2019年6月27日

倫理的転回について

倫理(今日、道徳ともいう)の根拠は信じることであり、或る人間関係と同じ秩序がない自然界の中で実証できるものではない。カントはこれを認識の主観性という、もっと抽出的な次元でコペルニクス的転回と呼んでいたが、特に倫理に関してのそれだけを倫理的(道徳的)コペルニクス的転回、或いは約めて倫理的転回、道徳的転回と名づけられる。また特にカントがこのアイデアの起源なので、自然・道徳の両界に於ける主客分別を発見した狭義のコペルニクス的転回という意味で、カント的転回ともいえる。
 自然科学のみを学んだ人(自然科学専門家)は、単に既成の社会を分析した人(社会科学専門家)と同様に、その点だけでは決して倫理的ではありえない。たとえ単なる一宗教の信者も、自然科学を信仰にしている無神論者より倫理的に正しい結論を導けることもあるのは、この倫理的転回の為である。
 文明が自然界と同じ秩序でありえないのは『韓愈』で弱肉強食が人間界の対概念として語られてからなんら変わらない。今日の人類が理性と呼んでいる脳の機能は本質的に倫理的社会を作る為のもので、いわば高い利他性の個人を褒賞する。が社会ダーウィニズム(社会ダーウィニストでなかったダーウィンの名誉の為にはスペンサー思想と呼ぶ方がふさわしい)や、新自由主義、自由至上主義の一部はただの退化を含むし、これまでの薩長史観や、マキャベリズム、アメリカ主義、東京中華思想・京都中華思想(いわゆる都鄙差別)の類もこの点で同轍に過ぎない。そもそもアイン・ランドの客観主義自体が利己性を強調し、倫理を後退させたものでしかない。資本主義や労働主義(労働すれば救われる、もしくは労働をほぼ無条件に正義とする考え方)、神道、民衆政治(democracy)などの考え方が或る集団的または全体的利害を或る個人に不都合な形でおしつけている時、その信仰は極めて邪悪で文明の本旨に悖るのだ。
 根拠主義(全てに根拠を求め信憑性と同一視する考え方)や実証主義は、科学主義(自然科学の方法論を自明の正しさとし他の分野の思考にも無理やり当てはめたがる考え方)の一部で、これらは倫理的転回を理解していないことによる一般的無知だ。同じく科学的知性は決して倫理的知性(徳性、道徳性)ではない。但し、そもそも倫理的認識は後自然学的なものなので、広義で自然科学や、既存対象の分析を行う社会科学はいずれも倫理的知性の部分でありうる(福沢諭吉『文明論之概略』でいう「先ず物ありて後に倫あり」)。つまり、単なる個別的徳に個々の知識は必ずしも必要でないが、普遍的徳(全徳)については全知が必要である。全知も全徳も或る当為だから、できるのは博学を兼ねる有徳さを各々の命の有限時間内で達することだけだろう。我々が知識を模倣素として外部化し、別の時代や異文化へ伝えるのは、学習過程を省力化する為だ。