某メディア俗物が最近、士農工商を良い制度だといったのは、彼の脳内でもこの学歴差別式の身分制が、人間の分類上、彼にとって楽という軽薄な認識があるからなのだろう。総じて、恐らく低い論理的認識力の分類エラーである偏見が差別意識の原型なら、この差別思想の持ち主も又、自ら肩書をサイコパス的に濫用する人物なのだ。
似た様な差別は、例えば都内の一部の労働者社会なら「年収」で行われているかもしれない。東京の雑誌プレジデント等で、ピラミッド状に所得階層なるものを描き、その上位者と会社員の学歴を関連づけている図などをよくみる。両者に労働者社会で或る程度の相関が見いだせても、やはり身分制が目的だ。
より詳しくは年収と所得は違うし、労働者の外に金持ちは相当いるだろうし、学歴と所得にどの程度の相関があるかも定かではない。高学歴ワーキングプアとかポスドクとか、非常勤講師などで食いつないでいる文系博士号の持ち主などは無視されているので、この雑誌社の恣意的な確証偏見図は信用度が低い。
また年収なり所得を階層化し、富裕層、中間層、貧困層という階層化の差別用語でピラミッド状の図を描くのは、或る恣意的な貧富差別の考え方でもある。
(引用元)
この図は、より数が少ない金持ち側の方が圧倒的に数が多い貧困層をふみにじっている様な身分制を彷彿とさせるし、人数比が精確でない。最近の調査でも年所得300~400万未満の人達、特に100万未満の人達(私も入る)の方が数が少ない。日本全体の生活保護捕捉率の低さ(行政の怠慢と悪意による水際作戦や、世間一般の差別的偏見による社会保障を受ける権利の弾圧など)を考慮しても、より貧しい側を貶める文脈は完全に身分制の悪である。
資本主義の大義名分は、社会の需要をより効率的に満たせる筈、というアダムスミスの重商・重農どちらにも偏らない自由放任市場の肯定で、その後、公害が起き法で企業が裁かれたり、不況にケインズ政策が執られたり、修正資本主義に突入したが、究極目的は需給の一致であって、貧民の搾取では全くない。しかし資本主義を根本に遡って(経済学的にいえば古典派の原典にあたる『国富論』の読み込みから)学んでいる人は、現代の一般商人には少ないので、彼らは金儲けが目的と誤認している。そしてこの堕落した拝金主義の傾向を引いているのが、プレジデント的な身分制に絡めた学歴差別の趣旨であろう。
子供により教育費を使える金持ちの方が、より高い学歴を得て、所得階級を再生産する。一般にこの身分制の固定化は、有能さに基づいた適材適所を図りづらくさせ、社会間の流動性を不適正なほど過度に下げる為、望ましいと考えられていない。だから奨学金制度や、学校無償化(これは一律なら金持ち有利で悪平等だが)がある。つまり、(主に東京都内の)労働者社会を対象とする年収階層論を絡めた学歴差別なるものは、根本的に、堕落した資本主義である拝金主義的観念に基づく弱い者いじめであり、それを目的にした新手の身分制差別思想なのである。
で、日本人の一般民衆は、現時点で、この身分制差別をなんとも思っていないどころか、自分達で好んでこの差別を強化し、順応し、例えば朝生出演者一般の一定の学歴(学閥)への偏りだの現役東大生が教える系本だのクイズ番組だの色んな著書紹介だのみればいいが、拡大さえしようとしている。いいかえると、背景には第二次以後の安倍政権が新自由主義政策を執った世相へ思想的に妥協しようとした人達もいるだろうが、日本人の民衆一般は、弱肉強食の身分制を寧ろ自分達で作り上げ、不条理でしかない差別を社会全面に敷衍していっている。資本主義の本旨にもとるのは無論、道徳的退化であろう。
他方で、この差別はガラパゴス化した国内限定のもので、当の身分制へ従属する卑屈な精神的態度をもつ一定の衆愚の間でしか通用しない。海外ならアメリカのそれは寧ろ人事上の学位差別や研究内容の質疑で大学名を然程問わないものだったり、英仏独の名門と日本のそれにほぼ互換性がなかったりする。
マイケル・スペンスは、シグナリング理論で、英語圏を主とする地球単位で、労働者としての収入階層の固定化に繋がる学歴身分制を正当化した論客だったといえるだろう。この理論は社内教育費の外部化にすぎない点、また或る分野の学習と社内で必要な能力に特に相関がみられない場合など粗漏が多い。
