天皇制のもとで一党支配をめざす和人好みの政体
平成・令和の和人(日本人、倭人)は一般に、二大政党や多党支配を「悪」「不正」「失敗」と見なしている。代わりに、彼らは一党支配(一党独裁)を「善」「正義」「成功」と見なす。
彼ら和人一般はこの意味で、紛れなく一党結束主義者である。彼らは仮に或る支配政党が公害や不正を犯していても、実際に支配政党が善政をしていた時と同様、政権交代などの定期的慣行を嫌悪し、特定与党の支持者をやめようとしないからだ。
平成・令和初期の和人一般は、自民党という戦後できた一政党を、事実上、狂信している。
「野党はだらしない」「パヨク」(「左翼」をからかう意味のネット俗語)などの表現で、和人一般は自民党とその補佐役である公明党以外の全政党らを、悪意(害意か事情通)から導いた確証偏見でひたすら陥れたがる。
これを和人の自民狂信主義と呼ぶ。例えば種族・民族主義の傾向を持つ極右政党、日本第一党首・桜井誠氏が、「自民狂信者」という表現で非難しているのは、この和人の自民狂信主義である。
ところで、地球中の国々をみて、また各国の政党史や、日本史自体をみて、一党支配が公然と行われている国は少数派である。また先進国では日本以外ない。例えば共産党一党支配の中国、朝鮮労働党一党支配の北朝鮮、統一ロシア一党支配のロシア議会などがこの一党支配をとっていると考えていいだろう。和人の自民狂信ぶりは、実際的に、近隣諸国で中国や北朝鮮、ロシアと類似の一党支配観念論をもっている為に生じている。
和人の政体には、特に関西圏に於いて飛鳥時代以後、天皇制という要素があり、天皇家という世襲の皇帝兼教祖の家系が、事実上の専制状態で君臨する。天皇家は各法で定める刑罰以外は努力義務にすぎない憲法の建前とは別に、頻繁に彼らが持つ実質的な全権(行政権、司法権、立法権その他全ての権利)を駆使し各種政治判断をおこなうが、それらが公害を起こした場合でも、君主無答責で政治的・倫理的責任は無視される。これは天皇が国政の権能をもたないとされている日本国憲法でも同様で、前例のない退位法を動画メッセージをだし議会へ有無を言わさず立法させた事は国際ニュースとも成り、かなり広く知られた。日帝憲法での絶対君主としての定義同様に天皇大権の行使の一例だったが、その合憲性はいまだ問われた事がない。したがって第二次大戦前・戦後を問わず天皇家は、現時点でも名実とも専制君主であり、否定的に評価すれば世襲独裁者(世襲僭主)の一族といっていい。
和人が一党寡頭政治(一党支配が国民全体の公益より党の私利をはかり堕落した形)をとるのは通例、天皇制のもとで、である。首都圏(関東と山梨)では平安・鎌倉期以来、伝統的に政治力次第で交代できる将軍が専制する武家政治がおこなわれていたが、この体制は明治期に、少なくとも原則的に交代不可な世襲君主兼教祖・天皇による専制政治である天皇制へ置き換えられた。天皇が将軍と違って、公徳の有無で交代できないと一般に考えられまた憲法に定められてもいるのは、皇帝を放伐する事が一般的な中国史との対比で、易姓革命を否定する水戸学が、近代天皇制の理念を基礎づけているからである*1。また和人一般は殊にその明治保守派(薩長閥の流れをくむ、安倍晋三氏や麻生太郎氏ら現・自民党閥の中核)のあいだで天皇制なしに政治をおこないえると信じておらず、天皇家とその親族(皇族)および彼らの男系先祖を神格化する神道という民族宗教に洗脳された状態にある。
和人の政体の一般的目的は、こうして、天皇制のもとでの一党支配である。自民党支配は、この類型に合致しているがゆえに、たとえ寡頭政治的であっても、和人の間で通常評判が高いのだ。
和人の善悪二元論による確証偏見まみれの漫画的主観史観と、それと対照的な客観史学による水戸学の温故知新
和人の政体では、政権交代が悪だとみなされる。この理由は、脳内セロトニン・トランスポーター受容体の生得的不足によって不安を感じやすい遺伝子をもっている和人一般にとって、将来に見通しの立ちづらい不安材料となるからだと思われる。
例えば幕末・水戸藩の二大政党制を和人は一般に、実際に正確な見通しが立たない状況下でどちらに転んでもどちらかが成功する変化適応性があり、天皇家と徳川宗家のいづれが直近の権力闘争に勝っても政権交代可能な合理的状態だった、と肯定評価しようとしない。現実の水戸藩は明治維新と呼ばれる幕末政変の政権交代を挟んで徳川宗家・天皇家どちらとも革新・保守派に分かれ最も巧くやったといえるのに、和人一般はここでも上記でみてきたよう一党結束主義をとり、一政党のみが支配し続けていた状態に比べ、混乱に満ちた愚かで劣った状態だった、と無理にでも否定評価を下す為の確証偏見を、殆ど確実といってもいいほど集めがちになる。
源平合戦が長らく続いていた以上、嘗ての武家階級は二大政党制に慣れていた筈なのに、恐らく近代政党政治の未熟さの為に、彼ら和人一般の中では、一党支配以外の体制がより望ましい状況をもたらす場合が元々、想定されていない。このため過去にさかのぼっても、一党結束主義の観念論と合致した状態を片寄って好評し、それ以外の政党制をとっていた場合を悪評したがるのだろう。
したがって和人のなかで、二大政党制をとるアメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、オーストラリアなどの国々、あるいは多党制をとるフランス、イタリア、インド、ブラジルなどの国々は劣った状態と評価されるはずだが、ここではG8や旧連合国といった経済的または軍事的強さに応じて、どういうわけか二大政党制や多党制の方を高く評価する場面がしばしばある。この矛盾はどう考えればいいのだろうか。
和人がここで採用している政党制度論として論理的に一貫しない思考は、結局、和人の政体の目的が「覇権的な経済力」またはそれをおおかれすくなかれ伴う「軍事的強さ」にあり(これらの合力を和人は「国力」とまとめていう事がある。小学館『デジタル大辞泉』「国力」の解説)、政党制自体はその為の手段だ、と考えられている事を意味している。幕末水戸藩の政体と、米英独ら最低でも現代欧米諸国の位置づけが、おのおのおもに二大政党制をとる政党制の点で共通しているにもかかわらず、和人一般のなかでは、経済的・軍事的優越圏と見なされる側の政党制が、制度自体の合理性を無視して、より正しいもの、と考えられている。
幕末水戸藩は徳川家を保守する諸生党らと共にその支配下でありつつ天狗党・本圀寺党らが結局、皇軍(西軍、新政府軍)に属し政権交代を図ったという、江戸幕府(徳川宗家の政体)・明治政府(天皇家の政体)にとって勝敗どちら側でもなく又どちら側でも同時に有る歴史を持つ為に、上述の天皇制一党結束主義の単純思考回路により、過去の政党制の理非を全善か全悪か両極のみで見ようとする和人一般にとって、絶対優越圏とみなすのに逡巡する対象となる。なぜなら同藩出身の香川敬三が東山道軍総督府大軍監や皇后宮大夫・皇太后宮大夫などで新政府の一員となったのは事実でありつつ同藩の排出した慶喜が日本史上最後の将軍でもあったからである。西軍にとっては、徳川政府を「悪」「失敗」などの否定的価値づけあるいは「弱者」などと武力で貶めたがる潜在的・顕在的動機づけがおおかれすくなかれ存在する為に、徳川家の統治権であった水戸藩を、第一次・第二次大戦で戦勝した米英の制度と同じく優れていた、と考え直すには、西軍中心主義的な確証偏見を自己否定せねばならないため、知的・政治史学的・倫理哲学的負荷がかかるのだろう。つまり西日本人一般は薩長土肥ら西軍を完全善、それと対立した勢力を完全悪と単純化した二元論に耽り、幕末史の検証を怠りながら民族的な自己愛のもとで西軍至上主義に耽る目的で、大津浜事件翌年、会沢安『新論』で「国体」と呼ぶ天皇のもとの統一政体構想を出した維新の起点で、また慶喜が大政奉還・無血開城でそれを完成させた水戸藩の人々を、徳川宗家(将軍家)と同じ徳川家勢力の一部とみなして、まるごと否定的に価値づけたがるのである。
和人一般は、この件にかぎらず、その一般知能水準から歴史的政治学理解に於ける複雑さについて、強弱またはそれとくみあわせた善悪二元論の単純化した図式を超えて、精確に事柄の諸相を認識する手間を回避するために、多元論的構図の理解を、はじめから拒絶しがちである。和人一般は、おそらく彼らの日常に膾炙している善悪の戦いを描く漫画・アニメなどの影響で、歴史観に関して無理に単純化し、恣意的な主観で色づけした善と悪の対立――そしてまた西日本の人々一般にかぎっては、西日本で勝者と見なされた者を後づけで完全善とみなしたがる「勝てば官軍主義」(弱肉強食主義)の図式へ無理に政治家をあてはめたがる、二元論的思考類型をもつ。和人一般のうち特に西日本側で天皇家が一般に、あるいはたとえば木戸孝允が手紙で「玉」扱い、あるいは伊藤博文がベルツの前で語った「操り人形」扱いの形だけでも持ちあげられているとすれば、単に下剋上的に政争を勝ち上がった者を後から正義とみなしたがる、西和人特有の、見方によっては単なる野蛮でしかない思考類型に合致しているからなのである。
西和人一般にとって、幕末水戸藩史は、西和人史なるものにとってなじみ深い弱肉強食主義の思考類型にうまく合致しない例である。このため、幕末政変に際し、初めから最後の頃まで政権与党だった保守派(右派、諸生党。尊王佐幕派)が、最終段階では敗れて全滅したにもかかわらず、或いは結局明治政府に加わり勝利した急進左派(天狗党。尊攘急進派)がはじめ関東・中部各藩政や江戸幕政から攻撃を受け、大部分が処刑されるなどその被害は甚大だったにもかかわらず、西和人一般は勝敗を善悪で片付けられないこれらの事例をみて、混乱し、また対立する正義間の政争としての現実政治の現場に理解を深めようともせず、大同小異の正義論を巡って生じた勝敗、いづれもまとめて失敗だったとみなそうと、全方位で道理の立たない評価に終始してしまうのである。
この様な西日本の政治にまつわる一般慣習が辿り着くのは、遂には手段を択ばぬ暴力団長が最高権威だと、単なる暴力至上主義に違いない。そして幕末西軍のちの日帝軍が戊辰・西南・日清・日露など手段を択ばぬ武力侵略をくり返していた時期のありようと、米軍とを、およそ等しく彼ら西和人一般が好評するのは、純粋に暴力の強さを評価しているにすぎないのだ。また逆に西和人一般が昭和前期の日帝軍を途端に悪評しがちなのは、単に太平洋戦争に負けたから辱めているに過ぎない。
