自分はツイッター民がかなりの悪意のある感じで、短文狂特有の文脈――自分達のおそろしいばかりの愚かさを阿Qの様に合理化する説――で、決まり文句の如く無意味にそしってくるまで、単純化一般と抽出を混同させる類の言辞をそこまで疑っていなかった。
確かに深い思索をしているとき余りに物事が複雑化しすぎると整理のため論点を絞って単純化する場合がある。だがこれは思考術の一部にある技法に過ぎない。
あるいはまたある時アメーバピグに、或る女が自分の開いていた哲学部に連れてきた、余り利口そうではない男がくるや、自分にこう言った。
「自分は複雑な事を複雑なまま考えたい」
これはその男が、そこで行われている議論の質が低いとみなしその場の皆を婉曲的にそしる目的で言った言葉だったのだが、自分は彼の言いたい事自体に余り根拠を持った反論・肯定・容認論の類をその場では作り出さず、そうか、という感じで放置していたらその男は消えたのだが、いわばツイッター民の逆の類型の言辞でもやはり何事かを誹謗できるのである。
そのときたまたま部室にいた人々は、常連の中でも確かにあまり深く思考するタイプの人々ではなく、我々は雑談をしていたため、その男が学園思想に近い内容のやりとりが行われていない瞬間へ偶然きて、一度で臆断する時点で愚劣なのだと私は当然気づいていたが、飽くまで相手は年少者だったのもあって、子供っぽい世間知らずでそんなものかと適当にみなしていたのだが、今にして考えるとあの男は悪意があった。
複雑な事を複雑なままとか、複雑な事を単純にとか、単純な事を複雑にとか、単純な事を単純なままとか、我々はそんな事を誰も気にしていなかった。会話がそれらのどの型でも自由で、当然ありえただろう。哲学的対話をかなりの頻度でしていくなかで、これらは問題やその解決過程と特に何の関係もなかった。
だとすれば、ツイッター短文主義者の言いたい事は
「我々の愚かさに最適化表現を使ってくれ。我々は馬鹿だがなおかつ怠惰で傲慢なのだ」
だけだろうし、つまりはここでは悪い意味で無教養で、かつ浅はかな者特有の、ねたみ混じりで相当ひねくれ、しかも疲れ切ったざれごとの様な言いぶりだが、上記の複雑主義の男の言いたい事はむしろその逆の極端で
「俺様はお前たちバカにつきあうほど暇ではない。なぜなら俺様はもっと複雑な事が考えられるほど凄く賢いのだ」
と、より純然たる高慢さの表現でしかなかった。不知の自覚による哲学以前の話である。
複雑な思考もあれば単純な思考もあるし、これらと衒学には特に関係がない。今の私が知っているのはそういうことだ。
通常、衒学狂は単に計算でみる限りろくな結果が出ていないので、それより複雑な思考のできる側からみればポンコツな偽物に過ぎない。わざわざ遠回りしていれば計算自体も遅くなるし(いわゆる婉曲を除く回りくどさ)、途中がどれほど巧言令色にみえても一種の遊びで、読解力が高いとそれらの修辞を分解できてしまうので、世人を欺く事はできても哲人を騙すことはなんらできていない。
厄介なのは読解力が低いため低品質な抽出で物事を単純化したつもりになっている人だが、彼らは言語的に稚拙にしか物を捉えられないと考えていいだろう。原著にあたらず解説書や又聞きで知ったつもりになっている人々が凡そここに該当する筈である。
実際自分はツイッター民へわざと複雑な表現を使ったわけでもないし、却って世間平均並に汎用表現していたのに、それに「複雑すぎる」と文句をつける人々は、そもそも私より単純思考に慣れているだけのことだろう。多分もう二度と参加しないだろうが、ツイッターで言説した場合、誰でも読める場なので、私はわざと複雑にもわざと簡単にも書いていなかった。何度もこのブログでこの問題について考えてきた通り、これらは脳という競走(コンピューティング)が扱える言語的な計算量の問題で、文体の簡素さの問題ではないのである。プログラミング言語(ここでは文体、言葉遣い)の種類がどうあれ計算量やその速度の方についてこれないと、衒学や俗物主義と勘違いし、なおかつ相手を愚かなことにしたて自己正当化してしまう人がツイッター民にだけ余りに多い。私はこの種の短文狂にツイッター以外では一度もお目にかかった事がないので、彼らの特徴は衆愚化への向きとはいえ全世界でもかなり希な変異だと思われる。自分の知るかぎり一度も接触しないで済めばそれにこしたことはない連中なのだが。
他人にどんな表現を使うべきかはその場で変わるもので、私が典型的な匿名衆愚として嫌悪するツイッターの短文狂へ敢えて親切にする理由などどこにもないだろう。愚者や悪人に好かれるのは賢者や善人に嫌われるのと同じくらいかそれ以上に悪い筈なのだから。