2019年12月13日

国をまたいで異なる語彙をもつ文化が接した時の話

私はある人形劇みたいなアバターを使うSNSを数年やっていた。別にやりたくなかったのだが、というか嫌いですらあったのだが、そのころ自分は人間観察は人文学の一種だと思っていたし、内部での事情があって仕方なかった面もある。その中である日、ノルウェイの人が私に話しかけてきた。

 その人のアバターは女性であった。中身の性別を確かめるすべはないが、話の内容は大体が恋愛相談みたいなのであり、どうやらその人はある男性に学校だかどこかで一目ぼれしたのであるが、それ以後どうなったああしたこう感じたといった種々の感慨を私に言ってくる。まあ女性がやりそうなことである。それで、私はそのアバターの人(SNSの中でもニックネームなので、もしかしたら出してもいいのかもしれないが、頭文字からアイさんとする)が、まあ想像の中ではノルウェイ女性であって、大体僕に最初に話しかけてきたときは20代前半くらいだったと思うが、おおよそ5~6年しょっちゅう話を聴いていた。
 正確に言うと聴かされていたといった方がよいのかもしれないくらい、私が一般にも近しい人々にも親切であるが故に、そのアイさんは大体彼女(仮)が置かれている事情とか感情の推移を私に語りまくった。私側からはあんまりというかたぶん何も相談してないかもしれない。忠告じみた返答はしたと思う。

 プライバシーを考慮して極めて大雑把な概括にとどめるが、要するにその人は失恋し、最早恋愛を諦め、やがて自分自身を「無性」と名乗る様になった。今はやりのLGBT系コンセプトの数々は人々の状況にあわせたニッチを韓国料理か京都料理の小皿みたいに運んでくる。最も合ったのがそれだったのだろう。
「(うん、君は最初あれだけ猛烈に某美男子(俗語でいやあイケメン)を恋しまくっていたね? フェイスブックストーカーですらあり、妄想で何度も逢瀬の夢をみていたのみならず、遂には現実と見分けがつかなくなり家の前に停まった車すらその男のと勘違いしだす始末ではなかったか?)」は置いておく。
 僕もそこまで野暮ではないので(実は副都心育ちで単なる田舎紳士ではない)、うんうんと頷いていまだに上記のつっこみは入れていない。君は最初からエイセクシャルだったのかもしれない。失恋の痛みに耐えかね、新手の概念を鎧にしだしたのではない。僕だって小学生の頃の初恋の人が一番好きなままだ。

 で。そのSNSは先日潰れた。細かくいうと、途中では僕のそのSNSの中の庭にアイさんがきていつものよう延々と同情を買う話をしまくった時だったかなんだかに、確かに僕はアバターでもって慰める仕草をした。それは見方によっては僕が慰められていたのかもしれん。源氏でいう蓬生的なもんというか。で、それがいけなかったのかもしれないが、アイさんはなぜだかそのSNSが潰れる直前頃に、ずーっと僕を探しておったらしい。しばらく行っていなかった。そしてこれは次に登場してくるが、そのアイさんともう一人、イギリスのニューカッスル人(こっちはほぼ確定的に男)が探していたらしい。
 このニューカッスル人は、なんともいえないイギリス的な男で、しかもサブカルオタクと称するほど僕よりマイナーな日本のゲームだの、ベルセルクとか読んでいるくらい漫画にすら詳しい。この男は僕に「漫画もアート、ゲームもアート。まじでお前はそう思わないのか?」と議論を吹っかけてくる。

