2008年2月29日

信仰

神様の御響きを仮そめにも日常語に代替するなら、「天」と云うべきだろう。

 我々の頭上あまねく天こそは、我々の全てを見透かし賜る。
現し世にあっては因果応報が人間の道理なのだ。
これは人類達にあまり極端な能力差を設けせしめなかった自然が、我々に「共生」を定めた理由である。

2008年2月28日

国際不均衡の改善

恵まれない途上国民ひとりひとりの暮らしの為に、ODAとNGOによる精一杯の慈善だけでは未だ足りない。
現地に企業立地をし、文化を後押しすることも、必ずしもその国々の自信に繋がるとは限らない。

国連による国際徴税と、国際間における富偏在の調整はいずれ必要である。
 だが、専らはみずからの属した国家を主体とし、地道な慈善活動を続けていくしかない。

2008年2月27日

文化について

日本人は鬼退治で稼いだ金を、専ら国土の自然を守りはぐくむ為に使わないとならない。最高の浄財すなわち最高善とは、みずからを育んでくれた国土を最大限にいたわる事だった。いずれの国土もただ民族によりcultivateできるだけだから。何しろ、この世で人は働くしかない。

人語

一度もつけていないテレビ受信料を、民衆の貧富問わずに国法をもふりかざしながら搾り取るNHK。

国民学力

日本人は平均学力を引き上げるべきで、ある国におけるような闇雲な高学歴志向は学位の過剰供給により却って国民の学力を削ぐ。ある学位の授与可能性に関しても、その最低学力度は国民度に対する相対した学位でしかあり得ないからだ。具体的に言えば、中世イギリスでの傑出した秀才たるニュートンの発見した力学の知識は今日では高等学校で誰しも当たり前に要求されるのであり、将来に渡っては、思想潮流に根本革命ない限り様々に学習能率を向上させることで小中学校においても学ばれるだろう。例えば国民学力の一つの目安として自然科学において、イギリスでは1901年から1988年までに64人がノーベル賞に冠したが、日本からは5人であった。かつイギリスの人口は日本の約半分であることを考えて、日本人はイギリス人に比較して20世紀の間、国民悟性において低民度であったと言わざるを得ない。
 当代に独創的な仕事は人類史が示す通り、無理解に遭うのは当然だから、何らかの同時代賞がすなわち優れた知識の証拠であるとは必ずしも言えないが、我々は先ずは国民の平均文明度を底上げしなければ決して、大学院における研究成果での最上の功績も世界を抜群しえないだろう。

2008年2月26日

企業改良策

日本の企業は身分差別たる《学歴制》の不問を大義名分として掲げるべきである。

Entry sheetいわゆる履歴書に最終学歴を書かせる風習はすなわち、民衆の自助努力を不当にも迫害する〈見えない網の目〉と呼ばれる。
 およそ大学院生が教育または科学研究の機関以外にとっては、現実離れした世間知らずな認識の持ち主としてむしろ疎んじられるのは自然だろう。
[この点で我々は、大学院教育をむやみに奨励する韓国の社会体制を反面教育にしうるだろう。
少なくとも日本において大学院教育とは一般教養的な性格をふくむ学部教育とは違って、研究教育としての専門的方法習得を目的とする。]
学識をそれ自体のために学究する能力は飽くまで理論または実践理性の長所を示すに過ぎないのであって、技術理性すなわち人間感情の長所をも併せもつかは未知数でもあり、おおよそにおいて現実社会に平均的な能力を要求される一般企業の経済的生産労働に関しては逆に、理想の高さから挫折や失敗の起因にもなりがちなのは仕方ないことであろう。
そしてこのような、仕事の手慣れに時間のかかる人材をじっくり育てるだけの余裕がないような中小企業にとっては、むしろ高過ぎる学歴は邪魔とみなさざるを得ないのも理由がないことではない。

かと言って様々に複雑な活用をこなさねばならない企業にとっては採用決定にあたり指標を要する。
[内部出世は適性の検査を行う機会がある以上、官庁のような単に形式化された作業でない限り、何らかの緩和があるべきだろうし、またrestructuringなど絶えず能率向上の自主改良は行われざるをえない。
およそ営利企業にとって〈ただ乗り・free rider〉は人件費の最たる無駄であるから。]
 はっきりしているのは、大企業ほど早く学歴差別を撤廃自浄しない限り経営効率は改良できないということだ。
なぜなら世襲化された学歴制において行われる差別によっては、正しい、能力による人材の区別がつかない。
このような能力による出世こそ、新たに企業を復活させる唯一の方法なのである。これを『能力の検査』と呼びうる。

理論理性や実践理性がそのまま技術理性の所在たる経済力、すなわち労働能力や経営効率などではない。それらは原理的に別種の上級認識能力なのである。

 専ら営利企業は学歴不問を看板に掲げ、『能力の検査』を内部化しながら新たな栄養を摂取しない限り、その本性から言って固定階級化され内部から腐り滅びていく。


以上を考慮して専ら、大体の企業にとっては「試用期間」と「学歴不問」の原則によって能力検査の方式を次第に内部導入し、不況を乗り切る経営合理化を果たしうるであろう。
全く役立たない者のみならず、学歴制にただ乗りして来た無学なお坊っちゃん、また女権濫用によって肩書きだけは立派に飾った偽社会人を能率よく淘汰する為にも試用期間は必要となる。

大学改革案

現行日本の教育制度の問題は、その学費をほぼ全く生徒の家庭に依存させることで学問の努力にいわば足切りを設け、裕福でない家庭の子女へは高等教育の機会を事実上で閉ざし、社会の内部に新たな世襲貴族の身分たる学歴制の階級固定を暗に垂れ流しにしてしまっている事にある。この様な矛盾はやがて世襲組織の腐敗として、例えば人倫を破っても法的に安全なら主権者たる民衆を欺いてなんとも思わない天下りなど、先進国の社会とは口にもできない悪弊をもたらし、結局は民衆の利潤を阻害しながら文明の展開に逆らう重荷であるところの学歴偶像をみずから奉っているのだ。不幸の源がひとえに、教育機関がいわば企業予備校の手形として発布するところの学位の不当な利用に基づく。
 これらの弊害を浄める為に先ず教育改革に必要なのは、富裕ならざる家庭の子息へ学費の免除を制度化する事、すなわち奨学制度である。しかしながら、実際には、学閥の偶像化という貴族政にありがちな癒着固定によって、一流とされた大学へは入学志願者が殺到し、そこで極めて科挙的な、現実とはあまり関係をもたない大量の知識に既存の正解を求める便宜が諮られているのが実情だ。これを極東風に形容して入学科挙と呼びうる。そして実はこの為に特別な受験予備校と呼ばれる学校さえ存在し、科挙それそのもののための特殊な技法とされる科学そのものとは無関係な無駄を商売し、更にして老若男女この予備校に通うための経費は私立大学の学費に匹敵するほど膨大なので、結局は富裕な子息しか名門とされた大学に入学はできない仕組みになっている。
 さてまた我々は面白いことに、このたぐいの入学科挙の合格をもって何らかの達成とみなし、祭りのようにして祝うことさえある。かくの自己矛盾は恰も民族全体の狂信である。彼らは学歴制にまつわるところの入学科挙の段階を以て一時代の偏った風習に安堵し、その後の本来の目的たる学問は入学科挙の段階で修了したかのように遊び散らすことを社会的に容認しさえする。学生とは、現代日本語においては、まるで学問とは無関係な遊びの切符であるかの如く形骸化しきった有り様であり、我々はこのような腐敗した教育制度を以て断じて文明の終点だとはみなしえまい。
 曰く、この脱構改革には先ず学費の無償が大学の大前提とされなければならない。当目標が達成されない限りは、大学教団は学歴制による身分世襲固定化の頽廃をいざなう、いわば社会に不幸の格差拡大を与え続けている元凶と揶揄されても反論の仕様がない。
 凡そ福祉国家の公立大学においてしか理想は達成不可能に思えるかもしれない。又同じく私学という会社形態においては入試費のみならず普段の学費は主要歳入であり、組織の持続的経営を目的とする限りはその学体規模が大きなほど無償化は困難だろう。この場合、経営陣の自助軽量化以外では主として寄付献金という方法によってしか学費負担を軽減することならないだろう。我々は目標への行程をより進み易くする為に更に工夫を要する。ここにおいて、専らの漸近策として公立図書館の充実という仮設が必然となる。無償の独習機関を援助支援する事は、富裕ならざる生徒の学問の努力を底上げし、世襲化された学歴体制の批判を通じた国情の自己改造を調整しなおす仲介となるから。

