2016年12月29日
日本政治のがん摘出
国
いかに衆愚が醜くとも
君は一人輝く
もしその輝きが魔法で
ただの幻想だとしても
いかに弥生人が愚かでも
天皇家が俗悪でも
君の輝きは失われない
いかに東京が下俗でも
いかに西国が野蛮でも
君の国はひたすら正しく
君の心はどこまでも清かった
もしその輝きが偽装で
ただのつくりものだとしても
日本の独裁者
2016年12月28日
汚れ
汚い言動によって生きている者の子も汚い。下人の子は下人のままである。下賎な者に関わるな。関西人は汚い。汚い人間は悪行を為し恥じない。関西に関わるな。弥生人は卑しい。天皇は下卑ている。天皇を軽蔑し、汚い集団に関わるな。
脱俗
都会に住まうな。居中に居よ。
俗人の喜びに触れるな。俗人を軽侮していよ。高雅な者を俗人は理解しない。よい趣味を俗人は味あわない。
アリストテレスの多数政治論について
アリストテレスが多数政治が間違いづらいといったのは少数派が寡頭政治をして堕落している状態のときの事だろう。つまり多数派の中に居る少数派が正しい意見を持っているかもしれないという意味だ。群れの数が多いことではなく、その中でも最も正しい少数意見をみいだす為に、意見をいえる人が多い方がいいという意味だ。数ではなくて、意見を言える人の数である。意見自体の数ではない。同一意見だから正しいわけではない。同一意見多数だから正しいわけではない。少数者の意見を尊重するのがアリストテレスのいう多数政であり、共和政治、リパブリック、デモクラシーとか民主主義などと呼ばれている形態の原型だ。多数意見が正しいという意味では全くない。
2016年12月26日
幸と不幸
人は商いをするな。人は慈善のみに生きよ。商いなしにくらせない国、地域を去り、慈善によって生活できる場所に留まれ。もし地上にその様な所がないとしたら、自らが慈善の模範となれ。慈善の故に餓死する事は、商いの故に俗衆に親しまれるより幸福である。尊さ故に孤立しているなら、既に救われている。低俗さとはその時点で不幸の目安でしかない。不幸の中であきんどに生まれくる事はただの苦痛である。
尊卑の業
人は卑しい人々を全く避けるべきであり、金銭欲や権勢欲、或いは名誉欲といった下賎な執心によってのさばっている、天皇を代表格としたあらゆる下衆を最大限に避けるに越した事はない。
尊き人は卑しい人々と仲良くなる事はできないし、天皇は終生その俗悪性をまるで高貴と勘違いしているのである。だから俗悪な種族と断然関わるべきではない。天皇は生まれによって卑しいのである。身分制による差別に固執し、日本の民を奴隷化しようと試みた古代中国人の末裔は、今では唯の滑稽な下人に過ぎなくなった。この暴力で彩られた卑しい血筋とふれあうな。心底下賎な天皇の遺伝子に関わるな。
尊き人は未来永劫、自称天皇の下人集団と同じ国には住み得ないだろう。
ブッダの輪廻について
有機物の輪廻がゴータマのいうdukkhaであり、自らの脳が無機物に戻る事が彼のいう安らぎ、即ち無余涅槃である。もし有機物が嘗ての地球の海で無機物から偶有的にうみだされたとしたら、自己増殖する細胞、有機物としてのentropy、或いはnegentropyがゴータマのいう苦の原型にある。一切皆苦とは細胞の有機的本性としての負エントロピーの欲に対して自然界或いは外界はエントロピーで動く、という情報量または熱の逆方向性による摩擦反応だったといえる。一切は我に反する、といいかえてもよい。そして諸法無我とは、我が巨視的にはエントロピー反応の部分系に過ぎない、と教えていたのだろう。
無機物に還元された安らぎがゴータマの信じていた理想状態であり、他方で化学進化によってアミノ酸が無機物から自然的に生じたとしたら、彼の意識に近しいものが生物中の理性的又は大脳的存在として再び決して生まれこないとはいいがたい。かつて人類だった有機物が死体から火葬や土葬等によって分解・還元され、無機物になった状態がどれほどの間続くかは、長い時間としてみれば束の間だというほかないだろう。生存競争の輪廻、或いは業は、生物が自己延長・自己増殖へ方向づけられた反応装置であり、しかもネゲントロピーを摂取する中で自己の系、或いは恒常性を維持したがる点で、この細胞達の業で輪廻なのだろう。有機物は相互に増殖可能性を探り、反応を増加できる形に相互選択していった。そして殖える事にしか目的がない一切の細胞は、微視的には変化している各元素、各単子、各素粒子、各単位の組み代わりにすぎない。諸行無常とはこの現象をいいあてていた用語だった。有機体は自己延長を図る。だから子を産もうとしている本能でできた動物らは、memeの様なその無機物への写しを通してでなければ、単なる自己細胞の延長系による増加の装置だ。相互に競合し、弱肉強食や適者生存、或いは運によってこれらの細胞は自己の系の増加に役立たない他の細胞を自らの系のネゲントロピー増加に利用するか、無機化しようと図るのであり、結局有機物がふえる意味も理由も、物質反応という以外にはありえない。単純化すれば無意味、無意義という事だ。宇宙に意味をつけようという諸宗教の試みは、この点で御破算という事になる。
少なくとも仏教上の慈悲観は、これら輪廻の諸相からはうまれてこない。それはゴータマ当人の主観的な妄念にすぎない。慈善をなすべしとか、慈悲を持つべきという立場は、競争を諦めたゴータマ個人が乞食や托鉢を正当化する為につくりあげた、貰いのよい乞食になる方法論でしかなかった。自己延長というミームを通した策謀によって、ゴータマはやはり細胞の指令に従っているだけである。
カント、イエスといったアガペー論者らは中道を説いていたゴータマやアリストテレスより更に極端な慈善主義者だったといえようが、この慈善主義というものも、所詮は他の衆愚に比べて己の品位の高さを示す、という俗物根性の帰結である。だがこの慈善は少なくとも習慣によって善意という資質を作り、善人の遺伝子を偶然によってか残し、利他主義的な傾向を持つ個人からなる一群の社会を作り出す、という特殊な結果をもつ。要するにゴータマの慈悲観は彼の理想とした社会から逆算した結果論であって、宇宙の無意味さ、無意義さから直接導かれたものではなかった。世界の生物が苦のみで生きている訳でない事はいうまでもなく明らかであって、そこでいうdukkhaは単に無機・有機現象上の逆反応の暗喩である。
ゴータマの理想とした社会は縁起律の理解からくる慈しみの連鎖によって乞食や慈善生活のできる状態であり、彼のやり方に習った人々はアガペーを説く事の実質的な報酬に、生産者から物資を分けてもらった。つまり慈悲詩人の生活をしたのである。『スッタニパータ』(第1 蛇の章、田を耕すバーラドブァージャ)にあるよう、ゴータマ自身は言行に対価を得る事を軽蔑していた様なので、乞食をしなければ生きている事もできなかった。カーストから離れ放浪生活を択んだ詩人は、利己集団の苛烈な競争を離れて死後を尊んだ。ゴータマの人生は社会からの逃避だった。
自然死によって肉体を無機物に還元した上での永遠の死、又は再び有機物に生まれこないという希望がブッダの理想の境地、nirvana、nibbana、涅槃だった。
2016年12月25日
2016年12月21日
2016年12月19日
生活費保障の政府側の義務
2016年12月18日
2016年12月17日
嘘つきども
業について
利己的な人達は漸次、不幸になっていく。利己の程度に応じて人は不幸になる。利己的な人々は他人をふみつけ侵略侵害していじめながら幸いだと述べているが、彼らの子孫も不幸なのである。快楽は幸福ではない。良心が幸福なのである。苦痛が不幸なのではない。悪心が不幸なのだ。幸福は快楽の上位概念である。
不幸な人々
2016年12月16日
義
都会で驕り高ぶっていた愚者は恥をかいている事に気づかず、後ろ指を指され笑われながら田舎を闊歩する。己の搾取業を自慢していた労働者は金銭の役立たない状況で無能と嘲られる。いかなる悪例でさえその人の業が次世代の反面教育として役立つ。
極悪国家
極悪人安倍晋三が戦争を誘発しつつ衆愚を煽る
極悪の自称日本の弥生人衆愚になりつつ殺人したがる
極悪の自称京都の関西人文化庁盗み皇族操る
極悪で驕り高ぶる東京人日本を侮辱し金のみ貪る
侵略犯極悪薩長天皇家驕り高ぶり日本を侮辱す
侵略犯極悪天皇一族が金を持ち逃げ職務放棄す
極悪の日本国民拝金し経済弱者を虐げ驕れる
極悪人安倍と天皇逃げながら外国挑発国民奴隷化
手記
2016年12月15日
俗界
悟った人は俗人の生を見苦しいものと知り彼らから遠ざかれ。俗人の傲慢を見て虚しいと悟り彼らの住みかと暮らしから離れて居よ。俗衆の集まる商業大都市を虚仮と見て彼らの驕り高ぶりから身を退けよ。彼らの生は苦しい。彼らは虚栄心を満たす為、また苦しい生を合理化する為に、安らぎにある人々を無闇に謗る。俗衆は地獄に居る。俗人は地獄に生まれ直し苦しみ続ける。
2016年12月14日
手記
仏教は乞食階級に反社会行動に走らせない為の抑制的宗教だ。乞食に利他行動をされると人はその人達を巧く見下せない。仮に見下したとしても、乞食より搾取罪を犯した事実があるので立場が卑しいままである。仏教は、或いはキリスト教もこの意味で経済的敗者が捨て身になって利他に走る事を勧めた、敗者復活の技だ。
2016年12月13日
悪の繁殖
蓄財と聖徳
蓄財の為にも生活の為にも仕事するな。生きようと思う心は執着に過ぎずみな打ち砕かれる。再び生まれきた子供は苦でしかありえない命に絶望し生涯苦しむ。仕事を下賎と見よ。なすべき事は元々ない。人はひたすら慈善の思いで生ある間、利他に生きよ。利己心一切を捨てよ。我は無いに等しい。相利の言行を癖づけた者は、利己にもなるという条件さえあれば利他し易い。しかし利他の言行を癖づけた者は意欲があってもなくとも貴い。利己の言行を癖づけた者は卑しいまま生きて苦しみ、憎まれつつ死んだうえ即座に忘れられる。利己の人は他者に有害であり、残された人々にとって一刻も早く忘れ去りたい人だからだ。人は利他の人格に到達するよう生きるべきであり、相利の人格は次善である。従って商人はどこまで行っても、あきんどと見なされる以上に貴くなれない。我執のない人々は政治家にならない。従って政治家は慈善的でなければ徳がないが、力と徳が矛盾するとき力を択ばざるを得ず、永遠に続く勝利はないため暴力への復讐で惨めに死ぬ。善良な政治家は力と徳が矛盾するとき徳を択ぶ為に敗北し、俗衆から貶められる。真の慈善家は卑俗な衆愚に嫌われる為、名声がない。だが彼らの聖徳は貴人に轟く。
利他の人が相利に生きる事は難しい。聖者が俗人を真似る事は不可能である。罪人は聖者や俗人を真似がたい。俗人は右往左往しつつ相利の商売中に混乱して苦しむ。これらはみな癖がつくったものであり、生まれ育ちのよしあしによっている。商業都市で聖人は生まれ育ちえない。都会で聖人は暮らせない。都会は罪人のすみかであり、商業は俗人の好むものである。人は都会と商業を避けよ。聖人の住まう田舎に暮らし、自ら聖徳を全うせよ。
2016年12月12日
知恵
悪しき人々は群れ集い悪業をほしいままにするがその心は枯れはて、次々に襲いくる苦しみに疼く。衆愚は汚猥を好み、それが価値高き幸いだと信じているが、悪徳の故に次々苦難に遭い破滅してゆく。愚者の想う幸は常に悪業である。賢明な人は愚者の望む幸を避けよ。愚者の好む理想やその者の愛する土地、風俗、人生観を避けよ。愚者は輪廻の中で虚栄に浸り苦しみ続ける悪例である。暴力、搾取、虐殺の悪業、独占欲、我執、名誉欲、卑俗を極めた天皇一族は地上に於ける最悪の事例であり、永遠の不幸に遭って苦しみ続ける。天皇の生は醜悪である。天皇を悪例としその逆へと確実に歩め。
繁殖と経済的繁栄の苦
西国は悪人の巣窟であり、東京は悪業の鬱積による苦難の地獄である。解脱した人々は生殖を望まず、自足して平穏に暮らす。経済的繁栄を望む者は自ら不運をかこつ。
都会
都会を離れて暮らせ。都会には何もない。都会はごみである。都会人にすら中身はない。彼らは無意味なものに仕え過労のすえ土くれへ消えてゆく。彼らが価値とみなしているものは次の瞬間には無価値になる。虚無だけが都会に流転している。人は都会で幸福になれない。都会は地獄である。
俗塵を避け、都会を離れて住まう人は世俗の煩いがない。
涅槃について
聖俗の感染
聖俗は交わらない。俗衆は聖者を謗る。俗衆は醜悪で不遇な生態をもっている。ゆえに聖人は俗衆の暮らす場所を避け、彼らの言動に触れるな。俗人は不幸の種であり、それは彼らの無知と理解力の低さ、愚かさによっている。俗人に説教するだけ無益有害であり、俗人の近隣に暮らしてはならない。
聖者の暮らす地域に俗衆は適応できない。聖俗は必ず住み分ける。人は聖なる地域においてのみ、真の幸福と心の安らぎをえる。俗なる地域にあって人が安らぐ事はなく、世事と取るに足りない醜悪な仕事で忙殺される。
俗衆は聖地を謗る。俗衆は地獄を愛する。故に俗衆の一生は汚い。また俗衆の末裔は地獄で生まれ、悪の下界に沈む。都会は悪のすみかである。人は聖地に聖人らと共にいる限り、俗衆の下賎な生態から守られる。
聖人は聖者をよびよせ、俗人は俗衆をよびよせる。類は友を呼び似た者同士が集まってくる。ゆえ賢慮ある人は聖者に親しめ。俗人と馴れ合ってはならない。俗人は悪業の暮らしを無意識に広め、他人にうつしている。聖俗は感染する。
手記
五蘊盛苦(pancupadanakkhandhadukkha、5つの・執着する・要素の・不快)が五感について同じ考え方としていえる。ゴータマ説では五感に執着する事が苦界、となる。他方、人類は五感へ巡る適度な刺激、又は健康を促す適度な運動を快楽と感じる。五感を抜苦与楽の感応へ向けて適度に運動させる事が芸術、技のしている事だ。それらの各感覚が中庸な楽しみを覚える様に繕われるという事は、執着でない限り、仏道と一致する。芸術家が五蘊盛苦を生み出しているわけではない。単に極端な刺激についてのみ、苦界の原因なのだ。もし欲として感覚刺激が悪というなら、視聴覚を使った脳内での言語作用としての有余涅槃も不可能となる。現世で涅槃に、安らぎに近づく為には感覚刺激を中庸に保つ様な環境条件が必要という事になる。『草枕』冒頭の芸術家が楽土を作るという了見は、俗界を捨象し浄土あるいは天国の様に表す、という主観的美化を、理想、又は涅槃イデアの擬似視聴覚的な表現として正当化している。感覚刺激がありながらそこに涅槃を連想させる何らかの装飾を施す事が、ここでいわれている芸術。そもそも生が快を生殖、繁殖、増殖の誘導因として使っているとすれば、有余涅槃への導引は快を中程度に整える事、一部を絶えず変転させておきながら飽きない様に全体を作り変える事といえる。
自分に害がない悪行はしてもいいのだ、と考える西国人は、自分に害が来る時期や他者からの返報を予期していない。自分に害があるかどうかを長期的に予言しているのが、他者が害に陥る事を避けさせようという道徳だ。徳は利他性の変形。
仏法僧は単なる詩人である。僧侶の一切は詩人でしかない。彼らは芸術家の一種という事になる。彼らは言語や演技、所作によって人々にある感情、特に慰めの感情、主に視聴覚を通じた涅槃感、仮の安らぎ感をもたらす職業でしかないからだ。彼らはゴータマ以来、大道芸人が諸芸によって投げ銭を得るのと同然に事実上の対価、その意味では商い又は乞食を正当化した。ゴータマは『スッタニパータ』(一章の四)で、自らの詩にある程度の自信をもっていたので、農民であるバラモンから嗟来の食を受ける事に反発し、反論もした。托鉢はインドにおける生活保護に該当したのだろう。
人類は自らの才能が人類に最も貢献する分野に留まるよう工夫する事で、単にその人の意識において自己実現を果たすのみならず、その人にとって最良の経済的な恵まれ方をもする筈だった。清貧な職業は確かにある。商業的に成功した画家達の趣味の卑俗さは、必ずしも彼らが質的に幸福という意味ではない。前衛的な貧乏画家達は、ある種の伝統芸能や陶芸職人の様に清貧を宿命づけられているが、これらの人々は主観的な表現物によって慰められている。
経済的価値を主要な人生観としてもっている人々は、より富裕な人々や地域をねたむ。この意味で永久に不満で、その分、不幸なままである。極めて低い確率を除いて人類で最も富裕な人になる能力を持つこの種の不運な人々はほぼ皆無なので、彼らは永遠に不幸である。
2016年12月11日
歌手
幻覚に酔っている事も
全てを知りながらなお
君はこの世の美を謳おうとする
まるでそれだけが希望かの様に
死んでいく事も
現象が変わっていく事も
全てを悟りながらなお
君はこの世の空を謳おうとする
君はあの世からこの世へと舞い戻り
天女の様に変転し続ける
生まれてきた事も意味がなく
生きていく事にも望みはない
君は全てを知りながら不可能を謳う
商業悪
人が求めの程度の生産活動を行う事は正しい。求められないものを作る事もその人の徳に応じて正しい。だがこれらを交換する中で搾取しているとき不正であり、自他に悪しき結果をもたらす。人は全く非商業的に生きねばならず、しかも生産的でなければならない。人が生産物を交易する時、互いの取り分が平衡していなければ正しい行いにならない。もし寄付や喜捨によって生産的な人生を送っているとして、その善行にただ乗りする人々は彼らの盗難に等しい無返報という非礼の悪業に応じて不幸になり、貧しくなっていく。一般にこの現象を不況、或いはdeflationという。人々のただ乗りという悪行、即ちけちが不況の原因なのだ。この悪行を断ち切る人々は、商業欲という悪徳を捨て去っている。
西国人の自滅
少子化救済論
己が贅沢三昧の為に奴隷制を象徴天皇制と美化してきた悪の権化・天皇家という無知な独裁者一族が除去され、その悪の手先である自民党という愚かなやくざ集団が敗北し消去された後でも、別の愚者が、民衆の虚しい期待にこたえる形で再び地獄を作り出すだろう。そしてこれは時間の問題にすぎないが、結果は少しましになった、と思い込む間しか持続せず同じである。かといってこの進歩が早ければ早いほど、現世の地獄における苦しみも減少するであろう。
手記
芸術は哲学を表現できるだけだ。
我々は学問、学習によって何かを得るが先ず過去の人の言語・記号・技術的認識を再獲得しているにすぎない。
2016年12月10日
蛮族の自滅
俗価値
生きようと思う心を捨てよ。生きながらえる事は不幸の原因である。子供を産む事は罪悪の始まりである。
金銭に換えられる価値は低い。金銭に換えられる価値に基づいて物事を判断してきた人は脆い。この世で聖なる価値は金銭に換えられることがない。尊いものは金銭から遠ざかってある。それゆえ卑賎な人々が金銭を追う。生涯を金銭のやりとりに過ごした人々は卑しいまま死ぬ。
金銭は低い価値にしか適用されない。それは現世の人々の求めるものが低俗だからである。
手記
ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教、これらはイエスという自我に囚われている限り、また神、ゴッドやアッラーという妄想に囚われている限り、単なる我執の形態にすぎない。これらの諸法には常住不変の真理というものはないのだ。ゴッドやアッラーは実在するものではないし、信者の脳内に住み着いている単なる宗教観念ミームである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教は、仏教の観点からみれば単なる我執である。これらに含まれる神格概念は無我に悟っていない為に生じている妄念の類を合理化しているだけだ。儒教と道教は仏教にとって姉妹的
