美術は何か高尚で、手の届かないものなのではなく、自分があらわさなければならない心のわだかまりを抱えた人間が、つまり世の中に不満しかもっていない人間が、自力で0から訓練を重ね何事か絵や彫像に結晶させていった証なのだから、体があればできるし、それは同時に全人類に伝わりうるものだ。
そして美術作品が一般に高いとしたら、それが量産されていないからである。一年に一点以下しか作れなかったり、そもそもそれを作るまでの修行に数千万円以上の埋没費用がかかっているのがざらなので、大量生産の工業製品の様に一点ずつを安価にすると、美術家は生活できず、極貧の中で餓死してしまう。
他の仕事をしながら、全精神を収斂させ長時間、全神経を尖らせながら、最大の労力を捧げないとろくに前に進まない作品制作を続けるといったことは、並の神にすらなし得ないであろう。この点で、副業美術家になるのは根本的に不可能だし、そうするしかない人は生活に妥協しているだけ余計負担が重い。
また、美術作品が未だ世の中にないなんらかの思想を新たな技術で現したもの、つまり前衛や独創性の点で重要な作品であればあるほど、生きている間に売れる可能性も殆どない。大衆や収集家といった顧客に迎合していなければ、純粋美術家はパトロンを必要とする。販売頻度が低いので作品が高くなるのだ。
こうして高級品、又は役に立たない奢侈品の様に扱われる美術品だが、愛好家ならわかっていることだが、第一義には人間の本性に根ざした精神的活動である。例えばバフェットの様な一代成金でも、美術愛好の趣味がないまま死ぬとしたら、その精神生活の一面は空虚のままだったのだ。
例えば、私の書斎というかこれを書いているPCの横には、宮沢賢治がミミズクを描いた絵葉書と、或る人の描いたペンギン絵葉書が、秋田で手に入れた小野小町の後ろ姿が織り込まれているウォールポケットから顔を出して掛かっている。もしこれらがなかったら、金があっても私の人生はより空虚だったに違いない。
サブカルチャーの様に量産型の工業製品化され、より安価になった装飾品が出現したので、成金の一部にしか美術品所有の趣味がないとまではいえないが、一般大衆が考えるのと違って、本物の愛好家は作家の或る精神性を称え、生きている彼らを支え応援する為に、作品収集で援助しているのである。
全く美術界の門外漢で、単なる投機対象とか、贅沢品としか美術活動を捉えていない人々は、そこに換金価値しか認めない。だが米英仏シンガポール等は、個人蔵の美術品を公的美術館等へ寄贈した時点での市場査定価格に対し税控除があるので、目利きが育つ上に重要作品が国内収蔵される好循環がある。
参考:https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120
https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120/2
(アーカイブ https://web.archive.org/web/20190912133420/https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120
https://web.archive.org/web/20190912133431/https://www.enrich.jp/money/art_invest/start_collection/20170126-25120/2)
この点でも、ゾゾ前沢氏の様な米国富豪に影響を受けた愛好家が美術品を収集しているのを、日本人一般は金持ちの道楽とみて侮辱している節があったが、根本精神でも税制でも、拝金主義や江戸東京趣味に染まって漫画礼賛、世界の美術状況に目が開かれていないのは日本人一般の方である。
