うた人として名を残しているが、これは狭義で最初の物理学者(後述)の仕事と呼ぶべきであり、知恵を友愛するphilosophiaの原義により近い活動の典型としていえるのは、詭弁家に反定立を提出する助産術を得意としたソクラテスの問答に最もふさわしく当てられると私は考えるからだ。「はじめの哲学者」は上述のプラトンによる定義でタレスとされるのが教科書的回答だろうから、私の解釈は現時点で一般の通説ではないと思うが、この解釈によると、ヘーゲルが後に定義した対話術的運動、つまり正反合の定立展開をうまくやる知的能力が哲学なるものなのである。(この点についてより詳しくは「日本の特殊な匿名卑怯者文化の改善について」に記述済み。具体的には、タレスは万物の根源を水とした自然哲学者なので今日でいう狭義の科学者であり、彼はいわば形而下のもの、物理的なものに思考を限局したので私は彼を最初の物理学者と考える。対してソクラテスは未知の自覚(無知の知)を通じ徳という純粋に形而上学的・後自然学的な概念をみいだしたので、狭義の哲学の始祖といえる、と私は考える。即ちカント三批判書以後の学問分類に習った再定義である)
 だから哲学者というのはある種の称号で、諸々の思想家の中でも特に、この対話術的な思想を色濃くもっていた人にあてられるべきなのだ。
 私はその種の考えをもっていたので、上述のIの意見(哲学者は堂々たるべき)には一理あるのではないかと思った。Nのよういずれかの教授という肩書きにある者から、哲学の学位を与えられたことが哲学者なるものの定義でないのはそうなっていない者が多数いる限り明らかで、Nの学位誇示には疑問がある。Nによれば匿名で言論活動した偉人は多数いた(よって匿名性と言説の重要性には関係がないといいたいのだろう。Nの逃亡で詳細不明)。Iの指摘の本質をNは誤読している。Iの指摘は自らの言論に責任を進んで取る貴族精神がソクラテスの姿勢で、哲学を語る以上それに学ぶべきではないかというわけだ。

1.IはなぜNを「左翼」と呼んだのか
私がIの動画を網羅的にみて調べた限り、彼は別の箇所で類似の言動をとっている場面があり、Iの中で「左翼」との語彙は否定的な意味をもっていることがわかった。恐らくIの左翼とは世間的教育体制、特に労働者の再生産を促す文科省的教育秩序を指しているらしい。「左翼」は一般に、フランス議会の議長席から見て、庶民が座っていた左側議席からきた言葉で、広義で労働階級を指すといっても間違いではないから、IはNを庶民的だという意味で、はじめ「左翼」と呼んだ可能性がある。つまり、Nの体制順応的なアカデミズム加減を批判的に評した言葉なのかもしれない。
 この批評的観点は、Iの動画等で彼の立場をある程度省みると、半分はあたっているが半分は間違っている。なぜならIの方はアカデミズムの本流からすれば修士で学外に出てしまった意味で、博士課程を経て教授職を得て行く研究者の王道から外れているからだ。つまり現実のIは体制順応できていないのだ。
「左翼」の語は、マルクス・レーニン以後(厳密ではない)、革新の意味を伴いはじめたから、そもそもNがユーチューブ等で一般人向けに主に哲学史的な内容を語るのは経済学の意味で革新的(イノベーター理論を受けた、innovativeの訳語として)なので、その意味では適切だ。がIの含意は上記の方である。
 要するに、IがNをはじめ「左翼」と評したのは、(恐らく偶然に)経済学の文脈で「革新的」という意味ならほぼ適切だが、I自身が本来いいたかったはず「アカデミック、体制順応的」という意味では半分正しく半分間違っている。だからこの点、Iはもっと適切な語彙で詳しくNの言論を評するべきだった。
 もっと深堀りすると、Iも自身のユーチューブチャンネルでNと類似の、彼自身の哲学的語りを流していて、いわばIにとってNは競合だった。また現時点までの様子では総視聴回数はNが上で、そもそもIはチャンネル登録者数が規定に達しておらず収益化できていない。つまりNはより大衆受けしているわけだ。Iの動画の中でNについての言及はしばしば出てくる。その中でIは、「Nが一般受けする編集をしている」「そもそも一般大衆は語りの中身より肩書きしかみない」「その上Nの語りは凡人向けによくできている」など評していて、Nの革新性を羨ましがっている節があった。要は収益の競合が背後にあったのだ。
 Nはツイッター上で、ソクラテス解釈を披露した美術家・写真家と名乗るIへ「美術家なら美術だけやっていればいい」と暴言を吐いた。これはただの謗りだろう。だれがどんな言論をしようが、法的に他人の権利を侵害しない範囲でその人の自由だからだし、そもそも複数の分野で業績をあげる人もいる。要するに、IとNはユーチューブ上で哲学的語りをする点で競合していたのだが、Iは「左翼」との多くの解釈の余地がある言葉でNを評したり、匿名の哲学者は貴族たる誇りを欠いていると指摘するなどして、Iによる謗りを買ったわけだ。Iはそれ以上深入りせずチャンネル運営に集中し、議論は流れた。

2.Nはなぜ匿名なのか
現時点まで私がNを観察した限り、これは確実な証拠がないため理由は不明だ。しかし既に述べたようNがツイッター上で吐露していた範囲では、Nは匿名で言論活動していた偉人を引き合いに出していた。この点をもう少し詳しくみていく。
 Nはツイッター上で、(匿名の言論活動が正当なのを証明するには)「シェークスピアを出せば十分」といった。これはその場にいて「どうしてそれで十分なのか」と問う返答がNに来ていた為、確かに不十分すぎる説明である。そもそも一般的命題と、個別的命題は異なる。例外で一般論を語りえないのだ。私はその場で「言論の自由がなかった時代、進歩的言説が体制を揺らがす可能性がある際、実名だと表現する側が権力や大衆等から弾圧を受け、命の危険があった。だからのちに言論の自由という権利が整備された。しかし言論の自由がある今日で、わざわざ匿名にする理由がどこにあるのか?」とNに問うた。Nはこの種の疑問に回答せず、上述のよう「誰かまとめてくれ」「議論は苦手」等といいながら取り巻き達に同調を煽り、この問いを提出した私をブロックしてしまった。つまりなぜNが匿名・覆面なのかの回答が得られなかったので、現時点でもなぜ彼が匿名なのかについては情報がなく、基本的にわからない。
 唯一ついえるのは、Nは過去の匿名で言説していた偉人の存在を、自らの匿名性を正当化する根拠にしていたということだ。この論理構造が正しいかというと、決して正しくないだろう。いわゆる伝統に訴える論証、詭弁にすぎない。過去正しかったからといって現時点でも同じ理由で正しいとは限らないのだ。

3.哲学者は貴族たるべきなのか
Iがソクラテスを引き合いに、誇り高く自らの言説の責任を進んでとるべきだという意味で、実名で顔を現し個人特定可能な条件下での毅然たる態度を哲学者の必要条件としたわけだが、匿名で重要な言説が著されたこともあるという意味ではNがいう必要条件とずれがある。
命題1「実名かつ顔を現すのは、哲学者である為の必要条件である」
命題2「実名かつ顔を現すのは、哲学者である為の必要条件でない」
Iは命題1、Nは命題2の立場なわけだ。ではなぜこの種の意見のずれが出てきているかの私見を次に述べる。
 結局のところ、Iは哲学者は責任を取るべきだ、つまり或る人格が論理的一貫性を持つと前提しなければそもそも対話に値しないといっている。いわゆる対話術に基づく討論の基本である。ところがNはこの立場の一般論を理解していない。Iみたく個別に、匿名でも論理的一貫性を保てると信じているわけだ。
 或る個人の言説が匿名でも論理的一貫性を保つ為に、偽名が使われる。厳密な匿名では確かに、相互に矛盾する言説Aと言説Bを区別できないので論理的一貫性は全く保障できない。すなわち、ここではNは、厳密には「偽名なら論理的一貫性が仮設できるから必ずしも実名である必要はない」という立場である。しかし偽名では、日本法の範囲で、判例を参照する限り必ずしも名誉が保障されない。或る偽名が個人情報と密に結びついていた時、名誉毀損が成立するという判例はあるが(東京地判平成9年5月26日、同事件控訴審の東京高判平成13年9月5日)、実名でそうな場合より遥かに通用範囲が狭くなるのは疑えない。つまり、偽名による言説では、論理的一貫性が場合によっては担保できるにせよ、これまでの日本法の解釈では個人特定不能なら名誉までは保障されないわけだ。だから偽名で貴族的な扱いが期待できるかなら、基本的にできない。偽名では時に名のある貴族どころか人格権も十分に保障されないわけである。
 より詳細にいうと、そもそも実名で顔を現す理由は、個人特定可能にし、名誉などの人格権を、言論の自由の範囲で法的に保障できる前提を作り出すことといってもいい。個人特定不能な匿名ではこれは完全に不可、偽名では個人特定の可否によって、時に部分的にしか保障されない。よって、Iが哲学者は貴族たるべし、というある種の義務を語る時、内的には2つの意味があり、1つは論理的一貫性がなければ対話にならない(詭弁防止)、もう1つは名誉がない者は貴族でありえない(責任論)、なる2つの観点だろう。恐らくソクラテスは両面をもっていたから死刑に服したといえる。
 Nは上述の命題2の立場で、詭弁防止や責任論を回避しても、或る匿名・偽名の言説自体が哲学的なら問題ない、としているのだろう。孔子「人を以て言を廃せず」に近い立場だ。問題は、Iの義務論は言論の自由が保障された先進国一般の環境下で常識的だが、日本文化圏では逆に匿名言説が大手を振っている。私はNとIにこの「実名・匿名問題」、特に日本文化圏でのガラパゴス化した、悪意ある匿名犯罪文化の分析を期待していた。だが彼らはこの問題にほぼ立ち入ろうとせず、議論が流れてしまった。しかし私はこの問題を社会学や比較文化論の研究課題、しかも解決すべき日本人の倫理的宿題と重く思っている。
 哲学者どころか一般国民が匿名を好み、貴族どころか犯罪集団と化して集団ネットストーカーや集団虐めになり、世間の衆目を悪用することが日本では当たり前の様に行われており、一言でいうと匿名の衆愚化が社会病理現象として諸々の国家的悪意の原型になっている。だから匿名は安易に肯定できないのだ。Nは巨大匿名掲示板を巡る数多の訴訟、ハセカラ騒動、aiueo700事件、その他西村博之氏ら日本のIT業者が2chやニコニコ動画等を通じてつくりあげてきた匿名ネット文化なるものがどれほどの社会的犯罪や悪意ある負の言説をもたらしてきたかに恐らく全く無知だから、匿名を暢気に容認していられるのだ。フェイスブックを中心にしたアメリカ発の実名ネット文化では、少なくともヘイトに対する一定程度の抑制効果が働いて、日本における匿名ネット文化に比べればだが日常的に犯罪者の巣窟となっている傾向は少ない。ユーチューブはグーグル傘下で、日本では必ずしも匿名ネット文化に属していないのである。
 日本には皇族を除けば制度的な貴族がいない。では精神の貴族がいるかだが、匿名で卑しく振舞う下衆ばかりの世界で、堂々と名誉ある行いをする(公の討論からも逃げない)貴族的人物は少ない。だからこそIが指摘した内容、「哲学者は貴族たるべし」は、今日の日本で極めて重要な指摘だったと私は思う。

4.貴族または哲学者は実名・顔を現すなど個人特定可能であるべきか
3とも幾らか重なるが、貴族がわざわざ名を伏せて活動するならそれはなんらかの尊い目的がなければならない。例えばみせる為に善行しないよう、匿名で寄付をするといった場合だ。哲学者が精神の貴族なら同様である。

5.匿名・覆面で活動する者に名誉は存在するか
上述のよう、匿名の名誉は法的に存在しない。では倫理的に存在するかだが、憲法や国際人権規約が定める最低限度の人格権しか保障されない。偽名では場合により、法的にも倫理的にも名誉が制限される。覆面は匿名性の要素なので、名誉の為にならない。ここでいう名誉は、俗物的に有名無実な名利ばかりを追いかけるといった傾向を指すのではなく、或る行いが誉れに値するかそれとも非難に値するか、人道に照らした内容を指している。特にここではソクラテスが自ら刑死に服した判断が主題なので、或る行いが正義に値するかがここでの名誉の基準である。

6.匿名は卑怯か(またこの場合、匿名のNは卑怯か)
先ずNに関していえば、上述のIとNのやりとりにおけるNの振る舞いは、名誉に値するか疑問が持たれるだろう。なぜなら「美術家(Iのこと)は美術だけやっておけばいい」という謗りは、Iの言説の正当性と全く関係のない論点ずらしでしかないからだ。Nはそのやりとりの中で、彼の立場として、詭弁防止や責任論を含む貴族の義務にかかわらず、匿名でも言説自体に哲学的価値があれば問題はないとした(と解釈できる)わけだから、Iがはじめに疑義した「実名・匿名問題」自体を匿名擁護の点から討議すべきであり、Iの職業の専門性は何の関係もない筈だ。
 では匿名一般が卑怯といえるかだが、個別では上述の匿名の善行といった場合もありうるが、一般にはなんらかの悪行または醜行をするとき世評から責任回避できるよう匿名を使っているのが日本人全般の日常だから、特に個人特定可能な条件下で何かを堂々としていなければ往々にして卑怯といえるだろう。
 またNの取り巻きの一人が指摘した「Nの名誉」なるものが法的に存在しうるかだが、偽名に対する過去の判例を見る限り、具体的に裁判で争われない限りはっきりしない。一般名詞を使った匿名・覆面ユーチューバーの言論活動で個人特定可能かだが、第三者としては特定できないといえるのではないだろうか。
 IはNを「左翼」とかなり否定的な内意と推測される文脈で評したり、匿名で哲学的言説を弄するのは貴族的でありえないといった指摘をした。対してNはIを美術家は美術だけやっていればいい、匿名でも哲学的言説は可能と反論しつつブロックした。が、Iは実名、Nは匿名だった。日本人の一般大衆は全般として卑屈なので、海外の一般的な人類と違って個人特定不能で責任回避できる匿名でのネット言論を好む。なのでNの方が彼らの心理的特徴に近く、日本人世論はNを擁護しがちかもしれない。だが法的にみると匿名のNには十分な人格権は保障されないのではないだろうか。Iは実名だが、「左翼」と多義的に解釈できる語彙でNを評したことについては誤解を招き易かった。N自身の動画をみると彼は政治的無関心に近いと称していて、一般的な意味で政治的な左翼ではない。要はネット右翼がよくやる類の左翼レッテルに近い侮辱表現とも受け取れるので、これ自体は問題があった。
 ただIはその後、少なくとも匿名で哲学的言説を弄するのは貴族的でないとした理由をツイッター上で弁明した為、「左翼」との語彙の説明ではなかったが、部分的にIがNの名誉感情を害しようとしたのでなかったと分かったのでその点で卑怯とはいいがたい。「左翼」との指摘の方は謝罪が必要だったと思う。

7.哲学は対話術的なのではないか
さて一応ここまであげた中で最後の疑問になるが、私はプラトン、アリストテレスらがタレスをはじめの哲学者としている通説に反し、ソクラテスがはじめの代表的哲学者と考える理由をこの対話術にみいだそうとしている。いわゆる弁証法的、批判的思考である。
 私が根源を問う思考より、或る定立に反した考えをもつ思考がより哲学的だとする理由は、一般にはヘーゲルによる絶対精神の自己運動と解釈されるもの(Dialektik)を、ソクラテスの助産術が内的に含んでいたものとしているからだ。この意味で哲学は一人で思索や記述するにせよ、対話や討議といった他人とのやりとりをする、或いは大勢へ向け講義や演説するにせよ、基本的に同じ過程になる。タレスも勿論この意味では、なんらかの対話術を通じ万物の根源は水とする考え方に辿り着いていたのかもしれない。
 プラトンやアリストテレスの証言があるにせよ、具体的に対話術を助産術という形で実践していた証拠が残っているのはソクラテスの方だ。だから私は古代ギリシア史で最初の代表的哲学者は、タレスというよりソクラテスの方ではないかと思う。プラトンやアリストテレスは哲学を広義で使っているわけだから、教科書通り、文献学的に彼らがギリシアで最初の哲学者としてタレスを挙げている以上、「プラトンやアリストテレスらはタレスが最初の哲学者と考えていた」と記述できる。要は哲学という語彙に何の定義をあてているかによるわけだ。
 そこで、NとIのやりとりにもどる。なぜIがソクラテスの様な貴族性を哲学者に求めたか、それは論理的一貫性のない詭弁や、途中で議論を放棄する責任回避によって対話術そのものを不可能にする態度を戒めたからだろう。またNが議論・討論は苦手としているのは、そもそも対話術を拒否していることになる。カントは三批判書の中で「思想史(哲学史)」の生涯学習者と、哲学する者を区別しているが、総じて対話術の過程を経て展開していくのが思想史の流れともいえるから、Nはこの意味で学習の範囲内でも十分に思想史を理解していないと私は思う。要は哲学はメタ認知を使う否定媒介的作業なのである。
 では対話術的でない哲学がありうるかだが、これは同語反復になるにすぎないだろう。例えば或る正の定立にとって反証的でない定立があってもそれは正の定立の延長上にある、同系統の学説、即ち学派の一部にすぎないから。非論理的な哲学がありうるかでいえば、それは寧ろ詩と呼ぶ方がふさわしいだろう。そもそも哲学と詩の違いでいうと、或る言説が対話術的であればそれは語りとして必然的連関をもつので追跡可能である。だが真を穿ってはいるが直感的で非論理的な言説ならそれは詩として天才の産物であり、他人に追跡不可能である(より緻密には、小説、戯曲等を含む語りは散文的詩つまり「物語」、単なる「詩」は歌や歌詞と同様、韻文的詩のこととする)。だから哲学の語りが追跡可能なら、論理的一貫性をもつ必要がある。
 ここでいう論理とは、最も基本的には、
同一律 AはBである A→B
矛盾律 AかつBはありえない ¬(A∧B)
排中律 AかBのいずれかである A∨B
の3つの構成を、各々の否定と共に必然的に持つことである。具体的には
AはBである AはBでない
AかつB AかつBでない
AかB AかBでない
これらの語りの展開をもつ言説が特に哲学的と呼べるのは、これらは追跡不可能な或る個人の天才性に依拠しない(個人と一対一で紐付けられない)ので、単に言説だけをとりだして正しさを吟味できるからだ。つまり或る定立を、第三者に追跡可能な形で提示しているのが哲学の言説なわけだ。
 ここで語りと詩を分け、或る言説の論理的一貫性が哲学の前提となると私は述べた。IとNの議論が最終的に私にもたらした洞察というのは、プラトンの詩人追放論、カント『判断力批判』での芸術論たる語りと詩の定義、ソーカル事件での科学用語の衒学的使用などを超え、哲学は追跡可能な語りということだ。プラトンは詩の追跡不可能さをイデア論にすりかえていたに過ぎず、カントは言語芸術での語りを哲学から分離しすぎていたし、ソーカルは諧謔で或る雑誌のスノッブ的な散文詩たる性質を皮肉にした。つまり追跡可能な語り方(数学や全科学を含む哲学)と追跡不可能な語り方(物語)があるにすぎないのだ。
 厳密には、部分的に追跡可能さを含む場合がある追跡不可能な語り方が物語だから、文学用語でいう「信用ならない書き手(記憶が違っていたり記述が論理的一貫性を伴っていない等の揺らぎを含む語り手)」は、実は程度の問題でしかない。つまり学術論文の厳密さは揺らぎを主体的に排除する程度なのだ。プラトンら初期の書き手は、その種の追跡可能さを、全体として神話的記述を含む物語の中に埋め込んだ。そしてこの追跡可能さを断片化し、より厳密なものにしようとする試みが、我々の知っている科学という営みだ。特に公理系を元に、ユークリッド『原論』やニュートン『原理』を規範にした語り方だ。
 最後にNとIの議論の分析に戻るが、Nが議論を嫌うのはNが学習者的で必ずしも哲学的でない印といっても過言ではない。勿論、筋の悪い議論、詭弁を駆使した討論の為の討論を避けるのはソフィストの轍を踏まない知恵だが、単なる対話術に基づく追跡可能な命題の考察を怠るのはソクラテス以前の態度である。Nの或る動画でNは教授に提案した新解釈の研究テーマをこれは学問研究でない(文献学的でないという文脈)と評され、それならと博士課程に進むのをやめたと述べていた。孔子「述べて作らず」に近い教授だから恐らく立派な人物で、実際にはNの非対話術的思考癖を見抜いていたのではないかと推測される。Nはその教授の忠告を文献学は退屈だといった解釈で受け取っている様に私にはみえるのだが、私の観察が間違っていなければ、その教授がいいたかったのは私と類似で、追跡可能でない文献学はそもそも哲学史の研究でないという話ではないか。それは語りの芸術、つまり物語ではあるが、確かに学ではない。Nはのちユーチューバーとして思想史やサブカル等を下敷きにした物語で自己実現する結果になったから、文献学を深める方へ進まなかったのも塞翁が馬なのかもしれない。教授の慧眼というべきか。
 Iの方は、寧ろ哲学する事にかなり練達しているが、独学の余り語彙が独自で、一般に誤解を招き易い点がある。学術的に専門性が高い内容を語るには独自の語彙があり、一般的に広義の意味を含む言語とは区別される。ところでSNSで哲学を語る際、専門家と一般人へ同時に同じ意味を伝えようと日常語を使うと、解釈の余地が広すぎて誤解が多く生じすぎるわけだ。そもそも一般人は学に関心がないから両立は難しい。よって日常語を学術的意味を込めて使う時には意図的に多義性の揺らぎを生じさせながら使うか、さもなければ一般向けに学術の話を冗長に噛み砕いて説明するか、いずれかである。Nがやっているのは後者だから程度あれ視聴者数がIより多く、Iが無意識にやっているのは前者なので一般人に誤解を招き易い。
 私がいいたいのは、というか私に関心があるのは100%、専門家向けの話の中身だけなので、私は分かり易い説明など意味がないという立場である。ただユーチューブを収益目的で視聴回数や登録者稼ぎにやりたい条件があるから日常語を使う必要があるだけで、それなら妥協できるだけ徹底しないといけない。衒学や気取りと専門用語は何の関係もない。寧ろ専門家に分かり易い記述は、一見ありうる限り単純だが一般人には理解できない形式をもっている。凡そ誤解の余地すらないわけだ。ユーチューブを収益化するにはパイ(経済学用語)の少ない専門家向けのチャンネル運営はほぼ無理だろう。つまり収益の為には専門家からの寄付とか、関心のある人向けの動画の有料化とか、なんらかの視聴回数・登録者数の総量を稼ぐ競争以外の点で差異化しない限り、今のユーチューブチャンネルのしくみは、唯のVログが通俗学問の様な卸売り業者に競合しうる席ではない。根本的に考え方を変えるべきだろう。無論、私個人は、専門家の為に一般に理解不能な専門的な話をしてほしい。それが収益化できるかどうかは純粋学術にとってどうでもいいことでしかないからだ。

2019年6月28日

政商分離論

堀江氏の「年金泥棒」発言と、ビルゲイツ氏の「金持ちに課税すべき」発言が対比され、日本の富裕層一般に貴族の義務がない、という批評が現れている。結局そこは日本の成金は貴族ではなく町人倫理の延長で、現世利益を享受したいという発想しかない。米独で寄付するのは清教徒思想の名残なのでしょ。イギリスでいえば紳士、日本でいえば皇族・公家・武家みたいなのが封建貴族だったわけで、彼らは特権が保障されていたから生活費に一喜一憂しなくて済んだ。貴族の義務が発揮できたのは特権の免罪符だったからで、日本商人は一度もその種の特権を持てた試しがないんだから貴族になりえない。
 そもそも貴族が営利から遠ざけられていたのは、政治と商業の癒着を防ぐ効果を伴っていた。明治期に薩長土肥らの露骨な政商行為が正当化されてから、現在まで日本の伝統的貴族にみられた賎貨思想は放棄されている。堀江氏も福岡出身だけど、その種の西軍的な政商の考えをそのまま踏襲してるだけと思う。
「私利」と「自己犠牲」は矛盾するわけで、日本商人の信仰の中に営利の正当化がある以上、自己犠牲を前提とする貴族の義務を期待する方が間違ってる気がする。日本商人が余りに寄付したがらないのは貴族の義務以前に、現世の享楽を社会貢献より優先させてきた町人倫理そのものの欠点だと思うが。

 税の控除を目的にした寄付って仮言命法的な条件つきの善行に過ぎないし、この意味でふるさと納税も本来の喜捨ではない。町人倫理に資本主義を継ぎ足した日本商人は清教徒思想なんて学ぶ気はないだろうし、要するに他国より本質的にけちな商業文化なわけで、日本の成金が未だに貴族になれない理由だな。

 東京都民は成金をセレブとか呼んでやたら高貴っぽくみせかけようとしてたけど、少なくとも身近に水戸家級の本物がいた茨城文化圏からすると、実にちんけな虚構でしかなくて一回も騙されたことないんだが。都内皇族もこの点ではなんら模範にならないしね。
 孔子、釈迦、イエス、ムハンムド、この辺りの聖人らがなぜ商人に厳しくて喜捨を命じてたかといえば、そもそも営利と利他は矛盾するからでしょう。清教徒は両者を資本主義と結合し正当化したが、その目的は社会貢献とし、寄付も文化の一部にした。日本商人は武士道を捨て政商を崇め拝金主義に染まった。嘗ては水戸家みたいに、大名が特権階級として貴族の義務を自負しつつ統治していた。まあ当時も二流以下の大名は私利を貪り堕落してたのかもしれないが。少なくとも水戸家は自ら質素を旨としつつ愛民的な殖産興業の施政をしていたわけで、私利が目当ての財閥政商とは目指すところが全然違った様に思う。
 アメリカ人有権者の多数派は、トランプ氏みたいな商人を大統領にし、私利と公益を混同させる露骨な金権政治で孤立主義に回帰しようとしてるが、彼も貴族的ではないでしょ。勿論、民衆を犠牲にゴルフで遊ぶ安倍首相も貴族的ではないし。彼らの成金根性が政界にとって災厄なのは間違いないと思う。
1.日本商人は自主的に喜捨すべきで、それは税控除とか見返りを目的とした不純な私利追求の動機からなされるべきではない
2.政界に金権政治に繋がる成金根性や拝金主義をはびこらせるべきではない
3.行政は税収調整に集中し、違法行為を除き民事に介入せず、賄賂や政商を遠ざける必要がある