 このニューカッスル人を仮に、彼が使っていたニックネームの頭文字からビー氏としよう。後から分かったが僕より10歳くらい年下で、あるユダヤの人と友達だった。そしてまれにその親友を僕がやっていた(今もディスコードに復活して一応ある)哲学部に連れてきて、ビー氏は森羅万象について対話する。
 なぜアイさんと関係ないビー氏を出すかといえば、この男は典型的な純潔純愛一夫一妻主義者であり、確かに僕も(少なくともその頃、ほぼ)そうだったので、恋愛観において僕とアイさんとビー氏は、おそらく馬が合った。それでビー氏は僕をその他の知識量などからある程度尊敬していたなどと先日いった。これは謙遜はいってるので、正確にいうと(私の本意でないが読者に不快の念を催すと分かっているので前置きしているのだが)、「世界で最も尊敬できる人の一人」かの様に私を思っていた云々とビー氏はいった。これもまあ当然、行き過ぎか冗談と私には本気で思われるので、彼お得意の英国冗句と捉える。
 この種の日本とイギリスの間にある文化の違いは、似た部分もあれば違う部分もあるといった具合で、しばしば複雑さの度合いがマックスになる。だからこの記述もうまく我々の間の感覚を伝えられないが、日本人は一般にあらゆる面で無意識に謙虚なので自己評価が過度に低いが、イギリス人は冗談でぼかす。
 で、僕は「ほぼ」純潔純愛一夫一妻主義者だったと書いたけれども、実は、日本的記法であってこれすら謙遜で、実際には僕の方がビー氏よりそうだったし、今もそうなのかもしれない(実は或る事情で徐々に変化しているのだけれどもここでは単純化の為そのままにする)。このあたりはキリスト教思想とか、誠実さに関する真剣度に相当関連する。ビー氏は漫画の中の女をやたら美化していた。が、僕はその種の感覚は(国として漫画の本場にもかかわらず)もちあわせておらず、偶像崇拝だと考え、彼が盛んに女奴隷だと批判するKPOPの整形女性らだのの方が、まだしも漫画の中の非実在女より現実に生きているじゃないか、と僕がいっても、彼はがえんじない。文旨が混雑してきたので整理しよう。
 僕は現実の女性と、漫画やアニメやゲームの中の女性をみわけていてその中の女に恋なんてついぞしたためしがない。小説の中であっても同じだ。まあお気に入りなのはいるとしても(例えば春樹なら『スプートニクの恋人』のすみれとか源氏なら浮舟)、それはそれ、現実の女性の方が美でしょという立場だ。が、ビー氏は、僕がみるところ典型的オタク美意識に没入する脳の性質を既に体現しており、やたらと、少し古い漫画の絵をガシガシもってくるやバシバシ僕の前に無数に掲示し、「これらの女性は? アートであるのみならず理想のビーナス像じゃん」みたくいう。僕の目にはちょい古漫画なとしか見えない。
 こういう議論を含みつつ、まあ第二次大戦がどうだの、ナチと中国古典がどうだの、ユダヤ陰謀論だか資本主義と共産主義の趨勢だか、いかにも哲学的な話を部室じみて延々やっていたらアイさんの話題はどっかにいってしまうので、機会を譲り、話題をもとにもどす。それらの一つの核心は恋愛観である。

