今の子供にいっておくが、意識高い系とかいって差別してくる集団は近づかないべきだし、それいってる連中は徹底的に裏をかき潰したらいい。同調圧力つくって集団イジメ目的でいってるんだから、組織化させたら害悪しかないのだから。ただ自分の実権力を確保した上で、戦略的に知恵で潰す必要があるが。
イジメをする連中は、根本的には心が弱い。一人で立てないから周りの雑魚を群れさせている。つまり個別に分けて頭を使い、着実に、合法的に、合理的に潰していけば、確実に相手の組織を潰せるのだ。
教員が公務員の場合、つまり国公立や市立の学校だったとき、その教師に親などから通報させても、保身に回ってイジメへろくに対応しないだろう。私立なら首になりうるからそうでもないだろうが。
直接、県の教育委員会や文科省、首相官邸へ通報する方が効果がある。公務員は上司に逆らえないからだ。
上記に加え、警察に相談し被害届を出し刑事事件に持ち込んだり、自ら家庭単位で民事裁判を起こせそうになければ、その組織を離れるのが最も楽だが、それすら叶わないとき、反撃なり復讐するには上述した様、合法の範囲で合理的に相手の弱点を全て知悉した上で、一匹ずつ知恵を使い潰していくのだ。
それと、日本政府が全く頼りにならないときは国連の人権機関へ、子供の相談として、自殺しか考えられないが日本政府がなんの対応もしてくれないといって、できるだけ大袈裟に子どもの権利条約違反として訴えるべきだ。直接の復讐はこれすらなんの機能もしなかったときの最終手段とすべきであろう。
大人になるまで何度となくその種の集団虐待の悪意と戦い慣れてくると、寧ろ職能みたいになりどうやれば相手組織を最短かつ最善の仕方で無力化できるか命を懸けたゲームとして楽しめる様になる。
日本人全般の集団イジメを何より好む行動習性は今後も変わらないから、それに慣れておく方が良い。
最終段階では首謀者を命と引き換えに討つという覚悟で、集団虐待の全数を完全に記録した上で、一人残さず個人特定かつ追跡し、短期で潰せなければどれだけ長期戦に持ち込んでも紛れなく潰すのが大事だ。究極のとき、死後まで自分の意志を子孫や同志に継がせ、復讐貫徹へ持ち込めるのだから問題ない。
因みに大人の社会でも集団イジメは組織間の利害抗争として普通に続いているので、子供社会より複雑かつ高度になっているだけで、本質的に何も違いがない。だから戦い慣れる方が人類界では有利ともいえる。いいかえると子供時代の集団イジメは、政治的レベルの低い雑魚との戦いというだけだ。
例えば『老子』は「怨みに報いるに徳を以てす」といい、『論語』でこれを問われた孔子は「怨みに報いるに直を以てす」と批判した。また仏陀は『ダンマパダ』で「恨みは捨ててこそ止む」といい、新約聖書(ローマ12:19)でのパウロは「自ら復讐するな、神が復讐する」という。これらについてイジメに照らして考える。
第一に、仏陀がいっているうらみの感情から離反せよ、との見解は正しい。なぜかなら、この感情に囚われると冷静に振る舞えない可能性があるため完全に自己制御する必要があり、高次認知的にこの感情をいわば他人事として捉え直し客観視すると共に、相手の業と恨みを分離して考えた方が合理的だからだ。
次に、老子のいうのはゲーム理論でいうTFT(しっぺ返し)戦略等と同趣旨で、相手が反省し協力カードを出しているのに裏切りを繰り返すと自分にとって不合理だからである。他方、孔子がいうのはこの戦略でいう相手が裏切りカードを出してきた時に、しっぺ返し(正当防衛)した方が合理的という意味だ。
ではパウロの説が何かだが、ここで問題なのは業そのもので、復讐に囚われ自分の損害を省みないより、寧ろ合理的報復を除けば自分の身を守ることを優先すべしというのである。当然ながら被害者が罪をこうむるのは倒逆だから、この考え方にも一理ある。
上述したことをまとめると、相手のイジメには逐一正当防衛し、相手側のダメージを十分な幅でとれば、学習能力のある相手ならばこれでイジメに繋がらない。しかし相手に学習能力がなかった場合、そしてイジメの規模が大きく正当防衛もままならない時は、とりあえず保身を最優先しつつ業を記録すべきだ。どの様な被害にあったか客観的に証拠づけられる記録を保存するか、それすらままならなければ相手の業を全て記憶せよ。孔子は仏陀と同じく「旧悪をおもわず」と業と恨みの分離を唱えており、この恨みの方は正義の平衡感覚といえるにせよ、自分に苦痛の感情なのでなるだけ繰り返し思い出さない方がいい。
そして業(自他の行い、被害状況)を記録・記憶できたら、この内容を精査しつつ、いかにして自分に得のみがあり、相手に報復可能か、最大限の知恵を使って合理的に思案するがいい。その計画通りに因果応報を実行せよ。長期戦の場合、相手が不徳で自滅することも多く、短期戦だけで解決する必要はない。長期戦についていえば、歴史をかえりみれば千年以上の時を経て復讐が完遂するといった例はざらにある。この意味で、道徳法則は自然法則と同じく不動のものである。地誌や民族史がどの様に変遷しているかつぶさに観察した者は、業を悟り、自ら徹底的に修身し、悪事を一切行わず、他者に善行のみをせよ。