令和

帰田賦を新た読みけり東京の醜を去りけるわれも令和す

宇宙は消える

僕は時代を作る
僕は時代を直す
僕が時代だ
そして宇宙は消えていく

芸術は商売自体ではない

芸術は時代を超え別の場所でも人々に感動を与える。だが商売はそうではない。全てを商いに還元し物事を評価する考え方を商業主義とすると、このイデオロギーは全芸術を補完できていない。つまり芸術は商売自体ではない。
 商売人は生前の金儲けに集中しているが、芸術家は死後に真価を発揮する。

梅雨のたり

わがよこでさきつあるあじさい
のきしたにはちのすつくりこわされる
扇風機掃除し凉し梅雨のたり

2019年6月27日

YouTuberバブル

拝金主義で子供を洗脳した、経費で贅沢自慢が唯一の芸ともいえるYouTuber界は結局、多くの青少年が俗受け成金を正義と考え、その方向へ突進した結果、見るも無残な破滅をもたらすだろう。我々はこの種の現象をバブルと呼ぶ。

統計的有意差は真理の論拠になりえない

権威に訴える論証、衆人に訴える論証は各々、特定少数や不特定多数を根拠に或る意見の確証偏見にするものだが、心理学など統計自体が不確かな分野でこれらの論証を用いる者は、結局、詐欺師の一種でしかない。

俗受けは致死的な誤判断

一般大衆を味方につけ安心だと考えている人は、いわば愚者を側近にしているよりずっと危うい。どの時代でも大衆が特定少数より賢かった試しがないのだから。

和の構造的分析

恐らく自分以外の大抵の日本人はこれに全く不同意だろうが、「同意」をツイッター等のコメントで返信してる人達は全く価値がない情報を発信していると思う。同意は自見の正しさを保障もしなければそれ自体に意味がない情報だから。同意ツイートするならいいねで十分だが、いいねも同じ意味で無価値だ。
 反証的情報で、自見の盲点を揚げ足取りや年頭月尾でなく、総合的かつ批判的に検証できている異見が最も価値が高いと自分は思う。いわゆる知的な意見はそういうものだろう。相手が傲慢か低知性だと批判的意見に激昂したり、ブロック等で排除してしまうが、それを見越した言い方にしてあるとより高度だ。
 自分の場合、同意ツイートを下手に出てしてくる人がいるとその意見が間違ってる可能性を感じ、とても不安になる。だが異見ブロッカーは、自分の見た限りこの逆類型の感受性をもっている筈だ。ブッダが「同調してくれる愚者より非難してくれる賢者の方が優れている」といった理由は、反証の重要さだ。ではなぜ日本人一般が同意ツイートをするかだが、彼らは同調圧力に従う「和」が正誤に優越するよう義務教育などで洗脳を受けたのだろう。自分もそれを学校で受けていたので良く分かる。この民族病は全体主義的な天皇制ファシズムで致命的敗戦に突っ込む所まで行った悪癖なのだが、なんら直っていない。

 ところでこの日本人一般の和という民族病と真逆の言行類型は、一言でいうと対話術(弁証法、dialectic)になる。ヘーゲルがいう哲学の基本運動で、正反合の3定立を経て、否定媒介的に矛盾をもちあげていく論理構造を指す。要は日本人一般はこの批判的思考がほぼできず、ごく苦手のまま成人している。もっと遡ると、そもそもなぜ一般に対話術でなく和による同調が日本人風やりとりかというと、弥生時代頃から農村共同体で合意する為で、全会一致の幻想を利用しないといけなかったとか、天皇の無答責と和を一体化させる近代の一君万民論の原因まで分析できる。だがこの癖は日本人一般の決定的弱点だ。
 民主主義という言葉で多数政治に大義名分が与えられた戦後、和による全会一致の幻想にもお墨付きが与えられた。こうして集団虐めに最も好都合な全体結束主義の土壌ができた。日本人一般は数の圧制を「空気を読め」などと命じつつ少数派に強要する。たとえ少数者の方が遥かに正しくともだ。

 結局、異見を封殺し、同調圧力を強制しつつ、過ちを多数派として強行するという日本人一般の正義感は、「赤信号皆で渡れば怖くない」と同次元の実に幼稚なものだ。諸々の集団的蛮行の集積として、政治的には、衆愚の過ちを全体の象徴である天皇が最終的に正当化してしまう構造ができあがっている。この様な恐ろしい衆愚の国で生きて行くには、同意を一々全て疑うしかない。同意こそ蛮行のはじまりだからだ。彼らは自分が甚だしい過ちを犯していても、空気を読んで全く無意味に多数派と共に同調してくるし、逆に大成功し世界史に圧倒的偉業を刻んでも、少数派なだけでひたすら迫害や無視を行ってくるのだ。
 和が美質をもつ、という観点を保守派が強調するのは国内で典型的に見られる光景だ。勿論この意見自体が疑わしい。日本人一般はよく「皆が」「普通は」などの主語で、無理やり和を脳内妄想しさえする。そしてこの慣用句が使われるのは、大抵、なんらかの個人的悪意を正当化したい時なのである。

The global socialism is not the intellectual way to enrich whole world

Mr. Trump is interfering free trade on the world, but this bring the global socialism regime. That is to say, especially US people have to pay more high cost for buying import goods.
  World's economy buys US goods, on double costs. One is US people's, second is all people's it.
  At end, his interference above US trades, are mistakes more or less for world's economy. Because the free trade is most effective to install our best effort to fit all works.
  Egoistic national economy is just a misunderstanding for all economies. If somebody needs protective tariff, it would be to guard national citizen's minimum being, like an agriculture or an energy etc. Other countries would never reflect another one's special survival conditions. For example US will never concern to save Japanese rice fields.

  I wish the self-proclaimed developed country's government can understand that to keep free trade principle is the intellectual way for help another developing countries. Because we can dedicate ourselves for providing ODA or just an investment too. Not to interfere global market.

収益経済と賞賛経済の差

金のため働く者は喜びのため働く者に劣っている。前者は報酬が収益に過ぎないから、結局どの仕事にも熟達できない。
 人は暇なら各自が最も好むことを行う他ない。幸福が各人で異なるのは人々の趣好が分化しているからだ。そもそも或る人が特定の行動を好む様になるのは、彼らをとりまく人々の間にあって各自が最も卓越した特徴を発揮する時、一般に賞賛の対象になるからだ。

倫理的転回について

倫理(今日、道徳ともいう)の根拠は信じることであり、或る人間関係と同じ秩序がない自然界の中で実証できるものではない。カントはこれを認識の主観性という、もっと抽出的な次元でコペルニクス的転回と呼んでいたが、特に倫理に関してのそれだけを倫理的(道徳的)コペルニクス的転回、或いは約めて倫理的転回、道徳的転回と名づけられる。また特にカントがこのアイデアの起源なので、自然・道徳の両界に於ける主客分別を発見した狭義のコペルニクス的転回という意味で、カント的転回ともいえる。
 自然科学のみを学んだ人(自然科学専門家)は、単に既成の社会を分析した人(社会科学専門家)と同様に、その点だけでは決して倫理的ではありえない。たとえ単なる一宗教の信者も、自然科学を信仰にしている無神論者より倫理的に正しい結論を導けることもあるのは、この倫理的転回の為である。
 文明が自然界と同じ秩序でありえないのは『韓愈』で弱肉強食が人間界の対概念として語られてからなんら変わらない。今日の人類が理性と呼んでいる脳の機能は本質的に倫理的社会を作る為のもので、いわば高い利他性の個人を褒賞する。が社会ダーウィニズム(社会ダーウィニストでなかったダーウィンの名誉の為にはスペンサー思想と呼ぶ方がふさわしい)や、新自由主義、自由至上主義の一部はただの退化を含むし、これまでの薩長史観や、マキャベリズム、アメリカ主義、東京中華思想・京都中華思想(いわゆる都鄙差別)の類もこの点で同轍に過ぎない。そもそもアイン・ランドの客観主義自体が利己性を強調し、倫理を後退させたものでしかない。資本主義や労働主義(労働すれば救われる、もしくは労働をほぼ無条件に正義とする考え方)、神道、民衆政治(democracy)などの考え方が或る集団的または全体的利害を或る個人に不都合な形でおしつけている時、その信仰は極めて邪悪で文明の本旨に悖るのだ。
 根拠主義(全てに根拠を求め信憑性と同一視する考え方)や実証主義は、科学主義(自然科学の方法論を自明の正しさとし他の分野の思考にも無理やり当てはめたがる考え方)の一部で、これらは倫理的転回を理解していないことによる一般的無知だ。同じく科学的知性は決して倫理的知性(徳性、道徳性)ではない。但し、そもそも倫理的認識は後自然学的なものなので、広義で自然科学や、既存対象の分析を行う社会科学はいずれも倫理的知性の部分でありうる(福沢諭吉『文明論之概略』でいう「先ず物ありて後に倫あり」)。つまり、単なる個別的徳に個々の知識は必ずしも必要でないが、普遍的徳(全徳)については全知が必要である。全知も全徳も或る当為だから、できるのは博学を兼ねる有徳さを各々の命の有限時間内で達することだけだろう。我々が知識を模倣素として外部化し、別の時代や異文化へ伝えるのは、学習過程を省力化する為だ。

2019年6月26日

多数決の愚

意見の多寡を正誤と取り違えている人は、衆愚と同じ過ちで滅び去る。

差別や偏見は自滅の原理

差別や偏見の中で生きている人は、常に損している。その人は優れた物や美質を世間と己の劣った判断にあわせ過小評価しているし、逆に下らない物や汚点を確証偏見で過剰評価しているからだ。衆愚がこの差別や偏見を強化すればするほど、自滅の度合いを激しくし、落ちぶれて行く。

ネット商人

お前が儲けたかなんてどうでもいい
お前が何をしたかが問題だ

2019年
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2019年6月25日

清教徒思想vs町人倫理

アメリカの金持ちの一部「我々から富裕税をとり、社会格差を是正し、世の為に役立てるべきだ」
日本の金持ちの一部「貧民はもっと貧しくなる自由がある。ただし金持ちに文句つけるな。年金デモなどもってのほか、最低賃金は途上国並になって極貧でうごめけ。なおアベノミクスで格差拡大を支持する!」

悩みの普遍性

愚者の悩みはそれ自体が愚かなので、他人には意味不明なことが多い。そしてこれが行き詰ると、しばしば精神疾患とみなされる類のなんらかの異常さに至る。一方、生まれつき賢いか、なんらかの偶然でその悩みが普遍的なものであれば、この懊悩を解決した者は思想家として重要性をもつ。
 一般に人が学ぶのは、他人が既に解決済みの悩みを近道する為だ。

地域の観光魅力度は観光公害度に比例する

観光公害度が低い田舎は、住み心地のよさで最良の場所だ。観光業や自然環境の珍しさで或る地域ブランドの観光魅力度が高いと思われていると、観光公害度が高くなり、治安が悪化し、健全な産業が破壊される。この意味で商業マスメディアによる賛美バイアスは地域の住み心地のよさや快適さと逆比例する。

先ず一律貸与を法制化して後に最低賃金を撤廃すればよい

フリードマンのよう最低賃金の撤廃が合理的という意見は巨視経済の観点から時に主張されてきたろうし、私もそう思うが、問題はこれは低賃金労働者に致命的で生活保護制度とも矛盾をきたす貧しさへの競争を促しもする。つまり同時に一律貸与(universal credit)等での公的保障を考えない限り、相対貧困を拡大してしまう。
 当主張をする西村博之氏堀江貴文氏は、現時点までの主張分では主に資本家・経営者側から事をみて最低賃金撤廃が合理的とみなしている様に私にはみえる(なぜなら既存の労働者側は、企業が人件費圧縮で賃下げの結果、以前より低賃金で働く結果になるので)。公的保障の拡充より先にそれを実行すれば生活保護の程度を引き下げながら低賃金労働者を増やす結果、経済全体でみれば日本の消費全体が収縮していくだろう。要は国家経済に負である。
 私の意見としては、地球経済と市場放任の観点から、行政が最低賃金を法的に定めるのは止め、代わりに総所得が生活保護に満たない人々を一律貸与で生活保障するのが正しい。順序としては先に一律貸与を法制化し、次に最低賃金撤廃を行う必要がある。この逆(先に撤廃)を行うのは社会不安を来すだけだ。日本単位の経済として最低賃金撤廃は国際競争力を高める効果を伴う。同時に国内での所得格差拡大を伴うだろう。だが総じて一律貸与の水準が既存の生活保護以上で、また累進税制全体が矛盾なく(租税回避などの法の抜け道や逆進性なく)調整へ向けられていれば、国家経済全体の収縮には繋がらない筈である。

優秀さ

自分が優秀だとお前はいう
本当にそうなら
この世の果てまで行って
希望の明かりで暗い現代を照らし出せ
ところがお前がやっているのは
人類を差別し見下す為
ひたすらカネをむさぼること
なるほどお前は優秀だ
但しお前の優秀さは悪魔のそれ
つまりは貪欲なる悪徳に耽り
全人類を痛めつけているのだ
今すぐ全財産を寄付し
代わりにお前は無一文で
全人類が救われるよう祈りを捧げるべきだろう

国籍離脱が有徳な時

人は不幸の原因からは身を遠ざけるべきであり、国内に自称愛国の利己主義者が群れ、知的・倫理的・寛容な者へ敵意を向けていたり、且つその衆愚の支持する悪政が行われているなら、その国を見捨て国籍離脱する方が望ましい。なぜなら衆愚に反省は期待できず、単に彼ら自身の悪徳のゆえ亡国すべきだからだ。
 人はよりよい集団に属する義務があり、それは聖なる人であればますますそうである。

金融所得税は必ずしも累進的ではなく逆進性を伴い得る

枝野幸男氏のいう金融所得税は、金融所得が主な所得の低所得者にとっては累進性を伴っていない。寧ろ逆進的である。そもそも金融資産は、単に貯金しているだけの状態より余裕資産を市場経済に回す分、公益的である。つまり金融所得税は所得税自体の累進化と質が異なっており、金融所得税の導入時には低所得側に減税する必要がある。寧ろ、全所得の合計に課税する総合所得税が真に累進的だ。

商人

金儲けを仕事にしている商人らは、目先の利益を追いかけるあまり、他人の為に過度に働かせられている。

清貧について

金を貪らず、清貧に生きられれば、それが最も貴い。商人らはその人を蔑むだろうが、利を食む当の商人というものに決して手に入り得ない最上の富を清貧な人は既に手にしている。即ち廉潔さ。
 人は貪るほど憎まれ、与えるほど愛される様にできている。有限の資源をより少なくしか取らなければ、その人はより廉潔である。
 金銭は公共の財であり、より多くを私有財産にするほど憎まれ得る。一般大衆の殆どが商人になっている国々で、蓄財自慢は成金の評判を下げる。大多数が怠惰で発展を望まない国々では、金銭が勤勉の目安とされ易い。だがどちらの場合でも、清貧な者は既に財産についての目的を達している。

2019年6月23日

下品な人

下品な人は下品な人とつきあう。

悩みは下賎の徒がもたらす

悩みは先ず全て不徳な他人がもってくると自覚し、下衆との接点を全て断て。不幸は下賎な者の悪行による害である。殊更他人と交わるな。
 SNSや社交が禍の種と悟り、一般公衆と接する勿れ。
 善意や慈善、福祉の名目で不徳な他人を助けようとしてはならない。これは常に裏切りや逆恨みの原因になり、相手を放置していた時より悪い結果になるものだ。助けるに値するのは有徳の他人、いわば比較的性善の者に限られる。
 君子豹変、小人面革とは気質の貴賎を指す。
 重要なのは自ら至善に止どまり、下賎の徒と接さず生きて行くことだ。

集団教育は虐待

幼児を集団教育の場に放り込む親は、単に子供を虐待しているのだ。下衆の中でどれほど利口でも禍を受けずにいられないのだから。

悪徳商人集団が少子化の果て絶滅するのは守銭奴行為の他害性による自業自得

最善の生き方をして極貧で死ぬしかない様な国には長生きするほど不幸が増すばかりだろうから、そこを脱出できなければ早死にした方が却って幸福だろう。この意味で衆愚の国は地獄となんの違いもない。
 日本や韓国の自殺率が著しく高く少子化が甚だしいのはそこが往々にして生きるに値しないからだし、実際、悪意ある衆愚が他人を搾取収奪するのが目的な商人集団は、増加するほど他害度が高まるに過ぎない。つまりより利他的な無償奉仕(寄付や喜捨)が習慣になっている敬虔かつ善意の集団に比べ、矢庭その悪徳商人集団が亡び去るのがふさわしいのだ。イエス、ゴータマ、ムハンムド、孔子ら古の聖人らの、自ら寄付しない悪徳商人への評価が最低級だったのは、結局彼ら商人に於ける相利性に擬態した蓄財目的の利己性が反社会的だと見透かしていたからだろう。国内地域でも同じことがいえ、特に東京圏(南関東)や京阪地方(京阪神や奈良)など都会人の出生率が一様に低い(2015年合計特殊出生率、東北大学経済学研究科)のはその種の悪徳商人の巣窟だからに他ならない。彼らは他人が有効需要を満たす為の金銭を過度に貯め込み、他人を差別する目的で権勢欲の道具にしたり、貨幣経済の流動性を低め、人類全体に害を為しているのだから。

学習意欲に応じた教育可能性が必要

愚者の説得に時間をかけるなら、自分が一歩でもより賢くなるのに時間を使った方が遙かに優れている。学習能力に差がある限り、愚者が利口になるのは多大な費用が必要だが、既に利口な側がより利口になるにはそれよりずっと費用が少なくて済むのだから。この点で啓蒙は基本的に無意味で、教育も進んで学びたがる者に向けてでなければ効果は薄い。
 落ちこぼれ、もしくは学習弱者が意欲を持ち直した際に再びいつでも登れる階梯は必要だが、単に学習意欲がない者はその時点で彼らの知能が学習を欲していないのだから、勉学する筈もない。彼らが学ぶ重要さを実感するには失敗や精神的成長などなんらかの彼らに固有の反省が十分条件なので、それが達成されるまで放任しなければならない。

セイレーンの羽ばたき

セイレーンの羽ばたき
2019年
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世界宗教が独身主義なわけ

人生は卑しい人々から遠ざかる修行だ。この行が最も難しく、また実現できれば最良の結果を伴うのは明らかで、我々の社会性を諸道徳により統御することを意味している。
 我々の人生に不幸をもたらし、暗い影を落とすのはほぼ全てが卑人の影響だ。卑人とは悪徳にまみれた愚者を指す。交際の範囲が広いほど人は卑人から悪疫を受け易い。だが人類は社会に接さずには利便を得られず、誰とも関わらないで生きるのは難しい。この為、結局は交際相手を厳選するしかない。即ち交際相手の徳を十分に鑑み、つきあうに足る人のみに接触を限定しなければならない。困難なのはそもそも徳の高い人にしてみれば世人は悉く自分より卑賎なので、交際自体に害があることだ。だからつきあうに足る人が全く見つからないのが当然で、辛うじて部分的に徳が低いとは言い難い者が見つかる程度であろう。その様な者でさえ諸々の悪徳からくる諸害は甚だ大きいので、常に世話の必要が生じる。こうして俗人と交際すること自体に根本的な不条理があるので、為すべきは独居独行を修養することになる。
 無論、自らより優れた徳の持ち主がいればその者に臣従すればよい。

なるべき様

人はなるべき様にしか生き得ない。

2019年6月21日

都会ずれ

卑しい人を尊くしようとして一度でも成功した試しがあるか? その人を作っている諸要素のうち、殆どが幼児から彼らに与えられた環境情報によっている。だから彼らは尊卑を脳内の思考回路および行動順位としてしつけられていて、先ず上書きで最初に与えられている計画を除去できない。これが原初的なほど育ちのよしあしとして、あとまで影響するのだ。
 都会人の下卑た俗物根性は生まれ(遺伝子)というより、先ず彼らをとりまいていた俗悪な都人の悪疫に違いない。彼らが上品と自称なり自認しながら実際には下衆の極みなのは、彼らの退廃加減に中華思想や自文化中心主義、ダニクル効果で無自覚だからに過ぎない。都塵に育ち素朴さを保つのは、ただ周囲を理解するだけで俗悪な世人の意図を知らなければならなくなるため実質的に無理なので、確実にすれる。都会ずれを洗練と無理やり混同させようとしたのが歴代天皇や、公家ら受領、江戸町人そして九鬼周造らで、京都市民や東京都民一般も天皇の愚劣な中華思想に媚びているのだ。勿論この意味で道徳的に、差別の観点から天皇が最も卑しい。

意味づけ

全人類はあなたを殺しました
そして何が残りましたか
はじめにいったとおり
どうでもいい様な世界が残りました
どうでもいいのは世界です
やがてあなたも忘れられ
最後に大穴が空きました
ギアガの大穴に落ち
やがて宇宙全体は無に帰します
すべからく現世は無意味
ことごとく来世も無意味
当然前世も無意味
だから私は意味づけました
全人類を超えて

わざわい

誰とも会いたくない
僕は一人で居たいのだ
僕には人間がわざわいで
関わるだけ悪くなった

経済動物

上の世代も下の世代も
日本人一般はかねを貪るばかりだった

本能のいいかえ

現実を本能のいいかえに使う人がいる。

知識を信念にしてはいけない

知識を無限の反証過程と捉えず、単なる信念を得る為に使う者は永遠に知性を得られないだろう。この意味で、科学信仰は最も危険な宗教の一つだ。単に誤りを真理と誤認させ布教するのみならず、学位や査読論文、賞などで権威づけ、或る教義を絶対化している科学者と称する信徒集団は、彼らが倫理的でなければないほど人類全体に与える悪影響は甚だ大きい。

人はなぜ芸術を作るか

我々が芸術を作るのは、死を悟っているからだ。遺伝子を超えて未来に模倣素(meme)を残すのが純粋芸術の基本目的で、それは我々の遺伝子が残しうる最も滅びから遠い要素でもある。永遠の命に代わる自己の思想の伝達は、芸術作品に込められた模倣素を通じてのみ、可能である。我々の思想が言語の形で残る場合も、その言語芸術が模倣素そのものである。
  遺伝子の延長にある模倣素は、我々の遺伝子が外界に与えた何らかの作為の単位であり、この技が文明に残した影響度がよい結果を伴うほど、その模倣素を最初に生み出した個性の誉れは高まる。また一度獲得された模倣素が或る共通の遺伝子をもった個体により再利用される時、それは世代を超えた情報伝達になりうる。つまり単に異なる遺伝子をもつ個体への利他的影響のみならず、模倣素は別の時代に於いて自己に有利な環境の再形成を準備する機能をもっている。

2019年6月20日

終わることなき世界

終わることなき世界
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消費税を付加価値税に正名し輸出企業にも負担させる税制案、及び内部留保税の投資鼓舞効果の考察

軽減税率をもつ消費増税は一般に累進課税だが、日本では同時に輸出企業にとって消費税は二重課税になるという名目で消費税が免税対象なので、特にトヨタを筆頭とする輸出型の多国籍大企業に有利という二重性を持つ。
 つまり日本での軽減税率をもつ消費増税は、大企業に最も有利な累進課税である。
 よって消費増税で最も損するのは国内売り上げ比率が高い中小企業であり、一般国民のうち税調整(再配分)の恩恵を受ける貧者ではない。尤も、国民の殆ど、具体的には企業数で99.7%、従業員数で69%と過半数以上が中小企業で働くので(国税庁2014「民間給与実態調査」)、結果、一般庶民の負担が重い。
 いいかえると、消費増税で損得を並べると、得する順に
輸出型大企業(海外売上高の比率が高い多国籍企業)>海外売上比率が半分未満の一般企業>国内向け中小企業
国民単位では
輸出型大企業の株主・経営者・従業員、及び貧者>海外売上比率が半分未満の一般企業の従業員>国内向け中小企業の従業員
安倍氏の消費増税論は、この筋で分析すると、アベノミクスと自称していた新自由主義路線と帰一。主にトヨタを筆頭とする自民党へ企業献金をしている大企業優遇政策、もっというと中小企業に勤める過半数の一般国民虐めによる、中流破壊・格差拡大政策だとわかる。この安倍氏の消費増税路線で進むとこれまでと同じく、大企業の内部留保が増大し、株価が上がることで貧富の格差が広がっていく。そして内需7割(貿易依存度27%。UNCTAD、2017)の日本のほぼ全企業(日本の全企業の99.7%。上述)は衰退し、全従業員の約7割(同上)が負担を背負う。

 ではなぜこの路線に、国民一般が反対しないのか?(2019/4/28の読売世論調査では賛成45%、反対48%と拮抗)
 第一に財政再建の負担を国民一般が払うのに反対ではないのではないか? 要は自虐的。同時に、経済と政治の役割の違いに無知過ぎ、政府による格差拡大政策を容認しているのではないか。

 山本太郎氏が数億の寄付金を単独で集めたのは、消費税廃止とはっきりいっているからなのが大きいと自己分析している記事(「れいわ新選組「消費税廃止」を掲げる本当の狙い 山本太郎議員に聞く」AERA、2019/6/19。記事1記事2)を読んだが、彼は軽減税率込み消費税が基本的には累進税制なのに無自覚に見える。まあいわゆる人気政治、大衆迎合、ポピュリズムの要素があると思う。
 より詳しく分析すると、日本国民一般は消費税の名称が、他国でいう付加価値税(VAT, Value Added Tax)ではないことから、消費にかかる税金だと思っている節がある。しかし実質は企業の値下げ圧力になるので、他国と同じく付加価値にかかっている税であり、負担者は企業なのである。つまり日本の消費税で問題なのは二重課税の論理を使う法の抜け道として、輸出型大企業にはいわば減税措置になってしまっているところであり、「付加価値税」という他国と同じ名称に名を正し、それら輸出企業にもきちんと負担させた場合、企業の収益規模にかかるいわゆる累進課税強化の効果なのである。
 この意味で、山本氏の消費税廃止論は、はっきりいうと俗受けを狙って消費税・付加価値税の本質を捉え損なっている。彼のこの論法、消費税は逆進性を持つとする価値観の流布は、安倍氏の寡頭政治的な大企業癒着の露骨な金権政治よりはましかもしれないが、税制の本筋からいえば大いに世論を惑わせていると私は思う。