な人格修養の哲学に過ぎないが、特に道教が無為自然と説いた事と仏教の涅槃寂静は親和性がある。儒・道・仏の教えは神格について語っていない分だけ、妄想への耽溺を免れている。孔子は道を人徳的完成の比喩に使っていたとして、老子についても価値の相対性を超えた立場という意で同じだろう。道という観念と仏教の解脱や涅槃には類似性がある。少なくとも人類がかつて到達した事のある道徳的理念として、この道と涅槃の立場が最も超越的である。日本の中で道は名詞句を作る接尾辞となっているが、この一般化された道は、人徳を完成させる為の修行の道、という仏道とほぼ同一視される。生あるものが何らかの様式性を洗練させていく所で使われる道、という接尾辞は涅槃に対しての道のり、という意味を与えられているのだろう。だから神道という天皇家の広めた新興宗教も、この意味で仏教の部分系、尤も大いに邪道化したものという意味しか持つ事がないだろう。
ブッダは涅槃という生殖を否定し死を甘受する立場を理想としたのだが、なぜ現世の人々はこの業を行いえないのか。本能を中程度に抑え込む、という理性、大脳の厚さが、現世の人々には明らかに備わっていない事による。そしてこの種の脳の未発達な者のみが繁殖し易い為に輪廻がおわらない。ダーウィンは進化論の下敷きにキリスト教をもっていたから、旧約聖書のゴッドがいったことになっている創造主の似姿としてのヒトの繁殖が自然界の是であるという前提に立っていた。だがゴータマはこの是を前提として否定している。ダーウィンとゴータマは矛盾なり反対している。西洋人らが文化素の面でダーウィニズム、その根底にあったユダヤ教・キリスト教の繁殖の是に基づいて植民地主義や侵略を行ったのは明らかである。ゴータマの考えはこの業をも虚無とか悪業と見る。実際に、ある時代に西洋人の蛮行は責め立てられ、或いは西洋由来人自身の罪悪感として自滅に至るだろう。日本において薩長土肥、関西人、弥生人、西国人や天皇家が行った、戊辰戦争以来の侵略の悪業も同様の意味をもつ。ゴータマの考えていた涅槃は、これらの蛮族を完全に無視している。争いによって不幸を拡大し、輪廻を幸と思う人々は単に野蛮なのである。輪廻から抜け出せない限りにおいて、これらの蛮族は自滅しかしえないだろう。
来世代という意味で、前世代の業を継いでいるという輪廻の考えは、単に人類の種別という先祖の系統において真であるばかりか、進化論上の生物の種の系統樹についても同様である。低俗な生態をもつ人々は将来もより低俗になって生まれる事はあっても、高貴な生態になる事はない。だから皇族が低俗であるとみてとれば、それ以下の生態になって生まれてくる事は一般の人々にはない。神道に洗脳され皇族という悪業を背負った暴力団長をまねた人々は、皇族以下に近づく事はあっても、殺人鬼の末裔である極悪の天皇を反面
教師にしていさえすれば、我々はその種の蛮族の地獄的条件に生まれつく事はありえない。生まれつき卑しい中国移民の天皇は地位を交換する事も、先住日本人や外国人らに委譲する事も永久にしえないだろう。その不幸は彼らの悪徳によっている。この点を観察すれば、功徳を積めとすすめた人達は正しかった。それは予期しない次世代の条件であるばかりか、一生の範囲にあっても徳による幸福を原因化しているのだから。
仏教における中道とは、持続的な快を、知覚的なものが長期的に可能な快であるから、質的にも占めようとしている、功利主義の是認に等しい。寧ろ相利主義、趣味主義の見解にみられるよう、質的功利主義の奥にあるのが仏教なのだ。
仏教の奥にあるのが趣味主義である、といえる。質的功利主義が自他に及ぶ様に、しかも相利的に行われるように、中道を図る事が趣味主義の見解だが、この生き方は仏道と一致している。涅槃は子育ての費用が大きすぎる場面での適応形だといえる。もし子育て費が低すぎる場面なら、ヒトは繁殖したがってしまうだろうが、この場面でも中道を超えない事によって趣味を穿つ事ができる。
天国とか地獄はその人のおかれた条件だ。そしてこれらは相対的なものでしかない。人は他の生物に簡単に地獄を作り出す。天国を作り出す事も比較的容易である。政治権力を用いてヒトを統制しようとした人々も、人類の生存環境を、彼らの人々へ与える行政行為の限りで変化させる。技も商もこの環境抵抗を変化させる生業でしかない。業が生まれ変わりとして、輪廻として信じられているとすれば、それは功徳が生存環境へ与えた変化によっている。技術、制度、取引、これらは人生の本質的な虚空、dukkhaを満たしはしない。仏教は道徳であり、技術、取引、制度(これらは制度にまとまる)によらない。
性愛、恋愛、erosは個体への生殖欲、性的欲求を美化していったものにすぎず、この欲はどこまでいってもdukkhaをのりこえる事はできない。Dukkhaの故に生まれ来る。美は本来、erosという意味ではdukkhaに過ぎない。もし快適さとしてのsukhaがあるなら、性愛の不可能さに過ぎない。エロスに基づいて子をなした人々が苦役に襲われている事からも、快適さ自体とエロスは一致していない。それは本能の意でしかない。
哲学は単純に理解できる道徳であるほど望ましいとすれば、易行性が哲学の時代的進歩に他ならない。もし解脱への誘導が成功すれば、勿論、人口は減っていく。だから俗悪な支配者、権力者、皇族達が貢納による贅沢や名誉欲、性欲を満たす為に奴隷をふやそうとしていても、易行性が高くなるほどこの悪業は失敗するだろう。現代日本は成功した国家なのだ。逆に多子化している地域、例えば九州や沖縄では更に苦が襲ってくる。そして皇族はここに寄生して蛮行を試み、不幸をふやし失敗する。皇族とは不幸への寄生虫である。そして彼らの生まれついての偽善を覆い隠す芸能で糊塗した心底からの悪魔である。
芸術は作家の精神、即ち作者の頭脳への学びという効果しかない。だからある山城生まれの俗作家がいう類の、「人格的に問題のある」芸術家の「立派な作品」といったものは無い。それが俗作家の俗物たる限界でもある。俗作家の作品を好んで買う、もしくはそれすら買わない人々の生活をみてとれば、すぐに理解できる。卑俗な人間が卑俗を、俗物が俗物を求めている。だから商業的に大衆向け作品で成功している作家は、当然ながら、その時代の程度に卑俗な存在にすぎない。清貧であるが故に自殺を択んだ作家は、悲劇であるとしても、少なくとも極端を択んでいたという事になる。なぜならその時代の多数派は繁殖性がある限り俗だからだ。この俗に対する折衷が生まれながら自然体でできている、もしくはそれ以外ができないか、それ以上が分からない人々が商業作家であり、大衆の人気作家なのだ。非商業作家達は商業的に価値の無い行いをしているかもしれない。だがそれは彼らの精神が、頭脳が、同時代の大衆の購買欲に叶っていないせいである。そして彼らの思いから学ぶ為の技という装置は、彼らが俗受けする製作物を作り出す為だけにあるのではない。博士論文と取るに足らない学士論文、それらと俗受けした大衆小説を引き比べてみるがいい。同じ文字の羅列でも、これらは求める層が違う。そして商業価値についても大幅に違う。だから俗人達が商業作品しか評価しないとしても、それは彼らが金銭的な価値についてしか理解力が無い証拠でしかない。どの時代どの国にあっても俗衆はこの通りなので、ある時ある地域の作家達はこの貴賎の法則を理解していなければならない。自分自身が同時代の俗衆に比べてどの位置にあるのか、そして自らに可能な妥協はどの程度なのか。妥協できないとすれば、当然、その生業で生活費を捻出できない。だから別の糊口をしのぐ生業を見つけるなり、パトロンに寄生するなり、知恵をつけねばならないだろう。貴品もしくは特殊な品が高く販売できるなら、それに越したことはない。だがこの様な幸運に恵まれるとは限らない。他方、金銭による価値づけが明らかに、芸術の中身としての思想のそれとずれている事も理解すべきである。江戸時代の通俗読み物が昭和・平成の大衆小説であり、そこで人気を博した商業作家達はどれほど虚栄に逸っていても、とるにたりない存在だという事になる。そこで伝えられた思想は、勿論、俗衆に分かり共感し、容易に共有できるほど卑俗だったからだ。こうしてみれば、道徳的によい暮らしは金銭の多さ、儲けの多さから徐々に離れていくのが明らかである。清貧こそが道徳の目的とする位置づけであり、この態度は最も優れた芸術をその時代において生み出す素になるだろう。
日本人と名乗っている人々に立派な人は少ない。特に弥生系渡来人達の末裔は卑俗の極みというほどに野蛮で、この類の人々に期待したり、寧ろ善良であると勘違いしたり、賢明であると思い込んでいる外国人らは単に愚かなのだ。愚か者の末路は一つであって、我々にそれを変えるすべはないし、かえずともよい。中韓人がこれら弥生系の西国人を縄文系日本人ととりちがえているか、一体のものとして誤解しているのは、彼らが愚かだからにすぎない。弥生人らは彼らが侵略してきた前800年ころから今に至るまで日本にとっても常々最も有害であり続けたのだから、外国にとってもそうでないわけがない。そして彼らに絶滅を期待しても、彼らの自滅に待つしかない有様であるが、彼らは勿論利己的で邪悪であるから、増殖したがるばかりで一向に減ろうとしない。その様な日本国に憧れたり、妄想のままに弥生人を善と勘違いしたりしている人達も、悪に騙されている限り同様に愚かなのである。
美は幻想だ。もし美の様にみえるものがあってもそれは生存にとって快適にみえる、性的価値づけの上位にある何かであって、実際にその様なものがあったとしてもこの美は輪廻の原因になるに過ぎない。したがって芸術一切に感じている美も、この快適さの引き延ばしに過ぎず、単なる勘違いでなければ妄念の類である。もし漸近的な快適さがみいだされたとしてもそれは苦、dukkhaの原因になるだけである。緩和された苦が美、といいかえる事もできる。美を求める本能や直感は生物に固有で、性的な働きだが、実際には性の合目的性自体がこの美への幻惑に留まる苦悩の原型になる。いかなる美人といえども人間に固有の苦なしに成長しないし育てる事もできない。同様に、いかなる美的環境といえども生存の苦を緩和できると想定できる為に、見目麗しく映るだけだ。したがって芸術家、技術者、職人らの作り出す美は、他生物が巣を巧くつくり上げる技芸と根源的に違う所がない。
芸術は痕跡である。すばらしい痕跡だと思っている人は主観の投影によって伝わった情報のまとめ方についてそうなのだ。
2016年12月9日
求め
快苦は貴賎。趣味がその人。
金儲けを是とする人は貧乏に苦しめられ、寄付で事足れりとする人は富裕に暮らす。この世の快楽を虚仮と見よ。
金持ちになった下人は卑賎に暮らす。成金は下賎のまま。皇室はただの成り上がり。
死の悲しみ
2016年12月8日
苦しみ
聖人の苦しみが最も軽い物であると悟り、聖徳に留まれ。俗人の忠告は毒物である。聖人の忠告は良薬である。自らより劣った者の忠告を聴くな。卑賎な者は堕落への誘惑を忠告だと考える。俗人の善意は、彼らの生態に含まれる悪徳の故に、聖人にとって有害な悪意である。調度麻薬中毒者や仕事中毒者、或いは酒色に溺れた者の勧める快楽が有害な様に、品性下劣で愚かな者は上人を地獄へ誘導しながら善行したと考える。だから人は下賎の者と寸分たりとも親しむな。下俗と分かる者の生態を知るな。世々の知恵に上限もない。下限を知ろうとも輪廻の渦はきりがないのだ。ひたすら自ら以上に優れた人物のみを知り、彼らに学べ。
卑屈な者と分かれば猶予なく即座に判断し、会話せず、触れ合うな。それは時間の無駄でしかない。たとえ俗人と話すだけでも卑賎はうつる。商人達や下種な都会人に関わるな。
2016年12月7日
商業の絶滅
俗人と共にいないだけで苦しみの大半は去る。生きる為だからといって商業活動をし繁殖までしている搾取罪人は苦役を自ら背負っている。その様な俗人らに道徳的反省はできない。
俗人に触れ合うな、俗衆に説教するな。俗衆の中に行って啓蒙できると思うな。啓蒙は中人以上にしか効かない。よき忠告は上人にしか届かない。下人は反面教師として為すがままに自滅の共食いをさせておくか、ごく有害なら強制力で彼らを刑罰せよ。
清貧だからお金がないというなら、その人は最高の境地にいる。金満だから自慢に足るとか、世俗的快楽が多いというなら、その人は最低の境遇にいる。幸の目安は道徳的模範性である。成金は蔑まれ、慈善家は敬われる。
俗人の為に奉仕するな。俗衆の好む物を作るな。聖なる人の為に奉仕し、聖者の列に並べ。通俗的な商売で成功したと述べる者は人生の失敗者だと見よ。低俗な商業で金を貯めている人はその時点で悪の権化と見よ。聖者以上の者は地球に居ない。聖者の為の生業が最上である。聖者より尊い者が星外に見つかれば、その者の為に奉仕し満足せよ。神という理想的人格を妄想し、その神格に仕える事は、神格に限りなく近い聖者の為の奉仕にすぎない。聖者はより尊い聖者に仕えている。
俗人は悪趣味であり、不幸の源泉である。俗人とつきあったり、関わったりするな。俗人に会うな、触れるな、近寄るな。俗衆の多い地域を避け、彼らの好むものを避けよ。俗人を学ぶ程悪くなると悟れ。俗人の愛し、好むものはけがれであり、俗人とは悪例に他ならない。
極悪政治と山口県の破滅
カジノ法、TPP、格差社会化、そして原発推進、これらの悪業は全て安倍晋三という極悪人1人から生じている限り、極悪安倍家の破滅はその極悪人を選出した悪しき山口県民一切の滅亡につながる。
人格と脳
人格者とか聖者と呼ばれる人々の脳は、利他という意味で集束的だが、その他の部分では個性をもっている。もし東西の聖者の代表としてゴータマ・シッダールタと、イエスを選出すると、彼らは利他という意味で共通性があったが、理想を説明する際に用いた文言はそれぞれ異なっていた。もし彼らが同時代に同地域におり、互いに話し合ったら議論の末に、共通の説明手段を見つけ出したかもしれない。だから説明とか個性という面は、実際のところ人徳の目的ではない。この意味で、芸術は人格を高める道程でしかありえないだろう。
幸福は、良心の満足という大脳の状態で最高の値を達するのだから、幸福になりたければ人格を極めねばならない。そしてこの人格の高さは中庸な利他の習慣として達成度があり、段階すらある。人が終生をかけて追求すべき脳の状態とは、また人生の目的とは、この中道の癖である。くりかえすが、凡庸とか凡俗という事は中道と意味する所が異なる。凡愚は利他の習慣を一貫してもたないからだ。
人生の目的
人は、何らかの手段に縛られる事なく、誰かの為に仕える事なく、自らの意思と興趣に基づいて生きる時幸いである。
俗衆と関わらず、俗衆に奉仕せず生きられるのは高貴な生き方であり、清貧でも、通俗的金満より幸福である。
生活のため俗衆に奉仕し金を稼がねばならないというなら、最小限度の方がよい。それは堕落なのである。人が高貴な為に貧しいとすれば、その人が最も尊い身の上な事は疑いがない。高貴な人は有徳さの故に必ずや優雅であり、世俗的な事は悪徳の故に絶対的不遇である。俗人は子をなす事を幸いだと思っているが、産む事も生まれる事も苦役に過ぎない。俗人にかかづらうな。金が儲からない事も、儲かる事も苦しい。商いは苦しい。生まれてきた事は苦痛に過ぎない。老病生死を避けよ。愛や怨みをもたず欲せず求めるな。貧しいから死んだとて人はみなしぬのである。富裕の家に生まれても空しさだけがある。貧富を超越していよ。貧しさにも豊かさにも限りがない。自らの持分に満足せよ。欲したり求めたりするな。死にも生にもこだわるな。俗人と関わる事なく暮らせ。生きる為に必要な物を得られないなら死を甘受せよ。無欲であれ。清廉であれ。
子供を産む親は無知で愚かである。性欲に負けるという悪業によって子ができる。子供を産んだ人を軽侮せよ。この世において尊敬すべき人物は、子供がいない。性欲に負けた人は利己的で有害である。子を為すな。子育ては性欲に負けた悪業の因果であり、苦役である。俗衆は苦役を背負う。聖者は苦役を捨ててゆく。
商売人は俗人であり、商業社会は地獄である。慈悲の為の商いはない。商人はみな不幸である。商いをするな。商いなしに暮らせない国と社会を去れ。商人仲間を去れ。寄付され暮らせないなら、地を倒れるまでさすらえ。慈悲の故に死ぬのは利己の故に生きるより幸いである。悟って生きる1日は悟らず生きた全時代にまさる。清貧の者に生活保護を与えない悪徳国家、悪の都道府県から去れ。清貧の故に尊ばれる国や県に住まえ。資本主義や自由主義を標榜し、商業を必須にした国々は不幸であり、そこでは死んだ方がましである。利己的な人々の暮らす国、地域、時代からは足早に立ち去れ。商業地を離れよ。慈善を尊ぶ人々と共にあれ。金持ちを尊ぶ人とつきあうな。貧者を慈しむ人とのみつきあえ。俗人は利己的であり、存在自体が有害である。贅沢したがる人とくらすな。悪徳の持ち主と話すな。清貧で悟った人と親しめ。大都市に近づくな。慈善を行え。俗衆の集まる場所は悪徳の巣であり、低俗な文物は不幸の証である。清らかな美は善の故に認める人が少ない。性善の人と親しめ。性悪と関わるな。性はうつる。悪しき快を求めず、喜ぶな。悪しき快は必ず不幸を請求する。悪友を断ち切れ。友にも親にもこだわるな。判断や理解を人に依存するな。人はみな去る。愚者は人をだます。貧富は幸不幸の目安ではない。貧富は尊卑でない。政治権力や組織の上下の肩書きは人の貴賎ではない。人は善の故に幸せである。善人はそれ以上を欲するな。俗の故に富んだ者は不幸であり、その身は落ちぶれ易い。所詮、自分より道徳的に優れた人としか付き合う意味はないので友達は少ないほどよい。
悪業の果は遅れて来ることが多い。すぐに悪業の返報がないのは、かえってくる時は手遅れになる証拠である。
手記
金銭より学芸の方が優っている。金銭は学芸の手段。金は失われ技は長い。技を高めるまでの修養も、一旦獲得されてからの意義の持続も。時を節約するとは、悪徳をさける事にすぎない。悪人、俗人はこの意味でつきあうほど悪い。俗受けする芸術が無意義な様に。俗衆の中身はない。俗衆は鰯の群れの様に群集心理で動いている唯の肉塊だ。だから俗衆の為に奉仕する事はとりもなおさず悪徳の強化を意味する。さけるに越した事はないのだ。
生きようとすると苦しみが生まれる。俗衆が足りない物を欲する限り、その人はうらまれ、かつ求める物が巧くえられない。俗衆が欲しがらない物を求め、俗人が疎む所を住みかとすれば優雅で幸いにくらす。金を儲けて本能で繁殖し苦役を増す衆愚の生態は醜い。俗人と共にいる事は苦。資本主義、自由主義の下、商人としてくらす事は苦役。俗衆に奉仕する事は苦の増大。下人とわかりあう事はないと心得よ。下人の脳は君の脳と違うのだから。
少食は幸福を作る。大食漢を好む女は下俗で悪徳をもっている。貴人は働く事少なく、考える事多い。我々は完成された心をもっている。我々はそれ以上になりようがない。我々の憂いは俗人と関わり合いになる所から生じるのだ。
我こそが優れていると思う集団は最短で貶められる。我こそが、と思う心は悪。利己主義者は一様に不遇。俗人と共に生きるな。
商業は習慣。相利的習慣としての商業は高徳だろうか? 仏陀やキリストは商人より慈善的宗教人、哲人を理想視していた。なぜ?商人としての哲学者は必要最小の利益以外とってはいけないのだろう。だからその相貌は金儲け以外を生業にしている様にみえるのだろう。商業習慣をすてる事は正しいのだろうか?