大阪人の小説家・司馬遼太郎がこの様な、野蛮で稚拙な、主観的嘘の史観を彼の歴史小説――例えば幕末のとある死の商人・坂本龍馬を、実在しない「船中八策」で新政府の根本原理をことごとく構想し徳川慶喜へ大政奉還をもちかけた天才思想家だったと明らかに幼稚な嘘をついたり、現実には殆ど関わっていない薩長同盟なる反政府同盟軍を友情目的に実現させたなど、西軍を美化し徳川政府を無理に陥れる目的で虚偽ないまぜの印象操作を用い徹底的に美化した『おーい! 竜馬』など――で流布した事実は、日本国内では広く知られている。また遼太郎は幕末西軍による放火など各恐怖主義活動、東日本・新潟への単なる侵略主義的内乱行動や、小御所会議以後の事実上の軍事クーデターなど、明らかな蛮行について、さもことごとく美事かのよう好評しつつ、逆に敗戦時の日帝軍を殊更悪く言う。その根底にある動機づけは、勝てば官軍主義、すなわち弱肉強食の正当化であり、端的にいえば韓愈のいう「禽獣」の世界に生きており、文明の名に値しない性向と言って然るべきなのである。すなわち西和人一般は幕末西軍や米軍に対する無批判な態度、その逆に徳川家や御三家・水戸藩への凄まじいばかりの悪意あるぬれぎぬと名誉の辱め、そして事実をごまかして言論弾圧したり、衆愚な暴徒集団による嘘で上書きしたりする悪質極まる誹謗中傷の山をみるかぎり、手段を択ばぬ暴力至上主義そのもので、殺したり辱めたり暴力を振るってだまらせたりした敗者を、相手が聖なる人格であったり何の罪もないばかりか極めて善意に満ちた英傑であったとしても、ただの凡庸な一般人であれ、どんな手を使っても罵る、純然たる野蛮さをさも自明のことで、しかも立派な正義かのよう信じている人達なのである。死後の遼太郎だけでなく、この様な類型に該当する現代人らは、例えば史書の体裁で幕末攘夷派という徳川中央政府側の国防警察・自衛隊権力をテロリスト扱いする関良基、「愛国カルト」と表現し愛国主義の一起源とみなした烈公の思想を関良基や小島毅らの論説を否定的文脈で引きながら「問題があった」と評するユーチューバーのじゅんちゃん、何でも驚くほどひねくれた事実誤認で悪解釈しながら手段を択ばず御三家・水戸藩の全事象を意地悪(イケズ)に中傷する京都出身の小説家・原田伊織、正史(紀伝体の史書)である『大日本史』をわざと偽史と正反対に評して貶めたり神道研究を含む水戸学を悪意を込めて尊王カルトと呼んだりし彼独特の反天主義(反天皇・反皇室主義)あるいは無政府主義(反徳川政府主義)で立論しているというべきやはり京都出身の池田信夫らなどがあてはまる。彼らは何を間違ったか、薩長両藩と水戸藩を並べ、総じて植民地化の危機に際し太平の眠りを覚まし列島統一の護国専守防衛体制へきりかえる幕政改革を求めた尊王佐幕派であったところの水戸藩を、それとは別に、攘夷戦争をおこないながらそれが失敗すると倒幕派となって侵略恐怖主義クーデター集団を形成し西軍主力部隊となった薩長両藩とを、単に戦国期の生き残りである武士達が何らかの政治上の理由――水戸藩側では和宮の望まない強制政略婚を主導した老中の手から防ごうと皇族の尊厳を護持したり、国土へ政府に無断侵入している国交を持たない国々に対し自主的に国防警ら活動をしたり、皇族・公家・武家・町人らへ冤罪を含め思想弾圧を目的に死刑を含む大粛清をおこなっていた大老の恐怖主義政治をほかの手段がないおいつめられた段階の最終手段で止めるのが理由で目的。薩摩藩側では大名行列を横切った外国人を無礼なため殺傷したところ謝罪を要求されたので攘夷戦争したり、関東で内乱を起こし徳川家間に疑心暗鬼を生じさせるのを目的に戊午密勅を西郷隆盛が公卿に書かせ薩摩藩士・有村次左衛門を薩摩藩が京都へ出兵するとの約束を桜田烈士を裏切って反故にするにあたって騙した陰謀が漏れるのを防いで暗殺したり、会津藩と組んで長州藩を攻撃し自藩の利益のため政局に乗ったり、薩長同盟を組んで徳川家を裏切り慶喜への冤罪をかばった会津藩・桑名藩や奥羽越列同盟軍と蝦夷共和国側を武力侵害で無理にでもいうことをきかせたり、琉球王国を略奪する為に尚王を強奪したり、明治政府側が朝鮮侵略より内治の急を唱えたので離脱して西郷主体の政権を鹿児島に造ろうとするも明治政府に軍を送られたので反撃したのが目的。長州藩は吉田松陰が尊攘主義と対立する開国派の老中・間部詮勝を暗殺しようとしたり、蛤御門で御所を警備していた会津藩側と小競り合いになったので発砲し京都の町を数万件焼いたり、天皇家が長州藩をいうことをきかない蛤御門荒らしとみなし将軍に征討するよう命じたので皇軍(将軍側)と2度の戦を展開したり、前将軍の徳川慶喜不在のまま陰険に開かれた小御所会議で土佐藩主や越前藩主が卑怯だからやめろといってるのに岩倉具視と薩摩藩が組んで辞官納地(地位・財産の強奪)を突然命じそれに応じた慶喜を御所へ呼びつけると近侍だった会津藩らへ薩摩藩らが発砲して生じた戊辰戦争で長州藩は西軍に与し東日本・新潟・北海道を侵略し会津では一般民衆まで惨く虐殺したり、明治政府へ反抗してきた西郷隆盛ら薩摩藩を西南戦争でやっつけたり、松陰の侵略主義が背後にあってもと長州藩士の日帝公使・三浦梧楼が朝鮮皇后・閔妃を暗殺するともと同藩士で初代総理の伊藤博文が朝鮮へ日帝政府の名で侵略・併合したりが理由と目的――で様々な目的・動機で異なる文脈の実力行使をする場面がみられたというだけで、西和人一般あるいはその一部が内容や文脈の違いを問わず、それらを粗雑にまとめて政治哲学的に「恐怖主義で悪」と定義し全否定、または、日帝・日本政府が教科書史観で典型的におこなうがごとく薩長両藩だけを勝者側にみたて全肯定し水戸藩だけを敗者側にみたて全否定にかかろうとする粗雑な歴史認識しかもっていないのは、単に悪意(水戸藩や薩長両藩への害意や、事情を知っての不正なおこない)があるだけでなく、現場の自国の歴史に余りに不勉強なだけに、まこと恥ずべき事だろう。西和人一般は
薩摩藩で西郷隆盛・大久保利通らの郷党が一党寡頭政治をしていた為に、のち西南戦争で西郷が自刃し郷党ごと明治政府に強制解体された史実、あるいは長州藩で極左恐怖主義政党だった奇兵隊から藩庁・藩政が実力行使でのっとられ、明治政府の初代総理となった立憲政友会党首・伊藤博文も事実上の侵略である朝鮮併合で朝鮮側の義士・安重根に暗殺された現実があり、かつ、薩摩・長州いづれでも反対派により士族反乱(西南戦争、萩の乱)がおきた歴史をも、すなわち一党支配の寡頭制が日本史上でも深刻な矛盾、失敗と考えられる歴史を抱えている史実上の証拠が有るにもかかわらず、善悪二元論にあてはめやすい単なる薩長史観――薩摩国と長門・周防国の幕末史を完全善か完全悪どちらかに定めて見なす確証偏見――で、和人一般なるものは何もかもを漫画的善悪二元論の戦いという恣意的かつしばしば馬を指して鹿となす幼稚かつ悪質な嘘つき構図で上書きしようとする。水戸藩はこの例では、対立する政党間に共通の大義とそれを達するため各々異なる道を行こうとする手段的正義(大義と方途)があり大同小異のなかで幕末政変に対処していたというべきである。しかも結果として巨視的には諸生党(保守派)から天狗党(革新派)への政権交代で、徳川政府側の主要勢力として明治維新全体を主体的に展開させていった事実がある為に、一党寡頭主義の善悪二元論では必ずしも楽に語りえない実例を持っている。この為、漫画や歴史小説の読みすぎで全か無かの単純思考をしたがる和人一般なるものは、いなそれ以前に特定の解消偏見で自己中心になのか、基礎的な道徳判断力がないのかで、善を悪とみなし、悪を善とみなしたがる単なる愚者は、現実の水戸藩史についてろくに研究も知ろうとすらしないまま軽率に誤解・誤読をして、あるいは各々の悪意で当人が性悪ならことさら悪く言い、逆に、名政府樹立後の西軍至上主義者または戦後の徳川宗家側江戸幕府至上主義者(いいかえれば御三家水戸藩卑しめ主義者)といった偏見歴史絶対主義者にすぎない近現代の西和人一般には殆どみられないことであるが当人が性善ならとにかく善く言うといった、単なる自己の主観の投影に終始している始末なのである。ここにみられるのは和人一般は、共通部分と異なる部分をもつ人々がさまざまに輻輳する、複雑な劇的対象を、緻密に分析する能力が著しく欠けている、という、何もかもを余りに単純化し事実・真相と大いに違和する、勝てば官軍・漫画的善悪二元論に落とし込んでみないと理解できない、史学的知性なるものの抜本的欠如である。
和人一般は、現実の政界がとある人物が信じる正義と共に善悪や強弱が甚だ入り乱れている場にもかかわらず、それとは異なる空想の二元論の枠組みのなかで、勝った側をあとづけで善、負けた側をあとづけで悪とみなす「弱肉強食主義」、又はその逆に、負けた側をあとづけで善、勝った側をあとづけで悪とみなす「判官びいき主義」、いづれかの強弱二元論へと歴史を書き換えたがる、小説史観しか今以て持てないでいるのだ。
この典型例が、既に挙げた司馬史観と呼ばれる小説家・司馬遼太郎が作り話で語った嘘だらけの偽史・稗史の類とその信者の姿である。そしてその様な態度を和人一般はみずから決して疑おうとはしない。当時の自分自身の信念に合致するものに固執し、当時の中央政府が勝者の立場から流布した史観をうのみにし、又は特定の歴史小説家が語る嘘を、事実や真実から無理にでも切り離そうとする。義公『大日本史』は江戸時代の中央政府・江戸幕府が発布したのとは異なって、御三家水戸藩・常陸国を知行地とする中納言の手になるものであったがため、京都出身の池田信夫の如く、和人一般はこれを殊更読解する事もなく、中央政府中華思想の華夷秩序に立脚して、無理やりにでも陥れようとするのである。しかしこの正史(特定の紀伝体)形式の史書が『日本書紀』以来、最もよく書かれた正史なのは確かだったために、明治天皇はこの完成・献上を期に水戸の徳川家を侯爵位から公爵位へと陛爵しているゆえ、西和人一般と違って皇室自身が、『大日本史』の史学を正統なものと公認してきたのは事実なのである。すなわち西和人一般は、歴史小説など(稗史9に寄託した自分達の信じたがる西軍中心主義の郷土史の方が、『日本書紀』から『大日本史』へ至る皇国史観より正統性を帯びていると信じたいがため、水戸藩の学者らが研究した天皇政治に関する史観を水戸藩まるごと何とか陥れ、否定しようとしているが、それは間接的に西和人一般、殊に関西和人の豪族の長であった天皇家をも辱める事になるのに、ついぞ気づかないのだ。ある意味で、自分で自分達の豪族の長の首を絞めているのだから、西和人一般は、結局、天皇家をでくとしているにすぎず、水戸藩や水戸学派と違って、幕末から令和までの全時代を通じても尊王の精神など少しももちあわせていなかったのだ、と今になっても自己証明しているにすぎない紛れない事実が、水戸藩やその藩士、藩主、水戸学・水戸学派への手段を択ばぬ卑劣としかいえない辱めの数々なのが確かなのである。西日本の一体どこに、尊王心を持っている者がいるのだろう。いうまでもないが、水戸藩をみずからの小説のなかで遅れている呼ばわりせた司馬遼太郎であるはずもない。もし一人でも尊王心の持ち主が西日本のどこかにいるとすれば、その人が尊王の大義のために将軍家をやめ江戸城を含む地位や財産をことごとくゆずってまで自己犠牲を図った水戸藩や今も残る水戸徳川家の主と水戸学者・志士、その藩士らを、一体全体、どんな悪意と悪行で辱め貶められたか、その道徳心や道義の皆無さは呆れかえるどころか慙愧の念にたえないほどなのである。西和人一般に尊王心どころか道徳心が全く欠けているというのが事実であれば、その様な人達の集団が、日本国のなかに参加したり、文明国の顔をして先進国と称するのは、全く不条理ではないだろうか。私は尊王主義者ではない。しかし水戸藩の人々を不当に貶めてくる人間達に全力で反撃しなければならないだけの理由はあるというべきだ。私の先祖は当の藩で生きていたからだし、現にその旧領内で産まれて生きていて、その際、少なくとも幕末に当時の公務員だった侍らがどんな行動をどんな動機でしていたかもおおよそ知悉しているので、余りに日帝・日本国ならびに特に西日本側で、この藩の人々へ、100%悪意しかないぬれぎぬや名誉毀損や悪口や蛮行をしてくる極悪人達については、全員文明の裁断の場でひとりのこらず全力で訴え抜くだけの道徳的義務があるからなのだ。そしてそれはこの世代に限った事ではなく、未来永劫行われ続けねばならない事である。冤罪とは必ず晴らされねばならない大悪業であり、実際には戊午密勅の策動は徳川家間の親族争いを誘発し関東内乱を狙った西郷隆盛が公卿に働きかけてできあがったものなのにそれを水戸藩によるものとぬれぎぬした安政大獄での井伊直弼の尊攘派と見なした者への冤罪による大量粛清の数々や、同じく、『昔夢会筆記』『徳川慶喜公伝』慶喜公自身が尊王の大義のためまた幕政をやめて家康が開いた幕府を自分が葬る覚悟で大政奉還・大阪城退却・江戸無血開城をしたと正直に述べているにもかかわらず、山内容堂が『丁卯日記』『岩倉公実記』に記録されている通り、岩倉具視や大原重徳らがひたすら慶喜の大政奉還を悪意で悪解釈しへぬれぎぬをきせ陥れ地位・財産を奪おうとする政権簒奪目的の浅ましく卑しく陰険きわまりない恨みごとの目的で、小御所会議での岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、島津茂久、浅野長勲らがおこなった慶喜への冤罪など、その悪業が明らかな場面は後世へ必ず伝え続けなければ、純然たる悪意しかない悪人達が誤って善人で正義の徒かの如く史書に小説が記述されてしまい馬と鹿を、天使と悪魔とを取り違える事態になる為に、私も真実を『徳川慶喜公伝』『昔夢会筆記』で確かに究明し後世へ伝える事に成功した渋沢栄一らと共に、いかなる妥協もない厳密な実証により、考証史学を任とした水戸藩の立場と同じ眼差しから、西和人一般が大阪人・司馬遼太郎、京都人・原田伊織、奈良人・じゅんちゃんらと同じ陰険な姿勢を用いて日常的に行う、単なる軽佻浮薄な虚偽や、道徳を軽侮し人の善意善行を卑しめ悪行に媚売る物の哀れと抜かす浅はかな人間観、悪意からきたぬれぎぬの虚構は、一つの例外も無くことごとく打破していく義務の必要が絶対にある。
