2018年2月9日

普通さと天才について

凡庸さは卓越した才能がない人々が結果的に追い詰められた生の墓場であり、それら凡愚が拠り所とする自称普通や自称みんなという仮想概念はいずれも実在しない。もし人類全体の中央値や平均値をとれば彼らと似ても似つかず、身近な人々のそれらをとったなら単なる自己中心性という醜い偏見の塊が残る。いずれにせよ凡愚さ、自称普通さの理想視とは傑出した天才や、努力の才能、決断力のなかった己の遺伝的環境的失敗への苦しい言い訳にすぎず、見苦しい自己弁護の為にとるにたらない存在に育ててしまった自分への最大限の合理化に違いない。いいかえれば、凡庸や普通を幸福と同一視して偶像化している人は、天才や努力家、優れた環境や幸運の持ち主へのねたみから目をそらす為に、わざと優柔不断や怠惰、遺伝的欠如、つまりおのれの無能をなかったことにしている。何らかの分野で普通より劣っている成果しか出せない人や生まれつき条件に欠けた人、向上の余地が失われた人にとって、並が憧れになるのだとしても、上等の人に劣ったままであれば置かれた苦々しい結果は似たようなものだ。結局、人生では傑出した才能のある個人が最もその意味で幸福なのであり、努力で後天的に向上する余地をも粘り強い努力や工夫で十分に満たす才能を含めて、無能な人々はその種の天才に多少あれ見習うべきなのだ。中庸が高徳なのは両極が悪徳になる場合だけであり、凡庸が優秀より劣る以上、あらゆる分野においてうまくやる人は必ずその種の天才に違いない。すなわち凡庸、凡愚、平凡、普通は、いずれも天才の反対概念であり、いかなるなりわいにあってもその人に固有の天才を発揮する人のみに幸福がみいだされる。
 衆愚の不機嫌や卑賎な鬱屈は、必ずや彼らに幸福がみいだされないという原因によっている。そして凡愚さとはおのれの適切な持ち場をみいだせない、という試行錯誤や自己探求、冒険、修行の欠落のゆえにそうなのだ。天才性が発揮されないとは、遺伝子が外界と好適な関係にないことを意味し、そうであるかぎり不快なままである。したがって、凡愚、平凡、普通などのまやかしを自己否定し、自分自身の天才、才能が一体どこにあるのかをみいだすようあらゆる試行錯誤を重ねながら、なおかつ、その才がおのれの身体をとりまく外界と最適化されるよう調整を怠らなかった人々こそ、おおのれの細胞に潜在的な能力を発揮させ、流れとしての幸福感、没頭の至福を味わう。
 比較の幸福を没頭の幸福と混同すべきではない。比較はおごりとねたみを生み、これらは競合感情だから、害他的になり易い。害他的幸福は他者からの制裁により制限される。客観的比較に役立つ意味があるのは、才能のありかをより素早く効率的にみいだす誘因としてである。自己の才を練磨し、競合性が目的にならぬよう適正に自己制御した人達が、利他的な比較幸福を没頭に一致させる。