教育協同組合論

学校とは経済的圧迫を疑似的に解除することによって、かつ、またそれは学問の自律によって当代にのみ必要な知識研究へと人間理性が政治の手段化されるのを防ぐことを兼ね、学ぶ者たちへ学問に専念できる暇、すなわち、schoolの語源たるscholeを設けることだ。学校とは社会的moratriumの一応公認された装置であり、また同時に、学問の開発部門として特別に設計された会社、associationである。又もってこの種の学校のうち、政府管轄から独立した大学法人とは、謂わば教授会による学問教団である。この種の学問教団は全くそれ自体としては知識商売の会社である。もし商売とは最も負債を残さないもてなしの仕方なら、日本では物品による慣例的なお礼省略のため私学の福沢が始めた、比較的新しい風習である彼らが学費という方式を通して学部卒業の資格、学位を就職の道具化するのは、まさに大学という組織形態が暗黙の社会的容認の中で、学問教団としての地位を徐々に社会予備校化していく過程である。つまり、大学というものは我々の社会が学問教団に対して与えた会社的自律の名義に他ならない。そしてこの類の教団会社は、主として学部教育の学費から無限に、大学院における教授の閑暇の差延を搾り取ることを通じ、全くそれ自体として自由な研究を可能にする。Associationism、協会主義とは、学校主義と言い換え得る。凡そ営利企業のような社会実践的な要求は大学において、何らかの技術に結びつくような応用科学でない限り、哲学つまり社会学の上以外の教育ではほぼ全く止揚されており、従ってそれそのものを目的とした観想の活動も、大学教授の名分により公認された社員の自然とされる。ともあれparadigm shiftは常に脱構築により興る。当代の学識を根本的に革新する理論は、学外において発見されること希ではない。よってこの種の学問教団の長たちは、みずからの知識会社の外部における多大なる学問成果を、学位授与という方便により合理化し、なおさら自らの権威を保護しなければならない。と同様に、これらの拒否権をいずれの教団に属さない個人学者にも必ずや認めなければならない。夏目漱石が文学博士の学位授与辞退を貫いたことはまことに正当であった。なぜなら彼はその種の権威づけが姿を代えた爵位の制度であると見抜いていたからだ。さもなければ巨大教団において、健全な自己反省の社会的規制も不可能になる。例えば、この組織はそれ自身では自治的であるから、academic harassment、学内の嫌がらせは外部監査以外によっては何ら粛正できないだろう。又こういった絶えざる批判矯正の機関が、大学組織の経営命題として科されるべきは疑いを待たない。所詮は静的なかたちで診れば教授たちを中心とした宗教結社である限り、ともあれば内部における権力の濫用は生じがちなのだから。これらの不条理に対して膨大な経営性を伴う大学においては、全く外部監査機関を通じてしか自己批判することはできないだろう。
 およそ史上、学問の府はつねに当代の政治権力と癒着し、退廃しがちである。極東では儒学が、西欧ではスコラ哲学が同時に宗教権威とされ、絶対主義政治の奴隷とされた。これらのもたらした結果は中央集権の腐敗による、いわゆる神学身分の世襲化であり、民衆生活の圧迫であった。いずれも市民革命、或いは日本では敗戦により解決されるまで、真理の発見を様々な悪業で滅却しようとし、民間の利潤を阻害し続けていた。世界精神の必然が知らせるところによれば、最も早くこれらの退廃を打破なしえた国々からまっとうな近代化を果たしえたという事だった。よって、我々は大学組織を政治権力との癒着から絶えず分離しなおすべく、その研究の自由に対して、逆に社会の側の知識水準を大学と併せて脱構築しなければならない。これを学識の社会的先見性と呼びえるだろう。
 我々の教育の目的とは、経済的不平等の問題から生徒を守りはぐくみ、個々人間の学問の努力を通じて単なる学識再創造の領域に限って調整しなおすことよって、その絶えず新たな社会環境への再適応を促し、文明の進化を妨げる諸障害へ柔軟に対処し乗り越えて行けるような人格を育てることにある。我々はプラトン学派のacademyにおいて自由市民の思想教育へとideaの自己目的化なる配分拡大の偏りに陥った事や、孔子の学園において仁という道徳律を絶えず新しく改革されていく科学に対する古書の聖典化という狭い領域に限ったことによる再適応の阻害をよく反省して、東西の元祖的教育機関がいやおうなく陥ってきたところの矛盾を揚棄する機会を温故知新しない訳ではない。従って、少なくとも近代文明において大学乃至はuniversityとは学問の努力を自律して再生させるような、如何なる学識の革命にも自らの組織改造を通じて適応することを義務とした再創造的な協同組合でなければならない。

春待ち

春を待つ心に咲いた桜花

都市計画論

我々は宇宙文明に対する地球型の文化都市として、各大都市を自治計画していかねばなるまい。例えば地球固有の重力(月や太陽からの引力と自転および公転からなる遠心力の斥たる)をもって、我々の経済的建築に特有の合理美を斉すのは当然と呼ばれる。あらゆる風土的要求を超えた原型として又如何なる都市も土着ならざるを得ないが、普遍性としての普通さを展開する形が今日、なおうつくしいとされる。
 我々のふくむ個性を内側から湧き出す可能態として打ち破る普遍性こそ、あらゆる都市計画の目標とすべき命題ではある。そして地球型個性はこれをまた超えていかねばならない。従って重力が恰も無効であるかの様な形、すなわち自重解放を目指す絶えざる脱構的改革の努力は、自体として診れば呆気なく、何かしら工学者と建築家の競演による単なる遊びの様にさえ感じられこそすれ、その実は最も地球文明に適応的なかたちを探り出す現実態の様相に過ぎない。とはいえこの努力も建築が宇宙船というよりは土地工作の一種である限り、作庭風印象を以てその配置的限度を任じる他ない。だから市民や官仕がこの形態に関して文化的伝統をあまりにも離れた暴為であると感じられたならば、活発な議論によってその都市庭園という観点から多少あれ修正を計るべきであろう。凡そつねなんどきたりとも、優れた美意識をもつ建築家は時代の多様性とパトロンの使命感に折衷することを通じて、みずからに使命された形を実現するよう務める。結果が都市遺産と呼ばれるものなのであった。
 この多様は又観点を変えれば時代思潮の混沌そのものなのであって、同時にある時代思潮の枠外にはみだすこと容易でない。例えばある政府は生前に散々叩き台にし窒息迫害の憂き目に遭わせた創造的遺産を、市民の美意識がやっとかれの如き近代にいたるにあたって、まるで豹変して国宝あつかい。この様な甚だしい愚かしさは常にどんな時代にあっても必須なのであり、避けきれない。むしろもっぱら営利を度外視して官仕中心で辛抱づよく図る公共計画の方が、民衆の同意をえやすく先進芸術を建築するものでさえある。以上を考慮すれば、我々が国際都市を建設する際には官民競戯を原則と為す。
 なんとなれば官民は癒着しがちである。これを中央集権の腐敗と名づく。膨大な無駄や各種不正のみならず、結果としてこのような悪業を繰り返した国家は逆にまとまれなかった分裂国と同じく世界史上で滅ぼされてきた。より強烈な周辺民族の組織に侵略消失されたのだった。しかし地球中の歴史遺産はつねづね、民間の技と官仕の決断で建築されたのである。