中道に近づく為には、生まれもった資質の逆をいく必要がある。関西人、弥生系渡来人は縄文系日本人より生まれもって利己的であり、それは大脳辺縁系の未発達性か、商業文化の刷り込みによる集団性による。だからこの様な利己主義者の生まれをもつ人々は、慈善家の性格を模さねばならない。逆に縄文系日本人は生まれつき利他的なので、奴隷化されない様には利己的な盛者、いわゆる成功者達を模範にしなければならない。最も利己的な渡来人は天皇だろうし、縄文系日本人はこの人が利己の極端な事を手本にする事で平衡をとってきたかもしれない。天皇が最低の俗物なのは疑い様がない真理だが、その最悪の地獄罪人を利己主義者の権化として仰ぐのは、弥生系渡来人の場合は単なる愚昧か悪徳であり、縄文系日本人の場合は皮肉か過度のお人よしの緩和である。
商業習慣は劣っている。慈悲の習慣は優っている。商業習慣より優っている生活習慣があるのに、より劣った形態をもちこんだ薩長や関西人は確かに愚劣である。英米人は悪である。これらの悪人らから離れる事が悟りだ。世界に愚昧な集団があり、それは異なる生物集団と同じだが、その愚昧な集団を変えようとしても無意義だ。獣類が人類を目指しても無意味な様に。単にさけるしかできない。関西も、西国も、英米も、東横も。名古屋も仙台も札幌も福岡も。商業集団をさける事が最良だ。慈悲集団がみつからなければ、自らが先鞭をつけるしかないのだ。利他の為の商売などありえない。相利の為なら黒字と赤字は一定の幅をこえないから、利潤を蓄積する事はありえない。つまり大企業病は株式会社として上場した時点で始まっている。もし株式会社化したとしても、自己資本を中心にしている段階なら問題は薄い様に見えるが実際は、投資家という悪魔の手が忍び寄っているわけだ。投資家をさけるに越した事はない。投資家達は有害だ。利己主義者だからだ。相利の為に生きている様にみせかけている山城人。なるほど醜悪だ。必ず破滅。
相利的な会社、事業は非公開株の元にあるだろうか。非公開株は資本の量が限られる為、奉仕の改良も一定幅にとどまるだろうか。蓄財可能という意味では、当然ながらほぼ無限の公開株が劣っている。結論は事業の合目的性は一定の資本幅に満足する事だ。需給が完全に一致している時点でその商は最良の状態だから、事業拡大をしようとしても実質的に不可能であり、潰れていく。だから相利性が合目的性、事業体はプラスマイナス0が目標。
2016年12月6日
2016年12月5日
聖俗
貴風は自体に価値がある。世俗的な事は意味がない。同時代的俗人らは単に、道徳的に低劣なのである。彼らは意味内容がない。彼らは動物に丸で等しい。天皇と呼ばれてきた存在は、その時代において最も低劣な形態である。天皇が最低の俗物である。俗衆の認める権威は、それ自体、俗悪さの表彰だからだ。
JリーグCSの継続
2016年12月1日
業領域
業が領域と無限の両面をもつ事が、来世代に関する仮言命法と定言命法、両分の動機である。遺伝的近縁性は来世代の意識を、肉体的に定義している。また来世代の置かれた文化素は、この近縁性を環境抵抗中の生活形態において補完する。無限定な普遍性は業の本質を内容するが、返報性が遠い時、人は仮言的に振舞い易い。しかしこの返報の遠さ、遅さは、結局の所、返報の影響度が薄い時と濃い時に分かれる。前者について人は罪悪感を持ち辛い為、旅の恥は掻き捨てという諺が存在するのだろう。無論この諺は悪徳である。旅の恥は掻き捨てるべからず、飛ぶ鳥あとを濁さずが善といえる。そして共有地側は記録性によるフィードバックによって、ただ乗りや悪意ある有害行動者を排除するか、少なくとも前世代を見分ける事がある。歴史は共有地の徳である。
力と善
2016年11月27日
2016年11月25日
内閣暴走反日政府
安倍内閣薩長藩閥暴走で米国裏切り中国敵にす
反日の自民党閥我が国を汚染し償いせず暴走
天皇家天下の小沢氏いじめつつ安倍氏を裏切り職務放棄す
都民
自称テレビ芸能界
中で行われているのは馬鹿騒ぎだけ
自称大企業の金持ち共が食い漁る下民
救い様がなく腐りきった東京関西
自称大都会のスラムでびくびくしながら
ろくでなしの集まりで悪口を言い合う
愚にもつかない連中と群れて自称安心を買う
徹頭徹尾俗物
果てしなく下賎な天皇家
暴力団員にかつがれて有頂天
自称日本人の単なる中国移民
救い様がない悪業の衆愚と馴れ合い
狭いごみ袋で捨てないでくれと蠢く都民
2016年11月24日
2016年11月23日
2016年11月22日
2016年11月21日
2016年11月20日
2016年11月18日
2016年11月17日
2016年11月16日
2016年11月15日
手記
生存価値とは何か。生きている価値とは何か。死ぬまでの間、我々は何を追い求めているのか。金? 命が得る快楽とは何か。
誰かの為に時を費やす意味は? 金にならない生命とは何か。同時代の他人から求められている人は、彼らに何らかの快楽を提供する。快楽を与えられる人は金を得る。与えられない人は死ぬ。同時代人の欲望に合わせた人は金を得る。未来人にあわせた人は、死ぬ。同時代人とは尊いものか。なぜ同時代に適応しなければならないか。
絵は写真ではない。写真的な絵は失敗した絵。
絵の写真的側面は、勿論意味がない。絵の写真的面は単なる露悪趣味。リヒターの試行錯誤は、何を示しているのか。芸術、技とは何を達成しようとしたのか。写実性? それによって記録した物は、誰かの主観を映す。映された主観、勿論それが伝達以外の何かを示すでもない。伝達する人の主体性が映されたもの、人は人をしる事しかない。
人の目的は何か。なぜ人は仕事をするのか。学問の意義とは何か。
死の前で意義をもつものは何か? 永遠に残る生命があるか? 絵の本体は思想であり、偶像崇拝を禁じた宗派も究極のところ思想を、想いを伝えるものにすぎない。ではこの想いとは何か。哲学する事の意味、そもそも人は利他的な集合意識をうみだす。ではこの集合とは何か、ある仲間が目的としているものは何か。
絵の写実面はどこまでも現実の現象的側面を映す。写実性の目的は記録だ。主観を写す為に、この写実性は意味をなさない。写実性が可能なのは表現ではなく記録、ちょうど文芸で人がrealismでそうする様に。
楽しいと思う事は何をめざしているのか。楽しさとは感覚の活動である。
面白い文章、面白い絵画。美しい女性、勿論これらは性や好適さの別形態に過ぎず、この快適さは合目的性の形だ。リアリズムの目的が合目的性の表現にすぎないのなら、人類は何を作っているのだろう。よい環境、よい健康、よい生命、よさ。道徳性と善さは一致し、美と生命の目的性は一致する。環境も。人類の環境としての建築都市、目的としての美も、自然のそれと一致する。
我々は許されようとして描くのである。我々の目的とする絵も、描かれている形象の向こうに救済を求めて色彩を与えられた。見返りのない試行錯誤、挑戦、しかしどれも唯の悪あがきの様、色彩を作るにすぎない。
人間は何に価値を与えているのだろう? どれほど努力しても、何の価値も作り出せない。世俗的価値は私の手から離れて作られる。聖なる価値を私が作り出したとしても、人々はそれを認めない。
私はどれほど困窮しても、何一つ得ようとはしない。私達にできる事の全ては、価値から離れている。芸術というもの全般は、価値の外にある。どこかの人が高いカネを払って特定の芸術を購買した所で結果は同じ。技は価値をもたない。技は無償で、単なる技だ。換金された技は既にそれ自体ではない。
学問によって救済される魂。記録。美しいといわれる対象は、何らかの意味をもつ情報の束だ。行動の記録。情報価値をもつ体系。自分の情報を写す。自分の思考原理、思考、つまり言葉の順列によって把握された何らかの概念を写す行為。なぜ? 何の為に写すのか。挑戦者の仕事。学問の定義とは何だろう。人が学ぼうとする、他人から。他人の知恵を借りる事。目的として、借りる。
2016年11月14日
2016年11月13日
生まれ
善良な人、幸福な人に子孫がいないとすればそれは人生の悲劇であり、悪質な人、不幸な人に子孫がいるとすればそれは人生の喜劇である。
雨降りお月さん Ms. Rainy Moon
2. 破片 Particles
3. 海岸にある電話 Telephone on the shore
4. 雨降りお月さん Ms. Rainy Moon
Release date: 2016/11/13
2016年11月12日
克己
無欲で強欲に打ち勝て。競争でなく克己で勝利せよ。功徳や報償の為でなく、習性として慈善せよ。
最高の寄付とは、相手の徳を増す奉仕である。貧者は慈善で心が富むであろう。清貧の方が、金持ちより最高徳に近い。小欲は幸福の素。
恨みは捨ててこそやむ。彼彼女に勝ろうと思うな。敵に憎しみでなく、憐れみで接せ。誰をも敵にするな。自らを低くする者は魂において高められる。
2016年11月11日
にせものの国
求めているもの
欲しいもの
群れて悪口を言う
陰口以外が生まれない仲間と
卑しい利己主義者を貶めあう
全員が偽物
自称皇室の俗物
政府は悪事を好んで侵略テロを正当化
勿論生まれてくるほど悪い
それでも子供を産む衆愚
理由は空っぽ
誰一人真実を知ろうともせず
ひたすら金を儲ける国
自足
2016年11月9日
功徳と因業の大きさ
善人が善人に善行する。最善。
善人が悪人に善行する。大善。
悪人が善人に善行する。中善。
悪人が悪人に善行する。小善。
善の大きさは、最善>大善>中善>小善。
因業の大きさについて。
悪人が悪人に悪行する。最悪。
悪人が善人に悪行する。大悪。
善人が悪人に悪行する。中悪。
善人が善人に悪行する。小悪。
悪の大きさは、最悪>大悪>中悪>小悪。
ここでいう善は利他性一般であり、悪は利己性一般。
仕事は、功徳の大きさに比例しておこなうほどよい。つまり最善、大善、中善、小善の順で、行うほどよい。裏返せば、因業の大きな行動ほど、仕事としてふさわしくない。つまり最悪、大悪、中悪、小悪の順で行うほど悪い。
仕事で、利他的な人(善人)が得を、利己的な人(悪人)が損をしあうほど、その社会は優れた状態に達する。仕事と功徳は一致されねばならず、善人が相利な時に最善。つまり聖なる仕事がありうる。
2016年11月7日
2016年11月6日
作品
対して立派な作者の手に成る偉大な芸術は、いつまでも忘れられず大事に保存されている。偉人が道徳的に尊ぶべき要素が多い程、事情は同じ経過をたどる。
拙速は巧遅に劣る。巧速が拙遅にまさるとしても、人格の完成した若者がまれな様、早熟な天才も折れやすい。周りの嫉妬や無理解、清貧に耐え抜く心根は、凡その天才にとって体験的に得られる為だ。もし伝記や物語で未経験の苦難を頭で知っていても、実施にあたって諦め、挫ける者がいかに多い事か。そして彼らが果せぬ夢として子孫に託そうとした何らかの希望さえ、親の人格に応じた程度にしか教育できないのだ。悲劇は続く。凡愚の輪廻はそれ自体、克服すべき課題を先送りしているに過ぎない。だから天才の作品のみ偉大だとして、彼らは凡愚に想像もつかない苦難を、精神力、心身の努力によってのりこえてきたのだ。
2016年11月5日
幸
汚い生き方をする人間は、汚い人間になる。清らかな生き方は清らかな人を作る。
生あるものは死んでいく。汚い行いをなして生きる人は、彼らの汚い子孫からも蔑まれ死に、すぐに忘れ去られる。それは彼らが、子孫にとって一刻も早く忘れたい人だからだ。清らかな生に子孫がいなくとも、彼らの行いは清らかな人々から賞賛される。
繁殖は幸の目安ではない。功徳が幸の目安である。子孫にとっても同様に、前世代や先祖の功徳が直接、遺伝子や文化、歴史をはじめとした生存状況に反映されているのだ。過去の因業が現世代を作った。現行の悪事は来世代、次世代にとって抗えない不幸の原因である。今の業は次世代からは前世代にみえる。これ故に、人は道徳性によってのみ幸を得ると結論できる。
2016年11月4日
繁殖主義者と幸福主義者
幸福主義者、即ち哲学的な善人は子孫繁栄によって周囲にも当人らにも幸福を拡大しうる。
両者は利己による有害と利他による有益という別の道を辿っており、繁殖主義者の好む金儲けは有害、幸福主義者の好む慈善が有益な証明である。繁殖主義者の目的は不幸の拡大に過ぎず、その子孫もまた不幸を得る為だけに生きながらえているのだ。この意味で繁殖主義者は世の反面教師で悪例である。子供を増やすことが目的な繁殖主義者は不幸をふやし、哲学が目的な幸福主義者は幸福を増やす。
匿名厳罰体制
またやくざ化した都内マスメディアやブランド総合研究所(代表・田中章雄)等の不良な調査企業が悪意で特定自治体や特定個人、集団への、集団虐めとメディアスクラムによる実質的な集団虐殺を企てる事例が頻発しており、これら恣意的な偏見流布へも、新たな厳戒厳罰体制を敷く必要がある。
2016年11月3日
旧電力会社本社自治体最終責任法
これらの法を旧電力会社本社自治体最終責任法(旧電法)と仮にし、今国会中に成立させねばならない。既に廃炉が常識となった限り、最終処分場をこれまで原発から99%以上の莫大な利益を得てきた都内及び各旧電力会社の本社立地自治体に立地させ、新電力のクリーンエネルギー転換の負担を最小化する公正なる行政処断が絶対に必要である。
2016年11月2日
2016年11月1日
森の奥、林の音
美しい幻想を追いかけていた。全てが正しい場所に落ちつくのを待っていた。だが、その時はいつまで経ってもやってこなかった。形は崩れ海は鳴る。林の奥で鳴く鳥は、向こう両隣なんの変哲もないビルの地下で永遠にしまいこまれてしまう。
二 森の奥、林の音
悪い時代、悪い国、日本の平成。勿論、私達の目の前にあるものすべて。
かといって我々はそこからぬけだすすべもない。ひたすら落ちこんでいる人みたいに。儚さ、むなしさを両手に、或いはそれすらなく、死に絶える。森の奥、林の音。
あの朝の池袋
僕はその頃、十八だった。
僕は何にでも成れる気がしていた、そして表現しきれない大きな鬱屈や、不思議なほど大きな空しさを抱えていた。誰もがそうだと思うけど、僕もまだ未完成で、その不完全さは示しのないやじろべえの様だった。右から左へ、左からあらぬ方へ、僕の心はゆれうごいていた。
そのとき、芸大受験におちて椎名町のウィークリーマンションの一室でひとしきり泣いたり予備校の始まりがあって、僕はあまりまわりが見えていなかったのだろう。というより、みえすぎていた。人生で初めて行かされた飲み会という儀式のあとで、我々は同年だろう同期だけでカラオケに入り、出てきた。細かい所を全部書くには、いま時間がたりない。かいつまんでいうと、その朝の池袋の暗さについて語ろうと思う。
二 この世の終わり
よのなかの殆どの人は、僕ほど暗い社会をみたことはないだろう。僕がその朝みた池袋の街ほど、僕の心を暗くし続けたものはないほどだ。その暗さは深く、深く、僕の魂に染み込んで離れない。それほど暗かった。
僕はもっと美しく綺麗な町、清潔な磯原で生まれ育っていたから、その朝みた池袋という都会もどきの街の暗さは衝撃的だった。カラスは僕の故郷で観るかわいらしいものでは全くない。化け物か魑魅魍魎の類が跳梁跋扈し、手のつけようがなくなった景色というものをはじめてみた。
でも僕はあの朝に染みついていた空気、救い様がない絶望と希望の入りまじった光景、大気の冷たさを、僕自身の一部にしてしまった。勿論宿命だろう。もっと詳しく説明する事もできる。カラスが散乱するゴミ袋をあさっていた。僕のふるさとのカラスはそんな凶悪な生態ではなかったし、『七つの子』を歌ってた地元であるから恐ろしくもなかった。みやまからすとハシブトガラスといった、田園と都会の種類の違いがあったのかもしれないが、とにかく恐ろしい、冷たい、ひえきった社会だと誰もに分かる感覚。世界の終わりを表現したらこうなるだろう、といったまざまざとした現物が、僕と田中君があのカラオケボックスの前あたりのマクドナルドだかなんだかから出てきたら広がっていた。あなたに伝わるべくもない事実だ。でも、僕の脳内に残っているそのときの光景の暗さ、冷たさといったら甚だしいもので、いつかちゃんと表せたらいいと思っている。今の僕には、ダミアン・ハーストの絵に描かれてるカラスみたいなものしか伝えられない。でもいずれ語れるだろう。
竹林の音
僕はその頃、小さな草むらの脇にいるみたいな場所で、ねこんでいた。そこはとても小さな草むらで、ぬけだす方法もわからない。だから訳も分からないまま、小さな奥ゆきのない草むらの奥にいた。