自身も小卒だった松下幸之助は、水道経営と呼ばれる哲学で、経営資本主義の目的が、すべて人々が求めるものの潤沢な供給といっていた。そこに身分制差別などないだろう。松下自身も貧しい丁稚から経営の神と仰がれるまで登り詰めた人で、客商売の本質は適正利益確保と客の満足を兼ねる点と考えていた。しかし松下が去ってからの日本企業は、大企業もだが次第に米国型の株主資本主義を目指し利益追求を自己目的にし始め、その最終地点にでてきたのがアベノミクスと首相が自称する、公金を突っ込んでの企業国有化(日経ETF等の日銀・GPIFによる寡占)だった。つまり日本企業は弱肉強食に堕落したのだ。
自民党に媚びうる大企業経営者による政商団体の象徴として、悪の権化の様に語られることもある経団連。この利権集団は或る意味ではサラリーマン経営者の素朴な愛国心を基底に、外資を排除した互助協会の色彩も兼ねていたろう。
だが安倍政権時代に旧民主党に接近した労働組合(労組。安倍氏の言い方では日本労働組合総連合会を略し連合)が弱体化したのをいいことに、経団連は知らずに増長しはじめた。こうして彼らの大企業群は、小泉政権が通した非正規雇用法を背景に、実質賃金の抑制を図り、内部留保を蓄財していった。この内部留保は現預金以外に、売掛金、社債、有価証券等の現金等価物、土地建物、設備等の固定資産として企業の持ち分になるので、消費者を兼ねる従業員や、株主へ直接還元されず、総じて公益に類しない。即ち経団連はじめ自民党と接近した政商団体は、学歴身分制に政権上の弱肉強食を上書きしたのだ。
一部上場の主要企業が、幾らかの企業献金の見返りに、それより遥かに巨額の公金を、政権の座に就いた安倍氏らから株の形で間接的に受けとる。非正規おきかえで実質賃金を抑制。金儲け目的でやりたい放題状態になると、松下的公徳のたがは完全に外れ、学生には黒服土下座での奴隷状態を要求しはじめた。現実に土下座までしておらず、寧ろ少子化で人材不足なので丁寧に遇して貰ったと学生側は有頂天で、外交面でも内政面でも失敗続きで不正三昧の安倍政権を利己の一心で支持しながら、学歴身分差別を堂々と公言して回った。某女子大生淫行ツイアカはその狂った時代に、都内学生界の暗部として現れたのだ(ネット界の一部で有名になりまとめサイト等にとりあげられたが、現役で有名大に入学した男を特に選好して、多淫自慢に耽る或る慶応女子大生を名乗るアカウントが扇情的な文脈で、テレビ朝日系列に於いてマイナードラマ化されたりした)。
全体としてこの国の醜態が露わになる観点が、このどうみても現実の知能を精確に分析できていない学歴差別から連なる、労働者らの年収階層で幻想化された身分制なのだが、そしてこのピラミッドの恐るべき点は、単に非人道的で幼稚な悪意なばかりか、幸福と厳に相関もない点が全く無視されている部分だ。
イースタリン逆説(以下2画像参照)と2010年のカールマン"High income improves evaluation of life but not emotional well-being"、2018年のAndrew T. Jebbらの"Happiness, income satiation and turning points around the world"を総合すると、所得と幸福には一定の限界効用逓減の法則が働くと考えられる。
つまり、学歴身分制が労働者の年収階層と関連づけている差別観は、地位財の獲得競争面では一定限度までの有意性を伴っているものの、そもそもこの競争は世俗的なものだ。仏教、キリスト教ら伝統宗教は、原始的には地位財を放棄するよう勧めていたし、イスラム教の場合は喜捨でそうさせる。いいかえれば、単なる地位財単独についても、無償の利他行動の見返りとして、偶然、不確定に得られる程度でも、限界効用面でみれば有難味を主観はより大きく感じる。そして非地位財に関しては、そもそも地位財と兼ねえないものさえある。例えば清貧の徳、真情の愛、脱俗的な暇、非物質的自由などだ。