 私の意見としては、上述のよう消費税を他国同様に付加価値税と正名し、輸出企業にも負担させ、軽減税率を更に強化して庶民一般の負担を軽くするのが正道ということだ。特に企業数でほぼ100%、従業員数や実需で7割な中小企業を主とする内需経済を強くする、即ちその部分に減税するのが経済政策の善政だろう。いいかえれば輸出企業にも負担させた付加価値税は軽減税率を含む限り、増税しても構わない。なぜなら累進課税だからだ。代わりに消費税を廃止すればよい。
 これまで内部留保税が検討されていた様だったが、この意図も付加価値税の正名で或る程度補える。大企業の方が絶対値の収益が多いからだ。
 内部留保税の合理性は、大企業などが日本的慣行の株式持合いや、投資にすらならない現金等価物等により収益を世の為にならない仕方で貯め込む状態を防げることにある。つまり企業が収益分を投資や株主還元に振り向ける税制からの鼓舞になるわけだ。だからこの点も、企業献金の違法化と共に検討されるべきと思う。

追記:但し、法人税に対し二重課税となるという指摘に対しては、現今の法人税制では企業側が赤字を意図的に作り出す経費扱いの法の抜け道があることから、法人税を撤廃する代わり、課税地点を利益が出た時点の前にずらす(利益に対し、配当か内部留保かいずれもに課税する)内部留保税を新設することで、社会的公益性が高い経済に改良していける筈である。
関連記事:法人税撤廃つき内部留保税案

啓蒙、教化、教育や説教は単一文化のおしつけ

卑しい人に親切にしたり、彼らを相手取るのは完全に過ちだ。なぜならそこには下衆根性しかないからだ。性善な人はつい善意で啓蒙を行いがちになるが、これが全く悪い結果をもたらすばかりというのが卑人への親切の場合だ。
 相手の尊卑を見分けることは善行のため第一に必要な心構えである。卑人は救えない。勿論そこに啓蒙など成立しない。教化や説教も彼らを根本的に、少しも改善しない。寧ろ啓蒙すればするほど彼らは反発し、より悪い結果が出るだろう。
 啓蒙思想家は最大の過ちとして、知性の分化をそれ自体のままにしておこうとせず、自分と似た知能をふやそうとした。この方向は単なる単一文化のおしつけにつながるだけだった。

神道体制とその布教を含む政教一致教育は日本発展にとって第一の阻害要因

文科省の指定する教育とは、従順な納税奴隷を量産する為の、国家神道(日本教)による洗脳である。この枠組みに嵌り、自他を当教育(偏差値教育)に最適化する限り、保守的で現状維持に全力を尽くす社畜、いわゆる典型的労働者が量産されるに過ぎない。彼らは機械的事務作業を上司から命じられる通りに行う論理的能力しかおもに育てられていないので、順次、AIに取ってかわられていく。こうして単なる経済の下部構造だけをみても、神道体制は不適応により時代遅れのものとなっているばかりか、国の発展にとって最大の阻害要因でしかない。
 論ずるまでもなくこの神道体制は天皇と称する教祖が奈良時代に創始した新興宗教団体、すなわち自らを神の子孫とし、崇拝対象に仕立てたカルト信仰を布教する目的で雇われた暴力団(いわゆる大和王朝)を起源とする。この暴力団が現代にまで残存した成れの果てが日本政府に他ならない。
 日本人全般が学校の姿をした神道布教の枠組みに脳内ミームを乗っ取られ、子供を義務教育と名づけられた文科省による国民奴隷化の意図通りに育てさせる様なしつけと同調圧力が、自国を停滞させ退歩させている第一原因である。なぜなら主権者は先ず天皇へ納税する義務はなく、これを行わせている憲法はいずれも不正な政教一致の代物でしかない。次に政府は本来、主権者である国民の公僕に過ぎないから学習指導要領を指定したり教育を義務づける権限はなく、単に家庭教育に物心両面で十分な費用を賄えない者のため代替手段を福祉として行えるだけである。これらを前提とし、日本国民一般が国家神道を中心教義とした日本政府の意図しない発展を怖がったり、寧ろ弾圧を加えたりして社会的不確実さを減らそうとする全体主義は、政府の教育で洗脳済みの神道教徒が自縄自縛に陥って結局、革新の殆どを拒絶している集団自殺行為に違いないのである。

社会人を自称する労働者

愚かな方に標準を合わせようとする限り、永遠に社会は進歩し得ない。
 会社員、公務員、即ち労働者らが社会人と自称するのは、彼らが自文化中心主義的なエゴイストで、自らの生態が社会全体の中心だと思い上がっているからだ。

冤罪の業

小沢氏に冤罪かけた日本人詐欺師の安倍に騙され転落

国政の見通し

「デフレ自慢」という安倍氏の非難に同意する衆愚側は、インフレ(物価高騰)なのに実質賃金も経済成長率もあがっていない現状をよりよい状態とみなしたいのだろうけど、自分達が物価高騰・実質賃金低下の犠牲になる庶民だという自覚がないほど愚かでびっくりする。だからこそ犠牲になるんだろうけど。裏返せば安倍氏は詭弁で衆愚を騙し、消費増税でも輸出企業は無税で済むという抜け道を利用しトヨタなど大企業を優遇、庶民を終身雇用解体で虐げ増税の犠牲にしているわけだ。そして衆愚側はこの暗君に拍手喝采している。一言でいうと安倍氏も衆愚もどちらも愚劣すぎ、公徳が欠けている。
 本来、有徳な政治家なら大多数を占める庶民によい政治を行い、それをそうと理解できる賢衆側も拍手喝采する筈だが、現実は全くそうなっていない。しかし恐らく安倍氏と忖度衆愚の脳内で、この名君と賢民の理想的公が実現しているつもりなのではないだろうか? 客観的にみて三流の国という話だ。
 古代ギリシアやローマ帝国の滅亡直前、無能な指導者が跋扈し衆愚政の様な状態が到来した。令和初期の日本は完全にこれに該当する。
 日本政府が破綻するか、何らかの救世主が現れ政界を刷新するか、どちらかしかない。
 唯一つだけいえるのは、安倍氏という独裁者、自民党という寡頭政党、そして保守衆愚にも何一つ期待はできない。彼らは本気で日本を滅亡に向かわせているし、今後も彼らの最悪政治を次善なり最善と思い込み続けるだろう。なぜなら安倍氏、自民党、衆愚のいずれの人物も公について暗愚だからだ。
 日本政府が破綻した場合、現代ギリシア状態でかなりの混乱が起き、国民の生活もそれなりの危機に瀕するか、さもなければ破綻を先延ばししながら藤巻健史議員が述べている様、ハイパーインフレ(超物価高騰)状態に陥り、国民一般に生活苦が蔓延するだろう。そして政界刷新が起きねばこの方角しかない。

 国民一般がなぜ衆愚化したかだが、自分が見ていた範囲では彼ら日本人一般というのはマスコミ・ネット等のメディアリテラシーが病的に低い。新聞やテレビ、ネットの情報を鵜呑みにして本気で疑問に思っていないのだ。教育の中で、哲学的作文や討論などで批判的思考を育てなかったのが大きな原因らしい。彼らは逆に「和」という同調圧力の全体主義ファシズムを絶対教義とするよう誤った方向の教育でしつけられていて、ほぼ全員が天皇制ファシストの狂信者でしかない。この意味では国民性に日帝時代から特に進歩がないといえる。逆に第二次安倍政権以後は、ますます退行したがっている節すらあった。
 更に不幸なことに同時期に「ゆとり教育」と呼ばれる、ある種の手抜き公教育が行われた結果、若者世代での学力や思考の水準も物凄く低下した。幼稚化がそのまま、和のファシズムと結着し、若者世代の中では「衆愚でなければ人でない」といった最悪の悪徳集団への同調が絶対正義みたいに信じられている。その種の現実をよく観察してきた者としていえるのは、政界刷新の救世主がもし出現するとしても、必ずや年長者から、そして年長者らの支持によるだろうと思う。これは間違いない。若者世代にその種の革命的な救世主は「暗愚な最悪政治(彼らの目には理想状態の保守政治)を覆そうとする悪役」にみえるだろう。だから世代間の戦いが生じる。
 もしこの種の刷新が行われ、安倍氏、自民党という二大腐敗勢力が政界から排除された暁に、日本の未来が明るいかといえば、勿論、そうならないときより明るいが、今度はゆとり世代という巨大な衆愚が内部の爆弾みたいになって、相当ろくでもない国の腐らせ方をする筈だ。ここまでは規定路線と思う。

 自分に見えるのは、
1.安倍独裁・自民寡頭政治下での超物価高騰による国民一般の生活苦、及び政府破綻
2.年長者による国政刷新とゆとり世代一般との啓蒙的な長期戦
この2パターンしか今後の国政はありえないと思う。勿論よりましなのは2だ。山本太郎氏や小沢一郎氏、枝野幸男氏らにできるだろうか。

ソーカル事件の私感

まえピグで或る男(理論物理博士と称していた)が、ソーカル事件はおおごとだ、だから社会科学者は馬鹿だみたいに典型的な科学主義を煽ってきて、自分に『知の欺瞞』まで買わせたんだが、全部を省みてもこの男は古典としてのアリストテレスから何も学んでいないのだなと分かった。先ず厳密性は必ずしも社会科学的ではない。
 次に、文学として衒学のため数学語彙を流用するのは当然ありうる詭弁の範囲だし、正確に使われていても修辞だからそれを「おおごと」とする意味が全くわからなかった。哲学的文章が自然科学的記法をとっていない、なるほど、ただの衒学ジョークだという話で、ジョイスはどうなる? 科学論文もそれを部分として含む哲学的随筆も、単に文章として色々な記法があるし、現時点の流行記法を使っていないから大騒ぎするのが謎だった。数学・物理学の用語を全く違った意味で流用したり、そもそも衒学の為に飾ると、彼は発狂する。そんなことしてたら永遠に芸術は理解できないのではないか?
 恐らく、彼は教育の中で真偽判断できる「命題」を書く記法を絶対教義と考えさせられており、勿論、彼の中では自然科学用語も一種の宗教的観念で彩られており、門外漢がその神聖なるものと彼が信じている用語を流用した時点で、科学教への冒涜になる。だが私には科学は信仰対象ではないからどうでもよかった。

 もう少し詳しく考える。
 先ず哲学的言説は科学を含む。さらにいうと数学は科学の言語であり、科学において数学、特に数理論理学を用いた真偽判断に別の解釈を与え、その道具性を明らかにするのが、後自然学、いわゆる哲学の一つの典型的役割だ。特に倫理に関する善悪判断以外にも美醜、聖俗など幾多の判断要素があり、それらの基準が濃度だったり質だったり観点だったりするので、一律指標で評価しきれない。つまり哲学的言説は科学全体を要素として含む別の判断体系である。
 ここからいうと、ソーカル事件で哲学的言説(ここではポストモダン的言説)風に書かれた文章が、真偽判断に必要な前提条件を踏んでいなかった、いわば数式その他をでたらめに衒学のため使っていたというのは、要はソフィストら詭弁家と変わらない部分を含んでいたといえる。これが有体の理解だ。
 ところでそこで提出された文章が「ポストモダン的言説が科学的に無意味な衒学を含む」と皮肉によって証明する目的で書かれたものなら、我々はこれを一つの哲学的言説とみなせる。
 つまり、私が「で?」「だから何」と感じ、昨日いった理論物理博士の大慌てや社会科学への侮蔑に繋がらなかったのは、彼が信じる類の無矛盾な真偽判断の体系でなければならない必然性は、哲学的言説には必ずしもない、この場合は特にポストモダン言説の詭弁を暴く為なので尚更そうと知っているからだ。いいかえれば、厳密な真偽判断が必要な哲学的考察の場合に、この種の衒学を用いるのは全くお門違いとなるだろうし、当然その様な真偽を明らかにする目的なしに自然科学なり数学的詭弁を弄するのはしばしば露悪的もしくは俗物根性でもあるが、だからといって社会科学全体の非厳密性と関係してはいない。
 もし詩劇の様な言説で、敢えて或る人物に詭弁家を演じさせたり自身が演じたりする時、あるいは俗物根性の塊である或る人柄を示す兆候で、科学的に意味をなさない理科風の表現を使うのは、無論ある範囲だ。文芸や演劇、言語芸術の一切も哲学的言説の批評対象なので、その範畴で非科学的な表現は可能なだけである。社会科学の範囲には物理学等と同程度に厳密さが要求される知識(例えば実証を目的とした統計処理が必要な知識)もあれば、そうでなく多義的で抽象的な内容を扱う知識(例えば文化人類学での民話の扱い)もある。宗教学とか芸術学についても同じことが言える。結局、当物理博士は社会科学の分野にも哲学にも素人なのだ。

  幾つかの「科学者の不正」を調べてみたけど、恐らく私が会話した某物理博士は、この科学倫理と、哲学的諧謔を混同していたのではないか?
 確かに真なるものを厳密に実証する際、衒学や詭弁の類はその信頼性を損なうだけだ。この意味で科学倫理は必要である。
 一方、「哲学者の不正」として偽なる命題とか、そもそも分かりづらさを知的権威を誤認させるため、真偽判断と関係ない科学的命題らしきもの、あるいはお為ごかしの適当で複雑な数式を用いるといった振る舞いは、いわゆる衒学か詭弁になるが、ソーカル事件の場合、これは皮肉な冗談として行われている。つまりここでいう不正さは、真偽、善悪、美醜、聖俗など何らかの判断を行わせる為でなく、露悪の為に行われたので或る意味で正しい使われ方となる。美術でいうデュシャン『泉』が果たしたお高く留まった美術制度への批判的役割と、ソーカル事件の哲学界に果たした役割は相似で、要は制度の批判な訳だ。
 科学倫理について、或る人が誠実に真理の探求を、いかなる悪意や不正もなく行っている証拠づけをとる、この態度がきちんと真理を語る際に必要なのは確かなのだろうが、私はこれにも幾らか疑問がある。先ず不完全性定理と脱構築をあわせみると、或る理論の完全さはそのメタ考察なしには確認できない。いいかえると或る理論の中での科学倫理なる態度は、それ自体が外からの別の命題による検証なしには完全(無矛盾)といえない。即ち、或る理論とそれを裏付けている倫理は、別の理論によってしか確からしさを客観的に主張できないわけだ。これが全科学は仮説(信仰)の体系でしかない本質的理由である。よって、科学倫理は或る信仰集団(学会等)で是とされている態度があるに過ぎず、その信徒らに認められる為に必要な限定的なものである。これがガリレオ裁判の起きた一つの理由だ。STAPをめぐる小保方氏の立場にも、同じことが言えると私は思っている。真理を明かす手続きは信徒の倫理観で千差万別だ。今後ある時点で、現時点で偽とされている或る命題が何らかの点で真だったと明かされる時、それは検証含む或る科学倫理を別の科学倫理によって多少あれ否定した時だともいえる。同じ態度によっては同じ結果しか得られないからだ。
 こういうわけで、私は科学倫理を疑わしく感じており、或る学会や或る仮説検証の態度のみを以て、或る論文の主張を全面的に偽と断定するのは、大いに誤りを含む拙速で愚かな態度だと思っている。具体的に小保方氏を科学倫理の面で糾弾した京大閥や理研の人々は、ガリレオ裁判に何かを学んだのだろうか。
 本当に科学的な態度とは、いかなる真偽を見分けられる命題も反証できるし、だからといって或る時代または信徒の前提となっている科学常識を否定した別の理論によってしかより高次の、または別観点の真理はみいだされない以上、全ての断定を避けることではないだろうか。例えば「STAPは理研等による現時点の特定の再現実験では検証できなかった」とは言えるが、それで即ち「STAPは存在しない」と断定し得ないのは確かであり、そうであれば小保方氏がみつけていた或る現象が別の角度から部分的に真実を含んでいたと認められるのも近い将来、十分ありそうなことと私は思う。小保方氏の博論に画像の無断引用などが含まれていたのは、彼女自身が草稿が誤って掲載されてしまった為と述べているらしいので、科学倫理的にこれ自体が糾弾されるのは解せない。悪意ある匿名ルサンチマン衆愚世論に媚びたマスメディアや、京大iPS細胞閥からの商魂やプライドに基づく不当な非難だ。
 もしよりよい科学上の真理がみつかれば、それがもたらす全く新たな常識や、社会的便益をとりいれより進歩的な理論を採用するのがあるべき科学者の態度なのであり、万が一にも自身のノーベル賞による権威付けだの学閥商売だのを目的に、特定の言論を不当に弾圧したというなら(私個人は、当時検証にあたっていた人達の目的はきっとそうでないと思うが)、これ自体が科学倫理に悖るといえる。即ちSTAP現象が未来永劫、存在しない偽の理論だというはっきりした証拠がない限り、いやもしそれがあってもだが、別の理論によってしか既存の理論の誤りは修正されない以上、STAP現象を主張している小保方氏や当時の理研のチームを京大閥が叩いていた風だったのは、第三者として全く穏当ではなかった。
 そして「倫理」は、科学理論にとって必要条件では全然ない。手続きが不埒かつ滅茶苦茶でも真なのがはっきりした命題をみいだしていれば、それは科学的真だからだ。ただその理論の確からしさを検証するのが困難だ、ゆえに反証テストを繰り返し耐え抜いた信頼性も乏しいというだけだ。
 話を戻すと、ソーカル事件は雑誌『ソーシャル・テクスト』が数学・物理学の専門用語をでたらめに衒学・詭弁として使った論文をまじめに掲載したのが「哲学倫理」に悖るかの議論を引き起こした点で、意義深かったのであり、それが即ち「或る科学倫理への冒涜だ」とは到底いえない。
 そもそも科学(1は、それらを包含する「知恵を友愛する」(2ことなしに確からしさを検証できない。

(1 ラテン語scire(知る)→現在分詞sciens→派生語scientiaを経由した英語名詞scienceの和訳で、原義は「知」「知識」
(2 哲学はギリシア語philosophiaの和訳。philos(友愛する)+sophos(知恵)

これは「知恵の友愛」を和訳した哲学なるものが、全知識(全科学)を含む概念ということなので、或る数学・物理学用語を真偽判断の厳密な用法で使うのが必要なのは、或る言説が科学的真を主張したい時に限られる。つまりここで非難されるべきなのは「衒学」や「詭弁」であり、社会科学や哲学ではない。
 ケインズが『一般理論』で述べていたが、経済学でも日常語で説明可能な部分にわざわざ数式を使って複雑めかすのは無意味だ。即ち、オッカムの剃刀と同じ意味で、或る主張に専門的な数学・物理学用語を不必要に使うのは、ほぼ真偽不明で誰にも理解されえない言説を加え、自身の理論を権威付けする為だ。
 この種の衒学を「科学主義的衒学」、また数学や科学の言葉を詭弁に用いるのを「科学主義的詭弁」と私はここで仮名する。これらは当の物理博士が社会科学や哲学の科学倫理に悖る流行または不信の根拠と考えたのと違って、単なる自然科学や数学の内部でも頻繁に見られる衒学・詭弁の手法でもある。

 結論をいえば、数学や科学はできるだけ最小で最も簡単な要素から或る真の命題を導かねばならず、不必要な部分が最小であればあるほどその理論の価値は高い。なぜならこれらは検証不能な部分をなくすことが反証テストに耐えやすくする十分条件だからだ。一方、哲学は反証性を含むので冗長でも構わない。

こびと

さあ殺せ
ここには何もない
私の中身も空なのだから
お前が殺したい相手などいないのだ
お前の殺したい労働者などいない
お前の殺したい金持ちなどいない
単にお前は憎しみに駆られた悪党
死に場を探している浪人
だからお前は挙句に誰もを傷つけ
やがて自分自身をも殺すだろう
月の冷たい光のもと
人っ子一人いない夜の中
お前は震えている
小さな島国に生まれたこびと

2019年6月19日

飛翔

飛翔
2019年
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見たこともない朝

もうだれも必要ない世界は
徐々に消えていく
だれもいない
だれも必要ない
少しでも手を伸ばし
辺りにいない
だれからも見捨てられた
忘れられていくだけの夜をつくりなおし
いたずらに過ぎ去る
時の濁流は壊れる
壊れる
見たこともない朝が
私を押し流す
見たこともないまばゆい光の奔流と共に

梅の枝

梅の枝切ると理想の庭になり
夏の香と蚊取線香つける宵
水草の隙間で日向ぼこ目高
窓一面緑で満ちしサンルーム
すぎさりし日々の音楽われを生む

全く無意味

だれに頼ることもなく
無限の空のどこかで死に絶える
だからお前は孤独だという
だからお前は死にたいという
全く無意味
お前の存在などだれも気にしていない
一つでもこの世で成したことをいえ
お前がやっていたのは真似事
お前がやっていたのは猿と変わらない
自殺未遂
お前がやっていたのは他人の搾取
嫌がらせ
要はお前は生きても死んでも
単に邪魔なのだ

知的設計者

僕は誰もいない世界の中で
たった一人で全てを見ていた
やがて光さえとけ
辺りは宇宙より真っ暗になった
それから時の奥底で
なにも見つからず呆れ果て
だれの落としたかもわからない
小さな夢を追いかけていた
つぎつぎ変わりゆく星屑は
一つ残らず虚構になり
消えてしまうだけの都市を
さも僕が設計したみたいだった
やがて魔法までとけ
辺りは雪化粧で覆われてしまった

汚れ

水が汚れているほど魚が多い。汚ない都会ほど人が多い。

2019年6月18日

上品さ

上品さとは本能、特に性衝動(libido)を否定する度合いで、それは遺伝子の利己性に逆らって、文明社会へ利他行為をする癖の強化度である。諸宗教、諸道徳は或る意味、人々にこの利他的な行動系列を躾ける為の装置だった。

悪しきものは消え去っていく

差別していた人達は消えて行った、悪意のままに生きようとしていた人達は跡形もない。大都市は滅び、あとには何も残らなかった。だから今日も人々の悪意に少しも従うべきではない。彼らは目先の損得勘定でその日暮らしに躍起だが、次の瞬間、この世から転落し消えて行くのだ。

2019年6月17日

下賎な人々

下賎な人々は下賎であることを進んで選びとり、それを喜んでいる。彼らにとって高貴なるものは異物であるばかりか非難の対象である。

嫌な人

嫌な人からはなるだけ早く遠ざかり、不快な記憶を思い出す脳内回路をできるだけ弱めるしかない。相手が自分に害があり、災いを為す存在であればあるほど一刻も早く、その様な人との縁を截然と切るべきだ。

仲間ができる訳

話しただけで吐き気がする様な相手は、当人の気づかない悪徳の塊だからそうなのだ。たとえ相手とウェブ上で抽出的なチャットをしただけでも、あまりに相手の悪徳ぶりがひどいとまるで毒を盛られているかの如く、嘔吐感がとれなくなることがある。簡単にいえば気持ち悪いのだが、それが極端なとき穢れると感じる。
 相手の俗悪ぶりが甚だしいと、相手が同じ種類の人間だと感じられない。もし人権、特に自然権という概念が、もしくは人格主義や博愛、人間愛といった考え方の数々が我々に相手を尊重させようとも、己の徳と相手のそれの落差が激しいほど、やりとりは困難になる。こうして仲間が分かれる。
 ある仲間は共通の考え方、特に道徳観の共通度に基づいてできている、といってよい。これが我々に気の合う相手とそうでない相手がいる訳で、特に語族や職業集団、政党、会社、学校などの組織、そしてある程度の共通生態による地域、民族、国ができあがる最初の原因である。既に児童の段階でこの種の仲間分けが観察できる。
 普遍性をもつアガペーで人類愛を説いたり、全生物への慈悲を信じる集団では相手が利己的なことは悪徳の一種だが、現実の生命体は遺伝子の利己性、本能で部分的にしか利他行動を躾けられない。これゆえ人も他の生物を捕食し、なんらかの手立てで他の個体を利用して生きている。だが文明化とは総じて利他の体系で、互恵的利他行動や相利性を超え、外部経済を高度化する様な集団の傾向だ。一般に日本の俗人は中華思想に囚われ都市化と文明化を混同しているが、これは基本的に誤りだ。その集団がいかに合理的な利他性を発達させているかが、本質的な文明の質といえる。
 福沢諭吉は『文明論之概略』で智徳なる用語で文明化を分析した。一方、究極的にはそこでいう知識と道徳のうち、知識は或る道徳の部分であり、全知識は道徳に含まれる。道徳自体も知識だが、それは自然と社会の両方の知識(いわゆる科学)をまとめ合わせながら、倫理に応用した考えとして生まれる人為である。なぜ他人と道徳に差がつくかといえば、この総合に量や質の差があるからだ。つまり、ある人が身につけている学術の程度や種類間の共通部分の多寡が仲間づくりの根本原因であり、また或る文明が生まれる訳である。
 ある集団の多様性についての考え方、いわゆる寛容さも、ある文化素として徳の一部になっている。また低俗さに高尚さより親しみを感じるという大衆文化の傾向も、ある人がもつ癖に由来していて、いわば躾の結果である。未知の事柄へ好奇心をもつ知能の働きを拒むか、励ますかにより、ある個人が生涯で学習できる情報の総量は大幅に異なるだろう。

失敗要素

卑しい人と同じ行いをすればほぼ全く同じ人間になるだろう。下賎の者が親しんでいる対象や、彼らの仲間、生態を観察すれば、数多の失敗要素が抽出できるだろう。

2019年6月16日

真理

真理
2019年
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共食いの文明

「私はあなたより金持ちです、だから私はあなたより偉いのです」と新自由主義者がいう。「ですからあなたは死すべきです」
「もしそうなら、なぜあなたは常に金を追いかけているのですか?」と私は尋ねる。
「それは」と彼は答える。「あなたを貪る為です」
 大分ときがたってみると、その男はしじまの闇に融け、跡形も無くなっていた。代わりに無限の夜がきた。辺りに燃え広がっていたあらゆる業火が消え去ってみると、もはや全員が金を追いかけていた文明があったことさえ、全宇宙から忘れ去られてしまった。