きっと僕はこの世に生まれる理由もなく、生まれたのだろうと思った。僕は自由になる為に生まれたと信じていたけど、実際は草むらからぬけだす道さえわからない。意味がわからないかもしれないが、そうだ。つまり僕の存在はばらばらになった星屑か、それに類したごみ箱の散乱みたいなもので、価値をもたない。もし、価値をもっていたら沢山の人が僕のいる、この草むらにやってきて、ちやほやしながら何かをくれたろう。でもそんな事はどれほど待っても、全然なかったし、今後もないだろう。要するに、僕の存在は古典的な優雅さからはるか遠く、単なる面倒くさがりのついたため息みたいな感じで、実際、誰もかも僕の目の前を通り抜けて行った。なんだ、君は僕を人間だと思っている事だろう。でも、僕はねこだ。これでわかったろう。
僕は草むらの奥にすてられた、勿論だれから望まれたかもしらない、小さな子猫だ。
君はね、だまされたと思ったかもしれない。でも、別にだましたわけじゃない。僕はただ、このだれからも葬り去られて、忘れられたまま死んでいく様な小さな草むらで、神さまに救われないかな、という真剣なまなざしで、何かを待っている。何度も説明して申し訳ないけど、確かにだれもこない。だってここは誰からも遠いのだ。
二 僕の生い立ち
僕のおいたちなんて、多分だれも興味がないから語らないでおこうと思ったんだけど、この際だから説明してもいい。僕は一歳で、たしか木枯らしのふく秋ごろ生まれた。といっても別にブッダみたいに森羅万象を悟ってもないから、どこで生まれたかなんてしらない。気づいたら生まれていたのはみんな一緒だと思う。僕の生家はこの草むらのすぐとなり、いわゆる野口雨情の生家ってよばれてる、あの立派な家だ。建物の立派さからいったらまあまあかもしれないけど、それはこの際いわないことにしてほしい。だって僕の生家なのだ。
そしてね、僕はその生家で産声をあげた。うぶごえっていっても、なにしろ僕は猫だ。だから、話すたびに「にゃあ」という。当然のことだけど、あえていっておいた。人間語と勘違いされると困ると思ったんだ。
僕は小さな体を、母ねこのとなりに横たえていた。そして別段不思議なこともなく、しばらくお乳をもらいながら成長し、大きくなった。にゃあにゃあ鳴きながらね。この辺の詳しいところは省略させてください。
そしてね、僕が生まれて半年ほど経った頃、突然大きな津波がきたんだ。うん。そう。僕のねていた生家の草むらに、なんだか突然おおきな揺れがきたなと思ったんだ。きっと僕の脳の勘違いで、目の前を通ってる国道のトラックが「ぶう」とかなんとかいったんだろうと思ったから、お母さんがくるまでの間まっておこうと瞳を大きくしながらじっとしていたらね、突然、津波がきた。僕の目の前にだよ。その波はあらゆるものを覆うみたいに大きくて、びっくりしちゃった。単にびっくりしただけならいいんだけど、僕はまるで突然の大嵐で住処から飛び出した殿さまばったみたいに、いえの塀にとびのってね、いえの右にある脇坂を、中ほどまで、電光石火でかけのぼっていたんだ。気づいたら。だってびっくりしたからね。それからあふれた水が、急にこっちに向かってやってきたもんだから、ますますびっくりして、僕はすぐ隣の畑の茂みに隠れた。うん、隠れたんだ。なんで隠れたかって? 勿論こわかったからさ。
それからどれほど時がたったろう。僕はその茂みの奥でぶるぶる震えていた。誰も来ないのかなと思って。それが今なのさ。
三 孟宗竹
それでね、僕はこの草むらから出る方法はないかって、ずっと考えているんだ。でも僕の両足は硬くふるえて少しも動かないし、みんなはなんか近くだか遠くだか分からない距離でわあわあとか、きゃあとか言っていてとても怖い。何かおきてるのかなとは思うけど、外を見る勇気はないんだ。えっ、勇気がないなんて臆病だって? そう思うなら思ってくれて構わない。でもね、僕は本当は勇者なんだよ。真の勇者は蛮勇をもたないんだ。だって無駄死にするのは匹夫だからね。こんないかめしい武士道を説いたところで、資本主義の現代社会では意味をもたない。君はそう言う。実際ね、この磯原町のどこでだって、僕の存在なんて誰からもしられてない。だっておかねもちの家のねこでもないし、といったら失礼だけどさ、お金っていうより名誉を重んずる武士、の末裔の家の小さなね、子猫の一生なんて、別にいまどきだれも興味をもちやしないのさ。
それはそうと、外から声がするから、僕はやっと、こんなに冷えちゃった白い手でそっと茂みをあけてみた。するとね、そこには手にカメラをもった変なおじさんがいた。きっと近所の人だ。お母さんはどこにいったろう? 僕のくりくりした目はあたりをきょろきょろ見渡した。自分でくりくりとかいってるくらいだから、よっぽど丸くなっていたんだろう。近所の人はね、津波がどんなに恐ろしいかを記録しようとしているみたいだ。
僕の目の前には随分とはっきり、孟宗竹の林がみえた。その林は、普段僕のお気に入りなんだ。だって僕はね、竹が好きなんだ。そして竹林に入って、どっかから生えてきたたけのこを探したり、それにつまづいたり、はたまた自在に駆け巡ってさやさやとそよぐ風の音に耳を済ませる。僕の趣味だ。
でね、その竹の音がそのときばかりは、とっても怖かったんだ。竹の音っていうのも変なら、竹林の葉っぱのね、鳴らす音。風の音さ。僕の耳はしゅんと閉じてしまい、あんまり物音がきこえなくなってたから、そのせいかもな。今にして思うと。でも、僕はそのとき、大好きなはずの竹の音をきいて急にね、怖くなって茂みから手を引っ込めたんだ。それでも竹林の音はした。さわさわさわ、ざざあ、ざざあ。僕は目を硬くつぶる。そして竹林が普段はあんなに僕に優しいのに、今は怖い、とてもこわくて、何かばけものみたいな巨大な城になっちゃって、僕の耳をふさいでいるのだろう、と思った。波の音は、僕や竹林の近くを出たり入ったりしていた。きっといま、僕のねていたあの生家の庭まで、ものすごい真っ黒の波がわりこんで、お母さんなんかも僕が死んじゃったと思ってるんだろう。僕はそう思うと、涙がすこし出てきて小さくにゃあ、と鳴いた。
四 次の日
次の日、僕は表彰台にのっていた。表彰台って何って? 何で急に? ここまで聞いたのに、何もしらずに帰るなんて、無理そうだ。
僕はまえからこう思ってた。僕はいつか偉くなるんだって。だからねこはくわねど高楊枝、我慢にガマンを積み重ねて、今に世の為になる大仕事をしてやるんだって。僕が夢を叶えた顛末を話そう。
僕の手が茂みから引っ込んだのと時を同じくして、孟宗竹の林の向こうから、お母さんの呼ぶ声がしたんだ。それはにゃあ、とかにゃーんとか、そんな感じ。みんなにはただのにゃあにゃあにきこえるんだろうけど、ねこ語では「私のかわいい子猫ちゃんや、どこにいるの」ときこえる。だからここではにゃあ、と書いた。ねこ語の講座を聞く為には、どうか雨情生家に煮干しをもって来てほしい。たまたま僕がいたらだけど、講義してあげるかもしれない。でもね、それは物語のわき道だ。
僕が茂みから、あらん限りの勇気をふりしぼって外に飛び出してみると、といっても、この丸い目をね、そっとしげみから外に出して、ぎょろぎょろ周りの様子をみてたんだけど、そこではなんと、さっきの隣の家の人が、そう、近所の人だと思ってたら隣の家のおじさんだったんだけど、そのひとが僕にね、助けを求めてたんだ。これは厄介な表現だから、ちょっと言い方をかえないといけない。正確にいうと、そのおじさんは足がわるくて、自由に動けない人だったんだ。僕は最初気づかなかった。当然僕も動けない。でもそれは、僕に勇気が足りなくて動けないんだ。おじさんは違う。もともと足がない人だった。なんでも交通事故とかで、足がなくなったらしい。ねこに交通なんてないし、あったとしてもただの散歩だから、よくわからない。とにかくジコってやつで足がなくなったらしい。僕はその場でね、涙目で叫んだ。
「ここにおじさんがいるよ! 助けて」
でも、その声は、人間語だと「うにゃーん」ってきこえるみたいだけれど、ねこの世界だとそれは、緊急の合図なんだ。ねこたちにはきっとわかる。そしてね、お母さんが僕の声に気づくと、急いで坂の上の方に走っていって、あのおっかない犬のいる家の前でにゃあにゃあ鳴いた。犬がほえて、中の人が出てきた。勿論、地震があってテレビで情報をみてたから、犬のほえる大騒ぎに驚いて出てきたんだけど、お母さんの活躍で、放し飼いになっていた犬がどんどん僕の茂みの近くまで走ってきたんだって。出来過ぎな話だと、僕だって思う。でも本当なんだよ。
そうしてみんながおじさんを見つけて、坂の一番上までうんうんと引っ張り上げた。次の大津波がくるまでの一瞬の事だった。
あのほえる犬が助けたみたいに、みんな思ってるんだけど、違うんだ。おじさんを助けたのは僕。でも、そのことは僕しか知らない。表彰台というのはね、生家の隣の塀の上にある、僕の特等席なんだ。茂みまで駆けのぼると、あの足のないおじさんが助けられた、坂道がある。この坂を一杯にするくらい、大津波がのぼってきたなんて、誰も知らない。
2016年10月31日
2016年10月29日
2016年10月27日
2016年10月26日
2016年10月24日
2016年10月23日
2016年10月21日
科学と哲学の違い
科学だけで十分だと考える人はいかに生きるべきかを知らず、そのため幸福にもなりえない。いかに生きるべきか、つまり義務は徹頭徹尾、その人個人の哲学に求まる。そして哲学の程度、あるいは種類に応じてのみ、その人が幸福になりうるのだ。
博愛の慰め
価値をうみだしているものは希少性、有用性、そして快楽性をもたらす性愛であり、これらエロス類に取り憑かれた人が諦めの中にある人々を蹂躙していく。勿論それは野蛮なので、眉を顰められながら。
博愛的、慈善的な人々が聖人君子として仰がれ、仁徳ある高い人格とみなされるのは、まことに不思議な事だ。彼らは諦念という虚無主義によって現世代及び前世代、次世代の価値等級とそこからくる社会闘争から逃避しているにすぎないのだから。博愛は慰め、というのが正しい表現だ。アガペーは現実の全てではない。だが人は慰めなしに生きてはいけないし、いかなるエロス、美、完全性に近しいとその時点でみなされるだろう特徴の持ち主でもますます悲劇的な宿命にまきこまれるものでもある。つまり性愛における競争は悲劇をもたらし、博愛における慰めはそれを喜劇に仕立て直す視座をもってくる。性愛が自然界における悲劇の原理である事は、モンドリアンがとうに看破していた。他方、イエスやブッダといったアガペーを説く人々はこの原理を批判し、最も劣った人、最も恵まれない人の為に慰めの理論を作り上げた。ニーチェは聖人格への反動に過ぎず、悲劇の原理自体をのりこえられなかった。
資本主義秩序の社会ダーウィニズム的側面、優勝劣敗の合理化はますます原理としての悲劇をもたらすだけである。性愛や優越は多数派からのねたみ、うらみ、そねみ、ルサンチマンの原因となり、結局その価値ある人をこそ犠牲にする目的に完結する。人間的な優秀さは、実践的には中庸の程度として求まる。博愛という考えは、自然界に対する天上界、或いは宇宙界における、喜劇の原理の提出だった。そして博愛的である事は、必ずしも人格の目的ではない。性愛と博愛の中庸が仁愛なら、仁愛的である事が中庸の程度といえるから、平常の人は仁愛的である事が最も望ましい。なぜなら性愛のみも博愛のみも、自然界の悲劇、天上界の喜劇の性質として、それぞれ或る極論だからだ。
2016年10月20日
2016年10月19日
極東史
極東の概略史
1.30000年以上前から、日本列島に最初に暮らしていたのは純日本人であるアイヌ・沖縄・縄文人(Y染色体ハプログループD)であり、70000年前頃に他集団から分化している。
2.約8000年前頃に、朝鮮半島にもこの縄文人系統の民族が暮らしていた。
3.約7000年前頃に、鬼界カルデラの火山噴火で、西日本側の縄文人はほぼ絶滅した。
4.約2800年前頃から、中国の江南地方あたりから、天皇の先祖を含むであろう弥生人(Y染色体ハプログループO1b2)達がほぼ無人だった西日本に、朝鮮半島を経由しながら移民してきた。
5.約1300年前頃までに、朝鮮半島に弥生人達は定住しており、内紛によって新羅のみが残り、その他の百済・任那・高麗の弥生人達は西日本側に亡命してきて、一部が関西地方の奈良で天皇と共にヤマト王朝と名乗った。
6.約150年前頃までに、弥生人の末裔としての天皇は、縄文人の末裔と考えられる徳川がそれまでに統一していた日本の全領土を奪い、アイヌの暮らす北海道や沖縄の領土までを手にした。
7.約70年前頃、天皇ら弥生人の末裔は朝鮮半島に再び侵入し、中国の江南地方あたりを含めかつて暮らしていた界隈に領土を拡張したが、アメリカによって阻止され、再び日本列島のみに領土が限定された。
天皇と日本人について
天皇や弥生人は、遺伝的共通性のあるY染色体O1b2の広まり方からみて、中国江南地方界隈に北アジアから降りてきたある集団が、狭い海峡だった朝鮮半島を主に経由して西日本に入ってきたものであって、仮に直接船で中国江南地方から西日本に入ってきたとしても、その集団は朝鮮半島に現在いる集団との遺伝的距離はほぼ近接している。この際の水稲の技術の伝播については、彼らに付属しているものだといえる。いいかえれば、中国江南界隈から朝鮮半島に留まった人々と、そこを経由するかまたは直接西日本に入ってきた北アジア人の集団が2800年前までにあったということだろう。この人たちの末裔から、天皇が奈良で王朝を作ることになった。それが1300年前頃のヤマト王朝と呼ばれているもの。この王朝はご存知のように、全国各地の縄文人、九州の弥生人などを未開人もしくは異民族とみなし、先住民族の権利を弾圧し、その歴史文化を証拠湮滅しながら徴税を義務づけていった。そして今の天皇家に至る。
アイヌや、沖縄人、縄文人といった最低でも30000年以上の歴史がある純日本人に比べ、天皇は実質1300年の歴史しかない、新参者の転入生である。そういう意味で皇族も旧華族も新参者の弥生人文化。所詮2800年前頃に中国から朝鮮半島経由で入ってきた侵略者だから、底が浅い。
神道とは、中国江南から朝鮮経由で2800年前までに移民してきた弥生人である天皇が日本古来の土着信仰である自然崇拝を大陸風の多神教で覆い隠した洗脳。時期的には1300年前(700年代)頃から始まった奈良地方発の新興宗教。目的は純日本人に天皇の先祖と天皇を崇拝させる事。天皇は中国江南から朝鮮経由で入ってきた北アジア人として、南アジア人の暮らす純日本人空間に入ってきて、日本人を奴隷化する際、その純日本人たちが信仰していた自然を偶像化した。このやり方は、中国や大陸側で普通だった多神教の手段をとったもので、それが~ミコトだのといった人間の姿をとった人格神の概念だった。そして天皇は奈良から洗脳部隊を派遣して、日本各地の民間信仰を偶像化で天皇の祖先だと誤認させる宗教改造をはじめた。その拠点が神社。大体1300年前からはじまったこの新興宗教は、今日、神道といわれている。
2800年前~1300年前(前784~716年)頃に帰化した天皇の男系遺伝子、天皇家は神武天皇の即位年である前660年から始まったと神道側はしている。なお天皇とは、中国神話における三皇の一であり、中国神話の物真似、模倣そのものであって、全く独創ではないどころか、中国思想そのものに過ぎず日本のものではない。その名義は中国から侵略してきた非日本人としての天皇家を物語る。
2016年10月18日
生物学、ミーム学
2016年10月16日
野蛮国
2016年10月15日
2016年10月14日
利己と家庭
優れて善良な資質をもつ人々は、衆愚からも寡頭者からも世襲君主(天皇家)からも離れているだろうから、そもそもが資本主義者ではありえない。善意をもつ人々のみ、よりよくなっていく明るい社会に生き残る価値があるのだ。
秋の庭
君ははじめから美しく
君がもしどうなってもやはり
私が求める唯一の人だろう
君は貞淑で善良な性質だ
私は君より貴い人をしらない
世界は私を洗い流し
のこるものは祈りだけとして
一つだけ思い出してほしい
君はいつまでも美しく
君がもし全てを忘れていても
私の愛する唯一の人だろう
秋が近づいて庭に咲く花の香は
あますことなく私を襲う
おもい
どこにもいない
ありうるものもなく
さがしていたひと
どこにもいない
あのとき
きみはとわに
このてをのがれた
さがしていたひとは
このまちにいない
ふりそそぐほしぞらにまぎれ
くだけちるかいがらにまぎれ
どこにもない
このおもいをのぞいては
対話
沈黙のひととき
コーヒーを淹れて
君は正義派ぶる
死んでしまった男
救われない地上で
母親の慟哭がウェブに響く