ほか、薩長史観と呼ばれるのは、薩摩藩・長州藩を幕末政変の勝者側とみなし、薩長両藩のあらゆるおこないについて、強者とみなした薩摩藩・長州藩士らがさも善や正義を兼ねていた無謬の英雄的立場であったかのごとく、薩長両藩に不都合な事実は隠したり各種の辞典から消させようと集団暴力で弾圧したり実際に黒塗りで強制消去させ、薩長両藩に都合の良い事実だけをことさら書き連ね、みずからの脳内で捏造した妄想の過去を現実の全事象にすりかえようとする、現実にあったのが政権簒奪クーデターによる前将軍への凄まじい冤罪(尊王の大義に殉じた人物を朝敵といいつくろう、想像しうるかぎり地上最悪のもの)を基にした日本人大量虐殺なので、圧倒的に負の意味で、典型的な歴史修正主義の一種である。そしてこの種の最悪の冤罪とそれにともなう無実の人々への集団虐殺の主導を御前会議であった小御所会議に於いて目の前で放置し、しかも自分が裁可を下した大悪業の大重罪は、明治天皇自身の手によっておこなわれたのが歴史上の事実なので(『丁卯日記』『岩倉公実記』『大久保利通日記』『徳川慶喜公伝』『浅野長勲自叙伝』)、天皇家が大犯罪者だったのは紛れなくこの世の真実なのである。しかし薩長史観はこの歴史上の事実、事の真実を何とか隠蔽しようと確実に小御所会議の事を、その記述内から除去しているのである。それというのは薩摩藩主・島津茂久と大久保利通、西郷隆盛らが岩倉具視や、大原重徳ら陰険な悪意で慶喜を議会から排除しようとした公卿・公家と組んで、なんら天皇家へ逆らっていなかったばかりか最初から最後まで至高の忠臣だった慶喜へさも朝敵であるかのごとくにぬれぎぬし、あるいはその冤罪に基づいて地位・財産を無理に奪おうと不正きわまりなく意味不明な地位・財産返上の命令をおこなわせたのが、そしてそれを明治天皇が目の前でみていて裁可までしたのが、今から155年前、1867年に京都の小御所で起きた事実なのである。すなわち天皇が悪業に手を貸したばかりか自分からぬれぎぬを着せる命令をして、徳川家に不当裁判で無理に罪を着せ地位と財産を奪おうとしたばかりか、その後、実際に慶喜が飽くまで母方の主家・天皇家の命令に余りに不当すぎる要求でありながらも応じて天皇家から御所に呼ばれていくと、薩摩藩や彦根藩の侍らが先供として向かった会津藩らの侍へ砲撃をして、薩摩藩らが戊辰戦争のきっかけを起こしたのが歴史上の事実なのである(『徳川慶喜公伝』)。すなわち天皇家はここで徳川家へぬれぎぬを着せて地位・財産を奪い、なおかつ自分側の兵隊から、不当に先制攻撃させた。したがってその様な過去の事実を、天皇家側とその狂信者側は、薩長両藩の狂信者と共に、なんとか必死になって隠そうとする。なぜなら天皇家がみずから主となって悪事をしたという事がばれてしまえば、天皇狂信者にとっては自分達の絶対無謬を前提にした正当性が崩れてしまうからだし、薩長狂信者にとっては、卑怯な手段で小御所会議の場で岩倉具視や大原重徳、大久保利通らが会議からのけ者にした慶喜へ慶喜自身の心や事実と異なるぬれぎぬと地位・財産の強奪を企て、しかも慶喜が余りに主家・天皇家への誠意があってそれに応じてしまったので先制攻撃で朝敵にしたてあげた、という大蛮行がばれてしまえば、薩長両藩が正義の最強軍隊だったといういわゆる薩長史観が根底から崩され、慶喜が尊王の水戸家でうまれそだち主家・天皇家に徹底した忠義を図ったいわゆる英君だった真実が、薩摩藩とそこと裏で同盟を組んでいた長州藩の、倒幕目的に武力クーデターを狙う悪玉としての像を浮かび上がらせてしまい、実に不都合となるからなのである。したがって「朝敵」という、慶喜について事実と正反対の言葉を西和人一般が、最低でも小御所会議1867年から令和3年2021年の今の今まで、一貫していまだに連発するのは、至上の尊王の義臣へ完全な悪意からぬれぎぬを着せる事が究極目的で、現実にはこの様な事実は小御所会議参加者の手になる日記、春嶽の家臣・中根雪江『丁卯日記』その他、各種一次史料で証明されているために、ねずまさしが『天皇家の歴史』で指摘するとおり、いくら岩倉側の『岩倉公実記』でさも「大政奉還は天皇家がおこなわせたものだ」と実際は『徳川慶喜公伝』のとおり慶喜側が主体となって「家康が開いた幕府を自分が葬る覚悟」でおこなわれたものなのに嘘で論理をすりかえて、虚構めかし伝えようとしたところで断然と覆い隠せない為に、今となってはその様な岩倉側の底抜けに卑劣なふるまいや、45歳の明治天皇が61歳の慶喜へ最高の公爵位を叙爵して、小御所会議以後にぬれぎぬを着せ地位・財産を奪い朝敵扱いで武力により脅迫して江戸城をのっとるまでした慶喜に事実上ゆるしを請うた事実まで明らかなので、戊辰戦争が小御所会議参加者と天皇家から慶喜への尊王心を疑って地位・財産を不当に奪おうとする冤罪と、それが不可能になっての薩摩藩側からの会津藩ら慶喜近侍への先制攻撃で生じたという事が歴史学上の動かしがたい真実であり、慶喜不在の小御所会議の席でも慶喜を同様の事実認識から堂々と庇っていた山内容堂や松平春嶽、尾張慶勝らがいたという事実もあるのに、一連の西日本勢(皇族・公卿・公家、薩摩藩、芸州藩ら)と西軍による慶喜へのぬれぎぬと戊辰戦争を先制攻撃から起こしての天皇家と西軍からの江戸城乗っ取りについて、純然たる悪意から何とか慶喜を「朝敵」か「臆病者、腰抜け」と名誉毀損罪で罵りどちらに転んでも悪玉視にしたてて岩倉や大久保ら西軍側の肩しかもってこなかった西日本人達一般は、これは会津藩ら戊辰侵略の被害者側を靖国合祀をさせようとせず祭りもしてこなかった全体の祭司たる資格を根本的に欠いた偽象徴、いつわりの祭りぬしというべき天皇家も含め、どれほど無罪の慶喜への敵意を込めてこれまで同様の陰惨な陰謀をくりかえそうと、もはや全世界の全人類の目に隠しとおせない大悪業をしているのが当の西日本人一般なのである。『丁卯日記』『岩倉公実記』『大久保利通日記』『浅野長勲自叙伝』など会議参加者らの手になる小御所会議関連一次史料および当時の出来事を徳川慶喜側からみた一次史料の『徳川慶喜公伝』『昔夢会筆記』等の関連史料読解と考証分析で、小御所会議で初めに大原重徳と大久保利通、岩倉具視、明治天皇らによっておこなわれた或いは『浅野長勲自叙伝』によれば武力での反対派脅迫をほのめかした西郷隆盛らによっておこなわれた、王政復古はじめの議会政治からの悪意ある陰険な慶喜排除と、明白な不当裁判による地位・財産強奪目的の辞官納地の画策になりおきた慶喜公への冤罪事件に関して真実を知る者は、紛れない真理洞察を一歩も譲らず、現時点までの信頼性の高い小御所会議の現場にいたひとびとの一次史料で確認できるこの史学上の真理を、同じ悪意しかもっていない西日本人一般からのあまたの妨害と陰謀をくぐりぬけ全人類、全後世へしかと伝え抜くしかないのである。竹田恒泰氏や百田尚樹氏らだけではない。天皇家にはじまって、司馬遼太郎や原田伊織といった小説屋や、関良基の様な郷土史家、或いは池田信夫の様な評論家や、じゅんちゃんの様なユーチューバーの類までも含め、あるいは佐賀に母方をもつ茂木健一郎がどうせ歴史の真実などしれないのだから物語が重要と明らかに実証社会科学としての歴史学の意義を余りに軽薄な論調で否定して語るなど、西日本人なるものはその伝統的風土に於いて、悪魔的というべき自己中心の利己主義的な中華思想による陰険きわまりない歴史改竄を、記紀以来当たり前の文化と本気で思っているがため、ここでは先祖に遡って皇室を含むいわゆる西日本人らの間で、偶々同じ日本国民といわれひとくくりにされているが、科学的認識力を多少ともあれもつ我々にとって、小御所会議で起きた冤罪事件を後世へ伝えるのはまことに天の使命というべき仕事なのだ。この使命は明治期に渋沢栄一が初めに自覚し、その一部を担っていたが、我々後世の者はもはや西軍・天皇政権からの研究弾圧を避ける機会を以前より持ち合わせる幸運に恵まれており、これまでも公然とおこなわれてきている天皇家や西軍(薩長閥)政権からの言論弾圧の状況次第では、言論の自由が担保されている他の国々で出版もできるがため、焼き捨てられなかった史料を探り当てる機会を活かし、ねずまさし氏が『天皇家の歴史』で明治天皇毒殺説を裏づける侍医や僧侶らの病状経過を観察・記録した一次史料について発表するなど、あるいは岩倉具視の妹で毒殺を行ったと自白する堀河紀子の証言を再考するなど、宮内省側の手になる『岩倉公実記』や『孝明天皇記』では隠されているがどう見ても現実と矛盾がある歴史の真相も問い続け、西軍側が天皇家と共に握りつぶしてきたあまたの事実を史学に於いて再発見する義務があるだろう。例えば松平容保が『孝明天皇宸翰』を首から下げていた竹筒にずっと納めていたという事実は、京都守護職を務めあげ孝明天皇の命令で長州征伐をも頑張っていた会津藩を、裏切った薩摩藩と、武力討伐された長州藩らが、天皇家と共に「朝敵」とぬれぎぬした事を確実に実証してしまうため、日帝政府や戦後政府の認定教科書の歴史から通例、隠され続けているのだ。いいかえれば、戊辰戦争は西軍・天皇家による大義なき侵略戦争で、特に幕末政変全体で最大数の約3000人をその際に虐殺した会津戦争の陰惨ぶりは、福島県会津市の郷土史を除けば、明治政府以後の中央政府側からその親玉であってこの戦争を主催していた天皇家の陰謀と共に、この世界で存在しなかった事にされてしまう。天皇家は明治天皇の代に、父・孝明天皇の近侍であった慶喜と容保を突然裏切り、小御所会議で慶喜へ地位・財産を強奪する要求をつきつけ、鳥羽伏見の戦いで天皇家が慶喜とそのお供の容保らを御所へ呼びつけておきながら薩摩藩らに先制攻撃をしかけさせだまし討ちにし、「朝敵」と呼んでぬれぎぬを着せ、両者を不当な暴力で虐殺しようとした。ところが慶喜は水戸家で江戸時代全体を通じてはぐくまれた尊王の大義を真に奉っており無抵抗で江戸城まで退却するとその本拠まで天皇家へ譲ってしまう。この為、天皇家側は無理やり慶喜へぬれぎぬした事についておおやけに体裁がとれなくなるのは明らかだった。フランス公使ロッシュが江戸城で慶喜を説いて不当な西軍こと皇軍を攻めるようしきりに促したり、イギリス公使パークスが薩長両藩からの協力要請を文明人の信義にもとると怒って蹴ってしまったり(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』岩波文庫)、山形の米沢藩士・雲井龍雄が『討薩檄』で冤罪を雪ぐのが人道の当然であると同時代に主張していたのは、完全にそれら天皇家側・西軍側の公然たる嘘と陰謀が、外国人にも東日本人にもみぬかれていたからだ。同じ事は鳥羽・伏見での戊辰戦争勃発時に次期・水戸藩主の徳川昭武に万国博覧会の日本代表団の雑役として随行してフランスにいた渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』冒頭の自序で全く同じく見抜いており、薩長二藩が天皇の名を騙って徳川家へぬれぎぬを着せているにすぎないのだから勝てば官軍で討てばよいのに慶喜公はなぜそうしないのか、と一般的幕閣と同じ見解を当時として示していたのである。結局、水戸藩の弘道館などで水戸学をしつけられていなかった埼玉の農民・名主出身の渋沢には、義公以来この学風を通じて水戸藩士らへしつけられていた尊王の大義が戊辰戦争勃発当時、いわばまだ水戸家を実家にもつ慶喜ら徳川家臣団の新入りとして、理解できていなかったのである。