世界線の抽象

世界線の抽象
2019年
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あいちトリエンナーレ2019の展示企画は男女比の配分的不公平かつ性差を誤った意味で用いている

結果を完全平等にしようとする考え方は、根本的に配分的正義を理解していない誤りだ。人は能力差があるが故に発展してきたのだから、そこで生じた不公平は或る程度の範囲で調整的正義によって矯正されるが、結果の完全平等は決して望ましいものではない。
 この観点から「あいちトリエンナーレ2019」の展示企画は配分・調整の両正義を正しく理解していない代物であり、男女比を意図的に1:1にすることは却って不公平でしかない。
 また同じく「性差」即ちgenderは社会学用語として社会的性差(男らしさ、女らしさといった或る文化からきた紋切り型等)の意味であり、これを性別の男女比1:1にするという文脈にあてはめて使うのは単なる無知もしくは誤導でしかない。

拝金道徳

商売人は金を儲けて偉いという
だからお前も真似ろという
実際そうした結果
お前は極貧におとされる

商売人のさが

金を儲けて支配者面
じゃあお前は王族気取りの成金で
奴隷制を再現したいだけじゃないか
寄付をしても偽善者

信者

お前はお前が優れた存在だと
お前はお前が偉大な労働者だと
お前はお前が普通で
誰からも非難されない曖昧な国民で
一般人であれば善悪などどうでもいいと
とかく周りに同調し
天皇陛下万歳といいつつ納税し
あるいは会社と学校に通わされていれば
全てうまくいくと洗脳された
そしてお前の考えに反する人を差別し
自分は邪教に染まっていないと
自分こそ当たり前だと思い込もうとした
結果お前は社畜だか匿名のろくでなし
勿論成功など覚束ない三流の下衆になった

承認奴隷

承認欲求の奴隷、SNSユーザー。会社の利益の為に自己顕示。

語族が分かれる理由

なぜ人は異なる言語を話すのか。異なる集団に分かれた方が生き残る確率が上がったから。

2019年6月15日

日本国内の労働者一般が匿名なのは彼らが奴隷階級だから

日本国内の労働者は会社の奴隷で、しかも当人は不徳な下衆との自覚があるので、SNS上で迂闊に実名や顔を表せない。この自身の悪徳ぶりに無自覚なのがバイトテロと呼ばれる素の自分を表してしまう労働者である。これらは労働者一般がいわば下流階級で、当人達には社会的自由や尊厳がない、会社に自分を売り渡した存在と示している。

相対主義は自堕落のいいかえ

相対主義(道徳相対主義)は、善悪の判断を放棄した人が最初に縋る地獄への片道切符であり、本居宣長以来のもののあわれ論もこの類型でしかなかった。彼は本質的にソフィストと同じ詭弁をいいかえていただけだ。
 今日の一般大衆が多数派を根拠に善悪の判断を放棄し、相対主義に耽るのは単に、哲学を他人に任せ、前轍を踏む過ちでしかない。

フォロワー数は幸や徳と関係ない

卑しい人に評価されようとすると、人は人生そのものを間違えるものだ。だから多数のフォロワーがいるインフルエンサーと称するネット芸人なども、単に俗悪なだけで悪徳の塊というのが現実であり、賢者一般と同じく、少数者にしか評価されていない人の方が幸福だったり、その原因として高徳だったりする。勿論、単に不人気だから高徳とはいえないにせよ。
 それどころか影響力の面でも、理解者の数が少ない方が強く広い影響を伴うことは当然ありうる。影響力の質の方がその短期間の量より根本的に、普遍性を伴っているからだ。

日本愚民

群れながら疑わしきを罰す衆愚国
貴族なき中世未満の日本愚民
皇族に万歳しながらかね貪る
労働を正当化しつつゲームする
匿名でネットで悪行三昧す
群れながら集団虐めの日本愚民
会社員崇めすし詰め電車かな
学歴で人を差別の労働者
中国が強けりゃ土下座する愚民
弱い者虐め強者に媚びる愚民
商人を崇め貧しき愚民かな
忖度し悪政招来愚民かな
自民党崇め収奪される愚民
官僚を崇め収奪される愚民
都会崇め田舎差別の愚民かな
商人になって忙殺される愚民
ニート差別己は忙殺される愚民
金に弱く朝三暮四の愚民かな

啓蒙の不可能さ

啓蒙の不可能さはニック・ランドによる『暗黒啓蒙』という名のブログ記事に由来した当の新語の中にも、部分的に含まれる要素だ。だがそこでいわれるのは啓蒙自体が自由至上主義と違和するという、個人の知性への放任的態度であり、私の見る啓蒙の根本的不可能さとは部分的に重なりつつ全く同じ洞察ではない。

 啓蒙は実際には或る新たな思想への洗脳的態度である。これを一般に教育(英語でいうeducation)と呼んでいる。今日の教育は啓蒙主義の高踏的態度を前提に、或る知識をおしつける。だが生徒は無知の侭に留まりたいかもしれないし、そもそもこの有知の立場が多少あれ間違っていることが殆どである。つまり啓蒙主義とは中世フランスで新興市民が旧体制を知識面で圧倒する準備づけではあったが、それを超え教育として一般化されると大いに矛盾を含んだ作為である。
 さらに知のしくみを分析すると、或る有知は自らの分かる範囲でしかそうと認められない。つまり或る人の既成知識との類比でのみ、ある知識が正しいと判定される。だから自らの知識がいかに膨大で精確でも、そこから遠い有知さは、一般に正誤を判定できない。啓蒙とはいいかえれば小さな枠の中から別の枠の小ささを指摘する様なもので、元々この作為は知識という枠がもっている有限さを解消できない。啓蒙にはこの意味で、自分と違う知識体系をもつ人を自らのそれに近づける効果しか期待できない。

 以上の観点から、暗黒啓蒙の語が含む、曖昧な自由至上主義らしさはその本質に、
1.教育の洗脳性
2.啓蒙は自分と似た考えを伝えるだけ
という2つの論点を含んでいる。
 対して私のいう啓蒙の不可能さは、倫理学説(通俗的にいう「べき論」)の立場から幾つかの興味深い論点をもたらす。そのうち一つは自由との関係、もう一つは公教育の功罪である。さらに科学教育を行う正当性も疑義され、フランシス・フクヤマ流の自由民主主義イデオロギーの勝利宣言も否定される。もっと根本的には、脳が認知する賢愚はただの偏見の一つと分かるので、知的障害など精神障害の分類は単なる社会的差別と論証される。宗教戦争や、リチャード・ドーキンスの様な無神論者の遅れてきた啓蒙主義も、単なる一つの偏見を他におしつけたがっている認知的錯誤からきた、啓蒙の不可能さに悟らない態度である。この地平では科学主義も資本主義も各々一つの宗教に過ぎないし、当然それらを他人にしつけるべき根拠はない。

尊卑は癖の差から生まれる

卑しい人との関わりは僅かでも大きな損害をもたらす。逆に尊い人との関わりは僅かでも大きな福徳をもたらす。これらは両者がもつ諸々の徳が対極的だからで、常々人が親しんでいる人と、或る人の癖や習慣は無意識の模倣で似てくる。
 貴人が一般大衆と違うところは甚だ多く、両者は本質で混じり合わない。逆に卑人は進んで俗衆に慣れ親しみ、それを恥もしないばかりか誇りにさえ思っている。これらは彼らの徳に大差がある為だ。
 卑人は悪徳を自覚なしに身につけている。また貴人はこれと逆によい習慣を無意識にしつけている。普段から彼らの業は正反対だから、徐々に隔たりは大きくなり、やがて全く異なる生態になる。こうして世に貴賎とみなされる極端な人間性の違いが現れる。身分制度はフランス革命以後、ただの封建秩序に矮小化されがちだが、その世襲による名実の乖離が起きる以前、はじまりはおそらくただの個々人の癖の差だった。
 ゴータマは行いにより貴賎が現れるといった。生まれや身分は貴賎を分ける決定要因ではない。当然ながら、貧富と貴賎は異なる。また賢愚も貴賎そのものではない。人はより尊い徳に見習ってより優れた生き方に達するのであり、単に職業分化の最初の原因にも徳の差がある。一般に貴さは希少性を伴い、代えがきかない上に公益性が高い生業はより貴いものと見なされる。人権平等とは別の点で、或る文化圏でより貴い職業は名誉、地位、報酬などなんらかの点で厚遇される。すなわち或る人は職業選択に際し、自らの徳に応じた生業を好む。
 我々はより徳の高い生業に就くべく学ぶ。だから勉強とは自らの癖との闘いなのだ。最後に或る人は自分を知り、いずれかの職業を否応なしに選び取るが、それは以前に彼らの行ってきた学習成果でもある。
 卑しさにそうと気づける人は、既に尊さの一部を達している。

賎貨思想は政治の一般的徳

賎貨思想は金権政治(金と権力の癒着)による腐敗を防ぐので、善政の一般徳である。単独支配、少数支配、多数支配のどの場合でも、また商業化が進んだ集団でも事情は同じである。
 ある個人が商業を政治と混同している時その人は政商といわれ、彼らは政治の調整的機能(矯正的、調整的正義。所得再分配や法廷での被害者救済など)を無効化し、仮に公害でも自らの金儲けに有利な方へ権力を歪めて使いたがる。
 商業を生業にする人々が多数派を占める集団では、政治と商業はたやすく混同され、彼らは町人倫理や拝金主義といった商業活動を合理化する信仰のまま政界進出し少数派の公益を踏み躙ったりする。富者支配では時に、富者らが寡頭政治を伴って貧者へ自己責任論をおしつけ弱肉強食を正当化し始める。また単独支配者が金権政治の傾向を伴うと彼らは贅沢三昧に耽り、民衆の困窮を省みない。これらを原因とし、政治を教える文脈内で賎貨思想が私利を超えた公的判断に必要とされてきた。
 労働や蓄財の正当化は商人の本質的な純粋生産性のなさ、つまり農工業的な生産物をうみださない虚業の性質を自尊心その他で上書きする為のものだ。彼らはしばしばこれを自由主義(市場放任を原則とする経済思想)や資本主義(今日では主に株式市場を是とする考え)と混同する。いいかえると商人の信仰体系は政治的公徳とややもすると矛盾する。上述のよう公職にある者が商業道徳で行動すると公私混同を起こし、公害を必然に伴う。

 今日の日本で多数派を占める商人が政治に自らの金儲けを手伝わせようとする傾向は、商人一般の金権政治とみなせる。特に安倍晋三首相がアベノミクスと自称した経済政策は、日本株の株主らに好都合だが国民の過半に不都合な格差拡大政策を飲ませようという公的悪意によっていた。この考えが日銀や年金機構による企業国有化、量的緩和と称するゼロ以下金利政策で市中の円の総量を水増しする為替操作や、果ては内閣が直接賃上げ要求を各企業に行うなど市場介入の数々、公然たる公民混同につながり、いわゆる自民党安倍政権の国家社会主義政策全般をもたらした。実際彼は典型的な国社主義だった明治政府を理想視さえしている。
 既に述べたよう政治の役割は調整であり、市場の配分機能で必然に生じる格差拡大を強化することではない。この意味で安倍独裁は長期に渡った腐敗政治に他ならず、商人の一部が懐手を肥やしたがゆえ賞賛していたとしても、それは公金を私利に流用した悪徳政商の戯言にすぎない。
 一刻も早く安倍独裁を打破し、不利な立場の少数派や貧民を救うのに公金を振り向けることを善政というのだし、同時に国政の市場壊乱を自主規制し、大手電力会社による公害防止(外部不経済の内部化)であるところの原発再稼働禁止や廃炉の命を政府の責任で行うのが公共の義務だ。元々自民党員総勢や経産省の一部官僚が原発公害を推進しているのは彼らが金権政治を伴う腐敗政治勢力だからでしかない。彼らは大手電力会社共々、国民への公害と引き換えに、少数商人の金儲けを優先し原発を推進してきたのだが、同時に危機管理や将来予測を見誤り、事故後または廃炉後の大きな処理費用で負担を先送りし目先の小利に耽っていた三文政商でしかなかったのだ。

人づき合い

最高の幸も、最低の不幸も人がもたらすものなら、我々の人生で最重要な要素は、つきあう人を択ぶ修行だ。俗人を近づけながら幸など永遠に到達しえないし、聖人を退けながら不幸にならない筈もない。
 人は徳に応じて幸を得る。人づき合いにあっても同じである。

俗悪さ

俗悪なものは微量でも人を激しく汚染する。だからそういうものに近寄らないのが何より重要だ。この世で堕落しきった下品が存在するのは、彼らが無意識に、微量でも人を汚す俗悪なものをたっぷり染み込ませているからだ。
 我々はあまりに下品なものをみると吐き気を催すが、それは彼らのもっている悪徳をもし自分が有していたら、甚だ人生に不愉快だろうと想像がつくからだ。

悪人

悪人を救うべきではない。特に、根っからの悪人を救うのは自他に害がある。これは業を改竄しようとするのは因果の本質に逆らうからだ。

よしあし

よしあしをこえてむかでを庭に捨つ
我が愛す人に捧げる夜半

2019年6月14日

文化素の定義

文化素(ミーム)は環境と遺伝子の相互作用で生じる。

主に救貧を行う緊縮財政で国家社会主義の自公体制を脱却し、公民両部門を分離した資本主義経済を回復せよ

枝野幸男氏は「比例区で一本化は迷惑だ」発言して、野党の共闘を拒否して威張ってたのに、参院選は一本化するといっている。矛盾してない? まあ矛盾した方が国民全体に及ぼす結果は当然いいんだろうけど、迷惑発言は撤回してるの? もしもう迷惑だ発言は撤回したならしたで、枝野氏は「あれは間違いだった」とか「私の不徳のいたす所で国民の皆様に誤解を招いた」くらいいうべきじゃね。私も含めてものすごく迷惑こうむったんだが。立憲狂信者みたいな人達がどんどんよってたかってきて一本化は邪悪だダメ、とか誹謗されまくった。
 どう考えても 立憲>国民全体の総意 という政策判断はおかしいわけで、それは寡頭政治であって今の自民党がやってる少数意見無視の悪政と変わらないのだから、やっぱり一本化に合意するしかなかったわけだ、枝野氏は。小沢一郎氏がいっていた「枝野氏を信じて待つ」が完全に正しかったと。

 私が日本政界みてきたかぎり、やっぱり公徳の面で最も高い人物は、小沢氏だよ。今回もそうだった。枝野氏が第二党の党首になっているのはおかしいんだよ、その点で。宮内庁と都内マスコミの卑しい扇動で、小沢氏を悪党扱いしている衆愚が一番悪い。小沢氏より枝野氏の方が判断ミスがすごく多い。
 思うに、枝野氏は国民世論という名の差別的偏見に媚を売る様な観点から、政権交代文化の定着をめざす小沢氏を、自身の絶対権力への脅威とみていて、小沢氏が国民民主党員の座におさまったのを見計らって保身に問題がないと考え一本化にGOサインだしたのでしょ? すなわち枝野氏は彼という党首の利のため一本化合意に転向した。公のため韓信の股潜りを素で履行してる小沢氏に対して、枝野氏の小競り合い的発想の小ささというのはもうはっきりしていることだから、今後もことあるごとに彼らの鴻鵠ぶり、燕雀ぶりは対比される。が、衆愚側は寧ろ枝野氏の小市民ぶりに同調しようと、みみっちいことを言うに違いない。

 山本太郎氏は公約に「公務員の増員」というのを掲げている。そして彼は財政支出を拡大するつもりだと新聞に載っていた。財政赤字が累積しているのに国家社会主義化を更に推進するといっている男に1億6000万も個人で寄付する愚民の方も、まあ巨視経済が全然みえてないのではないか。愚民には期待できない。

 勿論、自公の悪政は語るに落ちるものだから今更私が指摘する必要は全くないと思うが、現時点の日本政府は財政赤字の解消と、物価高騰+賃金抑制でのスタフレに悩む状況を同時的課題に抱え、自公の愚鈍さでは一歩も前進できない。違憲立法や米国へ売国政策を連打中の安倍独裁打破は最低でも必須だ。
 が、この後に山本氏のいうケインズ政策的方向に進むと、巨視経済はますます泥沼にはまるのであって、いわゆるMMT論者と同轍を踏むわけだ。この点で国民民主、立憲の両党が然るべき議席数をとって緊縮財政路線(但し社民・共産と組んで社会保障は怠らない)に進まない限り、普通に財政破綻するでしょう。正確に言うと財政破綻の先延ばしによる、長期インフレまたは忍び寄るハイパーインフレで物価が高騰し続け、庶民は生活に苦しみ続けるが、政府は赤字国債の発行を拡大して日本円での経済が破滅的な状態になる。具体的には500円くらいの牛丼が2000円とか3000円になって全く売れないみたいな。
 政府が量的緩和するとは市中のかねの総量をふやすことで、日銀がゼロ・マイナス金利で各銀行が預金を自ら企業に投資する必要性を喚起したり、政府自身が国債による資金調達で国民の預金を財政支出に回すことをさしている。この結果、GDPは少し上向いた様に見えたが不正統計だらけでもう確かめえない。この路線の最終段階が、日銀が企業国有化を進めてしまうという現状で、名目共に国家社会主義の日本が完成した。だがアベノミクス扇動者らは「株での自分の浮利」ほしさにこの路線を思いっきり煽っていた。資本主義市場、つまり政府部門と民間部門の分離の旨からいえば完全に間違った路線だったのだが。
 現時点の日本経済は、約半分が国有化部門なので、業績がどれほど悪化しても主要大企業が潰れない。これを或る無学な労働者は「失業者が少ない」よい状態だといっていた。完全に国家社会主義国の発想だ。結果は、ジリ貧になっていくだけで、他国のより効率的企業に次々駆逐され、最後に過半の会社が潰れる。
 若い世代で安倍政権の支持率が高い理由は次の様なものだ。彼らはゆとり世代に該当し学問の水準が低い。国家社会主義と自由主義の違いなど到底理解が及ばない。そのうえ政治学にも疎く、公益より己の目先の損得を優先する動物的下民である。故に国家社会主義独裁が失業者を減らしているから肯定する。自国経済の全体が他国のそれに収益面で敗北し続け、各会社を含む自国全体が潰れればなんの意味もないのだが。
 中長期的にみるまでもなく、まあ数年後くらいに既にアベノミクス敗残は全世界の目に明らかとなるのであって、最後の徒花として東京賄賂五輪の打ち上げ花火をし地獄へ転落となるだろう。これは規定路線だ。「計画経済は不可能」とハイエクが言っていた理由を、安倍氏は何も学ばなかったのだ。

 維新の藤巻健史氏が唯一、緊縮財政路線で財政収支を整えるのが当然という点では正論を述べているが、超少数派で、議員連中は誰も巨視経済を理解していないのだ。ただ彼も金融関係者らしく、自己責任論で救貧をも削ろうとする。オバマケアより悪辣な生活保護・障害年金きりすての現状、この点は時代錯誤だ。

 今後この国の政府がやるべきことは、民間部門と政府部門をできるだけ切り離していく、民間委託の方針であって、かつ必要十分な社会保障は行いつつも赤字国債の累積に傾きすぎた財政支出を切り詰めていくという当然の作業である。この方針を明白に打ち出している政党は1つもない。民度が低いのだ。
 日銀が量的緩和という抽象概念でやったことは、実質、企業国有化だといえるので、この日銀総裁の方針もMMT論者の甘言に知ってかしらずか同調的である。即ち日銀保有分の日経ETFは市場に放出しなければならない、しかもできるだけ早く。それが資本主義の市場効率性を信頼するということで、当然の話だ。
「悪夢」としての第二次安倍政権は、一刻も早く過ぎ去ることを希望する。なぜ彼が出現したかといえば、衆愚のせいである。衆愚は自らの不徳と無学の故に、自らに降りかかる災いの悪政を招いた。御用学者に堕してまで売名で金儲けするのを潔しとしなかった良識的知識人は最大限、啓蒙していた筈だ。だが衆愚の悪意の方が多数派として今日の没落を招いたのだ。

畳踏む足の感触も涼し

正道

正しい道を隈なく辿ることが重要で、志を異にする他人の戯言はこの為には全く役立たないばかりか災いを為す。親も兄弟姉妹も、教師も親友も恋人も、家族も親族も、全くこの点では信用に足らない。親身になってくれる人の方が信用が置ける、と考える限り、人は彼らが想像するのと似た行動になるだけだからだ。無論、第三者や他人だからといって信用できる筈もない。
 ただ道の正誤に照らし、己の良心に基づいて進路を自ら決断せねばならない。

関西の笑い

関西人のいう面白さとは下品さのことである。

卑しい人柄はつきあうほど不幸を持ってくる

卑しい人とつきあって幸せになろうとするのは、山でイルカを探すくらい難しい。愚かさは学習で少しは補えるが、人柄の卑しさは先ず直し様がない。しかも意図的に他人へ害を為すのは卑しさの方である。

愛知のあきんど

お前は商売はどれも等しいという
なぜならお前は石田梅岩に洗脳され
愛知で生まれ死ぬあきんどだから
金儲けならなんでもいい?
お前は金儲けが卑しいと知らない
無償で世の為働くのが当然なのに
お前は自分の金欲しさに行動する
資本主義を建前に下衆根性で
人を貪って平等だとほざく
貧しい他人を搾取しながら
労働者はみな平等とのたまい
結局貧富を広げて居直る
皇室や資本家に洗脳され
多数派ごっこで悪業している

労働主義は拝金主義を補う奴隷精神のいいかえ

町人倫理と労働主義は同じくらい卑しい考えだ。それらは拝金主義を別の言い方にかえ自己正当化するものでしかない。なぜなら資本主義自体に含まれる搾取罪や、取引時の情報の非対称性を使った付加価値の収奪、すなわち不等価交換、公害や格差拡大とその固定化などあらゆる負の側面になんの自己批判もしていないからだ。
 労働主義は他人を貪るつもりで貪られる自滅的思想だが、この信仰で政府と皇室に洗脳されきっている労働者が、日本国内でいかに多いことか。労働主義は内的に資本主義を正当化しているが、町人倫理を延長させた奴隷根性を再現し、資本主義の封建的体制を却って強化する。

労働罪

東京で毎日満員電車に詰め込まれ
インターネット上で差別をまきちらす
勿論匿名で悪意で
なるほど労働者のお前はなんなのだ
人間の屑それとも
お前はずっと自分が勝ち組だと
正社員になれれば生涯安泰だと
無職ニートだと賢者を侮辱していた
そして奴隷になり
社畜として自由を奪われた
楽しいか
苦しいか
今日も明日も起きたら仕事
勿論死ぬまでお前に与えられた罰だ

謙虚と驕慢

人は成長中は謙虚だが、衰退が始まると驕り高ぶる。或る都市住民も同じである。

日本礼賛者は没落の兆候

あれだけ大量に湧いていた日本すごい系の自画自賛キャラって、本当に薄気味悪かったにせよ最近殆どみなくなったが、結果からいうと没落期にわいてくる系統だったらしい。多分、現実でも彼らはそうしていて、現実逃避の為に嘘をつく種類の人達がいるということだ。今後、この経験則は人生で活かす。
 日本すごい系の人達をカテゴライズする概念は今思いつかないが、ネット右翼といわれていた人達の一部と重なってる。しかし彼らが湧いていた時期というのは、ソニーがアップルどころかサムスン、ファーウェイにもスマホ市場で負けまくった様な時期に該当し、はっきりいうと旧日本企業凋落の期間だった。戦中に「日帝大勝利」といって敗戦続きの現実から目を背けていた人達と、日本すごい系の人達は全く同じ種族で、戦後も相似行動をとった。確証バイアスの糊塗を科学的・批判的思考より優先した。この種の人達というのは遺伝か文化かは不明だが、仲間にしない方が賢明だ。大失敗の原因なのだから。
 高度成長期の世論は、恐らくだが「日本はまだまだ」みたいな逆に謙虚な自己批判的論調があったのかもしれない。誰かが戦後知識人は日本批判するほど偉い、という雰囲気があったと述べていた。がその雰囲気は、第二次安倍政権が成立後完全に失われ、知識人がほぼ死滅した。自称文化人の商人だけ残った。安倍以後の文化人と称する人達の実態はネット芸人で、ほぼ御用学者か、ネット商材とか一般人向けの心理学っぽい通俗科学本とか、講演で食う類のえせ知識人であって、ほぼ尊敬に値しない。ツイッター芸人の類も同じで、まあ金儲けしてるだけだ。
 知識人は社会世論に批判的で、当然、政府には外部から第三者として警告や長期的大局観により指導的役割を果たすと、福沢『文明論之概略』で定義されている。こういう人は、私の思いあがりでなければ日本で私しか知らない。ほかの人らはただひたすら高踏的商人だから、私は国内言論人で尊敬する人いない。
 東洋の学者の系譜でいうと、諸子百家あたりから読書人は政治哲学者を最高峰とする。日本もその伝統が多少あれ影響し、少なくとも古代の歌人くらいから始まって民主主義を再獲得しなおすものとかいってた丸山眞男くらいまで繋がってる。現時点で日本すごい批判がなかったのは、批評水準が低いのだ。
 日本すごい系テレビ番組が席巻したのは、自民党ネットサポーターズクラブのネット右翼醸成、2ch等でのネット工作が下敷きになり、安倍氏が直接、テレビ局や新聞社に圧力をかけ始めたくらいからめだってきた傾向だった。報道自由度も50位以下とかおちぶれていった。要は独裁者のファシズムだった。あの期間、御用学者と呼ばれる東大だの早慶だのの学歴をもつ中途半端なえせ文化人がどんどん政権に擦り寄って、忖度に継ぐ追従で金儲け三昧していた。私はそれを眺めながら、なんて卑しい連中だろうと心から軽蔑していたが、当人らは朝まで生テレビだのニコ生の正月放送だので威張り尽くしていた。
 日本株に投資しているという関西人のがきんちょが、自分に「またアベノミクスやってくださいよ」とか煽ってきたこともあった。要するに自分の金儲けの為だけに安倍氏をもちあげている、本当に見たこともない様な下衆が全力で調子に乗っていた時期だった。しょぼいバブル期で、弱肉強食を礼賛していた。