誰もを殺戮し尽くし
君は功利派ぶる
ありうる夢と希望を壊され
死をえらんだ若者よ
救われない社会で
死をえらんだ男よ
俺は必ずかたきを討つだろう
2016年10月13日
性愛について
2016年10月12日
2016年10月10日
清貧の幸
清貧の幸と、下賎な成金の快楽とを比べると、前者の方が尊い。清貧の幸は下賎な富に勝る。後者は不道徳の故に将来の破滅を意味し、前者は救済を意味するからだ。
2016年10月6日
2016年10月5日
2016年10月3日
幸福論
物質的充足は限りなく、肉体の満足度は一定程度からあまり向上しない。生活の満足度について物質的充足、代価としての金銭的な補償は最低限度基準をつくるにすぎない。いわば満ち足りた物質の中でも幸福でない事がある。
幸福は道徳に由来し、道徳からもたらされる。幸福は利他性であり、他者からの好意、愛、或いは敬意の集積である。ひとからうらまれ、憎まれている人々は、幸福になる条件を失っている。彼らの不道徳性こそが彼らの不幸の原因だ。尤も、幸福を得るには心術や考え方を代えるだけでは十分でない。他者に与えた影響下において、人は良心の満足を得る。最高幸福は全て、良心の満足の度合いとしてはかられるだろう。しかもこの満足は生前にはかられるものだから、道徳性を極めた程度としてのみ自覚できる。このため道徳性と最高の幸福さは同値である。人生の目的とされるだろう人間の幸福、しあわせは、所詮かれらの道徳性の追求過程であり、そして普遍的にか個別的にか現された彼らの状態が、客観的には人格と見なされるのだ。つまり人の目的の形は人格、性格、人徳という人の表現的傾向であり、いわゆる最も良識的な個性であろう。
2016年9月30日
幸福論
体よく成功者か偉人になり
普通より当然の如く恵まれており
いつまでも楽しく生きていけると思っていた
実際やってきた現在は成程そこから遠く
ろくでもない人間が跋扈し
不埒で野蛮な人達がふえて
悪人が我が物顔で無数の犯罪を仕掛けてきた
では私達は何者だったかといえば
夢想的な世間知らずか
ただの楽観主義者か空想家
過去をふり返らないという人は
無限に続くこの世に何を思うのだろう
私は夢を叶え幸福なのに
作り事
私達は君の努力を知らない
私達は君が神に恵まれていると信じていたが
実際は君が奇跡なだけだった
私達は脱帽し又悲嘆する
私達の中にある全ての目的は君であり
私達の外にある全ての原因も君だから
君は神に嘉された新しい存在であり
私達は実に下らない現世のたわむれごとで
私達の望みは全て君だと知るだろう
まるで川が流れて海に着き
やがて雨となって山からおり湖に溜まるよう
私達は君の美しさが永遠であるよう望んだ
実際は君だけが芸術という作り事だったのに
かしこさについて
かしこさをある定型にし多少あれ計測可能にしたか、評価主体の元にまとまらせた体系が全ての学校、学位、学閥、学派、或いは受賞、勲章、褒賞、そして報酬である。
経営学
美について
美しいものを求めている人達はその本質的な欠落に悩み、自らにないものとして美を手元に置きたがる。これは偶像崇拝であり、物質主義だ。丁度俗物達の悪趣味さを眺めているとき我々が感じる嫌な感情は、フェティシズムにおける悪徳の部分にすぎない。むしろ人々が学ぶべきだったのは、性愛それ自体もただの細胞の自己増殖への渇望にすぎないことだ。生命は空疎な反応で、人々が美を求める時、さらにこの反応は空転的となる。
美を求めようとした人達のうち、私は直感的な好みを求めようとしているが、この好みそのものが空転した時、美はただの永遠への間となるだけだろう。尤も我々のなしうる美の限度もそれだが。性愛、恋、エロス、どのいい方でもいいが、美の蘊奥は今日も、過去にあっても、空転した性欲の昇華でしかなかったのだろう。
美が極まる時、我々はその反応を善と呼ぶ。単に聖の部分であったり、よい趣味の一部であったりするこの集合では、美は比喩の仕方だ。美を追求する人は、上記の理を知るべきだ。要するに、美は善の形式だ。合目的性といういい方は指し示す内容を勘違いさせやすい。美は手段であるというべきだ。勿論、斯くして美が道徳、もしくは善意に付属した優れた手段だとなれば、あしき美といったものがもどき、或いは似せ物のにせものにしか感じられず、不愉快でもある理由が解説されるからだ。
おそまつさんは奴隷根性のアニメである
これら悪徳の奨励は観るものや子供を洗脳し、労働階級をさらに労働貧民化、総貧困化させることを意味する。おそまつさんファンが学ぶべきなのは経済弱者への悪意ある嘲笑でも、自由で裕福な人々への妬みでもなく、みずからの奴隷主義を問い直すことだったからだ。
2016年9月29日
脳科学
例えば互恵的でない利他行動や、自分と無関係な個体の利他行動及び害他行動(有害行動)を認知し或いは適切に対応する際に必要になる知能が道徳のそれで、一般的利他性における或る類型の強度を意味する。
2016年9月28日
2016年9月27日
海の眠り
死という名の
但しそれはわたくしがもたらすのではない
海がもたらすのだ
ゆめのないゆめ
それはうつつ
永遠に生きつづけよ
海の中に
母なるもののなかに
全てを生み出したものの中でねむれ
2016年9月26日
差別用語
2016年9月25日
2016年9月23日
2016年9月22日
2016年9月21日
人生の目的
哲学は根拠自体である。唯物論における産業構造の変化が新しい道徳を作る。
諦念は、中庸が最善。上位者は勧善によって自ら行いを改め、下位者は懲悪によって制裁される。勧善は哲学を最上とし、懲悪は刑罰を最下とする。説教、評判、訴訟などはそれぞれ最上から最下への中間形。全知全徳全能は知能の分岐である以上、現実において集束的ではありえず、多くの場合は部分的に叶いうるだけであって、究極のところ万知万徳万能として有限的に聖性に最も似ている状態を見出せるだけである。
2016年9月20日
2016年9月17日
最高幸福について
道徳は洗脳に反するものだから植えられず、自らがわかるよう考え、己の言行によって得られるだけだろう。
2016年9月16日
2016年9月14日
自由と資本
力なき正義は有効範囲が限られる。
最善人が一番の金持ちなのが資本主義の理想。但し、現状の金持ちが最善人とは限らない。最悪人が一番の金持ちである社会は、地獄である。いいかえれば、最悪人が一番の金持ちな社会は地獄であり、最善人が一番の金持ちな社会は資本主義の理想である。
人は自由によって、おのおのの中にある最良の生き方を模倣する。
2016年9月12日
2016年9月10日
良心と偶像
資本主義は金という偶像を崇拝している。
「神様のような人」を、神と言っている人格神論者がおり、神仏習合は人格神崇拝。無宗教は人格神を想定しない。資本主義も新興宗教であり、資本主義は金という偶像を崇拝している。天皇は拝金主義を利用し、神道が拝金主義をとりこんでいる。無宗教は科学合理的思考を促進する。資本主義も新興宗教。天皇・政府は金(信用貨幣)を利用している。
人徳の程度は、清貧>富貴>貧賎>富賎(成金)。
2016年9月9日
2016年9月6日
子供
安易に衆愚に群れるな。下賎の振る舞いを群れてなしたものは不快のうちに寝る。清貧がもっとも幸福である。清貧以上の存在はない。愚かな妻は不幸の原因。
善意がない子供は大人になってもそうだ。それが育ちというものだ。金よりも学力を重んじなさい。卑しい人に金を与えてはならない。尊い人のみ、金を人の為につかう。学問は貴人をつくる。富裕だから学問をするのではない。向学心があるから学問をするのだ。学問は習慣である。貧しい勉強家と、富んだ遊び人を見比べるがいい。生まれつき尊い人に、学んで尊くなろうとした人はおいつこうとする。生まれが卑しい人は、尊い人になろうとして学問をしなければならない。
己のために人をそしるな。不健康にあって幸福であることはできない。
2016年9月5日
長短
真理は賛意の多寡によらない。
性は、客観的なときは同一化の為に、主観的なときは愛のゆえに美になりえる。
死生論
子を産めば死ぬにしねない、子供は責任なり。娯楽もほどほど。安楽な生活は死を恐怖にさせるのだ。
子供の為には金より知恵を残すべき。知恵は失われない財産なり。金は程ほどに残していたら十分で、あまりに大量の資産は子供を堕落させる。
生と親しむのと同じくらい死と親しめ。
普段の善行、普段の功徳が芸術においても未来の価値を担保する。
最善人が最も幸福である。最善人を傷つけるものは己を卑しめる。功徳を積む事は難しいが、なすべきである。
2016年9月4日
2016年9月2日
2016年9月1日
経済学、経営学
なるほどこの使い古された言い回しで資本主義下の商人らは少しも反省しないだろう。だが脱資本主義に多少なりとも理解のある人々は、当然の事と思うべきである。大分県から出てきた福沢諭吉の様な成金主義者は清貧を非難し、下賎な侵略による蛮行を自己正当化した。配分的正義の観点から、雑な商人は清貧の人を当然の分け前をとらない奇異とみなすかもしれないが、実際は、清貧の人が行う奉仕的利他行動のみが最もよく配分された社会をつくる。搾取度の低い経済行動こそが最も功利的、使用者思想的、つまり他者にとって合理的で、最大多数の最高幸福、公益と合致するのだから。いいかえれば清貧主義者でありながら現に利他を頂極し、金利に還元されない実際のくらしについて最も余裕のある人こそが真実、経済合理的な人だ。
仮に清貧の人による寄進を額面の見かけの少なさではかろうとする者は、最も功利的な人を失うのだから、当然ながら経済不合理である。また富貴の人による寄付のみかけの多さによって額の少ない場合より何らかの優遇をした場合、この受益者は、貢献者の社会的福利の度合いをみあやまっている限り、経済不合理である。これら成金主義者にありがちなどちらの場合も、つまり非功利的か額面迎合的な場合のどちらについても、清貧主義者らの社会福利に劣っている。貢献度は搾取度に反するもので、配分に際しても同様だから、最も寄付的な商が最も経済合理的だ。いわゆるフリーミアム、無償の手数料、無償料は搾取度の高い生業が付加価値生産に有害といっていたのにほかならなかった。そしてこの理論は清貧の経済合理性の理論、清貧合理論、清貧論の部分集合にすぎない。
利益率の低い生業をきりすてる事が競争優位をもたらすとした観点は、清貧の功利をわかっておらず、寧ろ受益者の側からみてこの分野こそが最も好適なのだから、逆に利益率の高い部分についての再考が経営者側、貢献者側に要ることになる。いわば隙間で、需要が低く、利益をあげない様な負け犬分野が最も、清貧論の観点では経済合理的である。最も青い海は負け犬分野にあり、最も赤い海は花形分野にある。しかも常に青い海に泳いでいる、負け犬分野に適応している貢献者ならびに無償料受益者こそが、真実、幸福であり目的の企業である。
誤解をうけやすいかもしれないが、上述の点は配分的正義についてあてはまることで、決して調整的正義に関する議論ではない。なぜなら調整は政治によって行われ、そもそも経済合理性を目的にしていない点で、単なる商いとは真逆の公益をめざすものだからだ。経済学や経営学におけるコペルニクス的転回としての清貧の商い、つまり寄付経済の基本原理は顧客第一主義からみた無償料の経済を含み、利益率の低い分野に貢献度としての経済合理性をみいだすような、経営主にとっての新たな経済学、経営学上の観点で、いわゆる軍事や警察、徴税による巨視的調整、利益再配分の論旨を含まない。
2016年8月31日
商才について
金銭や贅沢の為に仕事を択ぶな。蓄財は利他の為にしか用いようがない以上、単なる負債の権利である。
幸福は程度であり、劣悪な人間は不幸を超えない。幸福は中庸の強度であり、劣悪な人間は徳の実践に於いて極端である。善悪の中間を凡とすれば、凡のよさは善に劣る。人は善の実践においてのみ中庸を保つべきであり、凡においてではない。善の実践において中庸が最上なのは、過度の利他行動は自己犠牲として、助ける者の債権を助けられる者の負債感情に残してしまうからだ。人は善の程度に応じてのみ幸福なのである。ここでいう幸福は、最も質の高い快楽である良心の満足と等しい。最高善を完遂させた生涯は、聖なるものとなる。
商人らは漸次亡び去る。人は商業を離れて暮らす方が優れている。聖者らは商業を拒んだ。人たるものは金銭を離れて暮らせ。最上の幸福は閑雅と全く同じものである。生業において暇と精神の余裕をえられる者は、忙殺される者より幸福である。人は各々自らに最も向いた職業に就くべきであるが、商才は一つの呪いである。蓄財は怨みと不平の原因で、商才は避けようもなく関係者に負の影響を与えるからだ。
2016年8月30日
西国利権批判
西国殲滅論
2016年8月29日
地獄の国
立候補では極悪人しか政治家にならない。傲慢な、悪徳のぬししか、立候補したがらないからだ。推薦によってしか、善政を行う謙虚な者は政治家になれない。選挙にあたっては、立候補を禁じるべきである。推薦のみによって政治家の候補者を選び出すべきである。謙虚な人間が善人である。天皇は地位を降りようとしない限り、極悪人にすぎない。最も清貧な、最も謙虚な人間が、最上の政治家である。最も清貧で、最も謙遜な人間は、目立たない場所にいる。最善の政治家は、賢い民から推薦されるのを待っている。最善の政治家は、何度も推薦されても、地位に就くのを断りさえする。何度断られても、最善の政治家を推挙せよ。どれほど自信家でも、傲慢な立候補者をしりぞけるがいい。みずから天皇と名乗るものは信用してはならない。最善の王侯貴族は、常に、謙遜している。最善の王侯貴族は、民の中で、最も清貧で、最も謙遜しているだろう。善政の国では、最も謙遜な人間が常に推薦されて政治家をする。最も清貧な人間が、最高の王侯貴族である。最も贅沢な王侯貴族、宗教権力者としての天皇は極悪の血統である。極悪の血統に世襲独裁された国は、地獄に等しい。地獄の国、悪政の国、世襲独裁が象徴の国は、覆されねば亡び去るしかない。最善の国に生まれ得ない国民は、地獄に再生する。最善の国からは、贅沢な皇族を排除せよ。最善の国は、清貧な王侯貴族しかありえない。最善の国に生まれる事が、全ての国民の目的である。
貴賎と報酬
歴史
悪しき人々は亡びてゆく
善き人々を守り立てよう
我らは騎士だ
誇り高き武士の見上げる空は高く
だれもが忘れ去った徳を胸に歩む
変遷していく時代
俗悪な衆愚と腐敗した天皇
だれもが絶望のさなかにあって
我らは小さな洞窟に篭り
悟りを開く
果てしない海が見える
地平線まで続く稲穂
筑波山の紫の峰が霞ヶ浦に反射している
飛ぶ白鷺の羽ばたきの音だけが響く
英雄達は去り
残された我らは何をか思う
悪しき国々は亡びてゆく
善き国々と共に歩もう
我らは貴族
誇り高き芸術家だ
夢を紡ぐ仕事にあって志高く
誰もが幸を得る日に向かい羽ばたいて行く
悪しき者は亡び去る
善き魂を保て
我らは勇気
我らは指導者
2016年8月28日
最善の国と最悪の国
利他が幸福である事は、良心が人間の幸福を内面から産み出す源泉なのと等しく、悪意または良心の呵責、自責感、罪悪感は幸福になる事を根本から不可能にする。これらは内的制裁のしくみで、法秩序や名声、即ち刑罰や褒賞は集団の目的意識、公共道徳の為に外的制裁を行わせる。
利己的な人は自らの幸福が利益や繁殖によって得られると信じて行動しているが、実際の結果は正反対になる。これは内的制裁が利己人の愚かさによって弱い、または良心の質が低い、中長期に因果的な思考がない、刹那的と考えられる場合に、利己のもたらす有害さが単にその人を蝕むのみならず、本来の意味で善良な、良識ある他者からあるべき好意と返礼を期待できない事によっている。利己の人は外的制裁を受ける事が往々にしてあり、それどころか、衆愚や悪い仲間からは誤った名声により虚栄を与えられ、更に悪い、酷く劣った状況に陥るのみならず、賞与としての給料や報酬が利己の誘引にされた場合、この制裁は悪事の道具にまでなる。人はこの様にして自由にあって最もよく当人の内的あるいは外的な制裁を受ける。衆愚、悪党や独裁者仲間にとって悪徳が最高の褒賞である事は、腐敗した集団の目的はその利己的な大集団、利己的な小集団や僭主に使役される事だからで、いわば悪の誘引が偽りの名声や、濡れ衣としての汚名をもたらすものだ。現に私もある極悪京都人らからの濡れ衣によって、又は東京都からの搾取によって迫害や冷遇を受けたが、これらは彼らが利己的な人間である限り、私への悪の誘引が失敗した事しか示さない。私に彼らが着せようとした汚名は彼らの汚さを証明し、私からとりあげた金銭は私の清貧を強調してしまった。結局、悪い仲間は悪人をふやし、利己的な社会を作るため日々不幸を増幅していく。そしてこの醜悪な利己社会で虚栄を極めるのも極悪人なのだ。