 アイさんに僕は自分がどう彼女を思っているかについて、英語で説明する必要があった。なんでかなら、向こうが僕を単なる友だと思っていたとしても(これから書くが既にそうでない可能性もある)、もはやこっちからすると情が移ってしまっており、あんまり親しくされると僕が却って困るかと思ったのだ。
 僕は「英語で」次の様な言葉を使って説明した。「私はあなたをこれまでみたく単に友とかソウルフレンド(魂の友達)だかとして思っているだけではないのかもしれず、なぜならあなたをただ単なる男性を扱うみたいに扱いづらい。いわばなんらかのラブを含んでしまっており、それは君には問題だろう」と。
 このところを英語の語彙で言ったのが、この文章の最終結論で出すけれど問題だった。ここでいうラブは、日本語でいう「哀れ」、さもなけりゃ「同情的な感じ」では全然受け取ってもらえなかったらしい。ラブは多義語だが、向こうでいやあ「恋」に使われる頻度がとても多く、主観的にそう読まれてしまう。向こうの語彙でいやあempathyとかsympathyとかcompassionとかagapeとか、familiarityやcharityだのすら、勿論僕だって中学生レベルの語彙より少々あるから知っている。少し時間をかければmaitriとかxeniaさえ持ち出せる。が。僕がアイさんに感じていた代物は、今朝気づくまでは英語の語彙になかった。
 でビー氏がまたもディスコード版の哲学部(Philosophy club)で色々議論を吹っかけてきたのはいいのだが、アイさんがビー氏にそういう情報を与えていた背景があってかなんかなのかはしらないが、あまりに話に夢中になって寝不足に陥ったビー氏が僕のガチ恋人を500回レイプしてやるとかいう最悪系ジョークを言ってきた時だ。
 大体そのレベルのジョークを言う人物であったなら、もはや友情もこれまでとなるのが日本的常識でなかろうか。僕が武士なら即座に刀に手をかけていてもおかしくない。だが僕は日本的常識を超えた当代一かは分からぬが、まあ論の剣客であるから「ほうほう」みたいな感じでスルーして様子を見守っていた。
 そんなら、このアイさんの方がさらなる問題をひきおこした。先ず僕がわざと席を外す(というか寝た)時間帯に、もともとビー氏は僕のガチ恋人の方を漫画の中の女みたいに扱っていた節があって(オタクなのである)、いちゃつきまではいかないがまあ男子中学生みたいなウブ系話をして舞いあがっていた。で、この文脈を受けその「お前の恋人を地下室で500回強姦したい」(発言そのまま)ビー氏の自称THE英国ジョーク(しかも僕が苦笑いしてたら10回は言う)をきいたアイさんは、僕の目の前で大爆笑した。恐らく彼女も寝不足パリピだったので、益々調子に乗り僕へ「お前はユーモアがわからない」といいだした。

 これで以ていえるのは、我々極東田舎国の元農民風情は、ドエライお西洋のガチ紳士淑女様がたにあらせられるTHEグレート英国ノルウェイ親戚王国の両猊下が解するとされる、どおもろいユーモアとやらを、字義通り解する能力に欠けている。パーティー文化すらない。で、呆気にとられ「なんて下品だ」と思う。その辺はまあいい。英吉利の決してリトルでないパリピがなにをいおうがそれは彼らの分領。天下分け目のドーバー海峡があるので私には遠い海の果ての出来事である。そもそも英国で階級が低い(又は高い)人間なんてなにを言おうがそれは向こうで処理していただきたい。問題なのは、実はアイさんの癖だ。
 アイさんは別のSNSにいたころから、頻繁にその種のブラックユーモアのとき大爆笑していた。それで僕はたびたび驚き、あるとき「他人が傷つく様な笑いは、バッドジョークに入るんじゃないかなあ」と、かなり遠回りに鍼灸の針みたいなので彼女のお笑い感覚を刺激してみた。が、殆ど無視されていた。
 もう一つ、僕の脳裏にあったのは、別のある関西の女性が、やはり僕の恋人が困った事態に陥ったと聴いて、似た様に大笑いした事件があった経験だった。それは自分史の通称「ゲラ事件」で関西人の笑い上戸と解釈する事で水に流し、線条体がねたみの解消で痛快を感じた正常反応とまでつきとめなかった。

 であるが、僕が余りにその下賜されしTHE英国ユーモア様(大いに偶像化されている)にプゲラッチョみたく北欧式お追従大爆笑で反応しないので、紳士様の方は大傑作が過小評価されてると気づき「貴様ら日本人はドイツ人と一緒で頭が固すぎる。真面目すぎるのは知性の欠落だ!」と畳みかけた。現実にはドイツにも普通にオモロイ喜劇役者が大勢いるばかりか、大阪人の子供は彼らの電車の中で朝から関東人の目にやれ漫才の練習としか思えないやりとりをしてるなんて知る余地なき自称ユーモア帝国に、以後少しは落語と吉本興業の違いから江戸東京の機知を伝えてみたが、民族ジョークも今や陳腐だ。
 で。遂に僕は侍(大いに偶像化されている)の本性を軽くあらわした。これを流したら今は寝ているガチ恋人の方がきて会話ログを眺めて、どう思うだろう? わが国の道理からいったら僕がぶちぎれ即座に生麦事件まではいかずとも「ストップ!」くらい言う方が男らしいと評価されるのは間違いない。
(ビー氏が強姦ジョークを連発してアイさんが大爆笑してから、次のを言うまでこの間、大体1分くらい以内とおもう)僕は英語でしぶしぶ「(苦笑いしながら)まあ君がもし現実でそれを言っていたら、もしかすると既に殺されていたかもしれないね、日本でだと。勿論僕が侍だったらだけれど」と返答した。