薩長史観は、明治以後西軍藩閥の支配した日帝やその名残をもつ日本政府が、鹿児島県や山口県の明治維新を美化する郷土史一般と同様の観点から、通例、明治から令和までの歴史教科書で公認している内容とほぼ同質のものにあたる。これらの明治・戦後政体は天皇家を中心とし、その近辺の人物らを天皇家の政務に役立った順に肯定的に、幕末以後この政体を藩閥として主導した西軍主体で描くものだからである。そしてこの手口で、大和王朝以後の奈良県、大阪府、兵庫県、京都府界隈でおこなわれていた特定の天皇政治をさも日本史の中心に描こうとする。したがって戦後日本国の検定教科書では、この王政(帝政)政体を大和王朝以来支配してきた皇族や、平安期或いは明治以後にこの皇族支配を政権簒奪目的に翼賛した薩長土肥京芸ら西軍系藩閥を完全善にしたてあげるに不都合な事実が黒塗りされ、排除され、ばっさり消され、また無理に権力乱用で検閲攻撃してでも敵対したとみなされた側がさも悪かのごとく定義され、そちら側の正義は内容を問わず全否定される傾向にあるのだ。同じ事は明治天皇の玄孫である竹田恒泰氏がユーチューブ動画などで盛んにアップしている天皇中心史観にもぴったりあてはまる。
『古事記』『日本書紀』に始まる皇国史観は、歴代天皇が祖先神からの神格と支配正統性(王権神授説)を帯びた自称・貴種(貴い種族)の長であるとする特殊な観点から、彼ら皇族の全おこないを忠臣・奸臣の別(忠奸の別、忠奸二言論)と共にまとめようとする、特定の歴史修正主義である。尤も、調べ得るかぎりすべて王政の国では、その体制に益するものが政治的正統性を帯びる様に政権側に考えられるだろうから、当の社会で王(ここでは何らかの単独支配者)の権限が及ぶかぎり、同様の忠奸二元論やそれに類した忠誠度に関する弁別された価値づけの歴史観が、王政自体や王権翼賛の立場から通例とられることだろう。この様な忠奸二元論は、政府に正統性が必要とされない状態でないかぎり、また過去の事実に関する実証科学が善悪いづれでもない客観的考察であったとしても、起きた事柄全てを完全に中立な状態から悉く述べるには紙幅や認識力の限界があるため、或る政府が史学に関与すると不可避に無意識の選択として起きてしまいがちでもある。したがってこの種の物語史観は科学としてあてにならず、信用ならないものであるから、天皇家などの世襲権力者や、なんらかの政府が史学に検定行為をおこなうのは不穏当というべきだ。王家(皇帝、天皇家など)の世襲権力者を中心に正史こといわゆる紀伝体で歴史を記述する際も、この作業を当の王家自身以外の第三者が行っている場合の方が、歴史学としての何らかの客観的な批判精度が期待できるというべきだろう。例えばこの王家と敵対した側を正史で王家自身より偉大な存在とみせる書き方をするのは客観的に困難なので、この王家敵対者側の正義や王家と敵対するに至った経緯・動機・結果詳細を綿密にかつ肯定的評価を正史形式ですら余さず書き加えるには、敵対者側自身の物語史観や、それ以外の客観的史実を同時に照らし合わせる必要があるだろう。但し、王家自身がこの様な正史をかきのこす事が全く役に立たないとはいえず、それはあらゆる政治史と同じく全ての歴史書に一つの頁を書き加えているにすぎない。
物語史観に対して、科学としての歴史学、すなわち歴史科学は、単に過去起きた事実を記述し、過去の社会の現実を善悪の判断(道徳観)と分けて理解しようとする客体化の試みであり、これと、歴史小説なる作者による特定の片寄った主観を混ぜた嘘・作り話、あるいはそういった小説による虚偽ないまぜの歴史認識自体を含め過去の歴史について何らかの価値づけの考察をおこなう歴史哲学とは、各々異なるべきものだ。
しかし和人一般は、これら歴史科学、歴史小説、歴史哲学とを各々みわける知性が基本全然ない。それは上記の茂木健一郎氏の発言でよくわかる。彼らは本心で、過去の事実など分かりはしないものだ雑に思って、史料に考証学を加えたり、反証的な実証主義によってその精度を問えるとすら思っていない。要は物事はわずかでも時間が経過すると徐々に伝言ゲームで嘘になっていくと思っているし、例えそれがいかなる悪意に満ちた伝言でも、それで平気なのである。だからこの意味で和人なるものは一般に、完璧に未開である。考証学の導入で厳正な正史編纂に努めた水戸学派は、なるほど彼ら和人一般の例外でしかない。和人一般は歴史小説の悪意ある偏見や悪意ある嘘をそのまま信じ込んでいたり、歴史科学上の新たな証拠を単なる確証バイアスによる片寄った主観で上書き否定していたり、歴史哲学上の何らかの価値づけで現実の歴史科学の方をゆがめて捉えていたり、当為(本来当然そう有るべき理想)と違和する善悪二元論など特定人物や国に肩入れした小説的な特定観念論に固執していたりするものなのである。
そしてまるで世界中の人々が過去に関して悪意をもっている嘘つきであるかのごとくに勘違いもしていて、その様な記紀的な嘘だらけの物語史観を平気で他人へも投影したりおしつけたりしようとし、常に、内外で凄まじく摩擦を起こしている。特に西日本側にこの傾向が甚だしくある経緯は上記でみてきた。天皇家がその様な中華思想的天皇中心史観なるものを、関西地方には神道神話で植えつけていし、薩長史観がそれに上書きされたからだ。なぜ韓国や中国などの周辺国、或いは米国はじめ国連側や、国内でも単なる過去の事実を郷土史上に持っている東日本・新潟側と毎度のごとく、自己都合で過去についての嘘をつきとおそうとする西日本勢と天皇家が摩擦を起こすかといえば、正に、この種の関西中心史観の癖がやめられないからなのだ。彼らが自己中心的中華思想を持っている証拠が「近畿」「京都」「上方」「上京区」などの表現だが、これらを彼らは自分達が中心の歴史にかきかえようと、常に自文化中心主義・自民族中心主義・歴史修正主義で待ち構えていて、実際にここ最近すら、小御所会議以後に自称官軍の日帝や戦後日本政府とみずからの軍勢を称する天皇家と起こしてきたよう陰険な悪意と謀略で、天皇家が正義で善、無謬の神の子孫で、あらゆる悪事をするにあたってこの絶対無謬教祖権皇帝にはいかなる罪もなく、又その周囲の人物らも天皇家による暴挙の犠牲になるべきで、それと敵対した者は過去の史実や世界観をほとんど悉くと言っていいほど時には命ごと抹消、抹殺されてきたのである。朝鮮・百済人の末裔である関西地方の桓武天皇が、先住日本人の末裔である東北地方のアテルイとモレらの自治自存圏へと平安期に侵略をはじめ、武力で脅して服従させ奴隷化しようとするも抵抗されたため天皇家側が進んで敵対した上に、自称・天孫降臨の弥生人侵入から日本列島にとって飽くまで移民である天皇家がアテルイら日本人への侵略戦争で自治権・民族自決権を強制的に奪い、虐殺したのが事実であるが、この様な歴史の真相は、悪意に満ちた関西中心史観ではさも桓武天皇が無謬の正義の存在で、不当に人権侵害され単に天皇家のわがままと傲慢、強欲のため納税奴隷化したがる侵略の暴力で殺されたアテルイらが卑しい異民族かのごとくに嘯かれており、アテルイ側が関西に攻め込んだ証拠はないので(いつもの関西人なら冗談ぬきでその種のことを捏造しかねないし、最低でも歴史小説などの形でどこかでやっていたかもしれないが)、客観的事実は桓武天皇が単なる野蛮な移民系の関西暴力団長で、日本人がその一味から抗議や賢明な国土防衛にも関わらずいきなり不当に侵略被害を受け、捕虜となって辱められ虐殺されただけなのである。成程、善悪という眼差しからみれば、当時であれ今であれ巨悪といえるのは侵略犯の桓武天皇の方だったであろう。だが、その様なまっとうな見方は、関西人達の書いたどの史書にもみられないし、天皇家側の史書では全く逆に、侵略・虐殺を含む日本人への人権侵害の数々や納税奴隷化の経緯がさも当たり前の正義かのよう触れられ終わっている。すなわち、弥生時代以後に入ってきて、特にこの平安期に関しては新造移民都市を作って朝鮮半島から渡来人として入ってきて定着した京都人一般の伝統的歴史観は、それから1227年近く経過した現代に至ってもこれほど、根っからどこまでも歪み切っているのである。端的に言えば、記紀に照らすと最初の反日勢力は侵略移民である天皇家一味であり、その極道者といえる侵略犯が勝手にオオキミ、スメラミコト、ミカド、天皇などと称して日本人全員を奴隷化しようと画策し、自己神格化をはかる神道による洗脳や、各豪族や武士団こと暴力団員を利用して逆らったり疑義を呈する日本内外人へ問答無用でことごとく一方的暴力をふるわせ、それに成功してきたというのが天皇家の歴史の全てなのである。
和人の漫画的主観史観を代理している例の一つとして、百田尚樹氏の『日本国紀』は、みずから物語を歴史科学より優先させると記述してあることからも、稗史(表向き史書めかした歴史小説)の類といえるだろうが、このなかで朝鮮併合に関して、朝鮮側が元奇兵隊員で山口県民の公使・三浦梧楼による朝鮮皇后・閔妃虐殺事件を受けて、妻を殺された朝鮮皇帝・高宗がハーグ密使事件で、日帝側の併合強制を公に訴え、それをやはり山口県民で長州閥・伊藤博文がおおやけにしかりつけると強権的に高宗を押さえつけ事実上強制退位させた史実など、表向き併合を装った事実上の強制暴力による侵略というべき数々の関連事件が無視されており、明らかに薩長史観や皇国史観によって、単なる歴史科学を山口県や日帝側に都合のいい形へ上書き消去しようとする悪意(害意か事情通)で執筆されている。
この悪意は百田氏のなかでは特定の歴史哲学による歴史修正主義の方が、単なる事実を追う歴史科学より重要な価値づけと見なされている為に生じているのだろう。こうして彼は同書で薩長史観や皇国史観、下手すると関西中心史観の焼き直しに終始し、薩長藩閥や天皇家のもとにある政体のみが唯一の正義や善とみなす確証偏見をおおかれすくなかれ否定するに足る事実を、意図的に、みずからの記述中から消去しようとする、或いはすでに見てきたよう閔妃や高宗、アテルイや慶喜といった、天皇家や関西人、薩長閥の悪行といっていい振舞いによる被害者側の悲嘆や正義に気づきすらしない。否、余りに薄情で共感性が低すぎるあまり、そして余りに自己中心的に狭量でしかも傲慢すぎるあまり、天皇家や関西人、薩長閥の歴代蛮行しかみえておらず、彼らの悪業に被害者がいるという事実に気づこうとすらできない。既に述べたが、これが西和人一般の知能の既往の潜在的・顕在的特徴でもあるのだ。また、こういった下劣さは、元々の共感性の欠如や、京都文化中心主義や天皇中華思想(神道)の信仰による文化多元論的・多民族主義的な視野の完全な欠如、また事実をからみわける単なる歴史科学を考究するに必要十分な単なる一般知能の足りなさを除けば、当の天皇家を開祖とする自民族神格化思想である神道信仰に由来した祖先・子孫崇拝によって彼らの過去及び現在と未来の過ちについて責められる事を極度に恐れる臆病さにもよっているのである。なぜなら天皇家と彼らの先祖にあたる関西人が何らかの過ちを犯しえたし、今も犯しているし、今後も犯すだろうという想定は、彼らが神格化している自民族を神道信仰ごと否定する結果となってしまうからだ。百田氏が必死になって「大和民族」(奈良県の一族)とした関西人中心主義を述べ続けるのも、結局はこの神道信仰じみた構造が彼らに自明の前提かのごとく内在されているからでしかない。こうして百田氏は「尊王の大義」で禅譲した慶喜も彼のもちあげている天皇家を身を挺して守ったにもかかわらず決して褒めはしないし、朝鮮王朝に対しても上記の様、西軍のあとがまである明治政府による侵略をさも朝鮮側のためだったかのよう嘯きながら肯定している。要するに彼らが東日本の人間だったり、朝鮮の人間だったりするために、関西人中心史観と相矛盾するので、自己神格化の神道教義もどきを脱しているこれらの非関西圏の歴史を全く認識のなかで、美事の文脈で再考できないのだ。