裏返せば、最善人の社会が救われているのは彼らが善良な人間に報い、誉め、或いは恵む事から明らかで、しかもこの善い仲間は利他的な遺伝形質をふやそうとする限り、ますます最善さがましていく。幸福な社会は利他的な人の栄える社会で、その人々が幸せなのは、良心と名声が道徳と一致しているからと解釈できる。しかし、悪い仲間が悪徳を、善い仲間が善徳を奨励する現象との差は、本質的に当の大小集団または主がもつ道徳知能の高下、倫理的賢愚によっている。法や地位も道徳知能から導き出されるものだから、刑罰や褒賞は道徳知能の高い仲間と低い仲間、或いは道徳知能が質的に異なる集団の間では趣を異にする。つまり悪趣味とよい趣味は当の集団の道徳知能の違いなのだ。
美は性に関する感受的な脳部位の転用であり、よい趣味は美についても道徳知能の濾過または適用を経たこの部位の反応する共通部分である。社会の美意識が個人または集団にとって違うのは、よい趣味が利他的な人の、悪趣味が利己的な人の快適さを示すのに等しい。大衆商業社会である東京や関西の信じる美が低俗または退廃的なのは、その集団の道徳知能が低く、本来醜とみなされる悪徳の表現を美と勘違いするからに過ぎない。よい趣味はよい社会と利他的な仲間をつくり、幸福を彩る物であり、その社会にあって地位や貧富は善良さと比例している。道徳知能についてより愚かな時代やより愚かな集団は、不幸な生態を示す事で世に悪例を、反面教育を与えるべくあるのだ。殺戮や侵略搾取を生業にしてきた極悪人または偽善者の天皇家が実質か名目どちらかで最高権力者や最高権威者だったり、象徴であったりする日本国社会は、なるほど悪趣味の権化で、特定の弥生人系の集団が不幸な仲間な事、そして世に住むべくもない悪魔のつどう地獄の存在する事を証明する為にあったのだ。最善人は極悪人の天皇家や彼らの悪い仲間のつどう東京や関西、そして日本国を亡ぼし、利他的な仲間による最善の国を建国するだろう。この2つの国にあっても、最善人と極悪人とは存在するが、善い国では最善人が最高の地位と名声、報酬を得ており、悪い国日本では極悪人の天皇家が最高の地位または象徴という名目君主の偽装と、最大の大金、偽りの名声を得ている。最善の国では最大報酬が利他の為に使われるので、最善人の最高の地位や名声は清貧の度合いによって測られている事だろう。逆に最悪の国日本では、天皇家という僭主が最大の私的贅沢の為だけに崇拝されているのだ。結論をいえば、弥生人系集団と天皇家は道徳知能の低さ、又は他集団との質の違いによって最悪の国日本を独裁、寡占、群れて蹂躙しようとしてきたのであり、そうしてできた不幸の地獄で破滅的な退廃生活を送りつつ悪魔の子孫を世の反例として産み出しているのだ。薩長土肥や京阪神はじめ、いじり、虐め、弱いもの虐め、弱者虐待、侵略、暴利、冤罪、匿名での誹謗、虐殺や搾取の正当化、弱肉強食といった関西人一般や西国人一般のもつ卑劣な悪習は、道徳知能の低さに起因した利己的害他的な行動により、彼らの不幸と生き地獄を強調する。彼らの西国や西国人一般の破滅や悲惨こそが、人類の高徳の証になるのは、極悪が不幸の極みの為である。
2016年8月27日
資本主義、自由主義の極悪さ
寄付経済は金銭の多さや量的経済効果ではなく、精神上の善行、善意の程度を目的にする。搾取によって生活する金持ち、また消費者は彼らの悪徳と悪業の程度、即ち金儲けの量と蓄財量、消費量とによって不幸となり、一様に全員が破滅しなければならない。最大の蓄財を行う世襲独裁者の天皇は最も下卑て最も下賎な存在である限り最も不幸であり、全人類からの復讐によって最も悲惨な破滅をしなければならない。
品位
悪徳は自らを害する。良心の満足こそ真の幸福である。
真の幸福は道徳的に生きている人の人生そのものだ。最も高貴な人の人生が最も幸福なのも、道徳が最も高いから。子は業の一部にすぎない。業の全体が人生の本質である。子は遺伝として、あるいは成長過程として、生まれながらに親の業を背負っている。
より高次元な正義は争いをなくす。傷は癒えるが、罪は消えない。呪われた人への災厄は因果応報と見なされ、救われている人は同情される。
被害者への同情は最大でなければならない。加害者への同情は最小でなければならない。
2016年8月26日
功徳と罪科
尊い人を見つけられなければ、一人で孤立していよ。尊い人のみが幸福だからだ。功徳を積んだ者を報いない社会は、亡びの最中にある。業は必ず因果を結ぶ。功徳を積んだ人はいかなる場合にあっても救われている。人は、尊くなければ幸福ではない。下賎な人間に関わって汚名や不幸をなすりつけられたといって嘆くな。その下賎な人は君をよごしたのではなく、己の身を卑しくしたのだ。下賎な者の子供も卑しい。卑しい者の人生の全ての部分、そして末路は必ずや不幸である。業を見よ。人は業の中にある。
尊い子は幸福であり、卑しい子は不幸である。親の遺伝した尊卑は子の遺伝した尊卑であり、親の教育もまた親の尊卑を超えない。業を理解しない親は卑しく浅ましい、罪科のある振る舞いをし、その子もまた生まれながらに親の悪業のゆえ永久に世界で呪われている。
人は、正しい業の元では常に、尊い結果を得る。また悪しき業の元では常に、卑しい結果を得る。下賎な人間に被害を受けた者は、その下賎さの一部にふれて恐れおののくが、最も不運なのは下賎な人間自身なのだ。高貴な者は功徳を積み、彼の尊さニ触れた者を幸いに導くが、最も幸運なのは高貴な者自身である。身分や肩書きは尊卑の基準ではない。卑しい天皇と尊い貧民はその幸不幸も必然である。
2016年8月25日
全徳
金とは虚栄である。
倫理は物理に従う。倫理は物理の一部である。論理、物理、倫理はそれぞれ異なる集合であり、論理は物理の、論理と物理は倫理の真部分集合である(論理⊂物理⊂倫理)。
2016年8月24日
経済学
以上にあげた産業循環論は、国を何らかの国とみなせる連邦単位にあてはめるか、県あるいは市等のより小さな単位に、もしくは地球という巨視的な単位におきかえることもできる。この循環としての産業の見方を読者は、マルクス唯物史観とは別の立場から産業についての分析を可能とする枠組みで、厳密にマクロ経済学なものというよりは社会学的な産業解釈の一方法と考えてほしい。なぜなら微視的には常に反例が生じるだろうからだ。
人と哲学
哲学は集団極性化の修正でなければならず、その本質は反既存宗教的か、新教的である。
2016年8月23日
西国解体論
道徳論
真偽と善悪は異なり、善は真の、悪は偽の真部分集合である。
(善⊂真)∧(悪⊂偽)
美醜は、真偽や善悪とは異なり、美は真かつ善の、醜は偽かつ悪の真部分集合である。
(美⊂(真∧善))∧(醜⊂(偽∧悪)
聖俗は、真偽や善悪や美醜とは異なり、聖は真かつ善かつ美の、俗は偽かつ悪かつ醜の真部分集合である。
(聖⊂(真∧善∧美))∧(俗⊂(偽∧悪∧俗))
善は、上述の様に、聖や美の補集合であると同時に、真かつ悪でない集合の事である。善は、単に自らにとって自己犠牲的かつ他者にとって暴利的な行動・言動ではない。自己犠牲は利他性の部分集合で、善の全てではない。自己犠牲が善の場合は、限定的である。
資産は自ら利他的なつかいかたをするか、誰かにさせないかぎり、資産のみならず蓄財自体も悪徳に近づく。道徳的に生きることは、善き言動、善き行動を習慣づけることであり、最も幸福な生き方に等しい。最善の生き方をえらびとる人は、政治・経済あるいは社会においてもそうであり、人々に幸福をもたらす。最もふさわしく利他的に言動・行動した人が、最も幸福で、最善の人物である。聖人は最上の人物である。
議論について
世界の現象を語る時に、複合的に捉える事(同一律的解釈)は、個別的な把握である。例、0から100までの解釈法として、0は0であり、41は41であり、100は100である。極論的に捉える事(矛盾律的解釈)は、全体的な把握である。例、0から100までの解釈法として、0は100ではない。二元論的に捉える事(排中律的解釈)は、その中間領域を含めて、総合的な把握である。例、0から100までの解釈法として、50:50と0:100。濃度的に捉える事(中庸律的解釈)は、その極端を含めて、分析的な把握である。例、0から100までの解釈法として、0~40と41~100の差異、0~100の濃度変化。即ち、世界現象の解釈には、最も基礎的なスズキ4思考法則ごとに、同一、矛盾、排中、中庸という4つの解釈法がある。いいかえると、基礎的な世界解釈法(スズキ世界解釈、鈴木雄介の世界解釈法)は4つあり、0は0が同一、0は100でないが矛盾、0:100が排中、0~100が中庸の解釈である。
数理論理学
同一律:AはA(A=A)
矛盾律:Aは非Aでない、AかつAでない事はない(¬(A=¬A)⇔¬(A∧¬A))
排中律:AかAでない(A∨¬A)
中庸律:Aかつ非A、AかAでない事はない(A∧¬A⇔¬(A∨¬A))
2016年8月22日
2016年8月21日
弥生の分析
弥生人は彼らの移民集団が日本人の典型であると自己中心性の為に前提としているが、実際は、上述の様、日本人の典型から大幅にずれのある別の移民集団あるいは侵略者、帰化なりすまし集団である。
2016年8月20日
芸術論
商業芸術は劣悪で下品な作品を称賛し且つ報償するが、この商業的成功の汚名は当の作者が生まれの悪い事を証明する。大衆や商人は最も低俗な人々であるから、大衆的な制作物は金銭的報酬によって最低級の品位、卑しさを目的に売り買いされる。従ってこの逆に純粋芸術が高貴な芸術家の目的物となる。純粋芸術が商業的成功を得る事はなく、商業芸術が純粋芸術的な成功を得る事もない。両者を評価する人々は、生まれが正反対だからだ。これらの中間には中間芸術があるが、その特徴は両者が混在したものにすぎず、他の意味を持たない。
愚者
生命
反省の色がない
人類は一人も正義をもっていないかの如く
よごれている
我らは完成を望み
おちてきた羽をのけた
だれもいない砂漠で眠る為に
ただの一人も天使はいない
もし君を除いては
我らは正直を望み
あらゆる悪意の人類を退けた
だれもこれない森の奥に逃げようと
だれもみたことのない深海に沈もうと
運ばれた生命を知ろうとした
パズル
われらはうまれてはきえる
愛とか恋とよばれ美化された性
きみは静かに深い沼に沈みしぬ
だれもみたことのない純正な絵画
われらはのぞみかつねむる
空っぽになった大空の真下
うちよせる穏やかな波と流される歌
外には大雨
ねじれてほどけないコードみたいに
われらはやってきては去る
うちつける水の音
余った時間のすべてを使っても解けない
だれがのこしたでもない宇宙のパズル
すること
意味を何者かから与えられるのではなく、意味のない世に意味を与えるべくすることをつくっているのが人である。
2016年8月18日
美学
傾向性としての美は、これ故、道徳面では曖昧な移り行きしか示さない。趣味に従った道徳は、常に利己性を離れえないだろう。芸術や趣味において得られる最高の利他性は、この利己性に関する道徳的な品位に留まるだろう。だが中庸の最善性に鑑み、芸術や趣味の道を通って道徳の究極目的を達する事は十分に可能である。
人倫論
貞操は不可逆反応であり、不貞となった人々は堕落し続けていく。
性欲で子供を生んだ人達は子育ての重い労苦を背負い、理性でそうした人達は当の労苦を軽減させ、道徳で子供を考えた人達は道徳の程度に応じて苦労か楽をし、独身のままの人達は気楽さを甘受する。よりよくなっていく国では性質のよい子供が殖え立派な名前を与えられるが、より悪くなっていく国では性質の悪い子供が殖え卑陋な名前を与えられる。衰亡する国は人口が減り、滅亡する国は子供がいない。
性欲は孤独を解消し、友情は知恵を与え合う。子供や家族の多い人達は、賢い友達の多い人達に比べて低俗な傾向がある。人々は知恵の程度に応じて幸福である。劣悪な国で暮らす幸不幸は、優良な国で暮らす幸不幸と比べるべくもない。人類は知恵のできるだけ高い仲間と暮らすのが最良で、道徳で子供を考えなければならず、人口比ではなく賢愚の度合いで住まう国を選ばねばならない。
2016年8月17日
性愛と友情
利社について
賢者は徳を勧め、愚者は退廃を愛する。賢者はある考えの持ち主が多数か少数かに関わらず徳性を判断するが、愚者は無視する。愚者は徳性が同調する人間の多寡によると考え、徳性自体を判定しない。現実の徳は賢者に付随した幸福の原因である。愚者は退廃の為に群れが大きくなるほど不幸を、賢者は徳の為に幸福を拡大していく。
賢者が孤立しているか愚者が群れているならその国民は愚かであり、賢者が群れ愚者が孤立しているならその国民は賢い。賢愚が比較的であるなら、賢国と愚国は人数の多寡によらず存在し、賢国は相対的に幸福である。
徳は自分にも他者にも最善である様な中庸の振る舞いであり、且つ、利他性を離れない。利己的で害他的な行為や害自的で利他的なそれは、いずれも最善でない。私徳は利己から出発し、公徳は利他から出発するが、いずれも中庸、自他を共に利する社会的行動、即ち利社性が最善である。
約束の光
はるか天空に射す光を見る
光は我らの目の前にこぼれる
あらゆる希望の結晶として
地上はよごれすぎた
誰からも知られない場所で
我らは静かに休息したがる
だが絶望だけが押しつけられる
まるで約束かの様に
まるで約束かの様に
我らの目の前に
ただ光を
光を
まるで約束かの様に
2016年8月13日
2016年8月9日
2016年8月6日
西国浄化論
西国民の低IQ、低EQ、低学力、やくざを含めた蛮行ぶりを鑑みれば未来に渡っても奴らの反省など期待できない。よって国連加盟国は民族浄化のみが西国に対して為すべき事であり、天皇という同属に対しても同様の処置がふさわしいと判断するしかない。
これらの征服統治後、野蛮な西国に東国民を殖民し、遺伝的基盤を入れ替える事でしか、極東の平和を保つよすがはどこにもないだろう。
2016年8月5日
新卒禁止法
上の世代の就業率が低いまま新卒採用がふえることは社会不安の原因となるので、安倍悪政、極めて劣悪な結果であると断言して構わない。
怠惰
かねもちになりたい理由は一夫多妻しかなく、はやく子供を産む人たちは一夫一妻のかねもちより有利にふえる。箔付けのための慈善の擬態は、一夫多妻の変形といえる。また女性の金持ちは多夫主義が少ないため少ない。
2016年8月4日
2016年8月3日
美事
独覚
悪魔崇拝、資本教
これらの悪魔教団を避けよ。搾取罪の蛮族は奴らの悪業により破滅しよう。寄付のみで生きよ。
地獄の国日本
言葉は正義のまま
言葉は絶対に正義のまま
あらゆる傲れる愚者を切り裂く
偽善者警視庁
下らない下賎な関西朝鮮植民地方
最悪の人殺し薩長土肥野蛮弥生移民
勿論全員死んだ方がいい
けがれた蛮族が東京にたかり搾取罪を正当化
なるほどこの国は救いようがない
原発テロで生存権を侵害しまくる自称都会人共
勿論全員消えた方がいい
死んだ方がいい下衆共が群れ集い集団虐めを目的に
ただひたすら悪業を誇り続ける日本地獄
弥生移民
弥生移民らに侵害された
弥生移民らは邪悪で狡猾
わが国の善美は失われた
混血児どもは我らを虐げ
天皇と名乗り国を汚した
我々の国は因果の通り
縄文時代のままに平和で
弥生移民らが来るまでは
さも理想通りの大国だった
侵略者どもは名誉をけがして
大和と名乗り人種を差別した
我々の国は綺麗で尊く
妬んだ弥生移民らが原発で破壊した
行政訴訟による原発テロリスト解体
2016年8月2日
2016年7月30日
2016年7月29日
善
人を肩書きで判断するな。肩書きは人を騙す。人の人柄をみるがいい。人格はごまかしがきかない。肩書きはどんな悪人でもつけられる装飾物だ。人格はその人の本質である。
仕事は天皇や政府や資本家に搾取されるための奴隷作業に過ぎない。奴隷業より偉大な行為がある。奴隷になるよりは、自由を求めよ。他人に仕えるのではなく自分に仕えるべきだ。
2016年7月28日
移民達
たりないものとてなく
自然も海も山も川も湖も大地も草原も
すべてはうつくしかった
うしなわれたものといえば
やってきた天皇達の犯罪で壊された
あの清らかな海岸
悪魔崇拝者である弥生移民の大蛮行
我々ははじめから完璧で最良で幸福だった
すべてはうつくしく
わが国は永遠に等しかった
なぜ弥生移民らはわが国を侵害したのか
奴らに理由などまったくない
ただの悪意と愚行だ
自称天皇の悪魔崇拝
