自由にものを書ける、ということは、一つの長所とおもう。そこにいたるまではかなりの試行錯誤が必要の様でもあった。
自分のばあいは、絵がほかの人よりできる様な感じがあったしなにかがそこにあって、自分が追求していけばいつかもっと重要な事ができるという直感があった。いつもラジオ講義とかでいってるけど、特にたしか第二講義にある『高校の話』ってやつでいったけど、高校の最初の美術の授業で僕はその様に感じた。
手のデッサンをしていた。それで自分はもっとできるという感覚があるのだが、授業時間はあっという間におわってしまう。
そのとき中学のときからやってたテニスの部活動、中学のときは軟式だったが高校で硬式にしてみたけど、こちらは飯塚君に試合で一対一で負けた事もあるが、普通にやってても一番上にいけなそうな感じがあった。飯塚君は中学のときも全国インターハイだかなんだか出てた気がする。要するに実力者だったのでその後も普通に全国大会レベルだった気がするが自分は、小学校からおなじな小田君と中学の頃からペアでやっていたが県大会は出た様なでなかった様な気がしなくもないが、どうもただ普通にやってても一番上とかに行けない感じがあった。先輩のまねしてドライブかけて打ってたのもあるかもしれないが。飯塚君もそれを打ち返しづらいみたいにいっていたので、ドライブが常に強いかと思えばそうでもない。
今にして思えばあれ変化球みたいなものなので、デフォルトでカーブだのフォークを連発するのではなくて、必殺技みたいに使うべきだったんだなと思う。誰も教えてくれなかったので変化球を多く使いすぎた。
まぁそれはそれとして自分はテニスはみきって自分で美術部にいったのだが、その時の経緯はラジオで言ったのでここでは省く。以後は今まで絵を描いててまだ全然できる感じがあるし日々進歩しているから、あの直感そのものは、正しかったとみる。
姉が美大だったのでついていって大学といえば美大なんだろうに、みたいな風におもっていたのもあるかもしれないが、そっちにいこうとしたら落とされたので、以後は独学にきりかえて今までやってきた。これも今にして振り返れば、自分はそういう判断がやたら早いという特徴があるのだけど、正解だった様な気もする。浪人1年目で美大藝大(正式には東京藝術大学は「藝大」だが以下、略記で芸大)の偽位階をみぬいてその外に出て戦うという選択をしたのは、姉が買ってもらったファミコンや自分が買ってもらったスーパーファミコンやプレイステーションなどのテレビゲームで『ドラゴンクエスト』シリーズをそれまで大抵やっていたので、RPG的反応だった気がする。ゲームやっていなかったとみられる田中君はそういう反応ではなかった。親が買ってくれなかった様な風に言ってた様にみえた。とにかく目の前に明らかな悪がいるのに、そちら側に入るか? という選択肢をだされ、正義をとらず、ぐずぐずと入るか入らないか曖昧なままでどっちかといえば入る様な動きになる、というのは、勇者的動きではないとみる。実際あのとき僕は田中君と議論していたとおもう。18才のとき。
前このブログの『18歳の自伝』で一部書いたが、最後まで書けていない。まだ最後まで書き通せる自信がない。私小説にした方がまだましかもしれない。こわい人生の一部を直接見直すというのは、かなり自我をほじくり出すみたいな感じでよくない気がするので、三人称か自分っぽい主人公に寄託すれば書けるのかもしれない。
特に田中氏については、彼のおじいちゃんとの関係があるはずで問題はもっと複雑におもうし、向こうの物語と被っていた瞬間だったのではないか。その後、彼はおじいちゃんとの関係を「呪い」だと表現していた。高校から一緒だった小野君がそう田中が言ってたのを聴いたと言ってた様に思う。
それで自分は田中氏に勇者行動をするといわば宣言したのだが、田中君はそれに男泣きみたいなことをして、あの保谷の蕎麦屋で。季節的に冬のおわりで今頃だった気がするが、鍋焼きうどん食べながら話していたのだが。確か村上春樹がどこかで、というか読者とのやりとりで落ち込んだらそれを食べると書いていたので個人的に踏襲したつもりだった気がするが。田中氏と会話しながら、自分としては美大芸大受験はやめる、といったとおもうのだが、それより前から多かれ少なかれ、自分はおもに美大芸大構造の欺瞞をみぬいており、田中氏も学力高い派だとおもうからそれに理解は示していた気がする。ただ、18歳にとってはそれらの汚い構造は余りに複雑すぎたので、完璧に細部までよみとれきっていたわけではないにしても、自分は特有の直感なり直知で本質はみぬけていた。
実際あたっていたのだ。それは。
だからこういえるだろうね。さっさとぬけだすべきだったのだと。実はちくわさんという芸大でた人とのち会話しててもそう感じた。端的にいうと芸大でたところで別に絵がかけてなければ意味がない。そして芸大にいくということといい絵がかけるということには直接の関係はない。