2008年2月25日

哲学教育論

およそ現代人間にあって最良の教育法とは、子どもに哲学する習慣をつけさせる事だろう。このideaは孔子の云う思学の別を止揚する。我々が今日の語法では科学ないしは哲学として知る学習行動の記号的集積とは、乃ちみなその古代ギリシアから流れてくるただ一つの源泉から汲み揚げた水に過ぎない。なぜならscienceとはphilosopher特有の適応行動でしかありえないからだ。全て、無知を知るところからみずから仮証法・abductioonのみちびきによって、帰納から演繹へと至る世界研究がはじまる。その最終成果は法則と呼ばれる。そして積まれた法則群がある特定の傾向をもって他の知識へ合併できないほど膨大となるとき、それが学識体系として分野される。こうして、我々が学問として覚えるあらゆる領域を含むところの哲学とは、一つの宗教方式である。
 我々は哲学者を名づけて同時に、教育者と呼びえる。そして哲学者でない所の教育者はあり得ない。かれはむしろ単にある固定的な知識を身をもって伝承する宗教家と呼ばれるべきだろう。まさに、自ら智恵を友好するところの哲学者の道徳においてしか、当代に信じるに足る知識体系は伝授なしえないだろう。そうでなければたんに機械操作に還元しえるmathematicalなdataの記憶が固定化し、それ以上発展しえなくなるのは当然だろう。科学の本性は創造的悟性に基づく絶えざる認識修正による、潮流転換の無限な運動にある。我々は科学教育においては、究極のところ哲学することをまねばせえるだけだ。従って各知識の伝達能率に対しては、教師である哲学者たちの特性に併せて、学科を設けるほかない。
 また哲学者とは絶えず宗教をつくる者であり、また古来の信仰を時代思潮へ折衷せしめる者である。ここに温故知新の意義が理解できる。こうして偉大な哲学者は又、後代の人々にとってはその知識体系が何らかのparadigm shiftから殆ど無効にならないかぎり相当の期間、教祖にもなりえる訳だ。

工学

原子力発電は事故可能性がゼロになりえない限りは一時しのぎの方法でしかない。各国には各国なりの発電方針がある。
 日本は山国であって、急峻な河川が大変に豊かなので、少なくともダムのような清流破壊に至らない、優れた美観の水力発電機が開発実用化さるべきである。これはおよそ昔ながらの水車の応用とされるだろう。太陽光発電の助成は政府の命題であり、また地方省庁や民間企業が先を競うべき新たな産業需要である。

イスラムの忠義性

世界史は栄枯盛衰の経過であり、その原理は当代の代表的な産業技術に依存する。イスラム文明は石油資源の限界に至る前に、やがて共産革命によって近代化の道を探り出さねばならない。共生の道はすなわち人道であれ。
 わが国民の堅く守るべき心情は、イスラム信仰の貴さを悟り、決してかれらの陣地を侵攻しない事である。又、かれらが望むのなら悦んで喜捨をあたうべきは疑いなし。金は目的たる経世済民の道具でしかないのだから。ことわざに曰く、「一寸の虫にも五分の魂」と。Terroristが家族を犠牲にしてまで必死で競う、世界文明の頂きこそ有り難いから。

2008年2月24日

反捕鯨団体

野蛮なご馳走! カンガルーさん。

経営訓

『内信外誠(ナイシンガイセイ)』

国内では信頼を、海外では誠実をあきない方針にせよ。
これは優れたユダヤ流儀を対外的に見習いながら、国内産業の「あうんの呼吸」による高い能率を布延する為には最良のpolicyである。

2008年2月23日

哲学の解釈

哲学は、コントの実証説に倣い、数学・天文学・物理学・化学・生物学という基礎科学の最後に位置する、社会学の最終的実証過程にすぎない。そして社会学は近代文明が抜本的に革命されないかぎり永久に完成せず、又我々が必ずや完成させるべき当為として働く。
 したがって、芸術とは社会学の導く環境技術というべき。かつさまざまの芸術が政治的実践を通じて社会化されていく過程をわれわれは経済とよぶ。単に純粋芸術とは究極ではそれら、文明に対しての学術基盤を、とりあえずもっともsimpleな審美環境の典型として提示する機構にすぎない。判断力と趣味をまとめる感情とは、ある個人が属する構造としての時代思潮そのものだ。
 ある時代様式が別の時代には変容する理由も、科学的脱構にともなう必然な思想革命によって、やがてはそれら科学の実践総合たる哲学、社会学にも変更があるから、として説き明かされる。
 以上から、我々は理論理性、純粋理性、悟性、と実践理性とが、たんに同じ理性の側面に過ぎないと分かる。それらは同じtheoria、理想の立場にもとづくからだ。さらに、この理性は、技術理性としての感情をはぐくむ訓練であると考えうる。人格は単に理性的だから尊敬できるのではあるまい。沈黙した偶像ほど誤解されやすいものはない。我々は飽くまでも多彩な理性を裕かに表現する能力をつうじて、あまねく人間性を確立していくのだから。
 こういう意味で文明とは単に経済芸能の舞台。その演劇が見事であればあるだけ、かの国柄は世界中の尊敬を集めることだろう。

信仰

神は尊し、神に頼まず。

2008年2月22日

現代国家論

現代国家の経世済民にとって、農・工・情の三面等価は普遍的な命題。国家とは農業・工業・情業の均衡によってのみ持続可能性をもつ。
 如何なる国も貿易のみに産業を依存してはならない。それは国家が本性として含む功利性のさなかで、恐慌により生命線を塞がれ沈没する危険を意味するだろう。如何なる独立国も、貿易とは単なる国家産業育英の手段に過ぎない。例えば第三次産業としての情業だけに特化した国は、競争国の作為によって貿易ルートを断てば日用消費材の不足から容易に困窮に追い込まれうるかもしれない。よって進化そのものは国家の目的ではない。それは只の生態種別に過ぎない。
 事実、民族共生のためにしつらえられた国家というnation stateは、人類が互いを人格主義関係へと高めるための舟の様なもの。様々な国土の舟が地球と呼ばれる湖の上に偏在している。そして彼らはみずからの船内で生活を営むと同じく、他の船体へと講和をもちかけ様々なめずらしい物品を交易する。それが国際関係。よって、ある舟には不足している物品は可能な限り、他の豊富な舟から輸出されて然るべきだろう。これが貿易の必然と呼ばれる。そして文明度が商才に働き、その際の取引価格に差額を儲ける。
 だが、点在ないしは隣接して浮かぶあらゆる舟のあいだに一定の慣行ルールが確立されない限りは、これが飽くまで舟同士の私的連携たらざるを得ないのは当然だ。従ってここに強大な戦艦に対して、卑小な漁船が少なくとも貿易上で公平な立場にまわる為に、諸国の同和による国際連合が要請される。けれどこの連合は、互いにことばを通じない舟ぶねの乗組員たちにとって極めて難関。なぜなら彼らは言葉ばかりか互いの文化慣習も異なっている。よって、この翻訳媒介として文学が要請される。我々は口語を通じあわせることがむずかしいにせよ、とりあえず翻訳した異国の文章を頒布することで互いの文化慣習だけは想像しあうことはできる。
 やがて彼らは国際関係として信頼感をもちあう。そして貿易協定とかunionとか様々な形での協力を図ろうとする。なぜならある舟にあって他の舟にはないものはその文化に位相差延が残る限り必ず存在し、それらのpositiveな交易がたんに商人の差額商売の企みの素のみならず、彼らの国内産業育成にもカンフル剤となる。

2008年2月21日

日本経済

海外企業を国内に誘導してはならない。なぜなら国内産業は国民自身が担う事が、その国土の生産性を最大限活かす方策なのは明らかであるから。あらゆる国土は特有の適応力を身に着けた一時の集団を育む。これを国風と呼ぶ。国風産業が文化の根幹なのであり、これが国土の隅々まで張れば張るほどその国家は見事な大樹へ育ちうるだろう。そして立派な大木こそが文化森林の守り神にふさわしい、
 即ち国家内の産業にはその為に最適化した商慣習が再構築されるべきだ。また、海外立地にあっては飽くまで海外論法を用いるべきである。