 日本すごい系の人達とはなんだったのか? 一言でいえば衆愚だが、どんな衆愚だったか。彼らは媚びてくる愚者といった類の人格で、奸臣であり、現実の日本はどんどん衰退していても自惚れに有利な証拠ばかりを、統計局の三文官僚に不正させながら集めていった。赤点を満点扱いしていた。
 一般論化すると、賢民と愚民がおり、日本すごい系の人達は愚民だった。そして愚民を味方につけた安倍政権は長期化したが、それは小沢一郎氏の言葉を借りれば「悪夢」の延長だった。衆愚政治の時期でもあった。
 偏りすぎれば揺り戻しがくる。それもより大きな反動が。
 延々と日本が衆愚化し、衰退し続けるといった流れには恐らくならないだろう。少なくとも私がみている範囲では、明らかに自分のかね欲しさだけのために株式市場にいまだに公金を注入してほしがっていた品性下劣な最下等の人間1人、2人くらいしか、安倍政権なる独裁政権を支持している人はいなかった。
 今後、安倍政権が倒れてからは知性の復権が興り、これまでテレビやネット芸人としてうまくやっていた連中はほぼ表舞台から姿を消し、忘れ去られるだろう。明らかに俗受け狙いで質の低いことばかりしていたのは誰もが見ていたのだから。一時的な退潮にすぎなかったのだ。本来の知性は畏敬の念を呼び起こす様な類のものであり、一般大衆には到底理解できないし、通俗科学の様に常に何らかの日用性を伴うものでもない。当然、人気とりの様な金儲け自体とも関係ないし、政治言論としては当為を示すに留まる。現実的解決策は政治家自身、議員自身がみいだすもので、住み分けがあるのだ。
 今いわれるべきことは、新自由主義を否定し、国民全てができるだけ幸福に生きられる様な、そして庶民の味方として弱きを助ける勧善懲悪に繋がる様な考え方の必要で、経済弱者中心主義といった法制だ。それが本来の社会正義であり、いわゆる調整的正義である。現自民党は全くこの役割を果たしえない。なぜなら配分的正義、つまり能力に応じた成果を配分することは市場経済が担っている部分なのに、安倍氏はこの商売の役割と、そこで生じた極端な不公平を政治が整え直すという役割の違いを少しも理解していないのだ。配分的正義と調整的正義は異なる。しかもどちらも必要だ。
 日本すごい系の人達は、単に政治学、経済学、その他に無教養であったばかりでなく、根本的に人でなしであって、弱いもの虐めを素で賞賛していた。しかも彼らは自分が勝ち組だと誇り、現実には世界で、或いは国内で負け続けていた。勝敗二元論が幼稚なのは無論、国家社会主義を本気で後押ししていた。
 これから我々が見られるのは、日本すごい系の人達の無残な没落経過と、安倍氏への猛烈な反感からきた自民党の解体だと思われる。隠し切れなくなった敗戦は、やがて真の憂国者によってみな暴かれる。最初から安倍独裁政に評価すべき点など殆どなにも見当たらなかったのだが。

2019年6月13日

嘘つき志望者

お前は自分が貴く偉大で天才だといっていた
だから私はお前に目をかけ手助けしていた
ところがお前は労働者におちぶれ
そこらの下種に発情しながら私を謗った
お前の一生などお前の望む通り自殺相当とて
一体私の側に残った失望はどこへいくのだ
いやお前だけではない
そもそも小説屋という連中はどれも卑陋だった
私は心から軽蔑する連中とお前が同じと認める
だから私はお前を認めてやったのだ
そもそもお前はなにも書けやしない
当然の如く無才
当然の如く凡愚
そしてお前はサイコパスなので
あたり中を傷つけまくり平気でいる
私の恋人も私もお前の犠牲者だ
お前は下種と擬似恋愛し凡人のふりをしたがる
それも到底不可能だ
お前ができるのは死にぞこないの下女として
一生うらみつらみの中で商うくらい
だから私はお前にもうなんの期待もしていない
辛うじて私にいえるのはお前の人格の低劣加減
しかしそれもお前にはなんの意味もないだろう
お前は無感動で腹の中は悪意と虚栄心
動物未満の下賎な性欲で動く細胞
つまりは生きながらえるにも卑小すぎる
お前はちっとも貴くなどない唯の会社員
どうでもいい存在が今日も代えが利く仕事で
はした金を溜め込み結婚がどうとかほざく
偏差値教育で遺伝子だか才だかを差別しつつ
通りもしない東京中華思想で贅沢品を買う
私から見ればお前は単なる愚物なのだが
それでもお前は生にしがみついている
お前の自死ごっこも嘘だったと知っていれば
良心のない下卑た馬の骨と知っていれば
浪費癖の刹那的快楽主義者と知っていれば
少しもお前に時間を割くことはなかったろうに

都会ごっこ

ろくでもない人間に囲まれ
そいつらはひたすら下衆に群れ
性欲を満たすためうろつく
名古屋駅を東奔西走
東京に媚を売り大阪で道頓堀に跳び込む
だからなんだというのだ
自分に一切関係ない
ごみの様な世界で金を貪るあきんどが
東海道新幹線で右へ左へ
だからなんだという
自分には俗物の金儲けにしか見えない
自称洗練
実質金儲け
俗受け狙いの都会ごっこ

国連革命論

人類としてとるべき道は、いかなる宗教を信じる人も、或いは無宗教の人も、全人類、全生物ができうる限り幸せに生きられる世界をつくることであり、特定の国、特定の宗教に立つ人を犠牲にしてはならない。この点から米英仏を主とした軍需産業が政府をけしかけ、戦争をやめようとしないのは外部不経済、公害の一種でしかない。イスラエルも含め、自由圏はその外にある何らかの国教を持つ宗教諸国を攻め立てるべきではないし、何らかの策謀を用いて相互に敵対させあうべきではない。
 同じく、共産主義や社会主義の体制をとる諸国民を、自由主義の建前をとる諸国民は侮辱したり、陥れたり、戦争等をしかけ平和を乱してはならない。
 これら全ての国々にあって正当防衛の範囲は、ただ自国を自衛するものに限定されねばならず、国連での集団自衛権は安全保障理事会の決定に待ち判断されねばならない。且つ、常任理事国制度は撤廃し、国連加入国全てが等しい議決権をもつ共和的地球秩序へ国連革命を起こさなければならない。

r/K選択の語源

内的自然増加率rはthe maximum growth rate(最大成長率)のrateの頭文字をとった略。環境収容力Kは、Kapazitätsgrenze (capacity limit、容量制限)を略してK。ドイツ語は名詞だと頭文字が大文字になるのでKは大きい。

慈善は善人に対してのみふさわしい徳目

下賎の徒を愛するのは、調度、自分に災い為す悪意で一杯の犯罪者と共同生活を願う様なものだ。下衆に慈愛をもつのは自分の首を絞めているだけだ。この世で同情に値するのは根っから善良な人間だけであり、その種の人を除けば業のままにして置くのが最善である。

無知、無知の知、有知の全体を辿る能力が賢さ

ある知識を知らないことを種に、他人を見下したり謗ったり、人格的に貶めたり、愚かだと「馬鹿」(日本語の馬鹿は、「無知」の意味のサンスクリット語mohaの漢訳)など罵る人というのは、文化圏を問わずかなり広く見受けられる。だがこれは誤りだ。愚かさ一般は無知によるのではない。それは既知を使う働きの方にあてはまる。無知への謗りそのものが愚であり、人は全知に到達し得ないのだから、博学さには程度がみられるだけで、いかに博学な人にも常に無知な領域が残る。
 博学さそのものを誇っている人は、同様の意味で愚を免れない。
 ソクラテスの無知の知は、無知を正定立とすると、根本的に無知への反定立である。合定立は無知と無知の知を止揚した有知といえるが、少なくとも反定立の段階なしに人が有知に至りはしない。つまり有知は無知を止揚した段階ではあるにせよ、それは別の無知の定立でしかない。無知の知とは無限に無知を否定する立場なので、有知に留まるより或る意味では優れた状態である。
 賢さ一般は、無知、無知の知、有知の全要素を含む、よりよく知ろうとする働き全体のことなので、ただある事柄に無知なだけで愚と見なす人は常に間違えている。それは強いていえば無知としか言い様がない。しかしこれを俗語化した「馬鹿」という愚かさとして一般化した表現で、或る事柄の無知さを指摘する人は、往々にして当人がより無知なだけで相手がより多くの有知を持っている故に(特に別分野の知識に関しては先ず確実にこれがあてはまる)、調度、崖の下(無知)から崖の上の人(有知)を罵る様な場面がよく見られる。なぜならその人は現に崖を登りつつある人(無知の知)より後塵を拝しているばかりか、自分自身が一体なにについて無知なのか自覚していないからだ。

数学は内証的規則の集合

私が「数学はそれ自体の規則の集まりなので、その内部での詳しさは外部的にはプラモデルを組むのと本質的に違いはない(不完全性定理でいう内証性)」と説明したところ、或る物理関係の教師らしき人物が馬鹿だと罵ってきた事があった。この人は物理にとって数学という道具が内部的な機能しかないと知らず、真理と同等のものだと思っているのかもしれない。或いは数学自体の応用範囲はプラモデルより広いと思い上がっていて、それ自体の内証性の意味を把握できなかったのかもしれないが、どちらにしても、数学それ自体は真理ではない。唯の規則である。

慈善に値するのは聖人であり俗人ではない

卑しい人と親しめば人はその人に似る。そしてこの世で最も難しいのは、卑しい人とのつきあいを避けて生きることだ。どう控え目にみてもこの世は卑人(不道徳な人)で溢れているし、人は孤独に耐え難い。だからゴータマは「修行の全て」が良い友を得ることだといったのだ。
 孤独が耐え難く、忍び難いと彼も認めているが、やはり人の憂いは卑人の持ちくる悪業の災いを置いて他にない。彼が出家や脱俗を勧めたのは全く同じ理由からきた徳で、凡夫の考える類の世俗的幸は、実際にはなんの幸福でもない。それはただ同調的安心といった類の偽りの幸で、実際世人は大いにその内にあって悩み苦しんでいる。
 この世で期待できる幸福は世俗の憂いがないことで全てであり、それ以上の栄華を望んでいる人達は蜃気楼を追いかけているのだ。
 善友は脱俗的な志を持ち、悪友はこの逆に世俗化を求める。善友は得難く、悪友は得易い。否、悪友は世の殆どを占め溢れ返っている。恋人や愛人も異性の友連れと考えれば、事情は同じである。
 悪友への同情は災いの種に他ならない。慈善を向ける対象が悪徳に満ちた人かをよく観察せよ。この世には悪意を持ち他人に害を為し恥じぬ俗人がいる一方で、善徳の故そこで集団虐待され苦しむ聖人もいる。慈善に値するのは実際には後者だけだ。

政府は基礎所得を非リスク資産で保障すべき

日銀や年金機構を通じ、政府側が株の運用をするのは、いわば民間人の利益を収奪しているのと変わらない。

 年金機構に限っては、少子化の中、賦課方式で将来の年金を賄うにその方法をとる他なかったとして、個人年金(iDeCo)の枠で積み立てさせるのは、実質的に政府の公的役割りを放棄しているに過ぎない。それは低所得者により不利な二重制度、そして政治的調整の機能不全だからだ。
 また日銀の投資収益は民間全体の富を、いわば政府が自社株買いしているのと変わらないので、日本株の投資家に有利に一見見えるが、実質的には公金を使って日本の上場企業の全体を過剰評価させているのだ。いいかえれば市場価格を実態よりうわぶれさせているだけ、本来より安値で買えた、または市場の実勢をより反映し将来の価格の見通しが立てられた投資家の一般利益を損なっている。そして日銀の収益分は、市場全体に還元されず、同社の株をもっていた一部の株主の利益になっている。

 年金機構が国際分散投資で運用を続けるのは、将来の年金額を日本単独の税収で賄いきれない以上必然としても、個人年金に責任を丸投げせず、年金額を上乗せした、最低限度生活保障を政府が行う事こそ憲法に定める生存権である。したがって株によるリスク資産を除いた分で、政府は最低でもこの基礎所得の分を国債と税収で賄うべきである。
 日銀の保有する日経平均ETF分は、適宜市場放出すべきだが、これはできるだけ早い方が、企業の実態価格が市価に反映されるだけ望ましい。

無知は悪意ではない

賢愚は知識の有無ではない。尊卑は知識の有無ではない。それらは働きである。ある時点でその人が持っている知識量には常に限界があるが、働きは各々、少量の知識でも優れたものがある。
 卑しさと無知は別。無知による他害は動機的に悪でない場合があるが、卑しさによる他害は動機が悪意に基づいている。「無知で説明できるなら証拠なく悪意のせいにしてはいけない」
 人を見て法を説け、だとしても、他人の知性を過度に高く見積もり過ぎる方が、低くそうするより優れている。なぜなら相手を尊重していることになるし、少なくとも何かを学ぶ機会を与えた結果になるからだ。しかし他人の知性を低く見積もり過ぎていると単に相手を馬鹿にしていることになるし、何より、自他が新たな知識を得る機会を失ってしまう。

2019年6月12日

シンギュラリティは幻想

コンピューターの得意さと、人間の得意さにはズレがあるので、シンギュラリティは幻想である。

繰り返しの効果

繰り返しをやたら嫌う人は、最小語彙でより多くを説明可能と知らない。また反復は韻律を作る効果を持ち、全く等間隔で長ければ退屈感を、短く無作為なら高揚感をあらわすなど、相似の環境情報との類推で無意識に感情を呼び起こす。

SNSでの人づき合いについて

無用の人づき合いは煩わしさを増し、習慣や語彙などで親しむ人と似る副作用を持ってくる。不特定多数と交流するSNSでは通俗化が結末である。
 卑しさを学ぶのは矛盾だろう。確かに不慣れという意味で、よい育ちをもつ人は未知の世界である下衆根性を理解するのが難しい。だがもしそれを見知った所で、一般には反例でしかない。

カタカナ英語の意味

カタカナ英語は、明治以後に流入した和製漢語と別に、主に戦後入ってきた英語その他の欧米語彙をそれ以外と見分けるのには役立つ。
 勿論、カタカナ英語は表意性を消失している。しかしカタカナは日本語音だが、英語は日本語音で訛ってしか発音できない。脳は最小要素、最短経路で経済的に物を理解したがるので、日本語が母語の人にはカタカナで記述された方が英語で記述されるより認知的負荷が少なくなる。したがって英単語その他のローマ字などを使う外来語の表意性を直接記すにあたって、恐らく読みづらくば日本語発音での振り仮名つきで記述した方がよいのだろう。
 また一般にこの種のカタカナ英語を、既に日本語化された語彙、又は同等の典型的語彙があるのに無用な場面で使う傾向は、衒学か気取りの一種と受け取られるが、同時に演劇的文脈では出羽の守的な欧米かぶれの学者や起業家といった風を現せる利点がある。

道徳的無知が卑しさの原因

卑しい人と少しも親しむ勿れ。彼ら自身の道徳的無知は余りに多すぎ、それら全ての改善は先ず不可能だからだ。同趣旨で自分以上に尊い人とのみ付き合えとしたゴータマの忠告は全く正しい。人格的向上心なしに生きている人が進んで道徳性を学ぶ事はないのだ。これが経験によってしか学び得ない愚者がいる理由である。

賢愚の差

人の賢愚は数語で知れる。十を説いて一も知る事がない人は、純粋に愚である。
 知識を誇る人に賢者はいない。知識自体は無限に過ぎず、学習量にほぼ比例するだけで、重要なのは思慮の方だからだ。

政治道徳の哲学が全生活の中で最も神的な活動

アリストテレスが理論的生活(観想的生活、theoriaの暮らし)を理想視していたのは、この立場が最も世俗的煩いから離れているという意味で全く正しい。実践はいうまでもなく忙殺に終わるし、制作に関しては理論にとって必要十分以上のそれは実践と同じ轍に填る。
 また一般に、愚者であればあるほど実践に近い活動を好む傾向が見受けられる。当然といえば当然だが、理論は言語知能を生かした活動で、記号の再配列という人のなしうる最も抽象的な活動である。しかし実践はこれに比べあらゆる不確定要素を含み、非主体的な影響、或いは偶然の変動を受け易い具体的活動である。今日知られている最も原始的な生物であるところの原核細胞も、実践のみの活動を営んでいる。
 結局、アリストテレスのいう神に限りなく近い生涯とは、理論的生活の延長性だといえるだろう。彼自身が哲学者だった為、自己正当化の為にこれを理想視したとしても、少なくとも全理論の中で最も抽象性の高い倫理哲学、特に最も広範に影響する政治道徳の哲学が、最も神的な分野といっていい。清談を好んだ東洋の政治哲学者らは、この意味で我が指摘を待つまでもなく同趣の伝統を持っていた。

集団間の相互作用としての道徳的淘汰

より退廃した公害度の高い文化集団が滅び去るのは、文明にとって必然的作用であり、結局、ある道徳が導出されるのはある時代の置かれた文化素の環境で、最も利他にふさわしい行動系列が選り抜かれていく経過によっている。不道徳を礼賛している人達は、当人がその不徳に自覚があるか否かに関わらず、置かれた状況下で適応的ではない。

下衆は文明を正しく生かせていない失敗例

下衆は聖人を侮辱している。それは彼らが真善美の諸価値をろくに認識していないばかりか、自らの悪徳生活を正当化する為だ。当然彼らには全知の理想も想像外にあるので、ただ下賎な衆愚に群れ生涯を過ごし死に絶える。
 我々は過去の聖人より遥かに恵まれた文明環境にあるのだから、少なくとも聖人以上の存在でなければ単なる努力不足といってまず間違いない。ところが下衆は更に堕落を極めようと同類以下と群れつつ悪業を恣にしている。

啓発と教育の原義

下衆に尊さについて教えるべきではない。中人以上には以て上を語るべしとは、下衆は永遠に高度な徳目、高尚な事柄に理解が及ばないという意味だ。孔子は啓発をこの意味で生徒自身の向学心に応じ教える意味で使っていた。確かに彼のいうとおり下衆に高度な内容を教えても理解できないばかりか誤解を重ね、寧ろ反発するという場面を私は見た。孟子が教育を英才教育の意味で使っていたのともこの事実は照合する。
 愚者や卑人は自らの徳に応じた結末を経る。そして彼らの存在理由は世に反例を示すことだ。

2019年6月11日

合法的転勤を命じた会社を私刑し株価を下落させたのは何らかの法制化以前の罪

正社員は資本主義の位階制では奴隷階級に違いないのに、普段から非正規社員だの無職だの無業だの、その他かねにならない名誉職だのを物凄く差別して、しかも不当な搾取を正当化しているのに、いざ会社から転勤命じられたらブウブウ文句をいう。どれだけ自分が特権階級の勝ち組だと勘違いしているのか。
 ある会社と法的契約を結んで所属してるなら、その社則に従うべきなのが当然の話で、これは私に不都合だから「ツイッターで」その会社を悪者仕立てに匿名で晒し衆愚的非難を加え、株価を失墜させたというのは、完全に市場壊乱の反社会的行為では? 単なる無法な私利で公益を損なっているからだ。
 確かに転勤のタイミングが家庭事情から見たら無理があった、だから辞めましたというのもこれは常識の範囲でしかない。日本は雇用の流動性が低い。正社員辞めたら非正規の口しかなくなるかもしれない。でも、そういう構造に乗っかって正社員に滑り込めば一生安泰とか弱者を踏みにじっていたのは彼らだ。もしその正社員に擁護できる点があるなら、彼・彼女が事前に「正社員と非正規の区分は明らかに社会的差別だから私はこれに不賛成だ」と表明し、公に意見を述べ、そういう体制をとっていない会社なり組織に所属していた場合だけと思う。普段は自分が差別する側だからOK、いざ法的に不利になったらテロ。
 特に大問題なのは、このツイッター暴徒の風評テロ被害にあった会社側(そもそも違う会社かもしれないのだ)が、社員と合法的に労使契約を結んでいたのに、単なる正社員の妻のわがままで株式市場で致命的な損害を受けた事であり、風説の流布とは違う、新たな何らかの罪に該当している様に見えるのだが。何が大問題なのかというと、簡単に言えばこの会社は法務的に問題のない労使契約をしていただろうし、場合によっては全く当の人事と無関係の会社だろうけど、株主らは或る会社を辞めた社員の妻のツイッターでの風説流布のせいで、普通に資産価値が下落させられている。とばっちりでしかない。
 ネット世論が衆愚化し、法務と実情のずれを冷静に評せず、とかく2chねらー式に或る会社を私刑的に特定し、事実の有無に関わらず、結果として株式市場を壊乱した。これは会社員の法律上の立場を弁えていない或る個人のわがままが原因である。もし労働者の地位を向上したくば法でそうするしかないのだ。或る会社員自身が社内で組織し、社則を変えるなり、議員に依頼するか自身が議員として労使契約の条件をより有利な物に変更する法律を通すなり、いずれかの手段がその妻らがとるべき公正な手段であり、株式市場の壊乱で無関係の疑いが濃厚な一般株主の資産に、多大な損害をなすことではないでしょう。
 そして非正規雇用法自体を非難・撤廃せず、自分は正社員の立場から、いつでも首きられ転勤だの異動させられまくりの非正規社員を見下し見下し不当な給与を食んでいたのに、いざ自分の家が不利になったらネットの衆愚世論に訴えるというのは、端的にいって卑怯極まりない。だから私は少しも同情できぬ。

先生との敬称は心からの敬意を伴っていなければ唯の虚礼

なぜかは知らないけど、なんかで博士号もってる人を「先生」と呼ぶ慣習嫌い。その人が他の分野とか、倫理とかでは赤点レベルでも、普段から先生扱いするのはかなりおかしい。嫌味の意味で使うとしても、博士号もってない人を相対的に差別的に扱っている事になるし。普段は同列に扱えばいいと思う。同じ事は政治家とか建築士とかを先生といってる人にも感じた。まだはっきりと嫌悪感の原因が言い表せないが、恐らく何らかの非人道的要素がそこに含まれていると思う。「先生」は日本語では小ばかにする意味が含まれる場合があると漱石が書いてた気がするが、それとは違う文脈で身分差別の名残と思う。
 天賦人権論に反する観念が、学位、資格その他の地位に対する「先生」扱いなのではないか? もしその種の敬称が、第三者の目から見ても共感できるなら、相手を心から敬っている場合で、それは属性に対する上辺だけのものであってはならない筈だ。私もこの意味で先生と呼びたい人は、実際にいる。

尊卑を見分けられない人は単に卑しい側に属している

尊卑を見分けられない人は、つきあうに値しないだけ卑しい為そうなのだ。彼らの目には全てが自らへの利害、損得勘定でしか見えていない。道徳的相対主義者はひたすらこの種の卑しさ、利己性を正当化するべく、無判断を是認している。この意味で彼らは利己主義者でしかない。

芸術価値は経済価値と異なる

芸術価値を経済価値に還元しようとする考え方を「商業主義、commercialism」といえるが、今日のアートを根本まで毒しているのは完璧にこのイデオロギーだ。大衆迎合やキッチュさも同じ根から生じる。バンクシーが初期に持っていた前衛性の部分にあったのも、反商業主義性だった。
 私はSNSで知り合ったある2人の人達に、絵を売ってみたらどうかといわれた。私はそれまで、ある種の貴族主義を持っていて、そもそも純粋美術が非商業的なのはそれが高貴な証拠だと考えていたのだが、自分の考えを反証する為にウェブ画廊などを通じ、作品販売を数年の間、試みていた。だがこれにあわせ美術市場をとりまく全事情を探っていくと、上に挙げた「商業主義」が俗物根性の世界として歪められながら欧米美術全体に広がっていて、しかも日本美術市場ではサブカルチャーにほぼ全域が侵食されているといった構図が浮かび上がってきた。私はそのどちらにも呆れた。
 芸術価値を経済価値で評価しようとするのは、そもそも間違っている。建築や音楽の分野を考えればわかるよう、単なる高価な物件、商業音楽と、名建築や音楽史における傑作は一致していない。しかし美術や文芸の分野では、商業化がより一層進んでいて、サブカルチャーと境界をなくす傾向が流行している。美術分野では村上隆氏のスーパーフラット理論、文芸分野では村上春樹氏の中間小説(純文学と通俗小説の越境例)が、それらの分野の中で商業主義を正当化している。彼ら商業主義の唱道者は、はっきりいえばスケープゴートなのではないかと私は思う。長い目でみれば両義的存在者は排除される結果になる。

 純粋美術とはなんだったのか。それは近代の画家が注文主の為の装飾職人から離れ、自らの前衛的な美術思想の表現媒体として、制作を再定義した所からはじまっている。同時に独創性が唯一の評価軸になった。
 我々はネットという道具を手に入れ、絵を単なる自己表現の為、他人に伝えられる環境にある。これは以前からアーティストらが手に入れたくとも手に入らなかった大変恵まれた環境だ。展示空間そのものが制限されていたのが公募展(西洋で言うサロン)だったし、日本画も私的空間に留まっていたからだ。
 しかし平成の美術家一般は、ピクシブを通じ、セミプロまたはアマチュアで漫画様式を使っていた人を除けば、少なくともこの環境を殆ど生かそうとしなかった。それどころか絵を箔付けして高く売るため相変わらず公募展に応募したり、欧米美術界へ輸出にいって競売市場で高値をつけさせようとしていた。