極悪の西国衆愚地獄にて悪魔の安倍をもちあげ地獄化
西国の衆愚が破滅求めては長州閥の悪業支持する
西国の悪魔の目には極悪人安倍の悪意に共感すなり
悪魔殿日本政府で天皇と安倍の二大悪魔が国を毒漬けにす
極悪の安倍と天皇が搾取して民を虐げ国を破滅す
搾取なき国の為には天皇も安倍も麻生も要らぬなり
平和なる民の為には明治政府も日帝も日本政府も無用なり
悪業の起点は天皇一人にてわが国日本を毒するがんなり
わが日の本に世襲にて独裁する中国朝鮮移民天皇は有害なり
西国の中国朝鮮移民集団はひたすら悪業きわめて反省せず
殺人や搾取や不倫を罪とも恥とも思わぬ極悪弥生移民が日本を荒らす
戦乱や侵略蛮行の原因は野蛮で低EQの弥生移民なり
搾取罪行う弥生移民ども群れて虐めも弥生の悪業
陰湿な弥生移民は悪魔なり集団虐めに買春犯罪
天皇ら弥生移民は半中国朝鮮人にて日本を毒せし
人殺し搾取し侵略蛮行し反省皆無の蛮族天皇
極悪人弥生移民の悪業で日本人まで悪魔あつかい
極悪人朝鮮帰化の悪魔安倍IS挑発日本人を犠牲にす
極悪の自民やくざがナチズムで西戎をあおり破滅へ誘導
極悪の弥生移民が悪業を極めて悪魔天皇に土下座す
2016年7月27日
極悪弥生の下賎利己主義
西国衆愚滅亡の祈願
侵略大罪に微塵も反省なき極悪西戎弥生人や朝鮮移民世襲独裁種天皇一族に全世界の良識から徹底した民族浄化が完了します様に。
侵略罪と搾取罪、買春罪しか行えない野蛮極まりない西国衆愚半朝鮮人達に何万発も原水爆や生化学兵器が投下されあらゆる天災で地上から皆殺しされます様に。
極悪朝鮮系反日移民安倍と小泉ら薩長藩閥によるシリア空爆大罪並びにイラク戦争国際犯罪へ天誅が下され、侵略犯罪の拠点である鹿児島県と山口県、高知県、佐賀県、長崎県が人類の良心の手により厳正に民族浄化されます様に。
2016年7月26日
我ら
卑しい衆愚に虐げられ
悪質な天皇に搾取された
我らは下賎な連中を卑しむ
我らは高貴に生まれついたので
下衆な労働者達を知らなかった
まるで我らは神と等しく
無限に続く希望の形だった
我らは勇気をもって生まれたので
野卑な戦に反対し
高く反旗を掲げて抗議し続けた
我らは徳性をもって生まれたので
罪悪の輪廻を抜け出し
先駆け群れの先端で正しき道を指し示した
極悪弥生移民
極悪の弥生移民の遺伝子は千年経てもなにも変わらず
悪業に悪業重ね弥生人驕り高ぶり国をも売るなり
極悪の偽善者天皇西国の帰化人どもが人を虐待
文化なく野蛮に金を搾取して自然を破壊す極悪長州
極悪の長州閥が悪業を極めて日本を奴隷化したがる
西国の衆愚が悪魔崇拝し天皇と安倍の悪意を崇める
弥生移民悪業を極め集団で虐めを行い差別を広める
弥生移民金を貪り道徳を罵り戦争誘発するなり
野蛮なる弥生移民の悪業で日本はけがされ地獄化すなり
下賎なる天皇移民が暴力で搾取を極め民虐げる
極悪の弥生移民の悪業で日本は汚されわれは悲しき
2016年7月25日
犯罪者
我らはおきざりにされた善意と共に
利己的な侵略者の渦にまきこまれていった
信じる者は裏切られ
金儲けにやってきた下賎の者があふれ
都市は荒れ果てた
田園の民は邪悪な弥生人共にそしられ
平和を壊され蔑まれ
心底卑しい集団は都市で悪業を重ねていった
資本主義は誰もを永遠の孤独に突き落とした
残されたのは誰もいない浜辺
我らはおきざりにされたやどかりと共に
悪業を続ける弥生移民の蛮行を眺めている
天皇と名乗り搾取と戦を続ける犯罪者の姿を
世襲根性
侵略も国民洗脳も独立破壊も反省せず天皇欲しがる民からの搾取
安倍であれ天皇であれほしいのは己の地位と金のみなりけり
野蛮なる移民の末裔天皇や安倍が悪業きわめて驕れり
2016年7月18日
芸術論
芸術やその作品が、経済的な価値を付与されているのは、単なる誤解だ。元々商品としてみれば意味をもたない、死んだ形式が芸術だからだ。装飾品としてみた芸術作品は、形式的な堕落に過ぎない。本質からしても、芸術は意味を外れていく活動である。その意味で遊びに近く、仕事にはさも見えない。だから、芸術家達の生活はさも非労働的で、経済合理性を全く欠いている様にみえるが、それは正しいのである。
芸術は単に非経済的・非商業的な活動であるのみならず、最終的な活動でもある。だから、商業に基づいた価値判断の上で芸術は永遠に意義を持たないし、それにもかかわらず、全ての人生にとって最終到達地点として存在している。人間は死ぬが芸術は残るからだ。全ての遺伝子はある段階で途切れるだろうが、芸術は別の個体あるいは生物へ伝わるだろう。ゆえに、芸術作品とはそもそも人間の為だけの創作ではない。それは殆ど自然の一部であり、自然そのものである。
2016年7月17日
2016年7月16日
2016年7月15日
野党大団結論
2016年7月14日
西国衆愚と悪魔崇拝長州閥
極悪の長州閥が悪業を重ねに重ね日の本荒れ果つ
サイコパス安倍晋三が衆愚騙し嘘を重ねてナチス模倣す
極悪の安倍晋三に欺かれ衆愚西国侵略犯罪
愚昧なる西国衆愚無反省ひたすらユダヤと殺人商売
悪辣な西国衆愚侵略を驕り高ぶり平和を侮辱す
ソシオパス安倍に煽られ人殺し侵略誘発西国の下衆
極悪の弥生と百済群れなして侵略犯罪させろと脅迫
己のみ都合よければ民を棄つ天皇家は悪しき西国に無力
偽善なる天皇は悪の谷垣を裁きもせずに被災地虐待
権力の為だけにアジア侵略し西国衆愚を悪用天皇
百済人弥生人群れて移民せし極悪の業を集めて不正す
わが心西国におちた原爆は弥生の悪業への罰なりと知る
野蛮なる侵略愛好西国にみたび原爆こそが正義ぞ
平和こそ大切なものと思うなら極悪長州閥は天敵
極悪の西国衆愚群れなして戦争誘発させろと蠢く
極悪の西国衆愚恐れ為し安倍の外圧偽装に煽らる
天皇家普段の贅沢わざわいし西国衆愚の悪に乗せらる
米中イ戦犯の孫の売国を利用し日本の人命犠牲ぞ
悪魔なる安倍の悪業底抜けて殺人武器で金を貪る
野蛮なる殺人財閥百済人悪業かさねて驕り高ぶる
CIAモサドに薩長三菱の悪政悪業地獄の底なり
人殺し金を儲ける西国の悪魔崇拝神も怒れり
金融資本その目的は人殺しユダヤと百済組んで犯罪
極悪の長州閥が悪業に悪業重ねて勝者だと驕る
極悪の長州閥が魔の国に堕とさせ不幸と罪業山にす
2016年7月13日
安倍家と支持者の死罪
資本主義からの離脱
我々は安倍の様な卑小な侵略戦争主義者を国政から永久追放する義務がある。そして金融資本主義と資本主義の罠から足を洗い、ユダヤ選民主義の部分集合から外に出なければならない。ISとの争いをやめ、内政干渉を禁じ、彼らの独立を許容し、天皇の象徴化、元首化あるいは神道による宗教国政を完全に廃止しなければならない。
我々の成すべき事はいかなる宗教に対しても自律を認め、どの宗教派閥に対しても与しない共和政治である。資本主義も、或いは国家資本主義も、人類の世界史的進歩にとって単なる退行、堕落に過ぎない。なぜならそれらの役割はユダヤ教の部分でしかなかったからだ。
2016年7月12日
自民党ナチズムと反ナチスの国連軍
原爆の正義
極悪の関西衆愚侵略を罪と感じず犯罪愛する
極悪の弥生に原爆投下され長州百済は逃げて金取る
極悪の弥生の蛮行知るならば西戎滅亡のみが平和ぞ
極悪の弥生の侵略蛮行を知って搾取す天皇大罪
悪魔なり侵略愛する卑劣なる弥生の利己は直りもせぬなり
極悪の薩長土肥の野蛮さは少しも直らず侵略愛する
弥生への西戎軍への原爆投下のみが正義と我も認むる
極悪長州独裁政治
極悪の関西衆愚群れなして侵略主導し蛮行始めし
極悪の安倍と麻生と自民党衆愚洗脳しつつ奴隷化
極悪の関西衆愚安倍ヒトラー群れを扇動侵略犯罪
極悪の関西衆愚善良な東北の民を差別す
イスラエル米英仏に騙されて軍需で民売る極悪薩長
極悪非道谷垣のつくる悪魔憲法天皇独裁民を奴隷化
関西の衆愚石原安倍により中国脅威論で煽られ発狂
天皇家安倍の独裁警戒し民を啓蒙すれど届かず
天皇家普段の管制首を絞め薩長悪魔に担がれ破滅へ
極悪の弥生衆愚の陰謀は侵略犯罪の為に自滅す
極悪の薩長藩閥自民党民を奴隷化国を売りけり
選民と信じるユダヤとイスラエル手先の薩長衆愚をいけにえ
わが目にはイスラム信じるISの若者のみが真の犠牲ぞ
戦捨て勝敗を捨てて平らかに臥して悟れる仏尊し
モサドからCIAから世耕まで衆愚あやつる者は賎しき
自民党その命脈は尽きにけり悪魔の薩長ユダヤの手先ぞ
経団連三菱軍需に媚びにけり心底汚れた下衆の集まり
この世では善なる者が生きてあり悪しき者ども亡びゆくなり
薩長土肥西軍なおも省みず侵略美化して悪業憧る
下賎なる皇族と群れて狂信し悪魔崇拝続けし弥生ぞ
卑賎なる支配の欲にうなされて狂信集めし皇族哀れぞ
極悪の弥生の衆愚長州閥百済の末裔悪政自慢す
ただ悪しきひたすら悪しき長州閥民を奴隷に金権貪る
さも地獄長州閥の洗脳す関西衆愚の侵略国家
2016年7月6日
2016年7月1日
2016年6月28日
2016年6月27日
衆愚
不正なる極悪人の肩を持ち無法や悪を支持する衆愚
薩長土極悪の業を崇めけり関西衆愚が裏切り美化せし
悪業で江戸を侵略天皇がアジアの万悪集め贅沢
極悪の職権濫用公務員悪法に群れて民を脅迫
極悪の関西人が官僚ぶり金を儲けつ民を侮辱す
悪党に投票し善を痛めつけ悪事に驕れる極悪山口
人権を剥奪すべく群れ集い国民搾取す極悪自民党
ネットから成りすまし名誉毀損して脅迫続ける極悪京都人
極悪の日本で人を裏切りて金を貪る馬鹿が殖えけり
極悪の不安の国で貧民を虐待しつつ天皇驕れり
極悪の悪魔の日本で極悪の商人が金を貪り貧民虐める
これほどに悪しき状態つくりだしなおも驕れる極悪薩長
これほどに悪しき国家を産み出してなおも悪事す極悪天皇
下品なる虐め以外しない京都人移民してきて日本人ぶる
外道なる鹿児島山口悪事自慢野蛮な侵略殺戮誇れり
極悪の関西人が群れながら愚劣な神道カルトで悪政
極悪の京都の議員が被災者を虐殺しつつ驕りたかぶる
極悪の自称京都で大悪業つづけた天皇悪業重ねる
腐敗した東京を崇め善良な人を虐める極悪の弥生
腐りきりなおも悪事をしたがって匿名で集う極悪の弥生
善人を見るなり群れて虐待す極悪弥生の普段の悪行
極悪の百済の末裔悪政をするため日本を荒らしけり
東京人公然猥褻淫行勧誘蛮行の限り尽くし金取る
極悪の天皇侵略江戸城で弥生の下衆が悪業極めし
金のため人を裏切り法濫用極悪愛知や東京の悪魔
極悪の国権濫用自民閥国事行為に苦言す天皇
悪魔崇拝続ける腐った天皇家極悪非道のカルトが独裁
最悪の弥生で横行人種差別日本人ぶり朝鮮蔑視す
斯くほどに腐敗した国でゆとり20代悪意と白痴を晒し悪行
凄まじい愚劣な衆愚日本では子供を産みし者さえも極悪
最悪のカルト国賊天皇家滅亡せねばならない宿命
極悪の日本人ぶった弥生人悪業三昧つけを身に受く
この国で善人が生きていけるならその人こそが祝福受くべし
2016年6月23日
2016年6月21日
凱歌
われらのもとには正義があるからだ
われらは神に択ばれ嘉された民衆
われらは徳を信じる
われらの前には永遠の平和
われらの後には栄光の軌跡
われらをさえぎるものはみな打ち砕かれ
われらをそしる者はみな自滅していった
最高善のもとでより集い
はるかな宴に楽しもう
永遠の静寂を湛えた大海原は
われらの心象を映し勇壮だ
われらの勝利を祝う楽隊が喜び歌う
われらはいかなる敵にも物怖じしない
2016年6月20日
2016年6月14日
2016年6月12日
2016年6月11日
極悪京都の天皇陰謀
東国やアジアを悪意で侵略大虐殺を働き全人類を騙して銭儲け三昧の極悪非道京都人が奈良の人殺し独裁者天皇家を駒に人類蔑視中華計画
極悪百済が数万年続く平和な縄文文明を侵害し浅はかな人殺しと退廃した独裁強姦虐殺での関西愚民洗脳暗黒の千年を死ぬほど自慢する愚劣極まる醜態
裏切り者の極悪侵略犯罪一族天皇家が東京と京都から全人類を蔑視しひたすら税と権力を貪り極悪弥生を洗脳し続ける最低級の外道振り
新幹線、リニア、文化庁、皇族を貪り日本人を蔑視しまくる極悪非道の侵略屑民族自称京都の山城土人が百済朝鮮人と混血しながら不倫文化自慢のげすごっこ
2016年6月10日
2016年6月9日
狼煙
望んでいた未来を
作り続けろ
お前を取り囲む悪魔共は
お前が死ぬまでお前を虐げるだろう
そのアクマ共の中身は空っぽだ
自称天皇の気違いは
ただの邪悪な独裁者
洗脳された衆愚は馬鹿で
悪意のゆえ教祖に媚びていた
侵略犯罪を正当化する為
お前を取り囲む腐った世界は
お前が死ぬまでお前から搾取し続ける
極悪の資本主義者共を滅ぼせ
サルの島
全滅させろ
ひたすら卑しい
金儲けしか頭にない下賎な犯罪屋
東京に現れては蛮行をくりかえす
自称京都でやくざ三昧
暴力団を率いて蛮行を正当化するごみ
自称天皇の屑人種
侵略しか頭にない野卑な薩長土肥共
皆殺しだ
ひたすら下種
陰湿な犯罪しか頭にない最悪の京都人
マスメディアを悪用して愚民を洗脳
自称天皇の気違い狂信者共
邪教の島国
商売人しかいないのだと
金を他人から貪れない正しい人は
極悪業の下種な悪魔共に殺される
品性下劣な愛媛出の下種が
恐ろしいほど愚劣な名古屋の土民が
金の為に神と人を罵り続けている
福沢諭吉という屑が白人の悪意に媚び
金に魂を売って東日本人を虐殺した
最低最悪の南蛮大分人は悪魔だった
東京に出てくるや犯罪者の本性を現し
西日本の衆愚はあらゆる下賎を行う
性犯罪に成り済ましでの侮辱三昧
金欲しさに人を罵り天皇と大虐殺
腐敗の極度にあって銭を貪る関西土人
誰かがいう
悪魔しかいないのだと
金を奪えない操正しい人は悪に殺され
下種極まる馬鹿しか殖えないのだ
産まれてくるのも下種の子孫では
未来はますます最悪になりつづけよう
一切の希望は極悪天皇一族に破壊された
悪魔の邪教祖と極悪信者共
人殺しの一族が今日も京都で人類を搾取する
極悪集団西日本の粛清
天皇独裁国
すべては眠りにつく
あしきものの溢れた邪悪な島も
愚劣極まる下賎な衆愚とその教祖も
これ程極悪人の集まった国家が亡び
人類は救われる
極悪非道の薩長土肥に関西衆愚
品性下劣な東横愚民に名古屋の下種
日本という世界最悪の独裁国家が滅亡し
侵略犯罪を繰り返した野蛮な百済が破滅し
悪魔の天皇一族が死滅しきったあとで
我らは息をつく
悪は滅ぶ
正義の故に
日本国積極滅亡論
極悪長州侵略犯の安部晋三一派が善良な貧民を虐待しまくりながら、あらゆる悪意で強者と金持ちに媚び諂い、弱者という弱者を虐げ続ける。この様な最悪の政治では自殺しない方が不自然な程だ。
悪の日本政府と極悪天皇一族を処刑し、悪しき大企業並びにおごり高ぶる金持ち共一切に有無を言わせず全資産を国民国庫に返納させ、最悪の日本国を終焉させた上で、この列島に全く別の国を創り直す。それ以外に政治目的等ありえない。
2016年6月8日
2016年6月7日
2016年6月6日
無限の未来
この世の果てまでもみちたりて
誰もいないままになる
もし僕達の望んだ未来なんてなく
あの世の果てまでも元通りで
誰もいない海に都市だけとしても
ひたすら画布に塗りこめた想いの内に
誰も聴こえない音楽の内に
僕達の無限の未来が見えている
誰もいなくなり
残されたのが小さな墓だけとしても
僕達の生きた証が記された紙に
消え失せてしまうだけの建造物の記憶に
誰も分からない詩の内に
下賎な富
光
君は白馬の様に
また白い雲の様に駆けていく
誰もいなくなる迄
我々の目前に降り積もる雪と星屑
誰もいなくなる迄
夜深くにきこえる
不確かな心臓の音
何もみえない果てしない宇宙
君は轟きの様に
輝く船の様に駆け抜ける
何もかも
君の美しさ以上に確かではなく
君の望んだ以上に麗しくもない
善
唯一の生き残りになれたとして
衆愚の記憶が我々をさいなむだろう
もし我々が大衆という下賎な群れを倒し
悪徳の天皇を亡ぼし去れたとして
人類の過半数はこの島等どうでもいい
最低な弥生人達の蛮行に千年以上耐えて
いまだに奴らが犯罪的だとして
地球も宇宙もそんな人種等どうでもいいのだ
私は祈り
祈りによって神の復讐を期待する
神という文化素
悪人達が消えて
善しかなくなった世界を夢想する
2016年6月4日
戦い
みえないほど高い壁
悪徳に満ちた衆愚に囲まれ
絶望的な戦いを強いられている
もし悪しき人類を絶滅できた所で
世界に神は君だけだ
俗悪な衆愚は君を虐げ続ける
世界に神は一人だけだ
意味のない争い
消え去りはしない悪夢
極悪の搾取に憑かれた悪魔の弥生
終わらない天皇との戦闘の中で
世界に神は僕だけだ
俗悪な関西人を薙ぎ倒し続ける戦い
2016年6月3日
Democracy
安倍老害一派の政界追放
2016年6月1日
2016年5月31日
2016年5月30日
2016年5月28日
極悪財閥自民党
2016年5月26日
