2008年2月25日

哲学教育論

およそ現代人間にあって最良の教育法とは、子どもに哲学する習慣をつけさせる事だろう。このideaは孔子の云う思学の別を止揚する。我々が今日の語法では科学ないしは哲学として知る学習行動の記号的集積とは、乃ちみなその古代ギリシアから流れてくるただ一つの源泉から汲み揚げた水に過ぎない。なぜならscienceとはphilosopher特有の適応行動でしかありえないからだ。全て、無知を知るところからみずから仮証法・abductioonのみちびきによって、帰納から演繹へと至る世界研究がはじまる。その最終成果は法則と呼ばれる。そして積まれた法則群がある特定の傾向をもって他の知識へ合併できないほど膨大となるとき、それが学識体系として分野される。こうして、我々が学問として覚えるあらゆる領域を含むところの哲学とは、一つの宗教方式である。
 我々は哲学者を名づけて同時に、教育者と呼びえる。そして哲学者でない所の教育者はあり得ない。かれはむしろ単にある固定的な知識を身をもって伝承する宗教家と呼ばれるべきだろう。まさに、自ら智恵を友好するところの哲学者の道徳においてしか、当代に信じるに足る知識体系は伝授なしえないだろう。そうでなければたんに機械操作に還元しえるmathematicalなdataの記憶が固定化し、それ以上発展しえなくなるのは当然だろう。科学の本性は創造的悟性に基づく絶えざる認識修正による、潮流転換の無限な運動にある。我々は科学教育においては、究極のところ哲学することをまねばせえるだけだ。従って各知識の伝達能率に対しては、教師である哲学者たちの特性に併せて、学科を設けるほかない。
 また哲学者とは絶えず宗教をつくる者であり、また古来の信仰を時代思潮へ折衷せしめる者である。ここに温故知新の意義が理解できる。こうして偉大な哲学者は又、後代の人々にとってはその知識体系が何らかのparadigm shiftから殆ど無効にならないかぎり相当の期間、教祖にもなりえる訳だ。