 多分、私がこれから書くことが岡本太郎以来の日本美術、もしくは世界美術の歴史の中で決定的な潮流の転換点になる重要な見地になると思うが、純粋美術は商業主義から決別しなければならない。そして誰でも自由に好きな絵を描いて、好きな作品をネットを含む自由な場に、無料で展示しなければならない。
 村上隆氏は著書『芸術闘争論』の中で自由教として近現代の日本美術の教育が囚われているイデオロギーと、この考え方を非難していた。なぜなら彼は商業主義に毒された、欧米と日本の両義的存在者だからだ。サブカルチャーにもファインアートにも振り切れない中途半端さだから、自由が肯定できないのだ。
 純粋美術、即ちファインアートは貴族的分野である。それは商業的営利を軽蔑し、自らの利害を全く離れ、ただひたすら自己実現を追求すべき世界であり、そこではどんな表現でも可能だ。大衆受けするか、市場で評価されるか、歴史に残るか(文脈主義)さえ、作家には実際にはどうでもいいことでしかない。
「私はこう思う、ゆえにそれをいう」。これが純粋美術の持っている最高の美質であり、企業の意向だの、株主の利害だの、消費者の反応だの、批評家の立場だの、学芸員の思想だの、政府の権勢だの、大学の人間関係だの、これらは先ず全く自己表現と関係ない。1人も理解者がいなくても自己表現はできる。美術家はこの様な純粋な目的で表現追求する結果、確かに極貧になり世間から狂人扱いされ若死にすることもある。だがそれがなんだというのか。世俗的な商業作家をみるがよい。彼らが模範といえようか? 我々は彼らを見ても、やはり軽蔑の念しか感じないのではないか。金儲けなら商売人の方が巧いのだ。
 美術家、アーティストがどうあるべきかについてはこれで説明できたと思うが、我々の社会的意義とは何か。それは経済価値(つまりカネ)、政治価値(政治思想からの判断)、場合によっては科学的・哲学的な学問的価値(真偽や善悪)、その他の非芸術的価値から全く離れた意見を表明可能な事だ。世界中の思想家だか大統領だか皇族だか、或いは全人類の一般大衆がこれをこう言えといっていても、我々はそれを完全に無視できる。なぜなら純粋美術は自由な領域だからだ。金にならないから大衆迎合する。実に馬鹿げた事でしかない。なぜ自ら、金で買えない最高の価値の1つである自由を放棄するのか?
 私は並のアーティスト志望者らが次々挫折していくのを横目で見ながら身をかわしていた。それというのも彼らが自由を自ら放擲したのは、ほぼ全ての場合に金欲しさにみえたからだ。生活の為と偽って才能のなさを言い訳するべく、凡愚な商人に堕していく連中は、商売人としても二流の存在にしかなれない。
 人は初志を貫徹すべきであり、この為には如何なる妨害も知恵と勇気で退け、進んで困難と立ち向かいあらゆる事態を打開しなければならない。そして商業主義という罠が、我々を今日最も苛んでいる最大の悪意だが、これは商人が芸術家を買収しようとしているだけの事だ。表現の主導権を取り戻すべきだ。芸術家は商人ではなく商人を兼ねられもしない。否、寧ろ兼ねるべきでない。芸術家には固有の職能があり、それは今日、ただひたすら純粋に芸術価値、有体にいえば美の追求を果たす事でしかない。全世界の人が或る芸術家を狂人扱いし、又は完全無視していても、自分が見うる最高の美を表現して死ぬべきだ。
 我々の作品が一生涯売れなかったとする。自らの全人生を懸けた全技術の結晶体が、全人類からごみ扱いされていたとする。しかしあなたは本当にそれを嘆くだろうか。本心では、自らそれを表現できた時点で、してやったりと思うのではないだろうか? だがこれが本来の意味での芸術の意義なのである。本心にもとる俗受けを狙うのは一切やめよう。その結果、ばたばたと芸術家が餓死したとしても、私は寧ろその一員になる方がよほど幸福だと断言しておく。実際に下らない商業作品を作って売ってみるがいい。そこらの俗悪な商人の方が遥かに金を儲けていく目の前でただひたすら惨めになるばかりだから。
 経済価値で芸術価値を評価するのは、芸術価値で経済価値を評価するのと同じくらい愚かだ。ユニクロやマクドナルドが、ルイヴィトンやディオールがいかに利益をあげていても、醜いだけ、下らないだけの製品サービスなど無数に見つかるので無価値だ、と言う人は、商人からしたら意味不明に見える。同じく、金にならないからこの作品は意味がないといっている商人は、端的に馬鹿なのである。大衆受けしてるからこの映画が最高の作品だといっている人間はただの俗物である。芸術と経済(商売)は全く別の分野であり、双方は住み分けによってよりよく、世界に価値を提供できる。美と利益は別のものだ。

日本政府は計画経済をやめ緊縮財政で収支を改善せよ

携帯違約金を政府が操作する計画経済は、明らかに自由主義の本旨にもとり、市場壊乱により新興企業(格安SIM系)の芽を摘む結果になる。大手と格安の住み分けを意図的に外すと、規模で優る大手の方がより有利になってしまう。
 なぜ日本人大衆がこれへ迎合するか。国家社会主義的思考なのだろう。
 安倍政権は数多の国家社会主義政策(賃上げ要求やら量的緩和と称する日銀・年金機構を通じた日経ETFの寡占やら暗号資産統制やら)で俗受けを狙い、朝三暮四で赤字国債を積み上げたわけなんだろうけど、彼の退陣後の日本を破滅させつつ己の長期政権による名誉だけ追う姿勢は権力俗物というしかない。より深刻な問題はそういう首相を忖度だかお追従だかして愛国を自称する衆愚の方で、なぜ以前にも増して衆愚政治がはっきりしてきたかといえば、自分のみていたところ2ch以来の匿名ネット世論が大いに関係していると思う。これまで発言権のなかった愚民が大挙し、世論をより暗愚に群れさせているのだ。
 日本のネットを匿名衆愚の巣窟にさせた文化的影響の根本原因は、明らかに2chだった。西村博之氏は、実名SNSを世界に定着させたザッカーバーグ氏と対極的に、匿名BBSを国内限定で大いに流行させ、日本のネット空間を犯罪者が跋扈する闇の世界とした。これで今の衆愚政治に繋がる大きな流れができた。「悪化が良貨を駆逐する」のが日本の匿名ネット世界で、そこでは悪意ある犯罪行為の方が常に、善意ある実名の行動に優越する。理由は多数派が「和」という日本独特の慣行で、少数派を排除する同調圧力が働き、より低俗で暗愚な方へと世論全体が流されていくからだ。犯人は逃げ、正義が袋叩きにあう。
 安倍政権が執る類の国家社会主義政策は、匿名ネット衆愚と極めて相性がいい。孤独な群集は他人本位の不安な大衆で、多数派への迎合を唯一の目的とした狂信的集団であり、いわゆるファシズム的同調行動を常に求めている。ネット右翼というのが出現してから、この点で戦前退行が決定的になった。自民党憲法草案をみればわかるとおり、安倍晋三氏の改憲目的は、彼の出身地である山口県が長州閥を通じ寡頭政治を行いえた明治時代への懐古的退行である。個人主義を後退させ、人権を制限し、松陰の一君万民論を原理とした天皇制ファシズムを再現しようというのだ。国家社会主義的経済政策もその一環。
 アベノミクスと自称する彼の計画経済は、後世からみれば日本経済に長期に渡り癒えない致命傷を与えた大失策と評される筈だが、現実にその最中にいた者として私が伝えられるのは、目先の利益で、利己の為だけに安倍氏を礼賛していた連中は、口先では愛国と称していたが、現実にはただの人でなしだった。彼ら安倍信者ともいえる人々は、東日本大震災の混乱も覚めやらない中、安倍氏を妄執的に礼賛しながら株式市場へ公金を注入させ懐手を肥やし、移民を導入しながら社会保障をきりすて、格差拡大の中で、己の日本株プチバブルでの金儲けしか頭にない悪徳商人が音頭をとって、政治経済に無知な一般民衆を完全に騙していた。その「ええじゃないか」的な馬鹿踊りの果てにあるのが令和初期の計画経済の行き過ぎであり、内閣が法と無関係に携帯電話会社を命令操作するという、自由圏では最も意味不明なまでの典型的社会主義経済を導出しているわけである。ゆとり世代の出現も重なって、一般民衆は市場放任を理解できないのだ。
 一言でいうと、政治経済の観点から日本人一般の知性の劣化は明らかだが、これはマンガアニメ、ユーチューバーの流行など学術世界の大衆化・商業化傾向と同時並行的に起きてきた現象にもみえた。ある時期、多分、第二次安倍政権が始まった頃から、テレビ内容も目に見えて愚劣になっていった。もう相当、情報に遅れている人を除けば、或いは高齢者を除けばほぼ誰もテレビは見ていないと思うが、代わりに出てきたユーチューブというネットテレビ的市場も、喜劇的な娯楽芸人が人気を独占し、対象年齢は小学生という内容にほぼ寡占されていった。なぜ知識人の質が異常に劣化したか、分析すべきだ。
 ローマ帝国末期、パンとサーカスと呼ばれる大衆娯楽環境を政府が与え、異民族の傭兵が傾国の兆候となって、滅亡した云々と教科書に書いてある。福田康夫元首相がどこかの新聞で似た様な事を言っていたらしいが、亡国の決定打を安倍政権が現に次々打ちまくってきたのは、政治知があればもう十分知っている。

 藤巻健史議員は計画経済を批判している点で、安倍政権・麻生財務相の経済政策の誤りを少なくとも現に指摘できているし、国民一般の知性がまだまともであったら財政収支を正そうとしたろうけど、もはや自民党狂信者となっている衆愚に何も期待できない。MMT実験台の国が破綻しても被害者は国民自身だ。安倍氏が退陣後、次の首相は彼の失政の過半の実際的責任を負わされる役割になる。だから誰もなりたがらない。だが安倍氏が独裁者のまま居直ればもっと悪政が続く。衆愚自身は表面的な長期政権さえみていれば、虚偽統計も確証バイアスで無視するので、政治経済的に成功していると考え、破滅へ突進する。
 小泉劇場は、今から見直せば、非正規雇用法を最大の悪手として中流没落と格差拡大による日本凋落のはっきりとしたはじまりだったわけだけど、当時は彼の人気とり政治で民衆は大満足していた。安倍劇場はそれよりもっと酷い。秘密法、共謀罪、戦争法など悪法量産で、遂に天皇へ違憲退位までさせている。安倍氏は大いに勘違いしていると思う。この世で権力亡者がどれほど長期政権や絶対政治を司っても、結果が悪ければそれは悪政と評される。長州閥も同じだ。薩長藩閥の明治政府は英語で「明治寡頭政治」と評され、少数派による悪政の代名詞なのだ。歴史家は小説家ではない。現実の事件を冷徹に記述する。
 吉田松陰は宇都宮黙霖の説をとって、覇道・王道という儒家の理論を援用しつつ、徳川幕府を覇府と定義し、尊攘論から倒幕論に転向した。ところが現実に薩長両藩は、冤罪や偽勅で政権簒奪を図った。松陰をいまだに唱道者としている安倍氏の長州閥的考えも実際にはマキャベリズムに過ぎない。覇道なのだ。リテラというサイトは、水戸学風の尊王論の枠組みで、天皇と安倍政権を仮想敵として対立させ、政権批判を繰り返している。これは王道、即ち徳を持つ君主を天皇と仮定する立場に基づくが、現実の水戸学は君主無答責なので、天皇が不徳でも政権の方が王道政治を行わねばならないという考え方だ。
 即ち、安倍政権の悪政を打破するに、天皇を担ぎ上げるのは正しい方法論ではない。国民主権以後、王道政治は国民自身の中で最も公徳の高い者を政権に就ける選挙によるのであり、単なる象徴で実権を持たない天皇親政を復活させる事によるのではないのである。

 計画経済を辞めさせる事、数多の悪法を正す事、自由市場と矛盾しないやり方で格差逓減策を打つ事(租税回避防止法を伴う累進課税と最低限度社会保障の拡充になるだろう)、公害施設である原発の停止をはかり東電等大手電力会社の外部不経済にも然るべき制裁を与える事、東アジア外交を好転させる事は最低必要な方針転換だ。東京で生じている大企業の一極集中については、集積の利益と自由市場の合理性を鑑みれば政府が統御すべき案件ではないと思われる。経済面で考えるべきなのは中流の最多性をいかに復活させるかだ。私は非正規雇用法を撤廃すべきだと思う。それがなかった時代の方が全体として日本経済はよくやっていた。
 そもそも雇用市場に政府がなんらかの区分を設ける事そのものが計画経済の一種で、それが失敗したのが小泉政権以後のわが国の巨視経済だったのではないか? 格差拡大とは池田内閣以来の一億総中流的枠組みを新自由主義で蹂躙した結果、内需7割のわが国の没落が始まった悪手だったのである。徳川幕府は総じてインフレ・デフレの両方に際し、インフレ(通貨膨張、物価高騰、景気向上)にあっては緊縮財政、デフレ(通貨収縮、物価下落、景気悪化)にあっては財政出動を相互に繰り返して対応していた。それが江戸、今日の東京という実質的に世界一の大都市を作り上げた基本的な知恵だった。対して安倍政権がどうか。財政収支が破綻しかけているのになぜ緊縮財政を行わないのか。亡国したいのか?
 日本国民が、もし世界で有数の賢明さなら、MMT論者の戯言に耳を貸さず、早期に暗君安倍氏を放伐し、政府が皇室ともども質素倹約に励み、財政収支を今日模範のドイツのそれにできるだけ近づけようとする筈だ。同時に救貧策や公害防止など最低限度の経済政策だけを行い、民間市場に介入しないべきだ。
 もし私が首相に今なったら、政府主導でのリニア建設を中止する。これは民間がやるべき仕事であって、政府が計画経済的に行うべき代物ではない。技術革新は民間主導でしか結局は推進できない。政府は営利企業ではないので需給の観測を常に誤るからだ。同じく公共事業をできるだけ民間委託し支出を削る。
 また私は先ず最初に北朝鮮へ直接訪問する。できたら韓国の大統領、中国の国家主席らとも臨席して。金正恩氏と直接会談し、そこで拉致問題の解決を願い出ながら、相互経済振興を含んだ恒久的な軍事的不可侵の平和条約を結ぶだろう。実現できれば、少なくとも無駄な軍事費を米国に貢ぐ必要はなくなる。わが国にとって専らの脅威となっている北朝鮮の威嚇射撃は、金氏にとっては仮想敵を北朝鮮国民に周知させる専制パフォーマンスになっているといえると思うが、その劇場は彼にとっても必須ではなく、寧ろ北朝鮮の軍事的安全を確保しながら経済発展を図れればもっと株が上がるわけだ。北朝鮮の市場開放が極東に与える振興効果は波及的で、特に周辺国にあたる日中韓への恩恵は大きい筈だ。当然ながらどの国の為政者も権勢欲は別に、自国民の幸福と安寧を願っている訳だ。私なら米国の利害(在外米軍費を削り米国経済を有利にしながら極東支配の主導権は維持したい)と矛盾しない様に、北朝鮮と相互不可侵を協約する。
 他に無数の善い政策は持っているけど、救い様がない暗君なのは明白な安倍政権をとりあえず打破しない事には余り政府へ知恵を与えるわけにも行かない。だからさっさと衆愚が自民党信者を離れるなり、自民党員が内部クーデターで派閥を組みかえるなり、小沢氏を中心として野合勢力を最大化なりすべきだ。

愛知文化について

愛知の人々は東京と大阪の暗面へも共にほぼ無批判に追随し易い。彼らは徳川宗春の支配以来、商業化を肯定する傾向にあると同時に、権力追従を是とし、東京文化、大阪文化の双方に模範としての地位を認めているからだ。例えば東京中華思想を全く妄信的にまねていたり、都内で見逃されている犯罪(性売買罪など)を単なる商業文化の観点から模範にしていたりする。
 同時に彼らは東京文化を大阪文化より程あれ優れていると考え勝ちで、その理由は東京の方が経済規模が大きく、今のところ日本政府が存在する為である。
 総じて愛知文化は、金権(金と権力)に追従し易い性質を持つといっていい。

文化素(ミーム)と文化の定義

ある人をつくりあげているのは究極のところ遺伝子と文化素(ミーム)だけとすると(ある人の肉体は自然的にはある遺伝子が展開させたものなので、遺伝子がその原因と還元できる)、それらの相互作用からくる影響を有形無形に受け、ある人は行動する。文化とは癖が発展した個人的習慣、及びそれらが群れた社会的慣行の集積であり、遺伝子と文化素の相互作用が一定のまとまりを伴い体系立った状態である。

中華思想や都鄙差別は皇室による民衆奴隷化の洗脳手法

中華思想からくる都鄙差別は、主に都会の増大する負の側面を都外の人間から覆い隠す虚構の一種であり、見栄っ張りの厚化粧が目立つほど却って醜悪さを証明してしまう様なものだ。だが一部の世間知らずは本気でこの嘘を信じ込み、理想郷が都内で、都外は地獄と妄信し、彼らを操る詐欺師(この詐欺の中心にいるのが皇帝、皇室)の思うがままになる。いいかえれば中華思想や都鄙差別は皇室にとっての民衆奴隷化の洗脳手法である。

無知と不案内の違い

或る人が「人は人間であるべき、故に悪意を持っていてよい」と私にいった。私が「できるだけ神に近づくべき、故に善意のみに生きるのが正しい」といったのに反論して。アリストテレスは私と同意見だった。いわゆる幸福主義。中庸は善行の中で追求されるべきで、悪意を持ってよいわけではない。
 ここでいう神とは比喩であり、全知全能の存在といった意味をもっている。全知全能には広義で全徳性など美質の全要素が含まれている。我々が日々学ぶのは、自分より優れた存在に少しでも見習う為であり、知恵を身につけよりよく人生を生きる為だ。人はそれにも関わらず神自体には到達しない。アリストテレスが『ニコマコス倫理学』でいうよう、人はできるだけ神的存在に近づき、人の機能の中でも最も神に近い理性を働かせて生きるべき、という考えは、人間特有の不完全さを損なう事はない。つまり最初に述べた人はこの点を見落としているのだ。学ばぬ愚者より学んだ愚者の方がより賢明である。
 我々が悪意を持つべきでないのは自明の前提だと思っていたが、冒頭の人は悪意を過失の意味で定義していると後に言い換えたが、恐らく当人は、本気で悪意を程度こそあれ持っている邪悪なる人々に周りを囲まれていて、人というものは誰でも他人に害意を有する筈だという人生観を最初持っていたのだと思う。悪意は僅かなものでも、悪意そのものが悪い故にこの世で最悪の部類のものだから、調度、あればあるほど悪いものをより多く持つかに違いがあるだけで、単に悪意があるだけで自他に害なのである。しかしこの点を厳密に考えていたカントの様な倫理学者と違い、その人の様、安易に悪徳に耽る人が俗人な訳だ。

 その他にも最初に述べた人は、上述の事を説明した私に「あなたの考えを述べよ。他者の意見を聞いていない」といった。これは学んだ事がない人の意見として私としては大変驚いた。孔子が「述べて作らず」といったせりふの対極にある考えで、「巨人の肩」に一度も乗った事がない人もいるのだと分かった。

 最近、私は愚かさを再定義し直し、自分の持つ語彙の位階制内で下位に位置する何らかの言行を指すものを除けば、自分の語彙系から一定より遠い理解不能な言行にもしばしば愚かさと誤認し易い点があると考えた。例えばこの定義では娯楽ユーチューバーは大衆に人気だが学者の目に愚者にしか見えない訳だ。ここでいう自分の語彙系の下位の愚かさと、自分の語彙系から遠すぎるが故に愚かさと誤認されがちな愚かさを別の言葉で定義し直すと、前者が「無知」、後者が「不案内」となる。そして専門家は不案内な事については極めて誤解し易いから、他の分野で最高位の知者をも安直に愚者といいがちである。
 私はSNS上で次の様な種類の人達を無数にみた。それは或る分野で権威とみなされる程度の人でも、又は一定の学位をもつ人でも、当人が不案内な分野の天才級の人とか、極めて正しい意見をみても、「馬鹿だ」「失礼」などとブロックしてしまい、異分野の理解からますます遠ざかる人達だ。この種の誤解が生じる頻度は、或る人の受けた教育とか、彼らの辿ってきた経験や知識が一定の枠に限られていればいるほど高い。専門馬鹿、世間知らずというやつだ。不案内さが極度だと誤解が昂じた差別を平気で使っていて当人が気づいていない。特に理系馬鹿といった部類の人がとても酷かった。少なくとも日本の理科の大学以上の専門教育では、倫理を含む人文学を完全に軽視させている形跡があって、その種の人達は人間なるものを根本的に侮蔑している場合が頻繁にみられた。他人を道具視していて、自分の理科の分野に詳しくなければ即座に愚者とみなし、どんな知者をも平気で馬鹿扱いしている。
 教育分野の論点として専門分化、分野の相互交流がない細分化の弊害は恐らくある程度議論されていると思うが、学際的な自由教養が本来の哲学、本来の後自然学の前提であればこそ、各科はただの分野でしかない、という最低限度の学問の捉え方は、全学生に教えておくべきではないだろうか?
 なぜこれを記述したかというと、冒頭の人以外に、別の人に、私が科学主義の弊害(自然科学の方法論を他分野に無理やり当てはめる事で生じる数多の過ち)を説いていた所、数学だか物理だかの専門家らしき人が平気な顔をして私に「馬鹿だ」といったからである。疾うの昔に、アリストテレスは複雑な社会に関する後自然学で、数学や物理といった単純な対象を扱う時と同じ程度の厳密性を求めるのは無知の一種だと述べていたのに、この人は異分野に大いに不案内なのである。専門家としていかに優れていても全体として愚劣である状態は自らの不案内さで生じる。
 一方、この世で無知が存在する理由は、無知の知とは全く違う文脈になるが、反例の為だと思う。特に道徳的無知の場合、悪例になって、世の中へ与える反面教師性がはっきりする。ミルが『自由論』で自由の意義の一つに挙げていたくらいで、或る学問上の無知も同じ効果を持つはずだ。
 SNS上で異なる意見にブロックをくり返す人々は、荒らしへの対処(サイコパスやダークトライアドへの無視の効果)とは別の意味でだが、専門分化と同じ罠にはまって自らの不案内さを増し易い。科学とは総じて仮説の反証過程なので、よりよい真実へ気づく可能性も自ら閉ざし無知を強化するかもしれない。勿論、知性を使用するから脳本来の単純思考とは逆の作業になるが、反証的証拠を集めていく癖は、チャールズ・マンガーが学際性と共に講演内でダーウィンから学んだ事として勧めていたけど、確かに異分野を援用し、或る専門の進歩に帰する経過になる筈だ。専門馬鹿は別の種類の愚かさを伴うのである。

2019年6月10日

データ上の愛

データ上の愛
2019年
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衒学と気取りの違い

物事をより複雑にし、賢さと誤認させようとする俗物根性を衒学といい、競争入試などでの入学歴、学位、賞など何らかの権威での箔づけ、又は有力者との人脈等の間接的要素を利用して他人を威圧しようとする俗物根性を気取りとする。
 俗物根性の中でもこの2つの要素は重なる場合もあるが異なるもので、何れも人間での馬乗り、mountingの手段になっている。
 学が衒学になっている時、その本質は意味を成していないし、単なる気取りに使われている時、それはただの身分差別の道具である。

経済学での生産性を再定義し直す必要

経済学用語での「生産性」は多義的な上に正確な生産を指していないので、所得性と、付加価値を分解した販売性と加工性に再定義できる。そしてこれまでの生産性を、所得性、販売性、加工性などを含まない純粋生産性と定義する事で、農工業などの生産物そのものを商業的側面抜きに取り出して考えられる。

事件説について

動機説と結果説の間には事件説が想定できる。事件説は動機と結果の間に因果をみいだし、その詳細に渡って事態を分析し人の功罪を問う考え方で、単に動機、単に結果だけでは導出できない観点を裁判その他の人事に適用するものだ。

善意と悪意の動機説に基づく定義

動機説と結果説を省みると、それ自体が悪いといえるのは動機における悪意であり、結果の悪さ(他者への害)ではない。なぜなら善意による過失は行為者に操作できない偶然的要素による結果悪をもたらし得る一方で、悪意による結果の善も同様だが、悪意それ単体には悪い部分しかないからだ。また善意はそれ単体でよいといえる唯一のものでもある。
 即ち悪意は全てのものの中で最悪のもの、善意は全てのものの中で最善のものといえ、それらは各々、全要素が悪さ、善さで占められているからだ。この為、単なる動機説に基づいて善悪を定義する時、僅かな悪意も甚大な悪意と同じく最悪のものの部分と評されねばならず、これは僅かな善意が甚大な善意と同じく最善のものの部分と評されるべきなのと同様に判定されねばならない。

ピグ上でのちーちゃんとおのりちゃんの決裂によるさと事件の顛末とその周辺

きのう私がなにをしていたか。正確にはおとといから。
 私はアメーバピグというSNS(Social Networking Service)を開いた。一昨日の夜だったと思う。
 なぜ開いたか。私はそのサイトの中でミューデと命という人達に絵を売れといわれたので、その通りにしてみたが、数年試して、結局ろくに売れない上に、嫌悪を感じてやめた。
 それで命という人はこれまでも頻繁にイベントを開いていたので、ピグの中にいたら経過を話してみたらなんと言うのか試してみようとしたのだと思う。またミューデという人も、哲学部という私のアバターが作っているコミュニティにまだほぼ毎日ほど出入りしている風なので、この人にも同じ事を試そうとした。純粋美術のミームは商業と一致も、ほぼ調和もしないのだろうと私は感じたのだ。

