2019年9月13日

易学(イガク)風の合理性

官学風(アカデミズムの訳語)の下らない衒学ゲンガクぶりを除去すれば、大抵の学問上の議論は、凡そ殆どの部外者にもわかる言い方で表せるのだが、素人を後光で騙す俗物らはこの易学化の方途をとかく疎む(ここで「易学」はイガクと読み、『易経』等で占いについて学ぶエキガクではない。わざと難解な言葉を使い学をてらう意味をもつ衒学の対立概念として、「やさしい言い回しで語られている学問」なる意味をもたせた私の造語)。そして学歴差別で煙に巻き、本質の議論から逃げ、官学の壁の内側で歯の浮く様な褒めそやし合いをする。
 なぜ彼らがソクラテスに見習わないかなら、現代版ソフィストで自身を無条件に知者としないと利益を得られないのに加え、大切な点を何も知らないとばれ、軽蔑されるのが不安だからだ。さもなければ肩書の後光以外に誇るべき点もない不勉強かだが、こちらならダニクル(ダニング・クルーガー)効果から虚栄のみで余計悪い。
 ケインズが『一般理論』で、既にソーカル事件以前、経済学者の数学使用法や、専門用語に衒学傾向を指摘していた。ケインズ自身に官学風がなかったとは余り思えないが、彼がわざわざ書き残した所からみるに当時の無名で終わった周囲の二流学者らは、もっと衒学傾向が激しかったのだろう。

 私は2ch文学板で荒らしの被害に遭い、連鎖的に村上春樹を軽蔑する様になった。腐った馴れ合いの中で賞と権益を回し合い、愚民騙しで金儲けしている東京小説屋連中全般が都内出版屋共々どんな醜い生態で本性か、はっきりみたからだ。それでもっと若い頃は村上のイージーな文体を否定しようとしていた。
 だが現時点でわかったのは、確かに春樹文体はよみかえしても悪寒がしてくるほどヌメヌメと回りくどく、卑俗で余り模範と思えないのだが、それとは別に簡潔さや伝わりやすさを追求することは、ケインズと同趣旨で、一般には正しい方向性だった。つまり経済的文体だ。
 装飾的文体は修辞的なものだ。だから三島をこの点で褒めている人は、文芸の研究がきちんとできていないと思う。漱石の『草枕』や『虞美人草』がこの文体意識の系譜にある作品で、春樹なら『スプートニクの恋人』と『アフターダーク』がそれにあたるが、レトリックの質は衒学とは本来関係ないのである。

 全く相似のことを学問にあてると、その内容を論じるにできるだけ伝わりやすい文法で、しかも経済的文体を使うべきで、修辞はそこでもただの装飾でしかない。若い頃の私は未熟だったのでこの点について文体実験で試行錯誤していた。ブログに置いてある当時書いた中編小説を読めばわかるだろうが。
 官学風の文体を指導教授に習ってしまった人々は、わざわざその型を外すため大幅に遠回りしなければならないので、よい文章家になりづらいだろう。そこで規範となっているのは悪い意味で学者風の、勿体ぶって分かりづらい上に揚げ足取りされない為の論文調の言い回しであり、読みやすさではない。
 試しに大学で、過去の卒業論文をめくってみるがいい。どれも読み始めた途端、眠くなるほど退屈で読みづらいだろう。それにお墨付きを与えている教授連は、文筆家としてやっていけるだけの文才はない。教科書文体よりもっとお堅く、なるだけ威圧感を与えつつ中身の分かりづらい雰囲気が官学文体なのだ。そして、究極のところ、理科論文でも文系論文でも芸術系論文でも同じで、官学風の学位論文その他、学術文章の基底にあってケインズに批判させた事の本質は、わざと難解な言い回しを使い読者に威厳を感じさせようとする韜晦癖を、修辞の伝達目的を抜かして乱用する、純粋に権威主義的な衒学ぶりである。
 この衒学ぶりが極端に及ぶと、当人さえわかる筈もない非経験的抽象論を勿体ぶって振り回すポストモダン哲学論文、或いはヘーゲルやハイデガー、或いは大江健三郎の一部著書の様に、中身は簡単にまとめられるし実際には薄いのに、難渋に引き延ばしながら後光で箔づけただけの不経済な代物が出てくる。例えば中村元訳の『ダンマパダ』で使われている易学文体と、それ以前の官学風または漢語の『般若心経』を見比べてみよ。いかに学問について過度の衒学が有害か計り知れない。この点でアメリカ人の使い始めた実用的文体は、易学のはじまりとして模範に足るし、将来の英語もより易学文体に近づくだろう。
 ヘーゲルの残した膨大な非経験論的で曖昧な文章のどれだけの部分が、道徳論に関する本質的内容を指し示しているか抽出すれば、そもそも彼の悪文ぶりが甚だ激しいだけだという他ない。その種の愚行を繰り返さないことこそ、本質的にわが国わが県の母語学術水準をあげると確信を持ち私は主張しておく。

 勿論、道徳論では高度な概念を使う。しかしそれは必要に応じて、経験の解像度を下げる為なのである。例えば捨てられていた子犬を助けるというより、慈愛といえばその経験の解像度が下がる(つまり抽象度が上がる)。なぜこの操作がときに必要かなら、或る経験を一般論にする為だ。限定的目的なのだ。
 全く同じことは、現時点で難解な言い方でしか伝えられていない諸々の自然科学の領域にも、明らかにあてはまる。万有引力の法則(F=GmM/r^2)導出過程を『自然哲学の数学的原理』に遡って追えばいい。つまり本質だけをとりだせば数行で済むのに、オッカムの剃刀で官学風余剰要素が付け加えられている。

 ある国、ある地域に官学風の衒学、すなわちわざと分かりづらい言い方を使う中身のない言葉遊びによる知恵者ごっこがはびこっているのは、現実には相手にことわざ的経済を与えたり、たとえで複雑な内容を伝わりやすくする優れた修辞ですらないので、学術水準低下の兆候でしかない。
 単なる学閥利権や、学位の後光による権益など、学術の悪用がはじまっている国、地域でその腐敗を免れるには、全く独学以外にありえないであろう。これらは学風によるので、既存の学閥・学位の外で、易学に基づく中身のしっかりした研究を行えば、自動的に経済法則により、粗製乱造の旧学閥は消滅する。