大体がフェノロサが『美術真説』でその様に既に言っていたのに、岡倉天心が学園主義を導入してしまい今に至る。学園主義との戦いを軸に展開していたパリ様式の面々はたしかに、かなり強かった。米国人のフェノロサはその後に出てきたのだから、いまさら西洋の古典模倣式をまねなくても、とおもったのだろうとおもう。フランスの官学芸大元祖エコール・デ・ボザールが全ての原因ともいえるが、いまだに機能していて今は少しは古典主義のあたま堅さが緩和されて、卒業生の日系人の絵をみたことがあるが、ボナールぽかった。もしくはマティス(ボザール卒の守山友一朗氏の個展「Étoiles et Brise - 星とそよ風 -」に展示された2014年の絵『Salle de portraits』の画像)。ということはパリ様式時代の非学園主義者の系譜も、今となっては古典の範囲に少しは入っているのかもしれない。そんな風に後進的な教えをしてしまうことになる。共通認識がもてるのはすでに過去のものになった様式だからだ。一般に。
もとのはなしにもどると、絵が自由にかけるということは自分はまだ完全にはできていないというか、いわば描画体(かくがわの画材。検索してみたらでてこないから僕の美術用語なのかも)にひっぱられて、完全にかきたいものがかけていないという感じが激しくあるのだが、文についてはそういうことはまずなくなった。
最近はソフトあるいはアプリケーションでかいてるのだが、そのソフト固有のくせがあるので、それにひっぱられて自分のイメージの様なものとかを完全に直接あらわせない。だから絵のほうが、文より間に挟まってるものが多くて、難しい気がする。
それはそれとして。
Xはやはり一種の地獄だとおもう。いや、正確にはこの世がなのかもしれない。すくなくとも日本という国は自分にはそうだ。そこに生きている人々にはろくなのがいない。これが事実。そして何度も嫌がらせといおうか、犯罪をしかけてくる。デフォルトで。それだからなにをしてもひたすら被害にあう、それだけがつづく。ひたすらひたすら。それが40年の経験のほとんどすべてなので、今後も同じだけ未来にひきのばしても同じ事がつづくのだろうとおもう。でも、その様な現象の実態が今では大分理解できる様になった。たとえばIQやEQの落差が生まれつきあったらどうだろう。まわりはすべて俗悪な感じで、ひどいひとでなしばかりにみえるのではないか。大体これらが、更なる品位などと重なっていたら余計その様に不快な経験だらけになる。しかも自分のばあいは高度に繊細な人だったとおもわれる。だから酷い経験ばかりだと感じても当然とおもわれる。
或る意味では上等で上品に生まれていたら、もはやこの世の経験が地獄と感じても仕方ないのではないか。自分はその様な分類に少なからずあてはまっていた。それだったらしぬまで、この世では地獄めぐりをしている様な感じを受ける。或る種の試練といおうか、受難の連続ということになるだろう。釈迦だってその様に感じていたのではないか。
釈迦ことガウタマ・シッダールタはその様なノリを解脱によって解決しようとしたのだろうが、要するに全て諦めて乞食しながら勉強してればいい、という説だ。当人の前半生は普通に子供をうんでたのにそれすら否定していた。こどもにとってはたまったものではない。釈迦は神格化されるきらいがあるが、現実の足跡をたどるかぎり、不良の改心といったおもむきがあり、少なくとも僕よりはろくな人生辿ってない気がする。いや、たしかにそうだ。僕のほうがまだ美徳に従って生きてきていると思う。後世だから諸々の学問の条件がより有利ともいえて当然ともおもえるが、つまり、僕が直接釈迦と会ったら、僕には彼は俗人にみえたのかもしれない。実際かれが国や妻子を捨てて逃げたということにも、ろくでなしさがある。もっとちゃんと世話すべきだったと思う。
本題として書くが、要は人は人生でなにごとかをするわけだがその究極目的にかなう様にやるのが重要とおもう。自分としては、その目的が総合哲学だ、或いはそのうちの目的論だというのが今のところの結論だけども、或る意味では矛盾してるのかもしれない。目的について考えることが目的だというのは同語反復ではないか。ということは、純粋に哲学的にいって、目的自体にかなうおこないが別にあるのではないか。アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のなかで、目的を弁えた上でその上に立ったおこないの方がより望ましいだろうが、などと書いていた気がするが、
知恵の友愛(哲学)はその純粋さと安定さの点で驚くに足る快楽を含んでいると考えられる。が、知恵を求める営みより既に認知をもつ人のその上に立った営みの方が一層快適なのが当然であろう。と実際にかいてあったけども、つまるところ、目的論の上の段階がある、といいたいのではないか。孔子が従心といったのはその境地なのではなかったか。
――アリストテレス
『ニコマコス倫理学』10巻7章