 しかし私が実際にピグに行くと、広場民に囲まれ、どちらかといえば歓迎された。これはピグ民はサイコパス的に悪解釈すれば玩具を欲しがっているとも解釈できるが、私はアバターにおいても善意の行動をするので、匿名の果てしない悪意の巣窟にあってはありがたい存在なのだろう。また以前からそこで下衆なナンパ師達とたわけているある女アバターがいて、私はこの人がしばしば娼婦じみた状態におちぶれている様子を見て同情していたのだが、この人にまたも声をかけている或る男に君は本意でつきあおうというのかと問い詰めると、その男は逃げてしまった。いつものことだ。
 ところがその女アバターによると、彼女は下衆なナンパ師達を下衆だと思ってはいないのだという。寧ろ彼女はその私の目には最下等の男達(ほぼ性行為の道具としてしか女に対する価値を認めておらず、すぐに捨てるばかりか人格的価値を認めていない)が「楽しい」「いいところもある」人達だという。
 彼女は単に下衆な男達(最近の20代広場男アバター連、通称としま(玉井)一派)だけでなく、その他の知能の面では対人的に不躾といわざるをえない類の、あるいはもっといえば育ちの宜しくない風にしかみえない、誹謗が趣味の人達にも同じく感じているのだという。まあ端的にいえばSNSの中で下衆と戯れているだけだ。彼女は「自分を誹謗しないので」その悪友らが私から嫌悪されるのは解せないのだという。一言でいうと、彼女は共感的知能が足りないので、他人の立場で、もしくはメタ認知的に、或る人が別の人達にどう振舞っているかを客体視できず、人格的評価を見誤っているわけだ。これも多分よくある話なのだろう。世の中には暴力団員の男に惚れている様な女がいて、この女からすると自分には優しい人なのだと思っているに違いない。ピグの上記の女(ここではLとしよう)も、これと似た思考回路を辿って他人を扱っているので、自分に都合がよければその人が犯罪者であっても「いい人」だと解釈するかもしれない。
 私は仮初にもこのLに同情していた。だから彼女を上述の点で、或る人格を客観的に評価するのが処世術において重要だと教えるのに苦労した。彼女は広場で周りに戯れてくる匿名の悪意ある、もしくは愚鈍な他人のちょっかいを間に受け、「(私に)騙されない」「誰でも悪意をもっている筈(だから少々の悪意を持つ人々は普通だ)」などというのである。
 それで私が以前からつきあっていてピグの事情にもかなり通じている別の人に、これはどうすべきかと相談してみたが、無論「放っておけばいい」「Lの自業自得」との返答だった。確かに、同類相憐れむといった風に、Lの中では下衆が仲間に見えているのだろうし、自由の範囲でそれでいいのかもしれない。

 また別のピグ内での話だが、そこにちーちゃんという女性アバターがいる(一説によればゲイ説がある男性が中身だが、当人は否定している)。
 彼女は喧嘩イベントという誹謗をゲームにしていた規約違反の不良集団の場が出身ではあるが、政治広場にきてからは論戦の才を生かし治安回復に活躍してきた。勿論、2chを使いながらの誹謗だの個人情報さらしだの、現実に女性を連れ出しての淫行を目的にしたピグの規約違反者らからするとちーちゃんの存在は邪魔なので、政治広場民の一部は彼女の方を荒らし扱いしているけど、それはまあ彼らからすればそう考えるだろうなというだけで、彼女は善意なのである。
 ちーちゃんは政治広場を、僕のアバターらと、かなりの数の人達とのピグ内での複雑な協調行動で治め、荒らし達がろくに規約違反の行動をできなくした。このため我々はピグ内でやることがなくなった。でアラフォー広場という当時、ROSAなる荒らしがシステムに異常負荷をかけ誰も近づけなくする行為で、大荒れしていた場所に、ちーちゃんはきた。
 僕も同時期に似た様な意図でアラフォーの様子をまず調べ、既にROSAらの行動を抑える為に先駆けていたので、ちーちゃんは少し後からやってきて、「あれお前もいたの」みたいな感じで、また僕と協調して行動する事になった。それから4年ほど、彼女は一生懸命、荒らしに虐められた人らを助けていた。
 そしてきのうの話。
 この1年くらい、ちーちゃんがアラフォー広場民に虐められまくって排除されていたおのりちゃんという女性アバターを助けていた戦いがあったのだが(通称さと事件)、なんとそのおのりちゃんが鬼月という男になびいて、助けてくれたちーちゃんを裏切る形で決着していたのであった。
 恋が友情を切り裂き、善意が裏切られた結末なので、これは悲惨な話だなと思っていたら、ちーちゃんが僕に「女の友情なんてそんなものだよ」という。周りの女性アバターらもほぼ全員(黙っていた人をカウントしなければ多分、全員)が同意していた。これは社会学というか文学、心理学、脳かもしれないが、恐らく主に人文学の領域でちゃんと研究すべき課題だ。
1.一般に男の友情に比べ女の友情は浅いのか?
2.一般に女の恋情は友情へ常にまさるのか?
3.上記の事実があるならその原因は何か?
4.男女に限らず友情より恋情を択ぶ人がいるだけ?
5.脳はどういう経過を辿って恋情を友情より優先しうるのか?
 アメーバピグというサイトは、はっきりいって内部での犯罪をほぼ取り締まっていなかった。アメーバ利用規約というのはあるのだが、それをちっとも守らせようとはしていなくて、空理空文と化していた。のみならず僕もちーちゃんもピグ内で無数の違法行為を見たと思うが、それさえ通報が無視された。ばかりか、ピグ内にも多かれ少なかれ善意を持つ人達はいたので、我々はみるにみかねて違法行為をする逮捕以前の被疑者だとか、規約違反者らから我々自身を守りあって相互に自衛行為をしていたのだが、サイバーエージェント社側は、寧ろそっちの方をBANする事さえあった。まあ法務が破滅的なのだ。
 具体的にいうと、りおしというアバターがいて、彼は上述のROSAというこれは明らかに意図的にシステムに異常負荷をかけ全員を固める、個人情報連呼で集団虐めしまくるなど完全に荒らしの人なんだけど、このROSAと正面きって戦っていたら、なんとアメーバ運営側はりおしの方をBAN(禁止や破門などの意の英語で、ここでは利用者のアカウントを運営が強制削除し、サイトから排除する事)してしまったのである。まあこれは裁判でいったら先ず完全に誤判定で、冤罪事件となる事例であったから、広場民は僕も含めほぼ全員が驚愕した。だけど運営側ははっきりいって、広場を完全に放置していて内部の事情なんて何にも知らないまま、荒らし側の悪意ある虚偽通報とかを真に受けて適当にBANするレベルだったのです。
 アメーバ利用規約というアメーバ全体の規約には日本法に準じると書いてあって、我々は(少なくとも私は)法律とこの規約に照らし、ピグを自らに信じられる限り公正に利用していた。だから日本法か規約に触れている行動で、他人に意図的に害をなしているピガーの災いが甚だしい時、通報するのだが、こっちは法に触れていても見逃された。
 サイバーエージェント社は上場企業である。だから皆さん、この会社を信用している筈だ。けれどもアメーバピグに関しては、運営が潰して本当によかったと私は思っている。彼らがもし内部がどんな状態だったかきちんと調べていたら、幾ら営利とはいえ良心のある人ならとっくに潰していた筈で、正当防衛の自衛行為すら不可能な地獄でした。
 ちーちゃんという人、またりおしという人も、端的にいってその様な場で、非常に賢明な利用者の各々一人であって、悪意ある匿名利用者らの犯罪行為の山の中で、僕も色々と彼らとやりとりはしたけれど、実質、自主的に被害者救済の為に物凄く努力していたのは事実である。日本も少数なら善人がいるのだ。りおしは別件でBANされた説(規約の範囲内で合法的な自動ツールを使っていた)も取れるし、まあ真相は分からないのだけど、私以外の誰も彼の英雄的行為の数々を擁護というか賞賛する機会はないだろうから(そもそもピグ論客やら史家が殆どいない)、私は彼の栄誉は後世に残されるべきだと信じる。
 ちーちゃんも、上述のさと事件がアラフォー広場における数々の事件や劇の中で、最も悲劇的なものの一つになるとは思うけど、そこでも実に気丈に頑張っていたのは某広場に詳しい人なら大概誰でもわかる話だ。寧ろ敵の方が同情していた風で、さとちゃんというおのりちゃんと敵対していた方がよくわかっているのだ(ちーちゃんの上述の独白の時、普通に周りにさとちゃんらがいたけど、鬼月と共有したアバターでちーちゃんを蔑ろに責めまくるおのりちゃんらしきアバターの一方で、さとちゃんは寧ろちーちゃんの独白に頷いてる様な感じだった)。
 ちーちゃんは、政治広場で最初の厄介事の中心であったホメという人とも深刻に対立してきたのだけど、ある時、僕らと議論してこのホメという人を十分に排除可能な機会がきたとき、ちーちゃんはホメを助けようと言い出した。この考え方は憐れみみたいなので、公の敵に武士の情けをかけるべしというのだ。この一件をとっても、ちーちゃんという人物もまた、ピグとかいう匿名偽名SNSの中では最も良識的な魂というかミームを持っていた人だと評せる筈だ。彼女の基本的なピグ利用法は、特にアラフォー広場にやってきてからは、政治広場における政治広場新聞というピガーのやり方に幾らか似たもので、自らのアメーバブログで広場等で公に話された内容を記録開示しつつやりとりしていくといった形になっていった。当人からすれば喧嘩イベント流儀で身につけた、公の議論での証拠を自らのアメーバブログで提示しているつもりなのだろうけど、副作用的にピグ内の些細なゴシップをばら撒く面もあったので、安易に広場で噂の種にされたくない人から反感を買いがちで賛否両論あるのだが。

 で、私はこのピグというSNSは恐らくほぼ完全に理解し尽したし、その内部で起きるだろう現象にもあまり知的好奇心やら向学心面での期待値が高くなくなったので、最近殆ど行っていない。一般的にいえば呆れたのである。そして上述のL氏を助けようみたいな啓蒙的意図も、もう凡そ無用だなと思い始めた。
 ここからは一般論になるが、SNSとは何か。人々を社会的比較の欲求(社交的欲求)で縛り、何らかの課金の場を与えつつ、或いは広告で囲い込み、運営が金儲けする電子的社交場の事。心理的に顕示的消費だの羨望に基づく嫉妬を種にした場で、不幸を触媒しているに過ぎないのではないかと仮説づけられる、近年のネット上の流行。不幸を触媒にするとは、もっといえば「痛快(シャーデンフロイデを私が和訳したもの)」を目的に、自分より不幸だろう人を探す、下卑た快楽の場なので、SNSの全要素はこれではないが、実際にはこれが主眼になってしまう。人は社会的動物としてコミュニケーションに飢えているせいで、釣られてしまう。
 SNS上で恋愛し、人の個性を見分け現実に配偶するという世界がもう現実のものとなっているが、一方でフェイスブックを筆頭に、人類全体に脳内線条体の嫉妬機能を援用した社交場を与え、そこでの中毒的苦痛もまた甚大になっている。私はもうその種の媒介にも呆れているのだ。肯定的側面が少ないから。
 上述のLの話題にもどるが、彼女は「悪意」という概念を、倫理学での動機説、法学上の事実を知っているという意味と違う文脈で使っていた。より詳しく話を聞き質していくと、法的に「過失」という意味(意図しない他害)であった。だがこれを私が知るまで、彼女は私の人格を謗ったり、周りの衆愚と群れ尊厳を辱めるなどしてきたのだ。この一例だけ取っても、私は多大な苦痛を強いられ、しかも私側の払った費用は道徳性と遵法性の違いとか、動機説と結果説の違いとか、カント倫理学と法学の基盤みたいな話まで含め、半日以上かけて大変な労力であった上に、周りの衆愚の方は面白がって私を誹謗しまくるといった風で、まあ馬鹿げている。
 即ちSNS時代に啓蒙主義は実際性を伴っていない。彼女の方は仮に過失の法的定義を少し認知した所で、他に彼女の気づかない自己中心性と客観性の違いとか、幾つも認知的障壁の様なものがあり、それらを乗り越え私とコミュニケーションの共通基盤を得るまで甚大な労力がかかるだろう事は目に見えている。
 或る脳科学者が昨今、誰もが知る人気は失われ、各々の最先端は房化(クラスター化)しているといっていた。恐らくSNSの流行による情報環境の変化と、この現象にも密接な関連がある。啓蒙主義は素朴な考えで、文化的多様性を包含するものではなかったわけだ。寧ろ学問的愚の方が適応的な場面すらある。サイバーカスケード現象と、流行の房化は、ポスト真実、科学主義の後退等とも同時代的に起きていて、要は人は各々の情報場を脳内語彙として持ち、その体系から遠い物と無関係に生きている。文化的多様性とは学問的愚を含め、全ミームらを含むもので、我々は自分に似た人とつきあう様に導かれている。
 私はといえば全知に到達したいという大望をもっていた。二十歳から10年間くらいの事で、今も当為としてある。だから海千山千と、愚人俗人の思考原理まで、あらゆる学的正解と別体系として理解しようとしていた。結局これは不可能で、博学の領域拡張になるだけな上に、無秩序な俗界の方が理解は難しい。SNSへ予め期待できるのは、はっきりいうと俗界の分析に留まる。学的知者は少数派だから彼ら単独を追えばよいが、個性に対し無作為な遭遇率の場になればなるほど、俗悪な多数派に遭いがちだからだ。孔子が「君子は上達し、小人は下達する」といった理由を我々はよく考慮し直すべきだと思う。

2019年6月8日

差別とはこけおどし

差別によって他人に畏怖を与え支配しようとする悪意は、その差別を認めない人にはなんの効果も持っていない。つまり差別とは根本的にこけおどしであり、同調圧力により或る人の人格的尊厳を陥れようとする策略に他ならない。

ゆたぼんは自由教育への水先案内人

ゆたぼんはただの天才少年で、叩いてる人らは嫉妬と、義務教育が「義務」であるという文字面の既成観念をホームスクーリングだか家庭教育でぶっ壊されて、発狂してる凡愚の大人だろう。例外的個性に弱いのは地頭が悪いから、自分の価値観をぶっ壊されて認知的不協和に堪えられない。
 明治以後の公教育は国民国家を作る為の政府都合の制度だから、もともと教育って家庭教師つける貴族の嗜みなのであって、集団教育を貧民にも押し付けるということそのものが大いに矛盾してる。寺子屋行きたくないといってる子供に無理やり行かせて自殺させる意味が全く分からないんだから。
 ゆたぼんは天才なので一瞬で本質を見抜いて「ロボットみたい」と看破してしまっただけで、少なくとも科学教育はAIだか機械でもできる論理的作業をひたすら詰め込んでる面が殆どなので正に暗記ロボを作っている。で、労働者にしたてあげようという学部までの教育体制も、極論すれば政府による奴隷化が目的だ。ユーチューブにせよネットは情報産業時代で生産設備を家庭向けに卸したから、そこに最適化したければ子供の頃から型にはまらない創造力を伸ばすのがベストで、まさにゆたぼんみたいに人と違うこと、差異化をつきつめるのが正解。そこに興味が集まったらページビューだか広告収益がつくという仕組みで。
 なんでゆたぼんのテーゼ「自殺するくらいなら学校行くな。命が大事」に発狂してしまう大人が大量に日本限定でいるかというと、この人達は日本政府の文科省に完璧に洗脳されたロボット人間、ロボット労働者階級だから。彼らは『1984』みたいに政府の管理人間として生きるのを是とするから。
 なぜ日本政府がロボット労働者を量産する体制かというと、公教育を全国規模ではじめてやった明治政府は工業化時代に最適化しようとしたからで、工場労働者や製造業会社員は型にはまった作業をくり返すのが効率的だったからだ。トヨタも含めもう日本の製造業は落ち目だから、ゆたぼんが時代を読んでる。ゆたぼんは猛烈なJP同調圧力袋叩きで学校行きました投稿とかしてしまってこのままあきらめるかしらないが、イケハヤ氏らをみたらわかるようページビューにほぼ比例して収益があがる以上、炎上案件って寧ろ差異化された情報を生産できてるわけだから、それこそ高い労働生産性の一種です。ゆたぼんは情報産業に最適化する筋道を極めて早熟に辿っているだけだが、他のユーチューバーになりたいといっている子供からしたら先を越されていることになるわけで、嫉妬からの中傷を受け易い。しかしそれも彼の収益を上げる結果になるので、最適化の一部といえるだろう。
 虐めとか同調圧力地獄とかを理由に、不登校扱いの子供を無理やり学校に通わせようとする愚かな親を持っている家庭では、ゆたぼんは認知的不協和をもたらす(工業化時代の価値観を破壊する)と同時に、子供にとっては羨ましい家庭の恵まれた子となる。だから猛烈なコメントでの衆愚的バッシングになる。
 更に悪趣味なことに、コメント欄で狂乱し、子供相手に誹謗や非難で荒らしまくる集団教育匿名暴徒を観察すると称し、集団虐めを第三者としてニヤニヤ眺めている下衆も群れてくるといった具合で、ゆたぼん自身の純真さ(不登校の子の為に頑張る)とは全く違った意味で炎上ユーチューバーと化しているわけだ。

 もう一ついえるのは、ゆたぼんが袋叩きにあう理由は、彼自身の義務教育批判の革命行為と全く別の点で、彼の性格が日本の謙遜の美徳と対極にあることだ。目立ちたがり屋で、人前で堂々と喋る。大人顔負けに、何も見ずに。こういう個性を単に忌み嫌うのみならず同調圧力で潰すのがいわゆる和なわけだ。
 本来、もぎけん(ゆたぼんと協働した動画を自身のユーチューブにアップした、脳科学者の茂木健一郎氏)がいうべきことは、脳科学の観点から無二の個性を育むのが教育本来の目的だとかそういう自由教養的な文脈と思うのだけど、彼単独のユーチューブでの批評ではその様な中身にしていなかった。どっちかなら不登校を賞賛してるのではなく、ユーチューブクリエイトを自由研究扱いしている。つまり教育論者としてもぎけんはここでなぜか半ば保守化しているのであって、「学校なんていらないよ」「もう全部、多様性の時代で基礎だけ政府がネットにのっけとけばいい」「あとは全部単位制で」「きてもこなくても生徒の自由」ってどんどん自由教育論につなげていけばいいのに、そうしないのだ。教育は洗脳だが、洋の東西を問わず自由教養はこの逆で寧ろ貴族となるべき人が自ら考えられること、主権者としての基礎を与えるのが目的なのであり、多数政治を仕組みにしているわが国でも、勿論、自由教養の方が元々あるべき教育の姿なわけだ。義務教育は当然、これに反する。政府のおしつけなので。
 例えばバフェットがいってたが彼の住むネブラスカ州オマハの公教育はぶっ壊れているから格差が固定化してしまう。公教育に費用を惜しまないのが大事との話だが、義務教育は元々こういう貧困層への最低限度以上の教育を与える文脈で出てきたものなのに、現時点で横浜給食費とるとか東京ブランド服とかいう。要するに南関東(東京圏)のよう格差拡大が極端になった地域では、公教育はやはり壊れていて、私立と公立で住み分け公立は貧民向けの三流教育みたいな破滅的状況になっている。私は南関東の問題は或る意味で自分の地域ではないし(普段から中華思想なのが南関だ)、ダニクル効果か知らないが常々都会は最先端と称する南関人自身に解決して欲しいので深入りしないが。
 なにがいいたいかというと、自由教育を推進すると、ゆたぼんみたいに基礎的教育をなおざりにする人間が、完全に得意分野に特化して成長していく多様化が進むが、同時に落ちこぼれは徹底して学ばないという二極化にも繋がり易い。都会の公教育で相対的に質が低下するのもこの前段階ということ。

 もう一つ、日本には学歴主義者といった部類の人達がいる。この人達は偏差値教育の信奉者で、文科省が指定した大学入試までの履修課程を18歳時点でいかに最短で詰め込むかに人生を懸けていて、それ以外の成人教育とか再教育とか、それどころか留年とか、学外学習とか独学なども全部無視している。おそらくゆたぼん叩きの人達の一部にも、この種の学歴主義信者がいて、脳や知識の多様化を拒否しているわけだ。そもそも学歴主義が出てくる理由は人間を型にはめ、科挙式にペーパーテストで有能さをはかろうという些か単純化しすぎた極東的全体主義統制の意図からくるわけだが、勿論理論破綻している。
 そもそも現時点の科学研究の水準だの研究者・教授の好待遇で最上位に位置する欧米圏で世界大学ランクの上位校には私立大が複数含まれ、それらの学校群は親のコネ入学を公式に認めていたり、AO入試的な面接が基本なので日本流の受験勉強なるものはないわけだ。つまり偏差値教育自体がガラパゴスである。学歴主義者一般は、端的にいうと日本の文科省が東大卒官僚で占められていて、彼らの人生を再生産させようとするガラパゴス化の後遺症から、偏差値教育の犠牲者といっていい。彼らはペーパーテストしかできない受験馬鹿で商業では平凡な成績しかあげられないかもしれないが、確証偏見で人事差別する。即ち人事差別における学歴主義者の跋扈は、いわば大企業病や官僚主義の兆候でしかなく、或る人物の商才と無関係に、シグナリングに基づく人事を行ってより無能な高学歴者を採用する結果、硬直化した非効率組織を保守する役割におちつく。一部又は一般の日本企業や日本政府が優秀な他国の組織より相対的に無能ならこの様な病弊もしばしば関係している筈である。
 ゆたぼんは中卒で終わるか、その後、彼のいう大検だか高卒認定試験だかを経てハーバードの哲学博士を持つかは知らないが、どっちにしてもユーチューバーとして天才的神童なのは間違いない。その様な実力主義的人事が、組織を営利や公益のため運営するに必要だが、学歴主義者の脳には複雑すぎるのだ。

 ゆたぼんの存在は、既に述べたよう日本のガラパゴス偏差値教育への強烈なアンチテーゼでもある。しかも義務教育批判を通じ、貧民の為の最低限度教育という明治の文脈そのものをぶっ壊し、自由教育時代へ一般民衆の視野を拓く役割を果たしている。都会での公私教育格差の問題へも一石を投じている。
 私の立場は、国内のありとあらゆる事物の多様性を最大化するのが日本人一般の偏狭さを改善するには唯一の手立てというものなので、ゆたぼんの存在と彼の教育革命的活動は基本的に全く肯定しかしない。彼の両親もこの意味では思想的革命家といっていいのではないか? いずれにしても賞賛に値すると思う。

網戸なおし

網戸なおし緑の庭にわれ降りる

差別する人

差別する人は愚かな人、又は卑しい人。差別する人を避けるのが正しい。愚かで卑しい人と共にくらし幸を得るのは難しい。
 差別される側は幸いなり。その人は差別する人より高徳で賢いのだから。