経済戦争論

一般に言って、女は知能の資質から戦争には邪魔だった。戦争は男性の仕事であると考えられた。所で、現代とは経済戦争の世である。この世界情勢への敵対勢力は極めて微力で、大局観に立てば無視可能だ。何千人のterroristや過激社会主義者も60億超の人類生活に比べれば無力に等しい。よって、現代国際社会の戦術はみな、「経済戦争への勝利」を目的にされねばならない。この戦に勝利しなければその国民は生き残り得ないからだ。そして戦争には軍隊組織するのが大前提である。経済戦争の軍備は文化であり、軍隊は国民である。
 如何なる国民にも女性は偏在するが、もし欧米文明を圧倒する覚悟があるなら我々は男尊女卑を明らかに復興せねばならないだろう。どの軍隊においても、女性の偏在は経済組織の緻密にとって邪魔にしかならないのだから。一般に、男女同権は女性への男性同然の教育可能性に道を開いた人権で、女性能力を過剰評価する文面は地上に存在しない。生まれながら戦闘能力に劣る存在を軍隊に参入する国家は必ず負ける。日本は勝利か敗退かを選ばねばならない。というのは、経済戦争の現代史は遥かなる世界文明へのprocessに過ぎず、我々の構想力に限界が見えない以上その中途段階にも達していないから。この極めて初期の段階で衰えた国家が未来に血統を繋げうるとは考えづらい。つまり日本人は全員が滅亡か進歩か現に二択を迫られている。
 経済戦争の覇者となる為に男尊女卑の復興で経済組織の完成された緻密を達した暁に、我が国は真実と呼ばれる。現在、日本文明が米国に劣るのは、主にこの経済軍備の完成度でしかない。もし我が国の経済力が彼らの全体を超えたならば、彼らは言わば覇権を失ったに等しい武力悪徳国家に他ならない。また経済技術とは学術理論の政治的実践に過ぎないのだから、我々の文明が米文明に決定的に勝る経済力に到達するにはそれら、経済の前提条件をも鍛えあげねばならないだろう。

マラソンコース

台風的飽きやすさの民族的克服法として、マラソン競技の加熱は必要か。韓国では国民的娯楽として、偏在する峠を行き交う登山が慣習化されている。この効果は国民総力戦となれば底力として働くかもしれない。
 日本の急峻な山岳を日常に登り降りするのは容易な習慣づけではない以上、我々は身近な国土環境を再整備して、風光明美なマラソンコースを各地に量産しなければならない。さもなければ国民の体力において、徴兵制も加わって若者に運動信仰が盛んな韓国文化に、大差をつけられるかもしれない。
 尚、このコースは危険を避ける為に、歩道・コース・自転車道を可能な限り分けて設置されねばならない。というのは高齢者となれば運動も散歩の速度が限界となるのだし、サイクリングは最も接触が大事故につながり易い。単純な路面への線引き区分においてはより頻度高く追い越し車線の必要な順に、車道の左側通行に倣えば、歩道・コース・自転車道の並びで造る事が原則かも知れない。
 因みに、もし車道と並べて設置したければ、可能な限り排気ガスを排除する為の垣根をもうけるべきだろう。如何なる競技も健康強化の道だから。形だけではなく密閉した排気の遮断に、美観の基準も据えられるべき。巨大な幹線道路沿いにしばしば見受けられるプラスチック製ないしは強化ガラス製の遮音壁を参照にせよ。その中には密閉性が高く、透明度が高いから風景を観賞するにも邪魔にならない、調度よい好例も既存する。

2008年2月20日

音楽論

全世界を流れる詩情を表現せしめねばならない。人間は如何なる人種とも同じく、生き物の一種に過ぎない。あらゆる生き物と共生する道を探り出さねばならない。音楽はこの為の道しるべとなる。人間は自然の一部に過ぎない。そのページは短い。
 あらゆる芸術の目的は自然との調和を交響することにある。そしてこの調和は文明と自然との中庸折衷である限り、双方の展開に従って無限に追求しうるものだ。
 大宇宙の調和にとって人間は遥かに小さい。我々の技が小さくなれば小さくなるほど、宇宙的秩序の調和は高鳴る。人間は作為を以て作為を完璧に否定しえなければ芸術の云奥を極められまい。芸術美は究極において大自然の崇高と一致する。我々は唐詩における没法子の境地に今日でもこの顕現を聴く。既に失われてしまった天明の輝きでさえ、永劫遥かなる人間の心を震わす。我々の芸術は文明の盛衰を越えて、森羅万象の調和に寄り添う。恰かも台風の最中に巣に隠れた雀が翌朝の青空と共に飛び立つ様に、我々は自然の中に密やかに住まうことを許された卑小なる被造物に過ぎない。

韓国料理の和風化

日本のキムチは一種の薬味として、カプサイシン値を滋養に害なき適量まで減退させて食されねばならない。国際調査を参照せよ。それは日本のカレーがインドのそれに似ても似つかない様、料理法として全く和風化されるべきだ。

2008年2月19日

経営策

POS systemを活かしたAutomationコンビニは、office街の高級店展開に併せて徐々に、普通化して行けるだろう。

友情と国

世界史の原理は、それが導く善のentropyも含めてまた究極のideaではない。単に国連に友情を多声的に勧めあうような間柄は、国風の向きではあれ人倫の完成ではない。
 結局、様々な国は彼ら自身の最高善を形相する。それは統一されざる全体。普遍性とはひとえに、ばらばらなままで自らの曲を奏でる風の中の桜花に喩えられる。それは決して理性的な秩序でもなければ混沌たる自然体でもなくて、国風の道を辿りながら各々の目的を目指す旅情らしい。我々は全く国風的な文明によってしか人倫を中庸化し続けられない。国際関係も又、文明への契機付けには成れども自体が幸福の定義を与えることはできない。
 幸福とは、人倫自体が醸す形相に過ぎない。従ってその姿は常に国情の昇華として変化していく。

