2024年3月6日

言葉遊びを超えた哲学について

世界は言葉よりも常に複雑で深いとぼくは思っていて、だから言葉の世界にマップしてその中での整合性や論を問う人とは結局話が合わない。
――茂木健一郎

哲学がときに言葉遊びにすぎなくなってしまう理由だと思っています。
――佐伯真哉

ご存知とは思いますが哲学はギリシア語philosophia(philia(友愛)+sophia(知恵))の訳語、原義は「知恵の友愛」です。
 自然科学は以前は自然哲学と呼ばれていた哲学の一部です。
 所が孔子が『論語』で「辞は達するのみ」(言葉は伝達手段に過ぎない)といったよう、言葉遊びの外にも哲学はあります。

 例えばウィトゲンシュタインは西洋哲学の伝統を「言葉遊びに過ぎなかった」と批判する中で、その人生の後期には言葉遊びの外にも哲学があると気づき、幾つかの文書を残しました。
 東洋哲学では元々、釈迦や孔子、老子らが言葉遊びに耽る傾向を批判し、巧言令色を超えた悟りや徳を目的としていました。

 言葉遊びに耽る傾向は一般に詭弁術といいますが、古代ギリシアの代表的な都市国家アテナイが多数支配の民衆政治をしていた時、職業教師として詭弁術を売りにする人々がはびこっていた。知恵者(ソフィスト)と呼ばれる彼らは今日の日本でいえば論破芸を売りに荒稼ぎする、ひろゆきの様な人物でしょう。
 ソクラテスという人物がどんな実態だったか謎に包まれてはいますが、彼ら職業教師に論戦を挑み、次々やりこめてしまうので疎まれ、結局は民衆裁判にかけられ治安を乱した廉で処刑されたのまではわかっています。しかし彼の行いを言葉遊びを超えた助産術とみなし、真の哲学の原型だと考える学者もいます。

 実際、ソクラテスの弟子の一人だったプラトンはその後、今日の大学の原型といえる学園を作り、そこで塾生にソクラテスの探求していたのは言葉を超えた理想だったと教えました。この考え方はのちプラトン思想と呼ばれますが、要するに、哲学は言葉遊びの外にあるとの考えは以前から地球各地にあります。