 これは勿論「大日本帝国ジョーク」に値する代物と自分では大いに誇って評価するのだけれども、NATOだか国連側でイギリス人とノルウェイ人は単に狼狽するだけでなく大発狂しはじめ、「殺害予告だ! 脅迫だ!」と大騒ぎしだした。アイさんすら「なんで私たちにそんなに攻撃的なことをいうの!」という。
 恋人を500回強姦してやるわジョークがOKで爆笑ネタであるが、切捨て御免ジョークがなんで攻撃的な脅迫になるのかについては読者諸賢の比較文化論的思慮にお任せするにしても、流石の僕はその部活の管理者が僕である事を前提にしているので、幾ら彼らが違う文化の感覚に接しても侍を排除できない。
 而してこの図をアイさんに掲示しつつ
「いやあ、強姦率の高い野蛮国の言葉を、平和なわが日本で冗談めかすのはハードモードですよ汗」みたいな風にいってみたところ、アイさんは「移民のせいよ!」といったので、「西洋人も日本から見たら移民であるが」とバッドジョークで鍔ぜりあいを弾いたのである。

 まあこのあたりの文化摩擦みたいなのはどこでも頻繁に起こっているであろうし、僕が接する事になった人々の本来的資質ふくめありふれた平凡さであって大した問題ではないともいえ、ある意味では異文化コミュニケーションの醍醐味なのかもしれないが、恋人が見知らぬ外人に強姦されるネタは笑えない。
 それはそれとして、アイさんの方がなぜそこで大爆笑したのかについてだが、単に西洋の一般なのかは分からないがある種のジョーク感覚というだけでなく、やはり脳の正常反応であったとしたら、彼女は僕の恋人を元来、無意識にねたんでいた可能性が出てくる。これが喜劇文化の違いより、問題なのである。

 きのうの夜だけども上記のやりとりがあってから、アイさんとビー氏は大いにうろたえ、僕が日帝ジョークを優雅にして流麗な平家物語の海上の舟の的射抜き文法で言ったとは全く気づかなかったらしく、アイさんは武士の国を逃げ出し(部室を離脱)、ビー氏の方は発狂に発狂をくりかえし荒らしと化した。
 で、ビー氏の方はまあそのうち新渡戸武士道でも読んで僕がいってた秩序が、彼の信じる世界観をぶち壊してからまた何か下らないといっては失礼だが大いに偉大なる大英帝国流儀を私の前で展開させてくれるであろうと期待し、放置でいいと思うのだが、アイさんの方は誤解させたままでは可哀想である。