『幽囚録』での松陰侵略主義を背後にもつ山口県民主導の併合の名目での朝鮮侵略に関しても、もし過去の事実を正確に見極めていれば、三浦や伊藤といった長州閥の政治家らが、明治天皇と共に、謀略を含む武力行使で朝鮮王朝を彼らの支配下へ実質的に強制併合していった事実が明らかになる。それと同じ事を戊辰戦争で東日本・新潟・東北地方でも北海道でも、或いは軍事同盟関係にあった薩摩藩の島津家を通じて琉球でも、また士族反乱については福岡県でも山口県でも熊本県でも鹿児島県でも、彼ら長州閥ら西軍は公然とやってきているのだ。なぜ朝鮮だけ侵略ではないなどとうそをつけるのか。西軍は天皇家と共に小御所会議以後に慶喜ら平和外交主義の徳川宗家へぬれぎぬをきせ、以後は相手側がどうあれ、松陰が『幽囚録』でいうよう武力で植民地化のための単なる侵略を繰り返したのが史実である。こういった過去の事実を否定してしまう事は、単に三浦や伊藤、明治天皇らが現実には鷹派・強権政治屋だった現実を、韓国側あるいは国際社会からの侵略の非難を戦後、韓国・北朝鮮が独立した状態で恐れてか、覆い隠してしまう。
こうして百田氏の小説史観のなかでは三浦、伊藤、明治天皇らは現代の価値づけに即し、幕末・明治当時の現実より穏やかな空想上の人格におきかえられてしまい、実際には当時の侵略戦争を物ともしない世相のなかで武士や中古代奈良の豪族末裔として攻撃的にふるまっていた人々の武門としての実態が、正確に把握できなくなってしまう。明治天皇がその様な西軍の侵略主義的な志士らに囲まれ、朝鮮皇后への一方的虐殺を含む朝鮮併合を日帝の全権保持者として朝鮮王朝側へ有無を言わさず実行していったのは唯の過去の事実である。過去の天皇家が戦後の天皇家の平和主義的な容貌とは全く違った、徳川家に代わり新たに東国武家の伝統的統領である将軍を兼ね武張った軍人の総指揮官たる姿だった完全な証拠も、そしてそれが誇りだった時代の人々の世界観をも、この百田氏のこの本は一時の平和主義の価値観のなかで意図的に隠し、無かったことにしてしまうだろう。
彼がおそらく不都合と考えているのと違って、韓国は両班支配の続いた文官統制の国であった一方、日本は長らく武士が実の統治をする武官支配であったために、実際にあったというほかない両国の国柄や風紀の違いを峻別して記述する事は、寧ろ平将門が常総に現れて関西天皇家から自治権をとりかえして以来、武士の統治した国としての日本の国柄をなぜか貶めているというべきだ。関西人達のなかでは韓国側を不当に辱め、差別する目的で、史実のなかで併合にあたり日帝の山口県勢が強制力を働かせた部分を意図的に隠すことは、史実のなかの日韓の弁別にとっても、却って不都合だったのである。当の関西にとっても秀吉が侵略し耳塚まで作っているほど朝鮮人民へ被害をもたらした記録があり、文官支配の韓国側は日本を武士の国だと思っているので、この点で、理論的に過剰防衛するきらいがあるからである。要するに日本側が武を軽視しているとわかれば、そしてその様な尚武の気風を示す部分を、都合が悪いと百田氏が思って意図的に隠したり、気づかないふりをしたり、調べようとすらしなかったり、実際に調べてみつけても中途半端にごまかす判断を当該稗史のなかでしてしまうのは、歴史哲学としての善悪二元論を朝鮮併合にあたって「強制武力行使」は内政干渉ゆえ悪、もし韓国側の同意があったなれば善――そして実際には併合に同意していなかった朝鮮王朝はあの手この手で日帝から無理やり併合されたがゆえ日帝は悪、韓国は善――という単純構図にあてはめている韓国善玉史観(日帝悪玉史観)に、百田氏自身、図らずも乗ってしまっているからに他ならない。例えば一万円札の顔をしていた福沢諭吉は、『脱亜論』以来彼の校閲していた新聞紙面で、くりかえし朝鮮王朝側の固陋さを非難し、民族主義的に蔑視したり差別したりする言動を公にしていた。これは動かせない史実であり、その福沢は要するに欧米列強の脅威に囲まれる状況下で、まだ弱小国である日本側に、朝鮮王朝側へ近代化を急ぐ尚武の気風を啓蒙していたのである。そしりを招くほど弱腰に対応すれば同じく、アジア人への奴隷視や差別的な民族主義を一般的に持つ当時の列強がどんな手を使ってくるか分かったものではない、というのが『文明論之概略』でも偏頗心と読んで愛国主義が示される、福沢の現実認識だったのだ。もし開き直って、実際に長州閥が天皇家と共に実の武力で併合を強制したのだ、と動かぬ史実を暴露さえしてしまえば、日本の武士の国としての国柄を再び歴史のなかで浮かび上がらせる事にもなったろうし、それは被害者かつ文官統治が伝統な朝鮮側では野蛮だと非難されたであろうが、日本側の事実は事実なのだから隠す事は卑怯なばかりか、そもそも不可能としか言いようがない。文官による文民統制が明治政体では決してできていなかったという客観的反省と戦後政体の自己改革の為にも、あるいは敗戦衝撃から立ち直れないでいる戦後日本の士風の気つけにとっても結局は、この併合に関する真実をきちんと記述する事は、総じてよい結果をもたらしていたかもしれないのに、わが国武士の気風に逆らって弱腰な上に卑怯なのはこの百田氏自身のことなのである。
もし過去に何らかの過ちを犯した事が分かればそれを公然と謝罪し二度とせぬと誓えば済む。孔子が「過ちて改めざる、これを過ちという」どおりの文脈は、過去の史実をごまかし続けて自分に有利・相手に不利となる嘘をつきつづける西日本人一般が天皇家と共に、最低でも記紀を書いた奈良時代から一貫して続けてきている大蛮行であり、それを陰険でろくでもない暴挙だと感じるばかりか、科学的思考力や良識のほどに疑念をもたれ、文明の名に値しない野蛮ぶりだと思うのは何も韓国・朝鮮人あるいは中国人達だけではない。日本史上ずっと同じ手口で、天皇家や関西人一般から卑劣で陰湿に嘘ばかりつかれ、陥れられ続けてきていることに気づくだけの知能と良心をもちあわせている東日本人の相当数はじめ、全人類がおおよそ、その様に関西人・西日本人達に軽蔑の眼差しを向けるにたるだけの、いわゆる関西中心主義、天皇中華思想こと神道の狂信や、京都中華思想(京都自文化中心主義)のすさまじく、また大いに最悪の癖なのである。
過去の事実と誠実に向き合い、主観を排して単なる事実をそうでないものと見分けながら、歴史の真実によって真剣に反省するとともに、現代の価値観に照らしてよかった部分を維持促進し、悪かった部分を猛省して君子豹変、過ちは二度と繰り返さないようにする、との心構えこそが、真に歴史を学ぶ者がその哲学としてなさねばならない人としての義務なのである。これを温故知新という。歴史学の研究自体を目的にした『大日本史』の考証学による客観的で冷徹な歴史科学(前期水戸学)を前提に、わが国柄の伝統とみなした易姓革命の否定によって、天皇家のもとの諸大名統一政体こと国体を構想、その実践としてようやく世界史の表部隊に姿を現す、近代日本を作った水戸の歴史哲学(後期水戸学)は、総称し水戸学と呼ばれる。この学問体系が正に、その様な温故知新の模範を示す思想史・政治史実上の例である。
既に水戸学派は江戸時代から明治時代、わが国に実在していた科学者・哲学者集団として、過去の例となっている。仮に現代に似た様な学者集団がいたとしても、水戸史学会による過去の水戸学の研究者と、今も水戸におわす徳川家自身でしかないだろう。したがって我々がなすべきは、水戸学やそれがもたらした影響を担い手にあたる学者と各藩主、志士らの生涯と共に、単なる過去の事実として、稚拙な善悪二元論の偏見を排して客観的に捉えつつ、新たに現代の価値づけから温故知新の対象とすることだ。歴史に学ぶという事は、史実の一部にある史学者らの思想形態(観念論)とその影響からも、反省的に未来に活かす部分をみいだす、という事でもある。
なぜ麻生太郎氏はナチス礼賛発言をしたか――史実に学ばぬ漫画的歴史観の例
日帝末期の大政翼賛会一党支配(翼賛体制)と同じく一党寡頭主義だったナチス・ドイツについても、歴史に学ぼうとしない、或いはかじったとしても歪んだ善悪二元論の枠組みに何もかもをあてはめてしまいがちな漫画的主観史観を、和人一般がもっているとみなされる場面がよくあるだろう。
「ナチスを見習ったらどうかね」と自民党閥・旧薩摩閥の麻生太郎が発言したのは、決して彼のなかでは悪い冗談ではなかったはずだ。なぜなら彼は一党寡頭主義を信じているだろうからだ。そして麻生氏は恐らく、史実としてのホロコースト(ナチによるユダヤ人ら大量虐殺)の悲惨な現場について余りに無知なために、当該発言が帯びている政治的不正さを官人の立場から全く感じとることもなく、いわば罪深い無知さ無恥さで呑気に、ナチ模範視の言動を公にしたのに違いない。無論、自民党神道系議員で、大久保利通の子孫として薩摩閥末裔、なおかつ皇族の親戚にあたる麻生氏のなかでは、他の諸々の発言からおおよそ類推できるところでもあるが、薩長史観やそれを含む皇国史観が彼の中にあるといえる歴史哲学の規範だろうから――つまりは天皇家が世界の歴史の中心だとでも思っているのだろうから、その点からかえりみても、世論を操って問題がある憲法をも強制的に成立させてしまえ、との愚民扇動論は、大久保いわく「玉簾」の中の「玉体」だった天皇家を人前に引きずり出して専制君主づらをさせ*2、或いは伊藤いわく実態は自身ら寡頭政治家の駒として操っていた*3、薩長閥の本性を示しているというべき事例なのだ。
薩長土肥京芸ら西軍は、岩倉具視の暗躍指揮下で、死亡時の侍医と僧侶の観察や宮内に出入りしていた岩倉の義理の妹の証言から何らかの手段での毒殺とする新資料*4が、おそらく言論の自由から戦後新たに発掘されおおやけになってきている孝明天皇の36歳での崩御後、岩倉の指図で捏造された錦旗と共に、勤皇の誉れ高い前将軍・徳川慶喜を突如として憎みはじめ、慶喜が父へ誠実に仕えてきた事実と正反対に彼を朝敵と辱める狂った専制君主に16歳の明治天皇・睦仁をしたてあげた。実態は岩倉と大久保利通・西郷隆盛らによる少数支配の恐怖主義政体を目指したこの小御所会議反乱を足掛かりに、まだ未成年の天皇は実態的に他人が決めたことに裁可をするだけの、いわば御輿の上のでくとして、西軍てづから東京へ連れてこられることになった。徳川家の政権、地位・財産と官僚機構を、朝敵のぬれぎぬで名誉と誇りごと暴力で無理やり乗っ取ろうとする西軍の、簒奪目的に邪悪な手段に訴える陰謀のもとで。結局は部下の後藤象二郎に説得され折れた山内容堂や、ほか松平春嶽、徳川慶勝らは小御所会議の場で、既にこの様な岩倉具視、大久保利通、島津茂久らの陰謀を、慶喜不在の小御所会議の場でみぬいておおやけに非難を加えていたのが当会議出席者らの日記や回顧録に一貫して出ている史実なのである(『丁卯日記』『岩倉公実記』『大久保利通日記』『浅野長勲自叙伝』『徳川慶喜公伝』等)。
1898年、45歳になった睦仁は、61歳になっていた慶喜を皇居に呼ぶと、父や自身へ飽くまで忠義を示してくれた慶喜に、小御所会議以後のぬれぎぬの経緯について新たに最高の公爵位を与える事で、実質的に許しを請うたのである。慶喜が「浮き世の事は仕方ない」と発言し、過去を水に流した為に、睦仁は胸をなでおろした*5。
この一連の幕末政変上の出来事は、おもに西軍から明治維新と呼ばれているが、実際には天皇を操り人形にした薩長土肥京芸の政治屋らが、尊王思想をもつ前将軍・慶喜から政権簒奪する為に起こした冤罪事件――尊王の家訓を飽くまで守った慶喜側からみれば主家にあたる天皇家への禅譲の事件だった*6。
では現代に照らして、自民党・神道系議員らはこの様な不正な歴史を反省しているだろうか?