新卒一括採用、終身雇用、学歴差別禁止法案
更に、学歴差別禁止法によって雇用過程の最中に、教育程度に応じた差別を行う事を全面的に禁止しなければならない。これらの新法は移民を含む全国民が実力に応じた成果を得られる環境をつくりなおし、わが国経済を牽引する。
2016年5月24日
悪い未来
だれもが待っていた
悪い未来だったと
絶望しかないと
なんの救いもないと君はいう
最低の社会
金がないのに虐げられる
なんの助けもない
極悪の偽善者天皇をうらんでも
なんの報いもない
うらみはすててこそ止む
きみの探していた未来
だれもがあるべき今だと
知らぬが仏だと君はいう
下賎の国家
金を貪り最悪の錯誤をくりかえす極悪老害共を滅ぼす為の力さえ奪われ、最低最悪の下種な子供が老害に媚び卑しい金を貰い、散々乱痴気極まる蛮行で悪業とネット犯罪を恣にしている光景。そして我々は、それらの下賎極まりない極悪集団、悪意以外何もない自称日本人の最悪の商売人共(勿論、関西だの東京だの薩長土肥だの、名古屋だの仙台人だのだ)に対して、いかなる手立ての反撃の機会さえ奪われかけている。これほどの絶望の底でさえ、生きながらえよと神はいうのか。それとも。一銭もない我々をひたすら虐げた極悪老害共が地獄におち、下卑た餓鬼共が破産する様に全力を尽くすだけである。
2016年5月23日
偉大と利得
人類は偉大さをめざし、実際偉大になる事ができる存在である。燕雀と鴻鵠の志は違うが、質的に偉大な人類を理解できるのも質的偉大に近い人類の側だろう。
人類は利己的なほど邪悪であり、利他的なほど善良である。この点で商業のみの達成では、永遠に大衆化を免れない。そして利得に関わる限り、商人は常に多少あれ邪悪たらざるをえない。人類の目的にとって、必要を超えた利得は全て有害、といえよう。必要に満たない利得しかない存在も、つまり自己犠牲的な存在も、清貧の度合いが高ければ高いほど聖なる性質に漸近していくだろう。質素より清貧はより偉大だ。
皇族や王族の様に徴税商に特化した存在も、同様に理解できる。即ち利得的である皇族は賎しい。日本人の全てより贅沢している皇族は、かの国で誰より卑劣な存在なのである。
2016年5月22日
2016年5月20日
2016年5月19日
極悪独裁百済血族
極悪独裁寄生者天皇一族が衆愚を洗脳し私を搾取し続ける限り、この島国では虐殺しかされない。悪魔共。いかなる手段をとろうと、自称天皇一門の粛清が正当化される。主権の存する国民を虐殺している、悪魔の寄生者、奈良出の気違い新興宗教一族。
自称天皇独裁血族一門粛清の義
極悪南蛮西戎と未来永劫別れる事こそ、真の正道そのもの。悪魔天皇一門をこの島国から消滅させるべきであり、さもなければ極悪独裁血族の貪りと冤罪裁判の人殺し洗脳悪業で虐殺しかされない。
2016年5月18日
2016年5月17日
支持
極悪人には悪意しかみいだされない。悪意はこの世で最も悪いもの故に、極悪人はこの世で最も悪い存在である。聖者に善意しかなく、この世で最善なものの様に。
極悪人
我々の世界には極悪人というものがいて、しかも奴らはサイコパス的に人を欺き、不当な名誉や大金、地位を得ている事さえある。私は2chやアメーバピグというSNS内で幾らかの極悪人らを見た。極悪人らは悪業を楽しんでいる。勿論、奴らは他人を傷つけたり、不当に汚名を着せたり、相手の名誉や徳目を汚辱したり、卑怯な嫌がらせを進んでしたりする事を楽しむネットサディストの犯罪者達であり、しかも他者の前ではその面を隠している場合も多い。
極悪人は不幸に沈殿する事が喜びなのだ。極悪人への唯一の対策は、無視する事だ。例えば村上春樹、綿矢りさ、といったサイコパス達の末路をみるが良い。無視する事で極悪人は自滅していくのだ。
芸術論
我々は作品を買うつもりをしているが、その内容として、芸術家の人生の部分を買っているのだ。芸術家は我々の人生を啓蒙する。勿論、偉大な芸術家であればある程かの作品には所有する価値がある。ある芸術が真に偉大かを確かめたければ時を置いてみればよい。
偉大な作品は、常に私を啓発する。『論語』や『聖書』、『ウダーナヴァルガ』、『コーラン』等の聖典群は、常改めて私に発見させる。偉大な芸術を知る者だけが幸福である。
我々の時代では、今では誰からも知られていないある関西人作家らが、東京という下劣な町人中にあってむやみやたらに金を儲け、腐った商業出版社の間で文芸誌によりかかり、愚物の支持を得て威張り腐っていた、という事を後世に教える必要がある。おそらく未来にあっても、同然の屑が量産されているのだから。そしてその時代の大衆あるいは愚物の自称サロン、新聞文化欄的なもの、或いは勲章授与なり授賞機関には何の鑑識力も期待できない。彼らは2ch文学板で私の実名に成りすまし、ありとあらゆる犯罪蛮行を繰り返しさえした。
2016年5月14日
我ら
悪徳の主はその子も亡ぶと
悪魔の強欲は自滅に至ると信じよう
利己主義者達は滅び去ると
真の有徳者のみが生き延びると
我らは徳の元にある事が最善であると
神の命じた世界は永遠であると
衆愚は悪例であると
目的は一つであると
正義は必ず最後に勝利すると
悪人は悲惨な末路になると
群れた犯罪集団の日本人は滅び去れると
我ら水戸の侍の誇りはまっとうされると
我ら常陸の威厳は回復されると信じよう
2016年5月13日
極悪日本政府の破滅
終焉の国日本
邪悪な日本人
2016年5月12日
自分自身
誰とも競うな
自ら貴くあれ
人々は浅ましく卑しいかもしれない
高い身分の者は卑劣かもしれない
君を裏切った奴は卑怯かもしれない
誰とも争うな
誰とも
自ら偉大であれ
金持ちは下賎かもしれない
大衆は愚劣かもしれない
君を貶した者は最悪かもしれない
彼らに君は変えられない
自分自身であれ
2016年5月11日
関西人
関西人は元朝鮮人である
2016年5月9日
死ににゆくもの
死ににゆくもの
生命の輝きは私を幻滅させる
死んでいくものは美しい
ブッダも私と同じものをみていたのか
我らの心は無駄
諸法無我
生まれてきたもの
生まれてくるべきものも無価値
めぐりくる季節を折って死ぬ
いのちの輝きは私をがっかりさせる
かつて我らの祖先は皇室を尊んだ
永遠に縛られた暴力団長の代償
死ににゆくもの
2016年5月8日
2016年5月6日
故郷
物事のしずかな移り変わり
あなたをおいかける影
だれもいない校庭
咲いているひまわり
宵は町をひたしていく
いつかみた光景
まるで奇跡
海辺にしずかな波が打ち寄せる
あなたをとらえている人
だれもいない空き地
ゆれているすすき
朝焼けが空をみたしていく
まだすべてを語れていない
花ことば
この両手に秘めて
あなたを探している
宇宙全体のわけは
みな胸裡にしまい
階段をのぼりおりする
説明のつかない驚き
一人でさみしがる
星屑のおどり
あなたのうまれきてから
磯原は優しく潮風を語る
自由のはてなき悲しみ
一人でさみしがる
あなたの声は花ことば
神
神は未来永劫われらの心に住まうから
人がどれほど冷たく邪悪でも
神は永遠に慈悲深く尊い
この利益社会に毒された日本国は地獄でも
神を信じよう
神はどこまでいっても天皇ではない
神はいずれにせよ奈良人の先祖ではない
神はわれの心にある
支配と奴隷化の為にわれらを騙してきた
自称天皇の住まう邪教の社を燃やし
われらの心に無限の慈悲を呼び戻せ
神はわが心
神は永遠の安心
全知全能にして全徳
天皇一族は邪悪で殺人してきた悪魔だ
神仏の功徳の前で奈良出の邪教祖は無力
神はわが心にある
神は無限の慈悲
永遠に生きている実存
われらの心に広がっている偉大な世界
神を信じよう
人がどれほど劣悪でも
神はわが心にある
2016年5月5日
極悪商人への祟り
極悪の商売人共。皆殺しにされるといい。
神のみ
われらにはなにもなく
われらには助けもない
われらに祈りを与えよ
われらにはなにもなく
われらには答えもない
神はわれらを見捨てたもうたか
邪教に噛みつかれ
血を流しながら
われらに言葉を与えよ
われらにはなにもなく
われらには希望もない
われらにはなにもなく
われらには神のみがある
神は必ず復讐する
なぜ奈良の邪教祖や侵略犯罪の極悪薩長蛮族に国家をなのられねばならない。極悪の東京土人どもにひたすら金を貪られる。
神はあれらの悪魔を放置するだろうか。それとも。神は必ず復讐する。散々なりすましで私へ冤罪をかけ名誉毀損罪をつみかさね謝罪もない村上春樹や綿矢りさの破滅が、東京や関西、名古屋の下種の破滅が、目に浮かぶ。私の心の中で、すでにそれら極悪人どもは死んでいる。
2016年5月4日
茨城政治界の模範性
人類が仮言命法に従うのは最低限度の事であり、即ち営利活動とはこの最低限度の善意ですらないのである。営利を目的にした活動は人間を蝕む。商業に染められた悪魔は、ひたすら非人道にふるまう。
善意の最低限度は、利率が全くゼロのふるまい、全く利がない活動以上の義による活動でしかありえない。定言命法はその人を赤字にし、さらに貧窮させる様にみえるが、実際は真逆である。幸福とは他者から疎まれない、それどころか感謝され、尊敬や崇拝をうける立場についての特性なのであり、社会的なものである。幸福は他者からの報いなので、個人がどれほど暴利を得ても、或いは暴利の地域に住まっていても、何ら返礼はえられない。人類が幸福になる為には、ただひたすら利他に殉ずるしかないのだ。一個人がえる個人的悦楽は、真の幸福ではない。幸福と快楽のちがいは、前者が他者の目からみて望ましい状態にある人生な事である。
利他主義者は利益がえられず、清貧に留まり、世を憂いたり儚んだり隠者の様にくらすかもしれない。利己的な衆愚は、群れ社交し悪徳と錯誤、暴虐を恣にしている事だろう。中間的な凡俗は、利他の者を尊敬し、利己の者を軽侮する結果にしかなりえないのだ。こうして、政治界一切のなかでさえ、利己目的の者は暗愚な不幸の存在でしか全くありえない。
ところで、営利のあとづけで寄付をした者が高徳かといえば、はじめから非営利で寄付をつづけた者に徳の面でまさる事は永久にない。人生では慈善によって極貧になり、そのまま死亡してしまう悲劇の人があったとして、営利の最中に暴利をにぎったまま死ぬ者もいる。つまり、貧富と死には直接の相関はない。慈善は暴利の反対概念で、デリダは資本主義の暴利を正当化しようとした。だが、それは不幸の原理にすぎない。
現代社会で商業化が進んだ地域は、どこも一様に不幸になる。退廃し、格差のみ広がる。それも、利己集団の中では虐げられしかしない為だ。国全体が商業化した状態では、国民全部が不幸である。人生では、斯くの如き悪をさけるべきである。商業国家は破滅に向かうし、それは互いに暴利を貪りあう集団内では、悪魔しか栄ええないという最悪の社会におちぶれたからなのだ。裏を返せば、商人を蔑視し、農工業を重視する政治界が、健全な社会、地域の目安なのだ。この観点からも、茨城が日本で最も幸福度が高い地域な事は疑い様がない。極悪商業民は妬みによるいわれのない誹謗、悪意ある確証偏見で義人を罵るが、彼らがますます不幸になるのは必然なのだ。
2016年5月3日
めだかども
自然のみわれに優しき北茨城
風が吹き春はめぐりく磯原に
花が咲き四季はめぐりく茨城に
都の悪をみすえて町にビル生える
海風に人類の悪を都は映す
素朴なるたんぽぽの咲くわが町に
しゃくなげの風にゆれきて町映す
天皇商売
狗肉として売られた円だのドル
もういいじゃない
しぬまで要らないものを買い漁れよ
お前の必要な食べ物も貰えず
極悪老害の手先をさせられて満足か
極悪東京で贅沢三昧の天皇一門に貢ぐゲーム
お前の前にいる屑共を見下す最悪の下人だ
いま目と鼻の先に広がっている光景
もういいよ
お前の入り込める会社などない
極悪関西やら名古屋やらの獣類を見ろ
極悪薩長が裏切り放題で縄文国家を荒らす犯罪
皆殺しにされた原爆のもとで大蛮行の百済土人
偽装
誰もいなくなる
一瞬みえた道のりでさえ
もうみえない
お前は時の落とし子で
運命によって導かれる
いない
よるにまぎれて
もうみえない
一瞬みえた運命でさえ
お前は時を待ちながら
宿命のまに流される
俺は月まで行って帰ってきた
地上にはもう誰もいない
破滅国家
だれもいなくなるまで
ひたすらねむり
永遠にねむるのだ
よく考えるといい
うまれてきた意味はなく
あらゆる人類は邪悪だ
世を儚んで下衆のくらしをみよ
極悪天皇と極悪東京が滅亡する事は必然
関西が破滅していったのも自然
薩長土肥が自滅するのは当然
悪は行動するほど悪化する
よく思い知るといい
善が救われない国など亡び去る
のろし
わずかな金の為にあくせく働かされる
なんの疑問もなく
勿論どんな道徳もない
品性下劣な東京の下種ども
極悪天皇の偽善の手伝いをする最悪の東京土人
かつては必死に尊皇の水戸の侍を弾圧していたのに
単なる自己中心な利己心以外なにもない屑集団が東京だ
悪徳商業で地方へ冤罪と偏見による地域差別しかしない
まさにいのなかのかわず世界最悪の極悪衆愚
単なる犯罪集団の醜悪な東京マスゴミと群れて
あらゆる不正と虚偽でばかな関西人を騙し銭儲け
悪意以外なにもなく自然汚染と不法投棄
原発をおしつけ電気と金と命を搾取しつつ美観を汚染
あまつさえ買春犯罪を正当化さえするごみ
殺戮しつくせ
これほど汚い東京関西土人共は滅亡するべきだ
今すぐ殺戮しつくすしかなにもありえない
現代
どれほどこのよがくだらなく
しんでいくだけでも
きみの望んでいるあらゆる夢が叶い
説明のつくかぎりの未来がきて
われらのてにあまる時代がくる
偉大な時代だ
説明してくれ
われらの手に入らないあらゆる金も
悪魔の様な凡愚が
最低なかねもうけ老害どもが
阿婆擦れのげすどもが浪費していく
最低最悪の東京関西のくずども
説明しろ
RPG
誰も現れない
誰もいなくなる
淀んでいる
愚昧な首都で蛮行を続ける下衆
悪徳に満ちた悪意の関西人達
悪魔の宗教家を兼ねた自称皇帝
成る程この世は極悪人で満ち足りている
極悪人達を次々倒していく事しかない
それが人生の唯一の定義だ
悪魔を倒せ
極悪集団である日本の衆愚を亡ぼせ
極悪薩長を滅ぼし去れ
極悪意で凝り固まった商業国民を倒せ
2016年5月2日
反衆愚主義
衆愚の東横や愛知、西日本はその下賎さのゆえに自業自得の破滅を被る。
衆愚に反すれば反する程、貴人となり幸福を得る。しあわせとは反衆愚の全てである。反衆愚とは幸福主義のいいかえである。
動機
金をもっている者ともっていない者とでは、もっていない者の方が優れている。しかし、金を善良な他者のため生かす者は、更に優れている。最良なのは清貧で、最悪なのは守銭奴だ。利己的商人は利他的商人より劣っている。たとえ利己商が利他商より資本が大きくとも、利己の商いは劣っている。利他にならない仕事をするな。全生物が利己でしかない故に人類も利己であるべきだというなら、その者は愚かだ。人類は利他性の故に、他生物にまさる。
天体
誰もしなずに
朝昼夜とくりかえす
君が振り向いてから
この世には一度も太陽が昇らない
丸ですべてが止まった侭
あの日
天体が回りつつ
ひとは静かに
小さな願いをくりかえした
もう少し考えてみるから
君がねむりにつくまえに
前世も来世も二度と晴れたりしない
丸ですべては原因不明の奇跡
軽蔑
君はそこが都会の慰めの公園みたいだと
さも誰も気にしない
薄っぺらい低俗な大衆小説みたいだという
一度うまれてきてから
はるかな未来まで愚劣な日本人の中で
ぬけだすこともできず
あしき天皇と名乗る傲慢な邪教祖に迫害され
下らない最悪の関西人の人生みたいだと
それを模し麻痺した東京愚民みたいだという
なるほど君の心労してきた全悪事は
当の邪教祖が中華皇帝をまねてから始まった
今日ではイギリス王室を手本に延命だという
極悪非道で品性下劣な関西や東京の商売人共
人殺しと裏切りで驕り高ぶる最悪の薩長土人
金儲けせずには殺される
金儲けなしには殺される
賎しく利己的に生きろと狡猾なイギリス人が強制した
まるで地獄だ
世界侵略に乗っかり蛮行し放題の下種な薩長土肥に関西天皇
金稼ぎ等という下卑たふるまいを奴隷として義務づけ
搾取と弱者虐待しか目的がない宇宙で最悪の独裁者
ねる事もできず
無限の俗悪自称平凡な衆愚の渦におしつぶされる
無限の悲劇の只の部分にすぎないが
君はそこが福島原発のそばの公園みたいだという
僕の青春は極悪東京に壊された
僕の理想は極悪関西にけがされた
なるほど君はブッダのいうとおりに
奴ら拝金主義の禍々しい獣類を無視し
怨みをすてて無為に帰するべきなのだろう
極悪な弥生人系と同じ島国につめこまれた不幸を解消するには
利己的な屑でしかない関西東京人を根源から軽蔑する事だ