 そんで、一晩ねて今朝おきてみて、僕は無意識が勝手に問題を解いていたのに気づいた。自分にはよくある。これがこの三文喜劇まじりで恋愛観を語るつもりだった僕が残した、大した内容のない知的謙遜文の結尾で目的だったのだが、僕がアイさんに感じていたのは、実はもののあわれだったのだ。
 今朝まで自分は『源氏物語』を駄作だと感じていた。何度読もうが浮舟が可哀想なだけで光源氏には大して魅力を感じないというかそこらのナンパ師レベルの知能しかないので虫に見える。まえ2chでドナキンみたいなジャネットという人に同じ感想いったら、浮舟に同情し日本に来た云々といわれ同意された。
 だが自分はお布団で半ば目を覚ましながら無意識の神に色々言われた。
神「お前はアイさんとこれで永遠にお別れでいいの?」
我「いや、うーん」
神「じゃあそれは恋か?」
我「別に女性として魅力的でもないような……」
神「愛か?」
我「まあ愛といえばそうなのかもだが、なんか違う」
神「お前はあのビー氏に、さも浮気者みたいにいわれていた。お前はキリスト教的性道徳からみたら天敵に過ぎない、極東のちっぽけな島国の単なる下らぬ浮気者なのか」
我「結局のところ、性衝動がどう生まれついているかからいったらそれは侮辱にすらならないわけで、彼は単純すぎる。子供なのだ」
神「宜しい。神は何事をも許す」
我「……今気づいたが、自分が感じているものはもののあわれではないだろうか。光源氏を、自分は虫けらの様だと思っていたが、ただの恋では全然ないし、友情といわれても困るし、愛といっても同情に近い余程特殊なこの感じが、本居宣長の説いたあの概念だったのか」
こうして意識が回復して分かったのは、日本人の中には静香がのび太を婚約相手に選んだ時に「放っておけないんだもの」といった種類の、ごく独特な感情の類型がある。それは我々の脳か、文化か、その他の環境か何かかで必然なり自然に導き出された結論で、西洋でいう厳格な一夫一妻主義で説明できない。
 そもそもmono no aware自体が、日本語にしかない。中国語ウィキで調べてみたが物哀になっていた。これを何も知らない人が見るだけだと物悲しいと文字通りになってしまうので、本居が式部から抽出した類の、或る恋愛感情の近隣にある感じの一種とはだいぶ違ってしまう。中世日本文学は実は偉かったのだ。

 また、或るフランス人のほかの知り合い(性別は女)が自由恋愛どころか明らかな複数愛を多いに明るく謳歌していて、僕はそれなりにというかかなりの文化衝撃から影響を受けたのだが、それをビー氏に説明したところ英語だと相当に汚い部類に入るだろう言葉で侮辱し、人道的に論外だという反応であった。
 そして僕はその部活にいる香港の人に「もしや君らの国に、(東京界隈でいう)セックスフレンドとかいうろくでもない言葉はないでしょ」といったら「あるよ」と即答され、これも春樹文学の退廃が伝承したかと思って嫌な感じではあるにしても文化衝撃を受けた。フランスでいう自由恋愛とそれは違うのだ。現実に香港だか中国に、単なる性関係だけの異性愛があるかどうかはしらないし、あったところでそれも人間性の一様態なのかもしれず、江戸でいう粋みたいなのを春樹くんだりが京都や神戸あたりから東京にもちこんだ概念かなあと思うのだが、実際にフランス人の恋愛模様をみてると心が入ってるので違う。
 で、THE異性愛みたいなのは今となっては恋愛全体からいうと主であるにしても別に特別興味を引く分野ではなくなったのかもしれない。性的少数派がリベラルな「彼ら they」の主役だみたいな国際情勢からいって、香港路上でガスマスクの上から男女カップルが睦ぶツイッター動画さえ時代遅れかもしれない。
 尤も、僕やビー氏、アイさんは世界全体の恋愛社会からいったら超少数派なのは確かで、古きよき家庭教育だかなんだかのせいで単なる性欲を満たす為の性愛を拒絶するよう躾けられてしまっている人は、逆に時代の進歩的な先端なんだとビー氏は、僕へ最後に大演説した。東京ならいまだに野暮扱いだろうか? 暫く前、アメリカで「第二の純潔」運動を有名女性歌手だかが声高に主張してた気がするが、例えばこれ直接当人にいったが茂木健一郎博士がたしか東浩紀・津田大介両氏らと正月動画のどこかで、古市憲寿氏を「童貞なの?」と揶揄の文脈でいうみたいなTHE江戸東京町人の粋は、僕には凄く気持ち悪かった。
 相手が童貞かどうかと東京に行って聞いてくるやつにはじめて会って、こいつらなにを聴きたいんだろう? それがハイかイイエかどっちかだったらなんなんだと、何で私生活をこいつらどうでもいい他人に根掘り葉掘りいわにゃならんのだと実に腹立たしいばかりか性の下卑た話題でうんざりだったのだが。結局、その種の揶揄をしていた連中というのは(驚くなかれ、彼らその質問をする人達は揶揄したさに、セクハラ目的で尋ねているらしい)、まあいってみれば下流階級であったところの町人の生き残りミームに感染しているのである。彼ら都会人からすると性売買が文化の一部でもあり、性はおふざけなのだ。
 他に女でもそれを聞いてくるやつに1人だけ会った。京女であった。何一つ人種差別とか文化差別の要素なく客観的にいって、僕が世界一苦手とする種族である。なぜ苦手かなら実際接してみたら99%のコミュニケーションを失敗するので、まるで違う感覚の持ち主達で、彼らは性悪が是、僕は善が是だった。この世で僕と親しくできる京女も、確かによく探せば1人くらいは最低でもみつかるのかもしれんがそんなの探すメリットはこちらに何もなく、一度は偏見かなと考え無理やり京女苦手症の克服を試していたが結局ますます残念な目にあうので、ああこれ相性悪いと判断しとりあえず流している。