無論、ここで不正といえるのは、誠意のある最有力者である徳川慶喜を、悪意を持つ岩倉具視、大久保利通らが、10代の明治天皇をいわば中心をみずから裏切るとち狂ったピエロに変装させ、公然と追い落とそうとした謀略にある。天皇家自身が小御所会議という御前会議を含め目前でおこなわれる、この様なあからさまな謀略になんら無抵抗だったばかりか、自分から陰謀の認可をしていた事も忘れてはならない。慶喜は2代目の義公以来、尊王を大義とする水戸の徳川家が産み落とした選良だったため、天皇を誤って討つより、あるいは一時の私的な義憤から関が原の戦の再現で、かつ外敵に囲まれた状態にある日本の国力を大幅に消耗させるより、殊に天皇保護の大事をとって進んで全面退却せざるをえなかった。現実の明治天皇は寧ろこの政治現場をことごとくみて多少ともあれ事情を知っていただろうし、45歳になってから、今では自身の居城となっていたもと相手の城へと慶喜を呼び、事実上、許しを請うている。すなわち悪意――事情通か、さもなければ徳川家とその傘下にあった各地民衆への害意が、確かにあったのだ。西軍はいうまでもなくただの政権簒奪の悪意で徳川家へのぬれぎぬや東日本・新潟・沖縄への侵略をおこなっているが、天皇家自身も証拠づけられてその共謀犯なのである。天皇家を民衆全体を思う慈父・慈母とみなす考え方が単なる誤りだという証拠が、単に各日本民族への差別用語を連発しながら一方的に侵略虐殺や、納税奴隷化目的の人権侵害をくりかえしてきた飛鳥時代あたりの天皇家のやくざな実態からだけでなく、今から153年前にあたる小御所会議1868年の時点でも、史実として、確かにあったのだ。要するにこの家は、民衆の模範でもなければ、象徴(『日本国憲法』)や国体(会沢安『新論』)でもなくて、中古代の関西にいて、もともと「高天原」と称するどこかから――時期をかんがみると弥生時代頃であるためおそらく中国大陸のどこかから列島へ移民してきた、単なるやくざな暴力団長の末裔なのだ。それが史実の明らかにしている天皇家の正体なのだから、竹田恒泰氏が言論の自由がある戦後もつねづねおこなっているようこの家柄をやたらと美化したり、神の末裔あつかいで神格化したりしては決してならない。なぜならその様な天皇家と自称するやくざな一族のぬれぎぬの悪事の為に、日本人は東日本では最低でも約8625人以上の罪なき人々が、自称天皇軍から直接ころされたからである(明田鉄男『幕末維新全殉難者年鑑』新人物往来社、1986年)。ふたたび民衆や政治家のいづれかの者に朝敵のぬれぎぬを着せて葬ったり、同様の悪行を天皇軍が国内でやらない、とは誰にも確約できない。なにしろこの一族は、具体的に戦乱を起こしている663年白村江の戦いから数えても朝敵云々とぬれぎぬしてのこの種の殺戮芸が、過去をみるかぎりここ1358年近くの現実の生業なのである。
しかし西軍の末裔である安倍氏や麻生氏らは、却って明治政体を、天皇をでくにして政権簒奪クーデターを起こした西軍を美化する立場から礼賛し続けている。岩倉具視や大久保利通ら島津家臣団らからの慶喜へのぬれぎぬを見抜いた会津藩・桑名藩からの抗議と西軍によるその武力弾圧に始まった戊辰戦争や、やはりおおかれすくなかれ公益を無視して私利を図る西軍元勲勢の蛮行に嫌気がさしていたため彼らの地元でも起こされた士族反乱。あるいは当の元勲の最終指導者だった伊藤博文が度重なる武力を伴う強制で朝鮮王朝を亡ぼし乗っ取った際、朝鮮の愛国義士・安重根から暗殺された事実。明治政体はあきらかに、どの公平な観点からみても不正に簒奪された姿だった。当時の民衆や士族、外国人すら同時代でもそうと感じていたからこそ、明治政府の公然たる悪政とその正当化・美化に際し、島崎藤村が『夜明け前』で主人公に明治政府の嘘と欺き、ごまかしに満ちたご都合主義的な元勲寡頭政治を「御一新がこんな事でいいのか」と非難させた。同じく明治期に生きていて夏目漱石は『坊ちゃん』で江戸っ子の主人公から明治維新と呼ばれ西軍により美化される幕末政変全体を「瓦解」と呼ばせた。それどころかやはり明治期に岡倉天心は『茶の本』で、明治政府を戦争の術に耽る野蛮な政体と、英語で外国人へ向けて、しかも同様の侵略帝国主義に耽っていた欧米諸国を非難する知的戦術という立派な形で、早くも国際人道家として看破しているではないか。
歴史的事実をそうでない虚構と誠実に見分けられない人々は、過去の過ちを反省はしえない。だから似た状況が巡ってきても、必然の層で失敗を避ける事ができない。
安倍氏や麻生氏が政権の立場から、韓国やフィリピン、アメリカ、ドイツに設置される平和の少女像を、日帝軍が慰安婦を募集していた史実を非難するものだと、心苦しく思い、表現の自由を侵害してまでも芸術弾圧の挙に及ぶのは、彼らの狂信する薩長史観や皇国史観を――いいかえれば幕末元勲や薩長両藩、西軍と天皇家らの絶対正義論、道徳的無謬論を――科学的あるいは歴史的断罪という観点から、芸術批評的に再修正されてしまうからである。
だが、安倍氏や麻生氏らの薩長無謬史観の過ちは今に始まった事ではない。くりかえすが最低でも、近くは幕末時点で、小御所会議の席上から始まった事なのだ。
今から153年前、土佐藩主の山内容堂と福井藩主の松平春嶽らは、前将軍・慶喜ぬきに、単に西日本の有力政治関係者だけを集めて、厳戒態勢のもとで開いたその事実上の秘密会議の冒頭から、日本最有力の大名である慶喜へ政権簒奪目的にぬれぎぬを着せようとする岩倉具視や大原重徳ら公家・公卿一味や、薩摩藩ら大久保利通一味の陰険さをみぬき、公に非難を加えた*7。ところが岩倉は、岩倉側による明治政体成立後の記述では天皇の権威をもちだしてその場で論理をすりかえた。大久保が山内容堂らの正論に、慶喜へ地位・財産を天皇家の命令で放棄させる罠にかける事を提案した。結局、会議参加者の西日本と中部人らは、慶喜へぬれぎぬを着せて明治天皇の朝敵にしたてあげるあからさまな陰謀を、裏で手を組んだ西郷・大久保らと長州閥の武力討幕を目指す恐怖主義の準備のもとで、小御所会議の席上、明治天皇の許可をとって会議に参加した西日本・中部の皇族・公卿・公家・諸大名らへ強要した*8。こうして前将軍に冤罪をしながら彼の地位財産の強奪を狙って侵略暴走する恐怖主義西軍が形成され、以後、この恐怖集団は、明治寡頭政体になっていく。
この明治寡頭政体を安倍氏や麻生氏は、彼らの故郷の偉人――侵略・国討ち被害を受けた側からみれば最たる侵入大量殺人犯の元凶――にあたる伊藤博文ら長州閥の政治家や、無政府・反天・侵略・恐怖主義の極左思想家・吉田松陰、あるいは薩摩閥の大久保利通自身へ遡って、英雄化している。すなわち、安倍氏と麻生氏は、西軍に属した明治元勲をことごとくといってもいいほど英雄化し続けてきている天皇家自身と同様に、全くこの小御所会議以後の悪意ある恐怖主義政治を反省していないのだ。日本史のボタンを完全無欠に掛け違えたといえるなら小御所会議の席で、前土佐藩主・山内容堂、越前藩主・松平春嶽、尾張藩主・徳川慶勝らが、徳川家を裏切ろうとした広島藩主・浅野茂勲とともに、熾仁親王、純仁親王、晃親王といった皇族、或いは中山忠能、三条実愛、中御門経之といった公家らを会議の席上飽くまで説得し、前将軍・慶喜へぬれぎぬを着せ自らが政権を簒奪しようとする岩倉具視と、彼と共謀する西郷隆盛・大久保利通およびその主君である薩摩藩主・島津茂久といった国討ち陰謀を持つ奸臣を国事から退けなかったことにあるのだ。この秘密会議につどった西日本で政府転覆の陰謀を持つ天皇家ならびに皇族・公卿・公家ら京都人、また鹿児島、広島、および結局はいいまかされてしまった高知や福井、愛知の各大名らとその部下らが、特に薩長土肥の過激恐怖主義者にかぎってのち「元勲」と呼ばれ、政府への裏切りの陰謀で国の支配者についてしまったことから、日帝が形成されたのがうごかしがたい史実である。いいかえれば、これら小御所会議に出席した西日本・中部の各大名、特に島津茂久氏と浅野長勲氏らは、盛んに抗弁していたのに最後に妥協してしまった山内容堂氏や松平春嶽氏、或いは消極的ながら徳川慶喜氏を擁護していた徳川慶勝氏を含め、元々、人としての公徳より、私利を第一に図ろうとする陰険な精神構造を持った不道徳な人間存在と称するほかない。天皇家一味こと皇族・公卿・公家らの救い様のない犯罪人格ぶりはいうまでもないだろう。自分が損得どちらに入るかで、単に誠意があるばかりか、国事にあたって尊い自己犠牲の精神すらもっている他人に罪を着せようとも、ただただ計算高く利己的に振舞おうとし、その後も彼らからなる西軍が作った明治政体は、国内外で延々と侵略暴走をくりかえし、結局は、反撃を試みた旧連合国軍(国連軍)による広島・長崎への原爆投下と共に、完全亡国へ向かう運びとなったのである。既に山内容堂氏が最初の訴えで「戦乱の兆し」(天下の乱階)をもたらすものだ、とこの小御所会議での慶喜氏への陰険な西日本勢による冤罪の悪業とその悪因悪果を、必然に見抜いていた事は、共通して証拠がとれる会議参加者らによる目撃された一次史料から確かなのだ(『丁卯日記』『岩倉公実記』『大久保利通日記』『浅野長勲自叙伝』、及びそれらを考察して再編してある『徳川慶喜公伝』)。だから芸州藩こと広島県が、浅野長勲氏とその侍らによって慶喜公への冤罪の謀略に進んで参加した歴史を持っていて、その後も、この重大政治犯罪を一切反省しないまま、松陰思想や征韓論以後の侵略主義を正義かのごとく信じている薩長両藩から成る西軍主力部隊、或いは、明治政体の翼賛勢力のままであった事実をかんがみれば、みずからの慶喜公への冤罪およびアジア・太平洋侵略罪に、必然の因果応報で、反撃がついにやってきた、と捉えうるのは、人間界の道義としてまことに自然な話なのである。なぜなら自分が永久に侵略加害者でありつづけられる、あるいは永久に罪なき他人へ冤罪を着せて虐殺しようとはかるすさまじいヤクザ行為がつづけられる、などとは妄言だからである。広島県は通例、原爆投下によってみずからが戦争被害者の立場であると考えている。だが実際には彼らが、彼らの支配者であった浅野氏一味による小御所会議での共謀以後、主体的に慶喜公への冤罪とアジア・太平洋侵略罪を犯し続けていた事が歴史的事実であるからには、彼らの西軍・明治政体こと日帝から不当に辱め続けられる侵略被害者側が反撃の機を伺い、ついに業でもって業に報いた、と考えられる世界史的因果が、西日本の各大都市から当日の気候ででたらめに選ばれ、特別に大きな空爆こと原爆による大規模空爆で市街地を大部分破壊された全面敗戦には、完全にみいだされる例なのである。
驕れる者は久しからず、と『平家物語』にある。このことを、小御所会議以後に余りにつけあがりすぎている西日本は、天皇家もろとも、原爆というその最初の狼煙以後も、当然ながら歴史的因果応報があるとの覚悟を端然と決めるべきなのである。慶喜公は既にこの世におらず、その家も、もともと実家・水戸家の根拠地であった茨城県水戸市で平成の世に亡くなった。だとすれば今更小御所会議以後に彼へぬれぎぬをきせた西日本や中部の人々が、天皇家ともどれほど謝ったからといって、永久にゆるされなくなってしまったのである。そしてそうなったのは、西日本人一般が悪事に悪事を重ね、一切の誠意を欠いて、政権濫用でこの世に驕り続けていた自業自得なのである。
