2019年9月12日

性愛表現の研究

女性一般は、調度その妊娠能力が尽きる頃から、(プロゲステロンの低下で、代わりにテストステロンが優勢になり)性欲が解放されがちである。これは女性一般が受動的な性になり易い原因で、進化的には若い時代に自制が効く為、出産育児費を節約すべく慎重に配偶選択するのに都合がよかったのだろう。他方で、娼婦一般は商売のため無理やり性欲が強い振りをするか、演技によってその種の媚態を身に着けて行く。或いは実際に性依存症になり、官能性を覚える。
 では男性の一部は一体どんな目的で性売買しているのか? 快楽に惹かれた性行為の練習か代償? なぜ対象が一般に年増の女性ではないのか?
 結局、性売買を行う男性の一部は、擬似的な妊娠可能性を選好しているのだろうということだ。単なる官能性なら年増好みが有利なのだから。
 フランス文化で年増好みも一般的なら、それは官能性追求がラロらにより芸術の一部と認められ、性愛は生殖やそれを錯覚させる模擬が唯一目的でないからだろう。

 私が東京文化に余り共感できなかった一つの原因は、そこでは江戸遊郭から続く児童性愛の傾向が激しくあったのも関係あると思う。同傾向は、都内の秋葉原を中心とするオタク文化にも随所に埋め込まれている。
 これらは自分が幼児からその中で育った雨情の哲学(童心芸術)の対極にあり、縁遠かった。
 通俗的にいえば「東京人一般はロリコンだ」ということになるが、現実にペドフィリア級の表現ばかり、オタクの都民共はしている。その性愛傾向は私には殆ど全く入り込めないので、ごく少しできても素朴な子供らしい純愛としてなのだが(童謡『赤い靴』の様な)、放火事件に遭った京アニ作品も嫌悪感でしかみれない。アニメ『けものフレンズ』をツイッターオタク民が推奨したから、無理やり全話みたが、これも典型的な東京オタクのロリコン趣味で全く入り込めなかった。純粋に子供向けアニメならそうと分かるのだが、擬人化した萌えキャラみたいなのにしてあると一発でわかる。京アニも新海作品もその点で気持ち悪い。

 確かに、単なる性愛の中で高校生くらいの若く魅力のある女性を賛美したくなる気持ちは私にも分かる。しかしこれは或る思春期的慕情でみてそうなので、オタク的な歪んだ「萌え」感情にしてあると、全然共感できない。ツイッターには腐るほどそういう漫画絵をばらまく連中がいるがまるでいいと思えない。この「萌え」という美意識が、私には全くの外部的、異国情緒な美学で、東京都民一般とか京都府の一部とか、完全にその内部で生まれ育っているから当人らは恐らく自然にそれを賞美しているのだろうが、私の目にはひたすら下賤で吐き気を催すほど醜悪にしか感じられない。心から馬鹿げているとすら思う。
 上述した様、年増の女性にしか脳の現象的に、官能性への純粋な志向はみられないのだ。若い女性とも年増の女性とも、何らかの形で関わった人間なら理解できるだろうが。そして若い女性(子供ではない娘)の魅力は、その年増の女性がもっている深い美質が本性的に欠如している、或るうぶさという点の方にあるのだ。
 いいかえると、都民を中心とするオタク一般は、激しい妄想癖によって、生娘にしかない類の魅力を描き損ねている。これは間違いないだろう。彼らは自分達の脳内妄想を描いており、男性の一部がもつ変態性欲の対象として女性を物化している。これ故に、市井の女性まで過度に官能的な娼婦のよう描かれる。

 私は主に絵を通じ、いかにこの世の美を描き留めるか腐心してきたが、上述の女性の魅力を描くという点で、オタク文化一般は大きく失敗していると思う。それは彼ら江戸期から続く東京民を主とする、浮世絵や春画から続く美人画「絵師」の美意識が、粋から萌えに変化はしたが相変わらず非現実的だからだ。
 私は18才の頃、美術予備校でモデルのデッサンや油画の勉強を毎日やっていた時ふと悟り、友人にこの作業は意味がないといった。それは現実の女性美(究極では私の主観の中にあるから性欲の投影なのだろうが)には、外形を紙やカンバスに写し取ることでは永遠に到達できないからだ。現実の方が美なのだ。
 すなわち、絵はプラトンがいうようイデアの写しにすぎないとする。この場合、人物画に投影されるのは(私は異性愛者なので、異性なら)性欲なり、何らかの理想的造形なので、問題はこのイデアと現実のずれだ。そして芸術美はこのずれを表現上なるだけ解消した地点にある。イデアが歪んでいると、技術がどれほどあっても、表現物に現れた造形の趣味は悪くなる。だから美意識なり美学なり、イデアそのものを、単に技術だけでなく洗練させる必要がある。
 私がオタク文化に馴染めないのは、その美意識が下品すぎ、野卑すぎるからである。同じ点で京都文化にも馴染めないが。