(付記。このところをもう少し詳しくいうと、先ずこの世には純潔主義者がいて、婚前交渉をタブーとか罪とか、少なくとも相手(特に女性の一生。但ししばしば娼婦とか阿婆擦れ除く)にとって申し訳の立たないものと生真面目に捉えている。僕はこれに相当近似する。女性を思いやれるので可哀想に感じるのである。
 実際、僕も自分側にその意志があれば性経験ふやせる場面はそれなりにあった。がドラクエ・ドラゴンボール世代の価値観か僕の家庭(祖父母の代までお見合い)の性道徳の水準か分からぬが、真の恋人と結婚前に交尾するのは、幾ら愛知のおばさん(他人)に性の相性確かめた方がいいといわれても躊躇する。
 ところがこれもいいたかないけれども僕のきょうだいの価値観をみてると僕とは一定程度ずれがあったので、結局、家庭というより成長過程でどんな媒体や友人、見聞からなにを学んだかに、性道徳はかなり依存するのではないか。きょうだいが読んでいた少女マンガの類は、確かに鳥山明より恋愛志向だった。こうして考えると、自分の場合、『ドラゴンボール』や『ドラえもん』、さもなければ『ドラゴンクエストⅤ』の物語が性道徳に決定的に作用し、婚前交渉の可能性があるなんてさっぱり思っていなかったのである。特に鳥山明は孫悟空とチチを子供のころ出会わせチチが告白し婚約、性経験なく結婚させた。
 僕も高校生の頃はテストステロン値が多分一般男性と同じでとても高く、反抗期らしく社会全体を敵視していたのだが中学の成績は大概満点か合格点近かった優等生の部類の延長で、僕の価値観と正反対ぽかった村上春樹の小説を興味がない授業中含め読み耽りまくっていた。性道徳はそれでも変化しなかった。確か遺伝学で、性経験の早さは遺伝子である程度決まる筈だ。それからいうと僕は日本人一般もそうだろうが世界で最も晩生の方に属するのだろう。これも三島が書いてたが、ある種のイギリス人男性は婚約者がキスしてきても拭う。日本にそんな風習はないが、この点で、僕とビー氏の価値観は相似している。
 で、純潔主義者が東京の下衆町人、商人の類といっちゃ侮蔑かもしれないが、文化のまるで違和した南関東の人達(九鬼周造『いきの構造』に詳しいが性風俗が威張っている)と接すると大勢に於いて摩擦が生じる。専門にいた或る高校卒業したての18か19歳の東京男性が普通に性売買の話してきて、びびった。もう少し掘り下げると、この東京男性一般側からみると、茂木博士の発言でも多かれ少なかれわかるよう「粋」の美意識が生き残っていて性売買してる方が童貞(即ち純潔)より偉い、上位者という風に解釈されるのである。もう少し世俗的にいうと、彼ら南関東人一般の中では性経験の多さが性の魅力なのだ。
 敢えて分別すると私は南関東、主に東京で今の人生の3分の1は過ごしたが、彼らの価値観はおよそ理解したけど、僕がもともと属していた北関東の特に東北寄り文化の方がこの点、自分にあっていた。こっちだと性売買しろ性経験しろとか誰も煽ってこないし、そういう人達が唯の馬鹿みたいにしかみえない。しかしながらご存知、東京を中心とする南関東人というのは中華思想かつダニクル効果で大いに思い上がっており、自分たちが何でも1位だといいたがるばかりか北関東を田舎だとみなし、野暮でダサいといって頭から差別しているので、ま永遠にこっち側の価値観を採用する事はないだろう。分かり合えない。
 こないだ茨城県知事の大井川氏は性的少数者がパートナーシップ宣言できる、事実上結婚と同等の権利を与える法律を日本で最初に通し、まあ現時点でわが県は日本で最も性の面に寛容といえるだろう。なにがいいたいかなら、純潔主義者も今日では性的少数者だから個性を認め、同調圧力加えないべきである。
 余談だが或る福井の友人が金沢に住んでた頃、僕はSANAAの21世紀美術館みたさに彼のところを訪問したのだけども、なぜかゲイシャ街を案内され(通りだけ)単に面食らったばかりでなく本音では不快だった。小京都文化は分かるが、なんで僕が京女とも全然そりがあわないか、これでわかろうというものだ。
 別に僕は茂木博士を責めたいわけでもなければ彼の発言の真意も色々解釈できるし、それどころか古市氏個人を彼のサイコかソシオパシーが高そうな発言の数々からも別に擁護したくすらないのだけれども、性的少数者に思いやりの欠ける言動は、僕自身も気をつけてはいるが、今日では非常に罪深い。
 ちなみに僕個人の価値観は、この文全体でも少しは類推できるだろうが日々更新されているので、単純な純潔主義者だという風にこの節だけなら解釈されるけどもう少し複雑かと思う。この点については後々別の文で説明するかもしれない。まあ性に関して詳しく書くのもどうかと思うので書かないかもだが)