戦後も彼ら西軍(自称官軍、自称皇軍)、のちの日帝軍を指揮していた元勲と天皇家の残党は国政にしがみつき、この国の前途を彼らの悪意ある闇政治でまったく真っ暗に閉ざしている。安倍氏と麻生氏は、天皇氏とともにその様な暗い時代を小御所会議での慶喜公へのぬれぎぬ以後、人道破壊や、勝てば官軍と称する暴力による恐怖主義政体で今もつくりつづけている。安倍氏による戦争法・共謀罪・秘密法、あるいは天皇家の国政権能の侵害で違憲が疑われる退位法などの数々の違憲立法、また、安倍氏自身のおこないや命令による公文書偽造罪、贈賄罪、偽証罪及びそれらの隠蔽と、それらの罪科逃れを含むあまたの最悪暴政も、又彼のもとでの麻生氏のナチス礼賛発言も、結局は、この西日本勢特有の蛮政好みの一部である。日本国が瓦解するなら、初めに西日本からはじまるに違いない。この時限爆弾は、自業自得の因果応報という、ひとがひととしてこの世にあるからには絶対に避けられず起爆するおそろしい道徳爆弾だ。しかもそれは、薩長土肥京芸(鹿児島、山口、佐賀・長崎、京都、広島)など、西軍の主力となって慶喜公へぬれぎぬを着せその家の名誉を辱めつつ、日本の最高権力に伴う威厳と威徳を奪い去ったいづれかの地域から、幕末以来の悪業の飽和として、必ずや起きることになるだろう。
悪事は機が熟すまで腐敗が進み続けていく。だがその腐敗がとりかえしのつかないところまで進んだあとで、なにもかも手遅れになった姿をさらすことになるほかない。腐敗しているのは人の心。人は業から逃れられない。小御所会議以後に薩長土肥京芸はじめ西日本の一般的な人々が西軍礼賛でおこなってきた大悪業の数々は、彼らがでくとして担ぎ上げた当の天皇家の見るも無残な政教腐敗の状と共に世界史に露わにされ、永久に彼らの政道上の不正三昧の実態を文明界の一端と名乗るに値しない真実、夜郎自大であったものと証明するであろう。
―――
参考文献
*1
100代までの天皇家の事績を正史こと紀伝体史書の形で網羅した徳川光圀(義公)『大日本史』。
植民地化の脅威をうけ会盟を援用した日本幕末版「尊王攘夷」の初出で、外国思想だけでなく国内思想の神道を共に学ぶ事の重要さを説く徳川斉昭『弘道館記』。
植民地化防止のため日本列島の令制国統一を祭政一致論により「国体」と定義した天皇のもと構想する会沢安『新論』など。
天祖在天、照臨下土、天孫盡誠敬於下、以報天祖。祭政維一。
――会沢安『新論』国体 上。1825年。
会沢安『新論』明治書院、昭和14年。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1101932?contentNo=10
また、義公が「我が主君は天子なり、今将軍は我が宗室なり」という君臣の義。
一 西山公、むかしより御老後迄、毎年正月元旦に、御直垂をめされ、早朝に京都の方御拝しあそばされ候、且又折ふし御はなしの序に、我が主君は天子也、今将軍は我が宗室(宗室とはしんるいかしらの事也)なり、あしく了簡仕、とりちがへ申ましきよし、御近親共に仰聞され候
――安積覚ほか著『桃源遺事 : 一名西山遺事』茨城県国民精神文化講習所、昭和10年、39ページ
同様に義公が『古文孝経』を引いていう「君君足らずといえども、臣臣足らざるべからず(君主が君主にふさわしくなくとも、臣下は臣下にふさわしくあらねばならない)」
嗚呼汝哉。治国必依仁。禍始自閨門。慎勿乱五倫。朋友盡禮儀。儀且暮慮忠純。古謂君雖以不君。臣不可不臣。
――義公
徳川光圀・著、徳川綱條・編、『常山文集』巻十五、1724(享保9)年
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he16/he16_01438/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he16/he16_01438/he16_01438_0009/he16_01438_0009_p0013.jpg
それを受けて将軍となった徳川慶喜公が天皇の忠臣として、尊王の大義を守ったと証言するなど。
それはあらたまってのおたずねながら、わたくしはなにかを見聞きしたわけではなくて、ただしつけを守ったに過ぎません。
ご承知のよう、水戸は義公の時代から、尊王の大義に心をとめてまいりました。
父も同じ志で、普段の教えも、われらは三家三卿の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷と徳川本家との間でなにごとかが起きて、弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家に受け継がれてきた家訓、絶対に忘れてはいけない、万が一のためさとしておく、と教えられました。
けれども、幼いときは深い分別もありませんでしたが、はたちになり、小石川の屋敷に参りましたとき、父が姿勢を正して、いまや時勢が変わり続けている、このゆくすえ、世の中がどうなりゆくかこころもとない、お前も成人になったんだから、よくよく父祖の家訓を忘れるでないぞ、と申されました。
この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまでです。
――徳川慶喜
渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、第三十五章 逸事、父祖の遺訓遵守
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149原文:そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなり
引用部、参考文献:薗部等(茨城県立那珂高等学校教諭)「水戸藩改革の余光」1994(平成6)年12月4日・水戸学講座、『烈公の改革と幕末の水戸藩』1994(平成6)年度水戸学講座講録・所蔵、常盤神社社務所
http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/tokusyu21.htm
(アーカイブ:https://megalodon.jp/2021-0919-2109-16/komonsan.on.arena.ne.jp/htm/tokusyu21.htm)
*2 慶応4年(1868)1月17日 大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』、太政官、明治1年1月25日、第六類 太政類典、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十三巻・制度・忌服・雑一
https://www.digital.archives.go.jp/item/1376926
https://www.digital.archives.go.jp/img/1376926
……主上ト申シ奉ルモノハ玉簾ノ中ニ在シ、人間ニカハラセ給フ様ニ、僅カニ限リアル公卿ノ外、拝シ奉ル事ノ出来ザル様ナル御有様ニテハ、民ノ父母タル天賦ノ御職掌ニ乗戻シタル訳ナレバ、此ノ根本道理適当ノ御職掌定マリテ、始メテ内国事務ノ法起ルベシ。……
……何トナレバ弊習ト云ヘルハ理ニ非ズ、勢ニアリ。勢ハ触視スル所ノ形跡ニ帰スベシ。今其形跡上ノ一二ヲ論ゼン。
主上ノ在ス所ヲ雲上ト言ヒ、公卿方ヲ雲上人ト唱ヘ、龍顔ハ拝シ難キモノト思ヒ、玉体(玉體)ハ寸地モ踏ミ給ハザルモノト、余リニ推尊シ奉リテ、自ラ分外ニ尊大高貴ナル者ノ様ニ思召サレ、終ニ上下隔絶シテ、其ノ形、今日ノ弊習トナリシモノナリ。……
――大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』
*3 伊藤博文による皇太子についての当該発言を直接聞いたエルヴィン・フォン・ベルツの『ベルツの日記』(トク・ベルツ編、岩波文庫)から。
明治33年5月9日
一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。
――エルヴィン・フォン・ベルツ『ベルツの日記』
*4
湛海の日記(引用者注・1867年12月18日から毎日加持に参内していた、天台宗・護浄院(一名清師荒神、京都府京都市上京区荒神口通 寺町)湛海権僧正の日記。昭和28年11月7日、護浄院を訪れた奈良本辰也とともにねずまさしが発見。)は十八日からはじまる。十八日の症状は相当に悪く、「御上り物御薬など御返し(嘔吐)……御吹出物御膿ぬるぬるあらせられ……御障子一ト間御切明け、それより竜顔を奉拝、御加持申上候」とある。また『孝明天皇紀』引用の『土山武宗日記』には「僧正は御末口から常御殿の庭に廻り、御祈とうをした」と報告されている。ところが十九日から前述のように(僧正は「法験あらわれ」と誇っているが)、天皇は食欲が出はじめ、翌日は「叡感斜めならず」(気分がよくなった)というので、彼は三十両を与えられた。それ以後は典医の公報同様に「順症」となって、快方へ進み、皇后(准后)らも安心した。そこで二十四日は加持も七日目で満願となり、一応打切った。しかし准后からはなお当分加持にくるよう依頼された。
ところが二十五日朝、急に使者がきて参内するように命令され、僧正はいそいで参内した。
典医の二十五日の報告によれば、二十四日の夜から嘔吐がはげしくなり、下痢もはじまり、二十五日の朝には嘔吐も少しへったけれども、「微煩の模様」があり、これは「今一段と御内伏の御余毒御発洩遊ばされかね候の御事と診奉候」とある。ところが『孝明天皇記』は、同日一昼夜および二十六日の症状はのせていない。
この両日こそ、もっとも重大な容態であるから、医師の報告がなくてはならない。それを故意にのせないのは、前述の佐伯博士のいう通り、嵌口令が数十年後のここでも守られている証拠である。そこで『中山日記』(引用者注・『中山忠能日記』か)をみると、下痢と嘔吐がはげしく、食欲はなくなり、天運つき、側近の者は落涙した。そして午後十一時頃、ついに事きれた。
「玉体は、見上げるのも恐れいる程の有様で、当局は天皇の死をまだ極秘として発表していない」という慶子の手紙をのせ、二十八日の項には、慶子から極秘の文書が父の忠能のもとに送られ、それが引用されている。
それによると、「二十四、五日頃は何の仰せもあらせられず、両三度大典侍大典侍と召され候へども、その折りに御側におられず、ただただと当惑するばかり致しおられ、二十五日後は御九穴より御脱血……」とあって、この二十五日の重態の時に、側近にはだれもいなかったことが報告されている。ただ祈とうによばれた僧正が祈とうを繰返した。その時彼が見た天皇の様子は「胸先へ御差込み容易ならぬ」もので、盛んに苦しんだ有様が語られている。ここで著者は中山慶子の手紙のうち、「御九穴より御脱血……」という部分に、傍点をつけた。毒殺に砒素を使うことは、中国や日本でも古くからおこなわれたようである。中国の明時代の小説『金瓶梅』の第五話をみると、「淫婦が武太郎に毒を盛ること」のなかに、武太郎の妻が、砒霜を胸痛薬といって、胸痛にくるしむ夫にのませ、殺す状景がかいてある。呑んだ武大は、「おいら息がつまるよ」と叫んだ。その「肺臓心臓は油で煎られ、肝臓はらわた火に焼け焦げる。胸は刺される氷の刃、腹はぐりぐり鋼の刀、からだ全体氷と冷えて、七つの穴から血は流れ出る。歯はがちがちとかみ合って、魂はおもむく横死城、喉はごろごろ干からびて、霊は落ちゆく望郷台、地獄にゃふえる服毒亡者」……「女が蒲団を持ち上げてみると、武大は歯を食いしばり、七つの穴から血が流れている」というように、むごたらしい砒霜の毒死の状況がかかれている(小野忍・千田九一訳、平凡社、昭和四十七年刊、上、五十八頁)。全く同じ死の状況である。
