先ほど、ツイッター上で偶然ある返信をみた(最近、殆ど時間の無駄なのでみていない)。恐らく性格も悪ければ頭も宜しくない様にしかみえない意味不明な返信、それも日本のネットによくある匿名で似非批判めかした荒らし的誹謗のそれ、つまり「煽り」だったのだが、人は自分と思考回路が似ていない相手はわからない。
僕はこれに気づくまで、今まで15年以上かかった。それは大変長い間、試行錯誤して、自分より遥かに愚かだったり、遥かに卑しかったりする人達を、自分と同類という前提に立って、何とか理解しようとするまったく無駄な時間でみちていた。BBSやSNSさえなければ、もっと自分の勉強は進んでいたと思う。
ガウタマは『ダンマパダ』で「愚かな者、卑しい者をみるな。その言葉を聞くな」といっている。この意味は、上述のよう、そもそも自分の思考回路と余りに違う相手は、基本的にどれほど努力しても、結局わからないからである。理解に必要な前提をえるだけでも生まれ直さないと無理なのである。
福沢諭吉はどこか(多分だが『福翁百話』)で、人間が英知を完成させるには海千山千が必要だといった旨を述べている。これは上述のガウタマの意見と相反する。そして自分が福沢の説を15年も試した結果、わかったのはガウタマ説の方が、この点では全く正しかった。下衆根性はどう転んでも分からない。
なぜ福沢がそんな説を述べたかなら、この男はガウタマに比べて生まれ育ちが卑しく、それだけでなく頭も随分悪かったので、世俗の人々に近かったのだ。比べてガウタマは王族の生まれで育ちも大変よく、庶民の苦しみをみて悲哀を感じ出家したものの、結局、愚か者の気持ちなどわからないと悟ったのだ。
福沢がどの程度の人柄なりおつむのできだったかをみるには『福翁自伝』でそれなりに分かるというものだが、『脱亜論』を脱稿したのも含め差別的記述が大変多く、決して、彼が聖人級の知能の持ち主でなかったと示す。
つまり海千山千は俗物にはふさわしいが、聖人以上の知能の持ち主には無益有害だ。