社会全体でみると、資本主義が元々目指していた需給一致の点からも、最大多数の最高幸福を目指す功利主義の面からも、政府も企業もこのより所得が少ない人々により重点的に奉仕すれば、物質的に満ち足りた金持ちを更に幸福にするより、遥かにたやすく費用対効果が得られる。ここに社会正義があるのだ。
ところが学歴(及びそれをしばしば含む所得)身分制は、この社会正義に凡そなんの役にも立たないだけでなく、寧ろ物質的に満足した金持ちを更に物質的に満足させようと顕示的で虚しい浪費をさせたり(東京テレビ芸能人気取りによるインスタ映えの原型)、貧者を更に虐げ派遣村に追い込んで平気でいる。例えば皇族が税金を流用し、テレビの前で芸能人を気取り米英留学を行うなど、日本人全体を完全に侮辱した話で、それなら国内の大学は何の為にあるのだという話になる。日本は米英以下の国だと自称象徴が認めた様なものだが、更に酷いのは日本人の血税を海外流出させるだけでなく借金返済に使うという。
この皇族の悪徳を頂点とし、国内で主に東京圏や関西圏など都市部の一部に特に集中している学歴身分制の強化者は、根本的に悪意で他人を虐げ、見下すのを地位財の補完として、或る嗜虐快楽の目的にしている。彼らを学歴俗物、所得俗物と名づけると、身分制は寧ろ彼らにとって身びいきの手段なのだ。その種の高学歴高所得で自分を浪費で飾っている連中が、果たして精神面で幸福な人々かなら、当然ながら成金根性、皇族根性に染まっている地位財競争に躍起な俗物根性の塊なのだから、果てしなく不幸である。いわゆるラットレースで死ぬまで安らぐ余地がない。だから釈迦もイエスも貪欲に注意したのだろう。
最初の主題に戻ろう。上記で学歴差別は、主に国内労働者界の学閥人事を中継ぎに、所得ピラミッド幻想と関連づけられている身分制度の焼き直しで、かつ主観的幸福の限界効用逓減則や非地位財からみれば相当虚しいラットレースの始まりだと示された。ではこの日本人民衆一般の偏向にどう対処すべきか?
第一に、知識、徳、技能等の獲得形質と学歴に厳密な対応関係はない。校外学習もあれば、国内教育の中身が多少あれ形骸化しているし、多重知能の名目で更にこの肩書と実質の乖離は進むだろう。したがって実のある学問、技芸修得は学校教育に必ずしも依存せず行う、根本的に自学自習のものたるべきだ。学歴の社会証明を使って身分差別の大名駕籠にただ乗りしている学歴俗物については、確かに見苦しいが一々彼らにかかづらうのも無駄な努力だ。憲法上に社会的関係で差別されないとあり、そもそも身分制は違憲判決されうるから、履行する者らの脳内にある単なる悪意でしかない。差別はする側のみが悪い。
では最後に残る経済関係に反映される、労働者界での人事差別をどう乗り越えるかだが、まずはこの差別自体、大企業病か官僚主義の腐敗だと指摘しておきたい。シグナリング理論自体の批判にもなるが、仕事に必要な実力、実務能力と無関係な要素で誰かを差別している組織は既に競争劣位で非効率である。裏返せば、その種の不自由で不闊達な組織形態をもつ、既におちぶれている会社、役所は、究極では違憲でもあるが、一々訴訟するより、単に学歴差別人事がはびこっていない点ですら実力主義の競争優位性を保っている会社等に就業した方が、自分が真に有能なら間違いなく充実した仕事ができるだろう。
もしその種の組織がどこにも見当たらなければ、自分自身が新たに差別のない組織のかしらになるのが最も手軽で、また最も合理的な選択肢だ。その組織が自分一人でも、つまり自営業、自由業等でも結果は同じだろう。この世の商業でも公務でも、本業と無関係な属性で他人を否定的に分類し得する筈もない。
狭く学業の世界だけに限っても、知識水準なり人徳で優る人物が、従来の典型的学歴を有していない為、それら知徳の劣る人物より枢要な地位に就けない様な学校は、生徒を次々失うだろう。教員にも競争原理は働く。幾ら日本人民衆が愚劣でも、低次元講義に、後光礼拝で大金を払い損するのは自滅である。
芸術界についていえば、この世界に学歴差別をもちこんでいる人間は完全部外者なのが今も昔も何ら変わらない。なぜなら絵なり彫塑なら一目瞭然でその中身がわかるからで、但し書きを読んで評価を百八十度かえている様な素人は、単に無恥さを玄人筋に嘲笑されているのに気づかないだけだ。