2019年6月15日

尊卑は癖の差から生まれる

卑しい人との関わりは僅かでも大きな損害をもたらす。逆に尊い人との関わりは僅かでも大きな福徳をもたらす。これらは両者がもつ諸々の徳が対極的だからで、常々人が親しんでいる人と、或る人の癖や習慣は無意識の模倣で似てくる。
 貴人が一般大衆と違うところは甚だ多く、両者は本質で混じり合わない。逆に卑人は進んで俗衆に慣れ親しみ、それを恥もしないばかりか誇りにさえ思っている。これらは彼らの徳に大差がある為だ。
 卑人は悪徳を自覚なしに身につけている。また貴人はこれと逆によい習慣を無意識にしつけている。普段から彼らの業は正反対だから、徐々に隔たりは大きくなり、やがて全く異なる生態になる。こうして世に貴賎とみなされる極端な人間性の違いが現れる。身分制度はフランス革命以後、ただの封建秩序に矮小化されがちだが、その世襲による名実の乖離が起きる以前、はじまりはおそらくただの個々人の癖の差だった。
 ゴータマは行いにより貴賎が現れるといった。生まれや身分は貴賎を分ける決定要因ではない。当然ながら、貧富と貴賎は異なる。また賢愚も貴賎そのものではない。人はより尊い徳に見習ってより優れた生き方に達するのであり、単に職業分化の最初の原因にも徳の差がある。一般に貴さは希少性を伴い、代えがきかない上に公益性が高い生業はより貴いものと見なされる。人権平等とは別の点で、或る文化圏でより貴い職業は名誉、地位、報酬などなんらかの点で厚遇される。すなわち或る人は職業選択に際し、自らの徳に応じた生業を好む。
 我々はより徳の高い生業に就くべく学ぶ。だから勉強とは自らの癖との闘いなのだ。最後に或る人は自分を知り、いずれかの職業を否応なしに選び取るが、それは以前に彼らの行ってきた学習成果でもある。
 卑しさにそうと気づける人は、既に尊さの一部を達している。