私は聖書や仏典で勧められている行いのうち、慈善行為というものをこの9年ほど試した。結果わかったのは、これは唯の趣味、しかも最大の費用負担がかかるそれなのだという事。
先ず慈善に報いはない。なにかあっても偶然得られるだけで、総じて自分には損害のみがある。利他は結局は自己満足だ。
全ての慈善行為のうち、尊い教えを説くこと、つまり道徳についての説教(仏教用語なら法施)が最上のものとキリスト教や仏教の中では定義されている。イスラム教では聖戦への参加には一段劣る扱いかもしれないが、『コーラン』に基づく勧誘や教化とみてほぼ同じだろう。
だがこれも構造は同じだ。
説教は、孔子にいわせれば中人以上にしか効果がない。今の言い方なら中流程度の一般知能や一般常識がある人にしか、基本的に通じ得ない。これは経験的にも確かで、いわゆる知的な意味で下流に属するだろう人達へは、どれほど聖言を説いても馬耳東風、馬の耳に念仏だ。
法施の意義は相手の質による。
自分は方便を色々試す中で、一度、幼児にも分かる全年齢的表現を試そうとゲーム、RPGを作ったことがあった。しかし結果からみてわかったのは、元々愚者に教えを説くのは不可能なのである。彼らは何かを学ぶ事はない。子供向けの教材を作る人はこれに注意する必要がある。賢い子にしか徳は伝わらない。
それと、愚者や卑人をひきあげられるか、私は色々実験した。結果わかったのは、これは不可能である。一人の例外もなく愚者や卑人が賢者や貴人にならなかった。根本的に人は変わらない。自分が見たこの世の現象は、最初から賢い人がより賢くなった例と、最初から尊い人がより尊い行いをした例だった。
すなわち、この世でありうるのは、最初から賢さや尊さの素質をもっている人がそれを外部からの勧めで、より強化する場合だけだった。無目的であまねき慈善行為はこの点で大いに考え直さなければならない。投資効率を考慮すると、実は最初から善良だったり賢明な貧者を集中的に助けた方がいいのである。
これと逆に、愚かだったり卑しかったりする要素が甚だある貧者をひきあげようとすると、甚大な苦労をするだけでなく、結局は無理だから自分に損害が膨らむだけで元の木阿弥となる。経験的にほぼ間違いない。例外があってもごく一部だろう。
慈善は無差別なのが理想と考えられているが現実はこうだ。
福祉に携わっている人は、慈善の投資効率を無視し、悪人正機説的に極悪人とか大馬鹿者とかをつい「馬鹿な子ほどかわいい」方式で助けがちである。だがこれは実は、救世主願望を投影しているからで、いわば大捕り物のよう最低の人間を救済できれば自分が聖人だと信じられるから、そうしているのだ。
これらを前提に、自分が思うのは、善因善果、悪因悪果をこの世では強化する方が、単に無差別なそれより現実には望ましい慈善行為である。物語などで善良な人物が救われるのはこの為である。聖書ならノアがそれだ。対照的にソドムは民衆ごと滅ぼされた。これは慈善の効率を図る為の説話だといえる。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』で地獄のカンダタが釈迦に救われかけるものの、自らの悪業で罰を受けるのは、やはり同じ効率観に基づいている。つまり悪人を救うのはその人に善意のかけらがないかぎり決して合理的ではない。慈しみ(agape)は無差別だが、愚者や悪人にそれを行える程度は現実には限界がある。
イエスがなぜ磔になったか、彼はユダという拝金悪人へ親切にしすぎたからだ。自らもユダヤ人ながら、既得権益をもつユダヤ人と決定的に敵対したのも政略面での失敗だったが、中でも弟子の会計係の裏切りを予期できなかったのが致命傷になった。最初から信用できない人物を遠ざけておくべきだったのだ。
博愛というイエスの理想は、後世に大きな影響をもたらしたが、少なくとも現実で悪人達は衆愚に呼びかけ、既得権益であるユダヤ教徒を批判した救世主へ濡れ衣を着せ、なぶり殺して狂喜していた。これが慈善行為の限界だ。愚者は善意を理解しえないし、悪人は寧ろ救われて恨む。
慈善はする側の為だ。