美術市場はそういうしくみなのだが、東京都の主要な画廊が集まっている銀座のそれは世界と相当違う代物で、価格査定自体、美術史基準じゃなく日展を頂点とする公募展や会派、学閥などガラパゴスサロンの序列になっている。したがって、銀座美術市場の中でエライ扱いの代物は、当たり前の話だが評価基準が違いすぎるので世界で全然通用しないことになっている。これを私は18の時まざまざとみて、こりゃー駄目だと思い、それから一切銀座の画廊界隈に近づいてないのだが、要は同業者が馴れ合いやってんですね。
村上隆という人は、はじめ保守的ルートでしたので、そういう銀座画廊界では一番有利な位置につけていたのですが、呆れて渡米し、以後はアメリカ市場の方が有利とみて主にそっちでやってらっしゃるわけです。逆輸入戦略は巧く行かず、森美術館くらいしか相手にしてないわけでしょ。で自分で画廊作った。なんでそうかなら、村上隆は国内では美術というよりサブカルなオタク文化のもどきを、アメリカでポップアートの日本版として紹介したものだから、国内からは紛い物にみえるし、海外からはオタクアートの第一人者にみえるわけだ。国内美術館や画廊はこれに混乱して、漫画はちょっとと二の足を踏む。
この辺は美術批評上の文脈が、国内外で混線しているので、詳しくは別のとき書くが、要は銀座画廊界は世界のそれと大幅にずれている。奈良美智さんの小山登美夫ギャラリーは村上隆理論を背景に漫画絵を展示したから若干、世界と近い肌感覚だったが、趣味の面で海外に対し主導的役割を果たさなかった。
なにがいいたいかというと、日本には厳密な意味での美術市場はない。あるのは強いていえば同人界である。それは所詮もどきなので、日本画の宙ぶらりんな立ち位置含め、国内美術家らにどう生きていけばいいのか指針すら示せない。それで哀れな国内美術家をイジメた津田さんに天罰があたったのである。
私はあいちトリエンナーレ2019(以下、音で略して愛鳥)炎上のずっと前に、津田さんにこれら詳細事情を教えました、このツイッターで。こういうわけなので、国内美術家らなんて過半がプライド高い浮浪者と大して変わらん社会的弱者なので、虐めたらバチがあたりますよと。そしたら津田さんは美術関係者は全員死ぬべきとか真逆のブチギレしていた。なんで津田さんが愛鳥の炎上商法以前に、国内美術家らの顰蹙買ってたかというと、男女1:1の理屈は過程不公平だという正論を無視するばかりか、或る意味では日本が極東のど田舎にあるせいで世界の動向と全然違う、お粗末すぎる同人市場しか持っていない状況で、窮鼠を悪者扱いで追い詰めたからである。
なぜ津田氏がぶちぎれていたかなら、美大芸大を実体験してみりゃいいけどその内部では学問なんて完全に軽視されていて誰も論理的思考が必要な勉強なんかまともにしていない、Fランク未満の学芸会レベルだからである。花嫁修業でなければ就職の腰掛け、これ以外の目的で来たやつは寧ろ異物扱いである。つまりは、国内美術家のほぼ全員って美大芸大教育の影響でそういう感情論、感覚論しか全くできない人達なのに、最大限悪者扱いで挑発し、中途半端論理で説得を試みようとした上に、その論理そのものも社会学面で突っ込みどころしかない偽ジェンダー論(性別差は社会的性差ではない)だったからである。
それで、私側に見えてなかったが、津田氏の通知欄には腐るほど、美大芸大系の非論理的な国内美術家・関係者らからの、いつもの美術講師式に凄まじく不躾な(ほぼ人格否定でしかない類の)愛鳥ディスが溢れかえっていたのだろう。私も未成年段階でそれに触れた時の文化衝撃は凄まじいものでした。
炎上でアート素人には無理だったかとなったが、正確には、彼は日本美術界を熟知してなかったのだ。それは海外の、特に欧米の飽くまで論理的な批評による文脈主義が、米英系の商売美術の裏づけとして貫徹されている世界とはまた全く違う、狭苦しい上に、或る意味では馴れ合いの同人業界なのである。
はじめに書いた所に戻ると、美術はもともと精神に根ざす活動、即ち媒体を使った自己表現行為なのだから、基本的には国や場所、時代を超えている。しかし市場や展示方式、社会でのあり方をみると各国各地で全然違う。作家はより優れた思想を感覚的によりよく表すのに集中し、型に嵌るべきでないと思う。