世界史のcritic

比較生産費説を鵜呑みにして国際分業を配分的にのみ推進すれば、調整力の欠落によって国際格差は拡大するばかりだろう。それは経済信仰としての近代文明圏へ、何らかの暴力によって均衡を回復しようとする、宗教的報復をもたらす他ない。そしてそのような一揆そのものは明らかに「正義」に則っている。正義とは少なくとも部分的正義に関しては配分と調整の間に働く中庸性だからだ。
 経済文明と世界宗教は人類史が生み出した配分‐調整の二大潮流。両者の均衡度だけが国際関係に安定を与える原理と言える。これを世界史の原理と名づけえる。我々は世界史の原理を外れては実存しえない。まるであらゆる個人が同時に人類社会の一員かの様に。
 世界史の原理は、ある時は戦争となり、また或る時は開化となって民族を導く。普段は目に見えない空気として辺りを満たしている。その力動は人間に対して功利と喜捨の調和、善のentropyを与える。我々は誰もみな、地上に拘束される限りこのような普遍愛の宿命から解脱しえない。逆に自ら進んでその意図に添えるに過ぎない。国風はこのような普遍愛を実現する為に、地球から与えられた人道手段だったろう。国際分業は同時に、世界史の原理を国風の顕現として協業する方法であるべきだ。つまり、その秩序が米英白人中心主義で固められてはならなかった。
 功利性は国風の一特徴ではあれ、実際には他の諸国風に比べて些かも高い価値を有するものではない。例えばイラク国民の内、厳格なる信仰に殉ずる覚悟を維持促進なしえた過激派の人物の一命は、その果敢なる勇ましさに於て、ただ単なる悟性過信に基づきながら、格差の自由を主義する某大統領のそれにも何ら劣るものではなかったかもしれない。
 我々の中の勇気は自由の為だけに利用されるべきものだろうか。それは時として大義を失わせ、果敢な実践をただの蛮勇へ貶めることにはならないのだろうか。孔子曰く「義を見てせざるは勇なきなり[見義不為、無勇也。]」と。これは善意志の自律を唱えるカントの云う「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」とほぼ一致する見解ではないのか。我々は絶えず新たに自由の定義を問わねばならない。元来は博愛の神様の前での万人平等を意義した筈のそれがいつ何時、単なる利己主義に堕するかも知れないから。
 義務は国風的なもの。それは一律に理性至上主義として格率化されえず、されてもならない。真実にuniversalな徳は同時に、国粋極まった最純の国風においてのみ発揮されうるから。ひとえに幸福のeidosのみならず、倫理的中庸の度合いそのものが国風的る。従って国際連合の究極目的とはこれら千差万別の国風的正義に中庸を与え直すことにある。それが世界史の原理に対して普遍的正義の基準を掲示する役目を果たす。比較生産費説は国連関税の絶えず新たにfairな調整のみならず、自体の内側から揚棄脱構されるかたちで否定すべきだろう産業種別は文明経済の貿易膨張を国内完結する目標で微分せよ。
 もし格差が貿易差額に生じる搾取を原因とするなら、というのは技術革新は如何様にも防げず、また同じく労働者の民度は国風に由来する以上、マルクスの考えとは違い真実の余剰価値搾取は生産‐消費の間に働く貿易の際に行われている。これが鎖国しなかった共産圏に自己破産をもたらす原因である、我々はある国家が真に国際的となる為には、生産品の特化ではなくてむしろ逆にその偏りを様々な工夫によって少しずつなくしていくべく努力しつづける必然を負う。これは遠い未来においては如何なるmono cultureを強いられた国々にも自主的な脱出口を導き、遥かに豊穣で、しかも全く独特の文明を様々に栄えせしめる為に、各国民が一員の自覚ごとに科せられた当為。そうでなければ永久に功利的産業に特化した先進国は飽くまで格差の頂上で世襲の退廃を嘔歌するばかりだろう。それはいずれたがわず盛者必衰の史記に新たな項を小説する。
 世界史の原理は又、中庸均衡力のいいかえであるから、我々は尚更深くこの原理に適応するよう務めるに如くはない。従って経済は救済と相互作用に基づいてのみ有効である。国内外の世界中に、中道を守りながら貿易と寄付を兼ねることが、人道を進む方法。

2008年2月18日

雲隠れ肌寒き外に映える月

音楽論

世界的な国際交響曲の完成に向けては文化の多声多彩が大前提となる。アメリカ化は、それを推進する自慢気な侵攻力そのものがアメリカ的なのである。凡そ覇権が長引く歴史はなかった以上、アメリカ文化の限界も又、それそのものの過信にある。我々はあらゆる国風の粋を最大限に発揮せしめることによってのみ、真実の芸術的交響に達する。

太平洋連合是非

もし国家の道においても自分より優れた者をのみ友とすべきなら、日本は光栄ある独行に甘んじていかねばならないであろう。

しかし、国際福祉の概念が貿易協定にも当てはまるものなら、我々は少なくとも自らと等しい価値観をもつ文明国とのみ、協同組合を計ることはできる。
その場合にでも、日本は貿易協定を結ぶ東南アジアの国々に先進の模範を示すことはあれ、多少なりとも野蛮の風俗に被れはしまい。

現代日本の悪事

如何なる国民も、他国の内乱の最中に、外部から干渉してはならない。ある国土の問題は、その土地の文化を営む国民自身の問題だから。もしその問題が、例えば大規模な環境破壊などの万人に無視しえない外部不経済や公害を生み出さない限りは、外部からの働きかけによってそれを辞めさせる権利はなんびとにもありえないのである。
 むしろ、平和主義の原理は文化差異を認め合いながら人類共生をねがう立場から、ある観点から罪にみなしうる他国民族のおこないに対してさえ、辛抱づよい忠告という倫理的な働きかけによりその人道回復を願うものだ。

 この点で、イスラム法典に基づき内政干渉に報復したテロリストの道徳は、相対的に言えば、ある国法のみに凝り固まったアメリカ政府よりは高いと言わざるを得ない。勿論我々は手段をえらばぬ卑劣な行為を罪悪とみなすだけの公平な善意を揺らがせるわけではないが、少なからず、文化ごとにあい異なる風習を不当にも抑圧する暴力は、これを真に理性的な博愛とみなすことならないのである。
 従って、わが日本政府が果たして何らかの詰らない事情にかかづらうのか、悪人の行いに多少なりとも協力したとなれば、これはすなわち国民全員の罪業なのである。

 悪事を働く中東でのアメリカ軍に、なんらかの補給活動をもって支援を国示する日本政府の意向は、以上の道理から義をへしおって力にへつらう極めて卑怯な悪意であるとみなさざるを得ない。そしてこのような国際的犯罪行為に手を染めようとする憲法観が歪曲した首脳も、いずれたがわず国政の指導により、国民自身の主権で矯正されねばならないであろう。
 現日本国憲法前文の自国のことにのみ専念し他国を無視してはならないという文面は、むしろ国際福祉への義理をうたうものではあれ、なんら内政干渉の正当化をふくむ解釈に適当しない。

信仰

如何なる聖者であれ、偉大なる神様に比べれば部分的に参考に足るだけである。

聖者の偶像化・idolizationは何れもみな悪業であれ。

信仰

日本政府の対イラク支援活動の目的は『イスラム文明の復興』であり、なんら自由主義圏の拡大ではないと悟らねばならぬ。

日本人がアメリカ人ではないように、文化はさまざまでなければその価値を失う。
同じように、文明化のためには国家それぞれの筋書きが必要なのであり、それは必ずしも内政干渉によって発展するものではない。
現に、白人から植民された世界各地の文化では、いずれは民族主義というvoluntaryな方法でみずからの内から独り立ちしなければならなかったのではないか。

アメリカ政府があきらかな他国土への軍事介入によってテロとの報復合戦をやろうと言うのは、まことに馬鹿げた議論である。それはかつて侵略戦争を犯した日本人の轍をいまだに踏むことでしかない。
そしてこういう軽薄な愚論に付和雷同した小泉氏の悪徳は、自らの偏った道義の責任を《terrorismの不安》という民族全員のかけがえない損害で償うしかないのであった。
 我々はキリスト教徒の一命がイスラム教徒の一命より尊いとはみなしえまい。一体だれとであれ、下らぬいくさは卑しい。

2008年2月17日

和平啓発

平和主義とは、軍事的には『一国平和主義』のいいかえである。
それは経済開発と言論啓発によってのみ、諸外交をたちゆかせるという日々あらたな国民意志表明なのである。

この点でわが国は、時に及んでは侵略を辞さないアメリカの外交とは全く正反対な国務を有する。

もしも国内平和が完成された「文明の日本」に至れば、その存続自体がこざかしい軍事大国より遥かに諸外国の尊崇にあたいするであろう。
たとえ米国迎合により自衛権の名目を巧妙にかぶせたにせよ、軍事力による外交は一切打ち切りの方針こそ又、〈悪辣な日本人〉という儒教圏の偏見から信頼と名誉を回復するもっともよいやり方なのである。

近代文明圏の再編制

日本は東アジア市場の結託を一層高める為に、自由主義文明化という基本理念を共有する台湾およびASEANと、太平洋連合(Pacific Union、PU)をassociateすべきであろう。

その結果、地球市場はEU、NAFTA、PUという三大近代文明圏の均衡関係に入って行くだろう。

共産党政府に迎合的な現中国と、未だ民族的に北と統一されざる韓国は、この連合に必ずしも適さない。
かれらの参加には少なくともbusiness likeに礼儀を払う「親日表明」という、国情の必要条件が科されてしまっている。
専ら民度からしてこれが極めて困難である限り、ASEANと台湾の親日的先行とは正反対の運命を辿らざるを得ないだろう。