 話題を戻す。

 僕がアイさんに感じていたのは、もののあわれだった。だが、向こうにその種の観念は毛頭ない。ならば曖昧なラブで説明せざるをえないか、それ以外の何かで例えるしかない。或る愛知の無教養な女に「哀れ」の語義が腹立たしいものであった様に、平安文学の造詣が皆無なら同情を侮辱と受け取りかねない。今後、自分がアイさんとまた何らかの文面上のやりとりをするか(アイさんらとの間の上記のやりとりは、全て文通内の出来事です)、双方の都合でそうしないかすら分からないのだが、この文章は、或る文化では他の文化より特定の状況にふさわしい語彙を持っているため、文学は馬鹿にできないといいたい。

 北国の人々に雪の語彙がふえるよう、詩人や語り部は常に、言葉によって世界をあらわす工夫をしているのだろう。裏を返せば或る語彙が豊富な人々はその必要があった。いいたかないが英国人の罵倒語は実際、噂にきくところの韓国朝鮮語と同じか、それ以上に多彩かもしれん。まねなくていいところですが。
 日本語で最も充実した語彙は何か。もののあわれを代表とし、もしかすれば恋に関するものかもしれない。フランスやイタリアも、吟遊詩人とかいたろうしある種の詩的表現が豊かなのかもしれない。古代の奈良でまだ朝鮮の吏読風から離れていない万葉仮名で書かれた『万葉集』はわが国の個性を示している。
 なお、私は何も韓国朝鮮語を見下しているのではあたりまえだけれども全然なくて、普通に最近勉強しているし、KPOPとかだけじゃなく朱子学に関する伝統的議論の系統から、詩調の類まで当然の敬意をもってみてきたので、右翼の方々は私の好奇心や、普遍もののあわれの範囲を軽く見ないでいただきたい。