2019年6月7日

ペテンの国

社会「いいですか、あなたは金儲けをするのです。そうです、金儲けです。生活費の為に身売りをすること。労働者としてどこかの会社に被雇用者となるべく履歴書を書き応募して、そこで言われた通りに動く。機械の様に。毎日通うんですよ。それが金儲け。金儲けをしたくないですって? そんなことは許されない。死に至るまで、絶対に駄目。死ぬまで労働者として働く以外の選択肢は、あなたに一つたりとも用意されていない。あるじゃないですかって? 実質ない様なもんですよ。それ以外の選択肢は全力で我々が差別しますので。他人から金を貪る卑しい商売なんてしたくないですって? あらあら、それじゃ死に至るまで餓死したらいいじゃないですか。何しろ我々としては、あなたが奴隷階級として死ぬまで働き、その労働価値を搾取するのが務め。勤労納税の奴隷の義務を果たしてもらえないと、天皇制は維持できない」
商人A「そうやで。世の為人の為に働くんや。それがあきんどの努め!」
商人B「この無能が」
商人C「自己責任で死んだらいいのでは」
公務員A「とりあえず、生活保護は絶対に与えない」
商人D「うんうん。まあ労働者以外の人生などお前には無いのだよ。無能めが」
日本国民一般「天皇陛下万歳! 上皇陛下万歳!」
天皇「よきに計らえ! では、そちらは朕に納税の義務を果たすのじゃな?」
日本国民一般「仰せの通りに! 万歳万歳!」
商人E「どうか、わかったか? お前みたいな奴隷階級に残されている道はただ一つ。身売りしろ。企業に身売りして労働しろ!」
商人F「自営業もあるんやで。ネットで儲けるアフィリエイト、ユーチューブコンサルどや」
商人G「ではこの教材を買ってね」
僕「この教材は高すぎて買えません」
商人G「はあ? 失せろごみ」
商人F「けっ。貧乏人は土下座でわびろや。下らん。次いくでほな」
日本国民一般「ギャハハ、自己責任やろ」
首相A「オホホホ。金儲けして貴様らが納税すればするほど、企業からは日銀ETF経由の株で儲かって円が濃縮する、国家社会主義日本は素晴らしいのう。円が濃縮すればするほど、物価があがるほど、貧乏人搾取したがる金持ちどもがわしに支持票をくれるのじゃわ。楽チン楽チン。アメリカ様様やね」
僕「(苦笑いしながら)へえ、いいっすね」
副総理A「今までなにしてたんだ? 金儲けはまだか。納税して国家に貢献してくれなきゃ困るよ。かねや、かねかね。とにかく世の中かねだから」
僕「(苦笑いしながら)へえ、そうっすか」
商人一同「東京に嫉妬してんだろ(大爆笑)。田舎もんが!」
えせ文化人A「日本でどうしてGAFA(ガファ)やBAT(バット)がでないんだろー。あ。そっか。老人が悪いんだー。じゃあ高齢者の延命治療やめればもっと世の中よくなるね(大爆笑)。ほら~、テレビもネットも僕らを学歴差別でどんどんかねくれるっすよ」
えせ文化人B「あっはっは。勝ち組とは俺らの事」
僕「うん。馬鹿にしか見えない」
えせ文化人C「はいブロック」
フリージャーナリストA「緑川君に宜しくいっといてください。間もなくブロックです」
えせ文化人A「褒めてくれないと。ほら。金儲けだから、知識って」
えせ文化人B「金儲けごっこなの、全部。だから学歴差別で金儲かりゃいいだろうが」
僕「リチャードドーキンスっているでしょう? 彼は無神論を正当化してるけど、科学教のミームを新たな信仰にしてるだけじゃない?」
えせ文化人A「ちっ」
えせ文化人B「なにいってるんだこの馬鹿は(笑)、金と関係あるけ? それ」
えせ文化人C「いいからブロックしとけよ。大衆と関係ないだろ」
僕「資本主義教で洗脳されきってんの?」
商人H「なにを申しますか。資本主義が最高の教義。かねで操作できる簡単な奴隷宗教。至高至善の究極真理を疑うなど想像だにできぬ。うぬは不埒な輩じゃわ。というか貧民がなにいっても無駄だからとりあえず働けやごみ屑が」
僕「天皇制の奴隷っすか?」
商人I「お前さんは時代を先にいきすぎてるからー。共産主義者? 中核派? コンビニで働けば? 株買お。ラブホでバイトして深夜手当てもらって蓄財しよ。そんで貧乏人共を見下してくらそ。ウッホッホ」
首相A「いいから、労働して貧民は奴隷階級のままでいればいいじゃないですか」
天皇「そうだよ」
商人J「わっちは、けものフレンズ2に夢中でげす、おのれらがなにいってるか全然わかりません」
商人K「ポルノ、マンガ、アニメ、性売買にお笑いバラエティ、ゲーム中毒カジノにスマホ、下衆な娯楽で現実逃避、最高すぎる」
商人L「金儲かってるんだからお前が間違ってるんだよ。ここは末期ローマさ」
商人M「起業しろ(笑)。金儲けは楽しいぞお」
商人N「寄付の代わりにお年玉ばら撒くわ。真の貧民なぞ自己責任だからね。フォロワー買えて一石二鳥どす」
商人O「ハハハ。搾取搾取。搾取でその日暮らし、頭を馬鹿にしろ。馬鹿になって酒飲んで寝てろ。上皇から浮浪者まで全部馬鹿になれ!」
政治家A「こんな世の中は変えねばならぬ! 私に票をくれ」
日本国民一般「ふざけんな。首相は馬鹿でなければ務まらない。首相はゲスでなければ務まらない。なぜなら、我々愚民に理解できてついていけるのは愚図だけだからだ!」
政治家B「潰れるぞ」
日本国民一般「金儲け金儲け、移民奴隷で金儲け」
東京都民A「原発は田舎におしつけて、金を貪ってりゃ全国から若い女が寄ってきて身売りしてくるんだよな~(げすな嗤い)、ウゲヒャハヤ」
東京都民B「ほんとちょろいよな、JPサンたちは」
東京都民C「ほんじゃ、ちょっくら金ばらまいてくるわ。五輪でぼろもうけしたから」
京都市民A「ええおすなあ」
福島県民A「辛いよ~苦しいよ~」
青森県民A「もうわーら老いぼれたちに原発おしつけるのやめておくれ」
新潟県民A「知事まで潰された」
茨城県民A「だから言ったでしょ、東京が悪いんだって」
南関東&北海道&西日本&中部人全体「東京最高! 田舎は潰せ! 金や女や酒や、騒げ騒げウゲヒャハ」
上皇「朕の分はまだか」
宮内庁職員A「ははあ~仰せの通りに」
神道神主A「こちらが国民奴隷どもの血税から練り上げた、真っ赤な団子でございます」
上皇「それでは朕の、中国から侵略してきた神たる先祖を祭る儀式をはじめる。よいか、国民どもには朕を崇めさせるように」
国家公務員全体「ははあ~」
アメリカ人A「正直、こいつら馬鹿じゃね?」
イギリス人A「うん。精神年齢15歳から更に下がってるかも」
フランス人A「こいつら人権も分かってない」
東京地検特捜部「おいこら! 上級国民様に逆らうのか!」
ドイツ人A「笑えてきた」
中国人A「笑えない」
北朝鮮人A「優柔不断かサイコパスだね」
ネット右翼A「またサヨが反日行為か! ごきぶりは叩き潰せ!」
左翼A「だから~。貧しいのはあなたでしょ? あなたを助けたいといってるの」
自称普通の人A「まだやってる。政治語る奴ってなんで頭おかしいの」
自民党員A「しめしめ。また票がふえるわい」
皇族A「皆私を支持でしょ? 借金返せよ」
商人P「わかったかい? 金儲けしかないと」
僕「私は金儲けが嫌いなんですよ。どうやってもできないし、卑しい様な感じがして気持ち悪いんですよ」
商人P「じゃあ餓死しろよ(冷笑)」
僕「資本主義だか天皇制だか知らないけど、下らない社会を作ってる原理じゃないですか? どっちも信じられない」
商人P「いいかね。あのアメリカの金持ちをみなさい。あのお方は子供の頃は新聞配達、大人になったら株式投資、蓄財してコーラを飲んでいらっしゃる。それだけではない。ハンバーガーの会社に投資し、その肉牛を毎日殺して食べていらっしゃいます。尊いお方。神ながらのお方。なぜ崇めない?」
僕「僕の町は昔、田んぼだったんですよ。とても涼しい田んぼ道で、学校までの道も緑一色だったんですよ。そこに突然、MだかWだか書いてある看板がたちました。そしてそこで僕の親が牛さんを殺して食べる。僕は悲しいのです」
商人P「は? なにが」
僕「僕は子供が商人になるのも悲しいし町が壊れる」
商人P「牛さんが殺されるのが悲しいのではないのかよ」
僕「そうですよ。牛さんは殺されるべきでもなかった。何しろ、僕らは米を作って食べていたのですからね。そこにはかえるも住んでいた」
都会人A「ウゲヒャー。かえるですって、野蛮ね!」
僕「いいや、人差し指の先っぽより小さい黄緑のかえる。僕はその田んぼ道を幼稚園の頃かよっていた。そしてあぜ道を歩くと、小さなかえるさんが跳びます。まるであまつぶみたいにね」
都会人B「で? 今更ファーストフードが来てなんだって? (嘲笑しながら)」
都会人C「いこいこ、クラブいこ。クラブでナンパしてお持ち帰りしよ」
僕「(沈黙)」
商人Q「うんうん。がきんちょのざれごとはよくわかったよ。では宜しく。時給は500円です」
アメリカ人投資家A「グッドジョブ!」
東京都民D「支店の店員ども、上納しろ」
支店長A「ひいい」
アメリカ人経営者A「支店の経営者ども、上納しろ」
東京都民D「ひいい」
僕「馬鹿じゃね」
アメリカ人投資家A「馬鹿? 何がさ? 確かにこの馬鹿げた世界を統治しながら貪るために、最善の考え方が資本主義、我々がこの世で見つけたアダムスミス流の大嘘の教義かもしれないが、それでももっとましなものは? 無かったら君の負けさ(高笑い)」
僕「納得できない」
商人達「イスラエル様~」
イスラエル人A「だからいったじゃないか? パレスチナ問題などないと」
パレスチナ人A「まだ気づかないのか? 資本主義者の嘘に」
国連職員A「気づいてはいないよな。だからかねを出してくれます?」
シリア人A「もう気づいてるんだろう。金儲けのまがまがしさに」
僕「本当に強迫観念でしかないね」
経済学者A「市場放任すりゃ皆、一番得意なことで一番、需給が満ちるじゃあないですか」
経済学者B「それで不景気が生じたら政府が一時拠出で完璧」
経済学者C「資本家が貪るから政府が再配分すべき」
経済学者D「ノーノー。寧ろ政府は無限に拠出しても潰れない」
僕「しかし私に一円も来ません」
経済学者達「君が無能なだけじゃないか(笑)。残念ながら、我々に無能を救う方法などない!」
僕「じゃあ資本主義は僕には邪教じゃん」
経済学者E「はいブロック」
経済学者F「とりあえず労働してくれないと。社会主義国、日本もそうだが、失敗したんじゃね」
僕「北欧は?」
経済学者F「ブロック」
ノルウェー人A「私達はアメリカが馬鹿だと思ってるのよ」
イギリス人B「僕も」
フランス人B「私も」
アメリカ人B「植民地を馬鹿にする王冠ども(笑)」
日本人A「アメリカ様は神だと思ってます」
南アメリカ人A「日本って馬鹿なの?」
中国人A「当然だけど、日本よりは賢いよ」
韓国人A「同意」
釈迦「乞食しなさい」
僕「日本だと民法で違法化されてしまっている」
釈迦「何も求めるな」
僕「はい」
釈迦「無欲でいるのだぞ」
僕「はい」
ユーチューバーA「ウッヒャッヒャ。経費で落ちるからまたマック最新モデルを性能マックスで注文動画とった、アイフォン最高機種沈めた動画でまた儲かった」
商人R「お前無職だろ(嘲笑)」
僕「画家です」
商人R「定職ついてない、この雑魚め、犯罪者予備軍め」
僕「(沈黙)」
商人R「私は他のメーカー勤務の商人に発情して温泉で交尾するから。お前はしんどけよごみ屑」
僕「(沈黙)」
商人R「はい子育てもできない雑魚はブロックした」
僕「(沈黙)」
漫画家A「画家? は? エロマンガ描いてる私を馬鹿にしてるの?」
僕「特に」
漫画家A「マンガが絵だろ(笑)、なんだよ文脈って」
僕「別に」
アニメーターA「子供が見てわかる?」
僕「知らない」
アニメーターA「外人に受けてんの?」
僕「いいや」
漫画家A&アニメーターA「儲かった?(嘲笑)」
社会「引きこもりは病理。理由は私達商人と違うから。商人は出づっぱりでなければならない。外で労働していなければならない。これは絶対の信仰である。誰も疑ってはならない。働かぬ者死すべし」
引きこもりA「他人を傷つけたくないから、競争なんてできません」
母親A「おお可哀想に、これをお食べ」
社会「甘えさせるな! 奴隷に仕立てろ! 奴隷でなければ人にあらず!」
引きこもりA「なんで産んだの」
母親A「ごめんね、ごめんね」
社会「いいから叩き出せ、さもなければ抹殺だ!」
商人S「クエークエッケッケ」
商人T「さーて、そろそろ搾取しますか」
母親A「ごめんね」
社会「感謝しろ、下種」
引きこもりB「おい、あの首吊り動画みた?」
引きこもりC「やばかった」
引きこもりD「母親の慟哭が心を切り裂く配信だった」
母親A「ごめんね、ごめんねAちゃん」
社会「ざまあみろ、これが労働奴隷の真実だ! 働かねば死す。労働者となり天皇陛下に貢ぐ、資本主義の下で富国強兵し神道を崇めよ!」
商人U「満員電車にすし詰めにされ、痴漢で暮らすのは楽しすぎる。田舎を差別しながら、深夜に帰ってきてまた通勤ラッシュ。何もかもが不自由だ。盆と正月には帰省ラッシュ、ストレス好きの俺たちにはたまらねーぜ」
商人V「やっぱ暮らすなら東京しかないよな」
商人U「おう!」
商人V「無職はごみさ」
商人W「そんで? お前は? 儲かりまっか」
僕「いいえ」
商人X「はあ? 生きてる意味あんの?」
商人Y「お笑い芸人ですら儲けてるのに? 娼婦様より価値がないんやで、お前という存在は」
商人Z「分かったら労働奴隷なるか、自殺かだな」
僕「釈迦が言った、無業にとどまれと」
商人達「狂人か?」
皇族B「生活保護で暮らすつもりか? この貧民」
僕「どうせくれないじゃないですか」
皇族B「ご名答。この馬鹿国民どもは私らの婚約者の借金なら喜んで払うが」
皇族C「とかく、洗脳すれば楽に何もかも運んでくるのだからな、こいつらときたら」
皇族D「で、お前はまだ皇室廃止などといっているのか」
皇族E「無駄なことを」
皇族F「愚民の上に辛き政治ありというではないか。私達はこれでも楽させてやっているほうだ。実際、愚民自身がそういっているではないか?」
皇族G「このワインをかえてくれ」
皇族H「そうね、赤がいいわ。愚民どもの血のようで」
皇族J「おほほ、面白いわね。しらふかしら」
皇族I「その目がなにをいおうとしているか、あててあげましょうか。あなたも私も無業なら同じといいたいのでしょう?」
皇族K「これはまた乙なことを」
皇族L「私は働いていますわ。勿論、民の血税をむさぼりとるという伝統的な神道の神職、じゃなかった、皇族のお仕事をさせていただいていますのよ」
皇族M「愚民はあなたには一円もやらない。それも永遠にね。洗脳されるほど愚かなのだよ? 神道の信者、政府の奴隷。だから私たちには無限の富を貢ぐ」
皇族N「我々の先祖が中華皇帝を模した時から始まったゲームだよ」
皇族O「奴隷には奴隷の仕事がおありではなくて?」
皇族P「奴隷語は難しいわね」
皇族Q「わかったら、奴隷しなよ。朕は将来の天皇だよ。なにかあったらただじゃおかないから、ここから出て行け。ドレイ!」
僕「ここは私の国ですよ? 主権者は国民なので」
皇族A「建前はね」
皇族B「まだお分かりにならないのかしら、労働奴隷になって、私に貢ぐのがあなたの仕事なの」
アメリカ人C「なんて愚かなことをやってるんだ、この極東アジアンは」
フランス人C「まだ人権すら分かってないっていったじゃない?」
カナダ人A「共和国なんて早すぎる民衆なのでは」
ニュージーランド人A「忠誠を本気で信じてるわけ?」
オーストラリア人A「ただの形式じゃないのか」
日本国民A「労働者して暮らしてればいいじゃん。負け組は差別して、勝ち組ぶればいいじゃん。新卒一括採用でカラスみたいな服きて嘘ついて会社に入り込んで、一生何も考えずスマホで荒野行動やって死んでいけばいいじゃん。未来など考えず周りに合わせて発情し、妊娠して女ぶればいいじゃん」
日本国民B「有名になりたい。地上波に出たい。だからおじさん向け猥褻ティクって人気とろうっと」
日本国民C「かねがもうかりゃオッケーよ」
日本国民D「天皇陛下万歳、資本主義万歳」
日本国民E「自民党批判する奴って左翼なん? 左翼って屑?」
日本国民F「東京いきたーい。東京であばずれしたい」
僕「私は、この愚民の国が一度も好きになれた試しがないんだが」
日本国民G「出て行けよ(怒)」
僕「出て行くかねは?」
日本国民H「働け!」
僕「なんで愚民の為に働くの?」
日本国民I「じゃあしんどけよ」
僕「しぬはずないだろ」
日本国民J「嫌いなら出て行けよ!」
僕「話ループしてますよ」
日本国民K「まあいいわ、ブロック」
日本国民L「ブロック」
日本国民M「ブロック」
僕「寧ろ馬鹿が勝手にブロックしてくれる仕組みだけがツイッターの功績だよね」
日本国民N「ブロック」
日本国民O「フェイクニュース楽すいい」
日本国民P「ポスト真実くれ」
日本国民Q「中華思想の差別情報くれ」
僕「私は社民主義がよりましな仕組みだとは思うけど、実際にそうなりえないほど愚民の日本で、しかも金儲け自体が馬鹿げているといっているんですよ。勿論、天皇なんて下種中の下種でしかない、差別に乗っかってる馬鹿でしかないんだから。なぜ金儲けが馬鹿げてるといえば他人を搾取だの貪るからだ」
商人全員「で? だから? 商売やめて生きていけんの?」
僕「あんたらの一生涯を見てても軽蔑の念しか感じない」
商人全員「こっちはお前を軽蔑しているが」
僕「全部寄付しろ」
商人全員「やなこった。金儲けしまくったら半分くらいならやってもいいが、それもお前らがうるさいからやるのだ。寄付しろ? なめてるの? 金儲けして何が悪いの? 無能な他人を貪って騙してかねとって何が悪いの? こっちが付加価値っつって儲け分をのせて料金請求してることくらいわかるだろう? それが詐欺だって言いすぎなんじゃ?」
僕「そういうずる賢くて卑しい考えが嫌いなの、僕はね」
商人全員「騙したもんがちやろ。途上国で10円で労働させ、先進国で10万円で売る。喜んで買うで。どっちの労働者どもも喜んでるやん。それで株主もウハウハ、皇族はまあごみかもしれんが、どっちにしても誰も困らんやろ」
僕「その仕組みが邪悪だから、どんどん格差広がるわけでしょ?」
商人全員「あんたさんはグローバリズムに反対どすか? グローバル経済は巨視的には善やで。ホリエモンがいうとるやん。実際には途上国を徐々に豊かにしていくだけなんや。先進国内で格差が広がるのはしゃーない。だからベーシックインカムにせえゆうとるのに、阿呆な政治屋がしやがらんのやわ」
僕「ベーシックインカムを先進国で実施すると、労働生産性が下がるので途上国の経済成長率の前で、後塵を拝したくないからやらないわけでしょ? ユニバーサルクレジットとかいうイギリスの制度も、就労促進を前提にしか福祉給付をしないとOECDの勧めでやっている。結局、ローマも無償給付で潰れた」
商人全員「ほんで? だから? 結局、あんたさんはなにがいいたいんや? ベーカムも駄目いうとるやん。そんなら乞食いうても生活保護くれゆうても、やらんだけの話やろ。奴隷勤労でもしとけいう話やで。途上国と同じ100万で暮らせユニクロ柳井がいうたやろ。それがリアルグローバル経済やで」
政治家C「国民どもにはいかりを磨かせろ。船員に暇を与えてはならぬ」
自民党員B「移民と競合させ、物価あげたら、景気回復するとか日銀が言ってるからそうしろ」
僕「物価だけ上がって、実質賃金上がらないので、景気悪化しますよ。だって企業は移民労働者つかえばいいだけじゃん」
日銀「ぐぬぬ。いってはならぬことを」
首相A「なぜ物価を上げたいかですって? アメリカ様がそういうのでね」
米政府「なぜ日本を潰したいか? そりゃ属国なんて吸い取れるだけ吸い取るよ」
商人全員「ほんまアホな政府やけど、まあ企業が賃金抑制しても移民と貧民が苦しむだけやで。ええやんか」
僕「格差が広がるだけですよね?」
商人全員&米政府&首相A&日銀「ええ」
僕「資産格差。所得格差ですよね?」
商人全員&米政府&首相A&日銀「そう」
僕「なぜ縮めようとしないの?」
商人全員&米政府&首相A&日銀「私達は上級国民ですから、金持ちから見たら貧民を差別したいものですよ(笑)」
アリストテレス「最もよい国は、資産が中くらいにある良識的な国民が、多数政治を行う」
僕「先生、中流を破壊し、二極化させている日米の末路は?」
アリストテレス「衆愚政治か独裁政治じゃないですか? 愚かな多数派か、それを統制する独裁者か」
僕「どうすればいいと?」
アリストテレス「君自身が王になって統治するか、君が貴族として良識的な少数派を率いるか、導けば?」
僕「しかし私は絵描きですよ」
アリストテレス「啓蒙ですかね」
僕「やってはみます」
商人全員「で、お前はどうするの?」
僕「政治家を清貧にすればいいのでは。金儲けを軽蔑すればいいのでは」
自民党員全員「ギャッハッハ。今更、武士道もちだしてきてるよこの阿呆は。薩長藩閥が全否定してやったじゃねえかよ。勝てば官軍なんだよこちとら外様大名出身なんだから」
徳川宗家「え?」
僕「政治家は金儲けじゃなく公益に奉仕する、公僕じゃないか? なぜ金儲けなんて卑しい仕事してるんだよ」
商人全員「職業に貴賎なしだぎゃあ。かね儲けて何が悪いか、トヨタなしに一日も芸者呼べない貧困自民党如きが偉そうに」
自民党員全員「ははあ、そちもワルよのお。おお、そちは東電、東芝、日産。ワルよのお、ワルよのお」
僕「ほーら言った」
中央官僚A「かねにならない東北は最初から滅んでいる!」
僕「結局お前ら政治屋どもが金に汚いからこうなった」
首相A「金を儲けて何が悪い」
副総理A「銭勘定で国家運営してるんや」
僕「その国家が破綻してる」
官僚全員「ぐぬぬ」
皇族全員「だまらっしゃい、この貧困層! 朕の命令に従え、キイーッ」
僕「お前ら東京都民が贅沢三昧で国が傾く」
東京都民全員「田舎もんから搾取して贅沢自慢するんや。たとえ浮浪者を見なかったことにしていても、そこらのドヤ街を隠し通していても、都会を美化して地方人をだまくらかしておけば、次々洗脳された女が売春にくるんや。それが東京の伝統なんや。江戸時代からの花街なんやああ」
僕「ソドムだった」
商人全員「うんうん、くそがきといおうかくそおっさんといおうか、ようわからんが、この男がいうことは一理あるで。つまりは政治家がかねに汚いせいで、わしら商売人の取り分が減っているというんやな。それならわかる。んじゃ減税せい」
僕「格差広がるから累進で増税せよ」
商人全員「しんどけや!」
首相A「増税していいの? それなら賛成。貧民どもから貪りとろうぜ」
僕「金持ちと大企業からとりなさい」
首相A「それはできない相談だ。自民党は企業献金で食ってるんだぜ」
僕「自民党を潰せ」
首相A「馬鹿か。それなら私の立場はどうなる」
僕「お前以外にも公僕は幾らでもいるのだぞ」
副総理A「金持ちに増税したら海外に逃げる」
僕「じゃあ格差が広がり続けるじゃん」
副総理A「お前も金持ち側に入ればいい」
僕「無理なら?」
副総理A「しったこっちゃねえよ」
僕「金持ちが逃げたらなんだというんだ?」
副総理A「税収が減る」
僕「中流が安定した税収を上げるんだろうに」
自民党員C「いいか、お前の理屈は分かった。だが大企業だの金持ちだのがあげてくる税収が一番多い」
僕「じゃあ租税回避をなぜ防止しない?」
自民党員D「それはそれじゃないか(笑)」
自民党員E「結局、金持ちだけ優遇しとけば貧民だかB層だかは騙されて自民党支持してくるのは見てのとおりだ」
自民党員F「金持ちのほうが教育レベルが高い。平均してだが、それで家計も貧民はろくに判断できない。じゃあ騙しておいたら簡単に税収があがるだろ?」
自民党員G「中流ふやしたら自民党の地位がまた覆りはしないかね」
中央官僚B「その通り」
僕「お前らは党利に耽って全体を不幸にしているのだ」
商人全員「格差減らしたら儲かりまっか」
僕「儲かる」
自民党員H「保証は?」
僕「高度成長」
自民党員I「にわかに信じがたい。そもそもアメリカは格差社会じゃないか」
自民党員J「なんでもアメリカをまねとけば地位は保全されるじゃないか」
自民党員K「岸信介、安倍晋三、アメリカの奴隷は安泰だ」
僕「税は、もともと金持ちが取りすぎている分を貧民に回すための装置でしかないんだよ」
自民党員L「またご大層な理屈だが、それなら皇室はどうなる?」
僕「ごみだ」
商人全員「賛成」
自民党員M「愚民を洗脳するには都合がいい存在だ」
僕「副作用が税の浪費じゃないか」
日本国民全員「陛下万歳!」
僕「アメリカであれ中国であれ、中流が大量消費したら普通に、もっと成長するに決まってるじゃないか?」
自民党員N「結局、竹中平蔵がいる限り無理じゃね?」
自民党員O「年功序列ですので我が党は」
僕「やっぱり自民党は潰すしかない」
自民党員P「そんな革命家いねえよ(笑)。がきんちょも雑魚」
日本の若者「就職させてけろ。かねが足りず死ぬのが怖いでゲス。貧乏人にだけはなりたくないでゲス。かねが全てでゲス」
自民党員Q「ほらな」
自民党員R「こんな下衆どもなんだから、竹中のいうとおりにしたらいいじゃん」
僕「馬鹿に合わせてたらいつまでも進歩しないだろ」
MMT論者「格差拡大万歳。政府が赤字で問題なし。とにかく格差を無限に拡大すればよろし。理由はない」
僕「ほらね、馬鹿に合わせてたら無限に社会は悪化するんだよ」
MMT論者「財政支出を無限にしても法定通貨が希薄化するだけ」
僕「要は自滅しろというのだ」
MMT論者「法定通貨が弱くなっても無問題。理由はない」
古典経済学者A「こいつら馬鹿を唆せば、日本を実験台に潰せるじゃん」
古典経済学者B「面白い、もっとやらせろ」
MMT論者「自国通貨が弱くなったら為替市場が勝手に調整してくれるから問題なし。ゼロ金利のままなら悪性インフレで物価高騰など起きない。庶民は無限の社会保障でハッピー!」
自民党員S「何が言いたい? 安倍は阿呆だぞ?」
自民党員T「頭がパーを御輿にしてるのが誰か知りたいか? 勿論我々党員であり、中央官僚であり、何しろアメリカ政府なんだよ」
自民党員U「MMT論者のいうとおりになるに違いないぞ。安倍はアメリカ政府のでくだ」
僕「それをとめるのが仕事だろ?」
自民党員V「待てまて。実際にMMT通りにやって成功したらどうする?」
古典経済学者達「(大爆笑)」
MMT論者「いうねえ。その通りでがんすよ。どんどん日本政府は赤字拡大してくんさい! わが国アメリカの先鞭をつけてくださいでやんす」
僕「なぜ?」
MMT論者「勿論、私のロビー活動の為でがんすよ」
僕「君が御用学者の地位を占めたいからいってんだろ?」
MMT論者「御意」
自民党員W「結局どうしろと?」
自民党員X「首相Aも副総理Aもそんな高級な議論わかるわけねえじゃん」
自民党員Y「とりあえず結論を手短にどうぞ」
僕「竹中とMMT論者は政商ですね。排除しなければならない」
自民党員Z「さっきいったでしょう? 我が党は年功序列でしてね。小泉親子の手前、そうはいかないんですよ。まあ安倍麻生が退陣後にまた来てください」
僕「遅すぎるでしょ?」
自民党員A~Z「長期政権の間違いでは?」
右翼「安倍万歳」
僕「まあ自民党は潰すしかないのは変わらない」
右翼「自民党潰すとか小泉父かお前は」
僕「本気で潰すしかないだろ」
右翼「できるもんならやってみろ」
僕「わが国の元凶が自民党の金権政治と皇室とかいう邪教一家なんだから、このどちらも永久追放です」
右翼「どうやって?」
僕「それをするのが君らでしょ?」
右翼「左翼はよくわからん。天皇陛下万歳、自民党安倍様、愛国者達よ永遠たれ!」
僕「だから君らが国の害なの」
右翼「お前だろ」
商人全員「金儲けしろ」
僕「金儲けしてる限り進歩はない」
政治家D「中流を増やそうというのは分かった。だが右傾化した愚民が動かないよ。アメリカかぶれだし」
僕「最終的にいえるのは、金儲けを軽蔑するのが最も有効」
日本の若者「拝金主義最高。成金ユーチューバーになりたい」
僕「若者は馬鹿だ」
孔子「不義にして富かつ貴きは我において浮雲の如し」
政治家E「金持ちへのルサンチマンとして矮小化されそう」
僕「俺に任せろ」