2008年2月16日

中国輸入食品の安全真偽

中国輸入食品の不審は今後とも一々、国連へ直接訴え出るべきである。
 これは一般民間で取引相手が万が一悪徳業者であったとして、直接相手に不信を述べるのは危ないから、通報をとおして警察としての司法権力の采配を仰がねばならないのと同じ構図なのだから。
 いずれにせよ多少あれ不審な動きのある取引先とは徐々に手を切る準備に余念があってはならないだろう。

ロボット労働力論

少子化後の日本では無闇に安く外国人労働者を雇うのではなく、寧ろ単純労働の大部分を開発したロボットに賄わせる風が養われるべきだ。
 というのは、例えば日本語のような当たり前の文化一つ取っても、単純な出稼ぎ外国人がそれを習得するには多大な勉強を伴うのが明らかであり、この異郷の壁を克服する労力は、逆に現地尊重の日本企業が海外支社に立地してそこで労働者を雇うよりは遥かに不合理な仕事なのが明らかだから。又日本は観光地としても、物価度や自然風物の繊細さから言って飽くまで上質な客人向けにのみ特化されて然るべきだろう。彼らの主要な客人は逆に、一応に於いて世界一の債権者である日本人自身なのだろうから。

感情の判り

判断力を趣味へ適合させるものは感情。

信仰

日本人の使命は世界人類の為、懸命に働く事である。


天皇制の奉呈も又この為の国情統合の総意としてこそ正しい。
日本人の為の日本人担ぎは、謂わば選民思想の二の舞を踏む穢れであると知らねばならぬ。

科学教

哲学は科学の創作だった。従って、現代哲学が完成するのはコントの基礎科学体系に基づき、最も後発的な社会学の確立としての文明論においてだろう。アリストテレスによる各種自然科学の創作以降、例えばカントの批判体系も社会学の予備仮説としてのみ我々は受け入れうる。
 もしも我々の世界観が全く違った体系に基づく異星文明に触れ、遥かに宇宙全域へ開かれた暁には、カントの敬虔な形容法に倣いいわば道徳神学として醸成された科学体系は、新たな世界宗教と見なされるだろう。
 蓋し、現代哲学の命題は社会学の完成へ向けた各基礎科学の進展とその総合的応用としての社会哲学だろう。

多声秩序論

文明はuniversalityすなわち多様の統一を目指す。それは均質化でも全面都市化でもない。単に、文化に多彩をもたらす自然な作為でしかない。地方は地方ゆえに、純朴やほのぼのさといった全く都心では育みえない価値を提供する。

 地球人類史的視野に立てば、日本は全体としては文明化された国である。しかし、日本の内部にもuniversalityは摘要されねばならない。
 というのは、多様の統一としての文明秩序とは、単に環境適応力という生物の命令へ、社会進化的に従っているだけの事なのだ。文明間の発展時差はそれ自体が、多様性の増大という自然のentropyに忠実な作用である。

 よって、日本文明はあらゆる地方を都市文化的に均質化することを好まない。この点で東京は日本文化のmodelには成りえない。それは日本文明そのものが必ずしも地球各国の文明模範になりえないのと同じだ。地方文化からの反東京主義の声は文化的必然である。我々は地方文化の立場から、批判的に東京文化の退廃を暴くべきだろう。

宗教学

イスラム文明圏が特徴とした激烈な意志の力の極度にpracticalな人倫は潔さを調教するに充分。

 何が何でも諦めず、最後の最後まで、例え命を賭しても戦い抜く勇気は、イスラム宗族が決して失わなかった最高徳。勇敢さは、現代においても又およそ未来においても、イスラム教に保たれている貴重な人間的価値、ある貴族性と知らねばならない。

 潔さはいとも簡単に諦めにも転じる限り、未来に渡り、道理の貫徹へ向けてより中庸へ修正された為付しつこさに取って代られねばならない。どこまでも手慣れれば如何に困難な命題でも完遂できぬ事はないだろう。

独学論

日本が世界に劣る唯一の所は科学。そして欧米文明から我々が習うべき唯一の点も又、科学の方法にある。

 道徳に関してはむしろ古きよき日本の方に模範があると謂われ得る。日本の哲学に足りなかったのは単にその批判対象となる科学的知識のみに過ぎない。凡そ武士道より高潔な人倫がこの地上のどこにありえただろうか。日本文明が明治維新以来、大幅に組織を組み換えねばならなかったのは専ら科学文化の摂取という一点に至る。従って、将来に渡り日本文明が欧米文明に比類超越しうる為の最大限の貢献こそは、科学的大成であるだろう。そして科学文化の方法的模範はイギリス風土にあると考えられる。例え他の側面に関しては必ずしも模範に足らぬとしてあれニュートンは純粋に自己目的な内省、一切の実践や技術に関わらない理論の為の理論を大学にありながら独学したのだった。
 日本における実践理性への偏りは甚だしい文明の弊害。日本風土では理論の為の理論は何かしら、無用の産物として卑しめられる気分すらある。これが政治理論であった儒教・朱子学の残滓なのは疑いない。凡そ大学は真理探求の城ではなく、就職や仕官の予備校として、学歴だけを目指す手段にまで低落してしまっている。これが日本文明の一大欠点として、純粋理性・理論理性すなわち悟性あるいは知性の自己目的活動としての科学探究への民族的障壁となってつっかえている。

 日本文明の弱点を克服するには独学の興隆が是非とも必要である。科挙の鞍換えに過ぎない学歴制は脱構されて然るべきだろう。

2008年2月15日

極東文化

南朝鮮・Koreaを含む朝鮮文明は、日本文明とは似て非なるものだ。

国の目的は文明。

2008年2月14日

漢字の用法

常用外漢字は繁雑過ぎる故に非常用と指定されたのであって、その使用に関しては現代の中国略字から方法借用することも可能だろう。
 一方で、formalな和文の為には伝統格式ある繁体字を復古すべきだろう。

性差

もし端的な経済性を見れば、どうして家政に国際企業経営程度の経済学が必要なのだろうか。女権拡張論とは人口抑制論であった。もし出生率を適正化し直すなら主として家政学を研究教育する女子大学は、専ら一般教養学部、Liberal artsを持たずに対男性を主義とした一般大学よりも、貴婦人の養生へ適切に文化貢献しえるだろう。又、その為には以前に、高等教育自体の男女別学化が必要な趨勢となるだろう。これらの一見保守的に見える旧来の常識を掘り起こした知識だけでも、先進国が陥った過度の人口減少問題は容易に相応以上解消する筈である。

衆愚政体

Demagogueデマゴーグの詭弁政治は、できる限り素早く覆さねば大阪が退廃混乱の渦へ沈み込むだろう。功言令色鮮し仁。

地方都市計画論

東京は江戸文化を近代化したものに過ぎず、全面的に各地方の模倣に足る訳ではない。例えば網の目になった地下鉄や極端な職住分離、あまりに分断された緑地帯、或いは伝統を無視した用途指定などはむしろ各都市が不合理な失敗例とみなすべきものだ。実践に、東京は再開発という二度手間により、それらの欠陥部品を交換しようともがいている最中なのである。

 地方都市の興隆開発にあたり、現存する無秩序からではなく、むしろ東京の再開発手法の側に、我々には見習うべき経済性があるのだ。

現代社会学

国際慈善論。現代の国際経済とは言い換えれば合法化された植民地経営である。又、言い方を代えれば少なくとも今我々の知る最善の国際文明化方式だろう。それは国際貨幣の信用取引という共有規則を通じて、我々の間に福祉を合理化していく。Pragmatismとは結局、経済信仰という世界国家理念に至る。かれらが世間国家を名乗りうるのは、喜捨の慣習が整理されていない範囲について已ではあれ。もしイスラムblocをこの寄り合いから排除すればいずれ一揆やテロリズムによる反動形成は免れまい。
 人類が為す可は資本文化地域を単なる地方と見なす文明史観の獲得だろう。というのは、文明の発展はすべて文化風土に根差し、例えユダヤ文化風でさえ、その風土柄の生活様式洗練にのみ辿り着く。文明は基盤や土壌を共有するが架構や枝葉をどこまでも共にしない。先進国文民が自ら、国連に於て国際間寄付制度を樹立するのは賢い方策だろう。これは既存の世界宗教の枠組みを越えて為されて初めて効用を持つ、各国家原理への脱構築である可だ。