医師もいろいろ手をつくしたが、どうにもならず、この上は加持以外にないというわけで、僧正は一層「丹誠をこめて」祈った。すると不思議にも痰がきれて、やや持直した。僧正は別室にさがって一休みしたが、再び招かれて、「玉体側まで相進んで」加持を加えたが、その最中に「御大事に及ぼされ、何とも申しあげようもなく」なったのである。とにかく『孝明天皇紀』にも当日の容態が発表されていない以上、この僧正の記録と『中山日記』とは、最も重要な史料といって差支えない。今後とも典医諸家の日記の調査に期待をもつ次第である。
――ねずまさし『天皇家の歴史(下)』第二十八章 孝明天皇の毒殺、一 典医の報告でも毒殺を暗示する(三一書房、1979年)
*5
三十一年皇居に参内して、天皇と会った。慶喜は天皇に「浮き世のことはしかたない」といったので、天皇は胸のつかえをおろしたという。
――千田稔『華族総覧』講談社現代新書、講談社、2009年
*6
明治34年の頃、筆者こと男爵・渋沢栄一が、おもいがけず、伊藤博文公爵と大磯から帰る汽車の中で、伊藤公は私へ語りはじめました。
伊藤公いわく―
「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえていらっしゃいますが、私は、心にはそうはいっても大名でも鏘々(そうそう)たる一人くらいに思っておりましたが、今にしてはじめて慶喜公が非凡の人と知りました」
伊藤公は、なかなか人を信用し認めないかたなのに、いまそんな話をされるのは、なぜですか? と、さらにおして、たずねましたところ、
伊藤公いわく――
おとといの夜なんですが、有栖川宮家で、スペイン王族のかたを迎えて晩餐会がありまして、慶喜公も、わたし伊藤も客に招かれました。
宴会が終わってお客さまがたが帰られたあとで、わたしは慶喜公へ、試しに「維新のはじめにあなたが尊王の大義を重んじられたのは、どんな動機から出たものだったんですか?」とたずねてみたところ、慶喜公は迷惑そうにこう答えられました。
慶喜公いわく――
「それはあらたまってのおたずねながら、わたくしはなにかを見聞きしたわけではなくて、ただしつけを守ったに過ぎません。
ご承知のよう、水戸は義公の時代から、尊王の大義に心をとめてまいりました。
父も同じ志で、普段の教えも、われらは三家三卿の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷と徳川本家との間でなにごとかが起きて、弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家に受け継がれてきた家訓、絶対に忘れてはいけない、万が一のためさとしておく、と教えられました。
けれども、幼いときは深い分別もありませんでしたが、はたちになり、小石川の屋敷に参りましたとき、父が姿勢を正して、いまや時勢が変わり続けている、このゆくすえ、世の中がどうなりゆくかこころもとない、お前も成人になったんだから、よくよく父祖の家訓を忘れるでないぞ、と申されました。
この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまでです」
伊藤公いわく――
いかにも奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は果たして、並みの人ではありません、と。
筆者・渋沢はのちに慶喜公にお目にかかったついでに、この伊藤公の言葉を挙げておたずねもうしあげたところ、慶喜公は「なるほど、そんなこともあったね」と、うなずかれていらっしゃいました。
――渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、第三十五章 逸事、父祖の遺訓遵守
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/290原文: 明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。
*7
……土老侯大声を発して、此度之変革一挙、陰険之所為多きのみならず、王政復古の初に当って凶器を弄する、甚不祥にして乱階を倡ふに似たり、二百余年天下太平を致せし盛業ある徳川氏を、一朝に厭棄して疎外に付し、幕府衆心之不平を誘ひ、又人材を挙る時に当って、斯の政令一途に出、王業復古之大策を建、政権を還し奉りたる如き大英断之内府公をして、此大議之席に加え給はさるは、其公議之意を失せり、速に参内を命せらるへし、畢竟如此暴挙企られし三四卿、何等之定見あって、幼主を擁して権柄を窃取せられるや抔と、したたかに中山殿を挫折し、諸卿を弁駁せられ、公も亦諄々として、王政之初に刑律を先にし、徳誼を後にせられ候事不可然、徳川氏数百年隆治輔賛之功業、今日之罪責を掩ふに足る事を弁論し給ひ、諸卿之説漸く屈せんとする時……
――国書刊行会・編『史籍雑纂』第四、国書刊行会、1911-1912年、「丁卯日記」254頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913007
松平容堂声を励まして曰く「今日の挙、頗る陰険の所為多きのみならず、王政復古の初に当りて凶器を弄すること甚だ不詳にして、乱階を開くに似たり。抑元和偃武以来二百余年、海内をして太平の隆治を仰がしめしは徳川家にあらずや、然るを一朝故なく覇業を抛ち、政権を奉還したるは、政令一途に出でて、金甌無欠の国体を維持せんことを謀るものにして、其忠誠感ずるに堪へたり。且内府(慶喜)英明の名は既に天下に聞ゆ、宜しく之をして朝議に参預し意見を開陳せしむべし。畢竟此の如き暴挙を企てられし三四卿は幼主を擁し奉りて権柄を窃まんとするにあらざるか」と一座を睥睨して意気軒昂たり。
――渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』竜門社、1918(大正7)年、第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、183頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149
今日ノ挙頗ル陰険ニ渉ル諸藩人戎装シテ兵器ヲ擁シ以テ禁闕ヲ守衛ス不祥尤モ甚シ王政施行ノ首廟堂宜ク公平無私ノ心ヲ以テ百事ヲ措置スヘシ然ラサレハ則チ天下ノ衆心ヲ帰服セシメル能サラン元和偃武以来幾ント三百年ニ近シ海内ヲシテ太平ノ隆治ヲ仰カシムルモノハ徳川氏ナリ一朝故ナク其大功アル徳川氏ヲ疏斥スルハ何ソ其レ少恩ナルヤ今マ内府カ祖先ヨリ継承ノ覇業ヲ抛チ政権ヲ奉還セシハ政令一途ニ出テ以テ金甌無欠ノ国体ヲ永久ニ維持センコトヲ謀ルモノニシテ其忠誠ハ洵ニ感嘆スルニ堪エタリ且内府ガ英名ノ名ハ既ニ天下ニ聞ユ宜ク速ニ之ヲシテ朝議ニ参与シ以テ意見ヲ開陳セシムヘシ而ルニ二三ノ公卿ハ何等ノ意見ヲ懐キ此ノ如キ陰険ニ渉ルノ挙ヲナスヤ頗ル暁解スヘカラス恐ラクハ幼沖ノ天子ヲ擁シテ権柄ヲ竊取セント欲スルニ非サルカ誠ニ天下ノ乱階ヲ作ルモノナリ豊信気騰リ色驕ル傍若無人ノ状アリ
――多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、158-159頁。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781064/95
*8
諸卿之説漸く屈せんとする時、大久保一蔵席を進んて申陳しは、幕府近年悖逆之重罪而已ならす、此度内府之処置におゐて其正姦を弁するに、強ち尾越土候之立説を信受へきにあらす、是を事実上に見るに如かす、先其官位を貶し其所領を収めん事を命して、一毫不平の声色なくんは、其真実を見るに足れは、速に参内を命し朝堂に立しめらるへし、もし之に反し一点扞拒の気色あらは、是譎詐なり、実に其官を貶し其地を削り、其罪責を天下に示すへしとの議論を発す、岩倉卿是に付尾して其説を慫慂し、正邪の分、空論を以弁析せんより、形迹の実を見て知るへしと論弁を極められ、二候亦正論を持して相決せす
――中根雪江『丁卯日記』
国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)『丁卯日記』254-255頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913007/135
具視退キ休憩室ニ入リ独リ心語ス。豊信(容堂)猶ホ固ク前議ヲ執リ動カザレバ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ。乃チ非蔵人ニ命ジ茂勲ヲ喚バシム。茂勲至リ座ニ著ク。具視ニ謂テ曰ク予ハ卿ガ論ヲ以テ事理当然トス。今マ辻ニ命ジ後藤ヲ諷諭シテ卿ガ論ニ従ハシメンコトヲ図ル。後藤若シ之を肯ンゼザルトキハ予ハ飽クマデ容堂ト抗弁シテ已マザラントス。将曹已ニ五藩重臣ノ休憩室ニ入ル象次郎切ニ一蔵ヲ説キ豊信ノ議ニ従ハシメントス。一蔵敢テ聴カズ将曹乃チ象次郎ニ諷諭スルニ具視ノ論ニ対シ抗弁スルノ不利ナルコトヲ以テス。象次郎大ニ悟ル。是ニ於テ象次郎ハ慶永豊信ヲ見テ之ヲ説キ曰ク前刻主張セラルヽ尊議ハ恰モ内府公(慶喜)ガ詐謀ヲ懐カルヽヲ知リ之ヲ蔽ハント欲スル者ノ如キノ嫌アリ。願クハ之ヲ再思セラレンコトヲ。既ニシテ上再ヒ出御アラセラレ親王諸臣ヲ召シ会議ヲ継カサシメ給フ豊信心折レ敢テ復タ之ヲ争ハス朝議遂ニ決す蓋シ倶視ノ論旨ニ従フナリ熾仁親王進ンテ御前ニ候シ以テ宸断ヲ仰ク上之ヲ可シ給フ時已ニ三更ヲ過ク
――多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、160-161頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781064/95
手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』(平野書房、1937年)84-85頁では、会議に参加せず警備にあたっていた西郷が、休憩中に会議の趨勢を聴くと短刀を薩摩藩士に示し、「やむを得ない時はこれあるのみ」と発言したそうだ、と記される。岩倉が西郷のこの発言を聴いてから休憩室にもどり、「もし山内容堂が動かなければ『霹靂の手』(非常手段)を使って事を一呼吸の間に決めるのみ」と岩倉は内心思ったという。浅野の小御所会議についての記述は大部分が『岩倉公実記』の直接引用だが、岩倉が「霹靂の手」を使おうと考えた経緯については浅野の記述のみ、岩倉が西郷の短刀脅迫発言を聴いてのもの、となっている。
此の日、西郷吉之助は、夜の会議には警戒諸軍の指揮の任に就いてゐて、議席には列しなかったが、同藩の者から会議の真情を聴き、更に驚く気色なく『已むを得ざる時は之れあるのみ』と剣を示したそうである。
此の西郷吉之助の言を聴いた倶視退きて休憩室に入り、独り心語して曰く、『豊信猶ほ固く前議を執りて動かざれば吾れ霹靂の手を以て、事を一呼吸の間に決せんのみ』と。
――手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』(平野書房、1937年)84-85頁
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223272
一今夜五時於 小御所御評議越公容堂公大論公卿を挫き傍若無人之岩倉公堂々論破不堪感服
――『大久保利通日記』上巻 5巻、1867(慶応)3年12月。日本史籍協会、1927(昭和2)年、415頁。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075737