 最初に述べた様、例えば異性を描く際に、あるいはそれ以外のどんな造形物または理念に対しても、同じ情熱で、背景にある美の原因を委細に渡り調べ尽くし、イデアと現実を、技能ですり合わせる必要がある。しかし具象物が生きている様な場合、現実の方が美自体なのだから模倣物は側面しか切り取れない。
 レオナルドは手記で私が今書いたのとほぼ類似のことを、より大雑把にいう。つまり娘を描くなら風に舞う髪で若さを描写せよとか、具象物に固有の特徴を捉えろといっている。だがこれらは彼の時代に調べられた科学の範囲に留まっていて、物質の化学的構成要素、心理分析や脳の理解などは使えなかった。
 上述の様、年増の女性一般と若い女性一般は、単なる官能性を巡っても全く別の性質を、ほぼ固有にもっている。人生の労苦を経た老婆なら尚更そうだ。少なくとも私はオタク文化の中にある絵に、人物画として芸術面で感動した試しが先ずない。現代版春画として少女に官能性を象徴させている絵は下品だ。
 絵は或る情報量を、面積の限られた平面上に、主に色彩と、場合によっては盛り上げによる凹凸を使い結晶させたものだ。そこで人物を描いても、本質は自らの中に有るイデアの、或る模倣子を使った伝達である。だからオタク文化の様な退廃例を模倣先にせず、人はより善美なるイデアを芸術上表現すべきだ。

 後世の目からは信じられないことだろうが、私が生きていた間、村上隆世代(評論面では東浩紀)の影響で、20代とか10代とかの子供まで含め、美術界のほぼ全面をオタク文化の模倣子が覆っていた。公募展や美大芸大で公然と、まではいかないが、一般庶民はサブカル以外をまるで理解できない有様だった。そして恐るべき腐敗なり、都市文化の特徴という他ないが、この東京発祥で京都の一部が模倣し、国内外へ商業的に売りつけていたオタク文化の模倣子は、児童性愛と性売買を合体させた様な美意識を主とする代物、つまり「萌え」なる美学を理念としていて、裏返しの女衒じみた女性蔑視の塊だったのだ。
 なぜ東京だけでなく京都の一部でもオタク文化が土着したか。彼らに芸妓文化の背景があり、すんなりと少女の物化、いわば偶像の性奴隷視に親しめたからと思われる。そこで二次元人物として描かれた芸者らは、萌えの媚態で客から金を巻き上げるだけでなく、二次創作界で現実に売春させられていた。
 私はこの点でKPOPの世界も観察していた。韓国側の妓生文化が延長したのは明らかな、整形手術で整った顔立ちの女性ら(しばしば男性も)は、歌舞の曲自体はJPOPの影響を受けていたが、オタク文化の萌え美学の中にはなかった。そこで娘は娘らしさを率直に表現し、児童性愛じみた色彩はまるでなかった。しばしば娼婦(男娼)らしい表現の点では、ソフトポルノじみたMVや、性的な歌舞が常態のKPOP側にも都市文化の退廃的色彩があったと思うが、その下品さの度合いは東京の直接的な性行為を撮影しばらまくアダルトビデオ等のものより遥かにましだろう。
 文明は上品化の過程なのだから、これらは退化だ。

 美術界ではずっと以前から、性愛の表現領域も様々に試されてきた。そもそもプラトンの定義するエロス(性愛)は、単なる性欲から社会、宇宙へと拡張される美の理想のことだ。ポルノグラフィ(猥褻物)はこの点で直接的表現を行っている物と定義できるが、本来的に、上質な美は表現の抽象度でしかない。性愛に関する限り、具象表現は、この点で原始的美術である。記号化された人物の演技を描写対象にしている漫画、アニメ、ゲーム等はもともと幼稚で、初歩的な表現なのだ。それらが萌えなど東京・京都での人身売買じみた児童の性搾取と絡めた美意識で表現されれば、当然ながら野蛮なものである。
 未来の人類には、わざわざ私がこれを書く理由は全く実感できないだろうが、敢えて書き残したのは、同時代の東京都民全般が、村上らの反啓蒙的詭弁により、俗悪で品性下劣な芸術表現へ心中し、かつ全く王道で誇るべきと信じ驕って疑っていなかったからだ。後生はオタク絵が何かすら知らないだろうが。