現代社会学

新貨幣論。将来的に、$、¢、¥(又は円の次期通貨)は換金可能なそれらの中間貨幣を鋳造すべきだろう。というのは、大量の人口を抱えた中国とインドを中央とした途上国の部分的な近代化はそれだけでも先進国経済に痛烈な打撃を与えうる潜在性を秘めるのであり、国際経済体制の大幅な改変は必至となってくる。
 かの第四貨幣では先進国間の貿易摩擦を最小化すべく、首脳会談の信頼契約に基づき、飽くまで等価的な立場で換金可能とされていなければなるまい。£の地位はこの第四貨幣の進退に左右されて行くだろう。

炊飯器

冬の朝かすかに香るは炊飯器

思議

祟りとは積悪の結果、幸せとは積善の結果。

2008年2月13日

女権の真実

一般に、女には過剰教育を与えなければ永久に男並の理知へ到達しないし、仮に教養に関して大抵の平均男子に比類し得ても判断力に関しては牝鶏を超えないらしい。これは学歴のある女性というものが同じ程度にeductされた男性同等程度の理知も有せず、その処世判断に於ても多分に劣る所を観察統計すれば解る。女性の出世というものは、既得権益の男性が贔屓できる分野以外では、例え機会均等を与えても殆どない。つまり、女性一般は一部の男勝りを除けば女々しく、男性同等の能力すら社会的に発揮するのは生まれながら希である。

 科学・哲学・芸術、政治や経済に於ても女性の絶対数は決して男性を超えなかったし、今後幾ら人類史が経過しても自然的性淘汰を逃れない限りその事態は実現されないだろう。女性は男性的能力を与えられていないが故に女性なのである。女性一般の特性は単に、比較的理性的な男性に比べて本能的というに過ぎない。それ故に彼女らは女々しさ又は女らしさとして知られる各種の家内婦人性を文化的生物学的に獲得して来たのであった。

 若しも人口抑圧の見世物をこれ以上社会的に虚構継続したければ、我々近代人は女性贔屓法というhandi capを制定する他ない。恰も男女平等を主張させる為に。
 真実に女性らしい女性はこの文明戦略の詐欺を見抜き、優秀な子孫を遺す為の家庭主義へと処世法を反社会潮流的に、古きよき伝統から再獲得せねばならないのだろう。というのは、彼女ら自身も又、その様な優秀な婦人の子孫としてしか生き延びられて来なかった。かつてより男性的女性の種は男性同等として扱われた結果、性淘汰されこの地上から減数してきたのだろう。

2008年2月12日

本能

いかなる本能も醜い。

配偶選択の編制

本能による配偶は単に本能的な種を分化させる手段。恋愛結婚とは謂わば人間に退化させた獣的種類を再び殖やす為の政治制度。工業化社会では大量の労働・消費人員が必要なので、恋愛結婚制度の興隆は社会学的な善だった。
 もし理性的な選択が最美となる社会状況が存在すれば、我々は最大限に本能を抑圧したお見合い制度を信奉せねばならない。そして情報化社会では技術理性としての再創造力人が適応種となるなら、我々は工業化段階の配偶選択を続ける種類とは別に、新たな典礼を建設して往かねばならない。本能人は趣味人ではないばかりか、その真逆である。

 終身雇用の事務制度に順応させた工業化社会倫理は脱構築されねばならない。
 凡そ、日本に於ては恋愛とお見合いの間に止揚された中道の結婚制度が、情報化社会に最適となって行くだろう。それは恋愛感情による配偶適意な趣味人の発見と、お見合い制度の伝統を活かしたおおやけな承認儀式により、以前より広い範囲から優れた家庭環境の建築に相手を見つけ出すことができる(情婚制度)。これは欧米型の恋愛中心主義でもなく、元来の儒教型の家系至上主義でもない。

哲学論

審美観、aestheticsすなわち趣味は哲学の目的。学識の体系的理解であればある程、その哲学は人間社会の諸形態を趣味分けし易くする。

工学

蛍光灯点灯時の寿命減を最小化する方式を開発せよ。

文明体系

学術・政治・経済の関係は真・善・美の暗喩で語りえる。恰もそれぞれの内容が、学術に対しては科学・哲学・芸術、政治に対しては立法・司法・行政、経済に対しては家計・政府・企業として語りうる様に。

使役と制作

人間は制作し、死ぬ。どんな人間もそうだ。つまり、人間の目的は制作にある、と考えることもできる。
 科学は判断力の、哲学は趣味の批判としてあらゆる人間の制作を指導する。彼らがいかに生成な暮らしでも、そこには感覚に由来した何らかの制作性、社会貢献の痕跡としての美の術、が介在されていく。
 多様な風土は人間の分業を導く。ある者の悟性・理性・感覚と体系化されてきたいずれがより、他の人間特性に比べて後発的かは単に性格に由来する。
 例え芸術がより理論的かより実践的かの差異がその秩序化に当て填るにせよ、人間は制作する行為を通じて、文化的に、文明へ使役する。

豚の結婚式

僕はある日、豚から結婚式に呼ばれた。豚は「交尾したいオスと豚小屋で同棲しています。結婚式をやるから来てね」と言った。僕はどうせ結婚するのは豚だからと、期待しないで行った。すると、式辞でアメリカの豚は言い出した。私達は自由です。私達は自由です。だから私達は本能のままに繁殖します。豚小屋はブヒブヒぶひひと賛同の拍手で満たされた。とてつもなく臭い。
 僕は豚の結婚式に出た。そして豚は、さも嬉しそうに「私達、幸せになります!」等と言っていた。結局、豚にも豚の幸せがあるらしかった。それは僕には、酷く豚じみて見えたとしても。

2008年2月11日

数学論

数学は単に人間の思考モデルである。我々は仮に社会学を含む自然科学をこのモデル体系で理解しようと努める。この意味で、あらゆる自然科学は数理科学すなわち数学に比べて多少あれ実践的だろう。悟性すなわち理論理性の思考に関するパターンだけが数学が探求する命題だ。カントの悟性説をアインシュタインが批判して、物理学上の概念は直観に由来しない自由な構成物だ、と主張したのは単に上記の数学の自律を哲学的に批判し直したに過ぎない。直観主義数学は形式系がゲーデルの証明により確立されて以来、単にユークリッド幾何学のcategoryに集合される。従ってそれ自体が死んだ訳ではないが。
 哲学とは自然科学の実践社会学的方法論である。数学は文明内文化的に行われる悟性の積み木遊びだろう。ともあれその緻密さ、壮麗さはあらゆる科学建築の原型となる。

文芸論

小説と呼ばれる文脈は哲学を含む詩である。散文的であれ物語的であれ。あらゆる文芸は詩の絵画的叙述。
 文学とされるべき対象は存在しない。それは言語学へ回収される。
 哲学論文は文芸へ内容を提供する。形式は芸術にのみ問われうる。芸術は趣味の創作的な判断であり、そして趣味は学問に還元出来ない。審美観は各自が絶えず適意に対して比較検証的に養生する事ができる感情でしかありえない。

2008年2月10日

Associationismの脱構築

Associationismの導入は同時に経済成長率への抑制注射。福祉国家の大義も又、共産主義まで進展すれば逆に組織的腐敗が露わになるだろう。
 不断な技術innovationを原理とするliberalismの本質は、福祉政治・生協経済に伴う非生産性を批判する。Pragmatismはassociationismにより完全に脱構築仕切る事が出来ないだろう。
 我々は中道に目的を見出さねばならない。共産‐資本、自由‐福祉の両極に現代文明が目指すべき的はない。我々は政治と経済の癒着に注意しながら、徐々に中道に向けて歩みを進めねばならなかった。

カーテン

カーテンを開けると外が白塗りだ

2008年2月8日

小説文化論

ポストモダンの枠内で、近代小説すなわち実存主義小説は女性にとってのみ現実味を持つ。彼女らは自由を求めながら資本主義社会に異論する、一昔前のサルトル型男性の生き方を模倣しているからだ。
 近代小説はもはや女子供にとっての慰み物という程、文化的に貶められた亜流であり、我々には参照に足る内容を伴いはしない。何故なら情報化にあっては資本主義自体の脱構築が命題となるので、新たな時代状況へのより複雑な適応文化型構築は単に工業労働従事者のような結婚か仕事かで悩めてしまう女流の容易さに一切準じない。彼女らは既得権益の老人相手に近代小説の女性主人公版焼き増しを、既存の手法の枠内で惨めにも繰り返すのが精一杯だろう。

 現代文学の中心命題は情報社会型の言語文化を様式化することにある。現代文学者にとって近代小説やそこで獲得された諸手法は単に流用の道具に過ぎない。

資本国家と福祉国家

資本国家は福祉国家の前段階に過ぎない。工業化段階に在る国民だけがutilitalianの思想を保つが故に。
 福祉国家はおもには寄付制度の公式化を前提とし、資本主義の諸矛盾を解消して行く。

2008年2月5日

賢慮

人類の出発点から我々の全文明を量っても、我々は自らの無能さに絶望するしかない。ひとえに、努力しない人間は猿である。少なからず精神的成果は、我々の中で増しな生き物を見分ける為に働く。
 呪うな。勉強しなければ何事も知れない。日々賢明な人間に成る様に努めるがいい。

信仰

人間に救済を期待するな。地獄に神は居られない。
信仰の中にお前を救いへ導く道がある。

無知

人は何も知らない。

2008年2月2日

芸能論

芸術に於る性は可能な限り美化されなくてはならない。
 もし人間が哺乳類の一種でしかありえないなら、彼らがチンパンジーと異なる唯一の特徴は演技の洗練によって人生をも美術化出来る、ということに行き着くだろう。
 これは芸能と呼ばれる。演劇芸術にとって、「美しい性格」は天才を活かす最高の技法だろう。

信仰

人生という形式はそれ自体無駄で、救い様がなく、常に宇宙に利用される。

宗教を通じて人間は人生を救済しようとしているが、いつでも腐敗の原因になる。

人間では善良であれ。
善良であればこそ、いずれ救済はされないにせよ、可能な限り不幸を最小化できる。

知能容積が少ない種に産まれついた場合、取るに足らない問題に一喜一憂して過ごせるのだから、心配はない。どの様な堕落退廃も、人間に可能な程度しか地獄化しない。我々に可能な悪徳など宇宙の広大さに比べて遥かに卑小であった。如何なる拷問も人間の快苦問題に過ぎず、宇宙自体には関係がない。脳に原因がある精神現象は宇宙にとっては部分である。
 もし君が知能を発達させた種として産まれつけば、人間を殲滅しない迄も、彼らの醜さから身を退けるしかない。自殺する天才は幸運だ、彼らの脳にとって個体意識の消滅だけで輪廻を解脱し得たと信じられたのだから。もし自殺し続けるだけの人生のresetが存在すれば、正に地獄への落下に等しい。お前に充分な知能容積が産まれつき備わっていたならば、地上に文明を築く仕事に全生命力を捧げて犠牲になるしか最良の行いを持つまい。かしこき者よ、聖者になれ。それが救済ではないが、人生経験の永劫回帰中では幸福に最も近い信仰なのだ。

2008年2月1日

日本における少子化に関する婚姻制度対策

先進国における少子化は情報産業への移行期にあたり、国内必要労働人員の減退に伴う無意識の適応的人口抑制でしかない。そこで日本において既存の非嫡出子の区別は社会の衆愚化を避けるに、維持しなければならない。なぜなら以前の社会形態より教育程度の低い子孫を育んですら出生率を無理に上げるのは目的に反する。又、結婚、婚姻が偕老同穴を目的にした異性のpairでなければならない理由は、それが共同的教育家庭の根本原理だから。社会の健全な発展に寄与できない非教育的な家庭は結婚とは名づけられない。それは単に同棲に過ぎない。

 欧米諸国の婚姻制度改悪は、日本人にはなんら参照に値しない。我々は単に産業体制の移行における人口抑制という少子化の根本目的を悟っているのだし、家庭崩壊の常習化はこの目的に全く釣り合わない詐欺の契約借款で、断固署名を拒否する。
 代わりに、我々は結婚制度を維持しながらも人口抑制の犠牲を申し出る幾多の奇形同棲形態を一握して婚姻外保障と名づけえる。彼らが多数存在せざるを得ない時代では、正式な婚姻関係に次ぐ消極的に最低限度の社会保障は用意されて然るべきかもしれなかった。

社交性の展開

社交性の洗練は寧ろ奥手を目指して進化する。西洋化は社交性の面から観察すれば過ちであり、野蛮化・退行に過ぎない。これはある種の抜群の才能がどうして生涯独身であったかの理由でもある。彼らの生来した才能とその文明に貢献しえる効果に比べて、異性交際に掛る労力は遥かに不経済だった。その上、異性の独占には自然の限度があった。彼らに徳があれば先ずは、彼ら自身の過度の血統遺伝は省略する考えに至るに違いない。なぜなら変異自体を繋げるより、変異によって獲得した文化形質を伝達する方が、一族の発展に益する。そうしない場合に比べて自らの福利が増す場合、これは我々が学習伝承、又教育と呼ぶ営為となったろう。
 心理学は人間生命の目的を他の生物と同等視するという過ちを侵した侭であり、昇華が成功防衛として単なる性的な合理的解決よりも人間社会にあっては価値が高い事を悟らない。単に考えなく繁殖活動を行う者は本能に過ぎず、また彼らは減退させる事はできても消滅させられはしないので、あらゆる文化は人口解消によっては決して亡びず、逆に、文化こそは民族の理性により築かれる。そしてそのような国家的昇華に携わる文化人達において已、貴族性というものも明らかに示されている。
 フロイト流の近代心理学の解釈では、彼らを人類生物界の犠牲ないしは挑戦者と見なすだろうが、事実上、人間社会では誰しも多少あれ昇華を以て家計に換えている。つまり人間界への適応行動は寧ろ昇華を目的としている。文化人こそが、人間界の先導者である。性欲、libidoは生物の目的ではない。逆に其れは種の繁栄という目的を実現する為の、しかも本能という卑小な一手段でしかない。人類は社会的理性によって哺乳類から峻別される。単に繁殖し続けるだけの合理的解決体系はいわゆる未開社会で既に観察可能だった。文明化とはひとえに、昇華の体系だった。そしてその文化の無際限な積み重ねの連綿だけが文明化された社会、理想の社会、より天国に近いと表現されえる世界へと現実に至る可能性を持つ。Neoteny化という通奏低音もまた昇華の体系という人類文明の基本潮流にとって必然な理由はここにあった。人間の早稲化は社交性の退行に過ぎない。成人年齢は引き上げるべきではあれ、引き下げるべきではない理由も同じく、ここにある。

文化論

悟性、理性、判断力は人間の上級認識としては等価であり、真善美を司る能力として相互に均衡している。蓋しそれらの間に価値差を見出すのはつねに文化的偏向に過ぎない。
 我々は自らの伝統的国風を脱構築して已、新たに人々を進歩させる。風土からの制約を脱け出す努力は世界諸国家をおのずと普遍な文明へ導く。

趣味論

趣味は民族文化的にも作り上げられる、その特定習性の故に。

天下

昔、光の溢れる砂漠を歩いた。
世界には果てしがない。信じる可命題も、涙のことわりも、悉くみな。
楽天通路を通って、人間は戯れている。
罪も、差別も。
とてもうつくしい広場だった。
逆さまの落花生。
特別な音程で、不浄の落雷。
件の。