2019年5月1日

啓蒙は無意味

愚かな人を助けようとするのは常に重い負担を背負って山道を行く様なものだ。しかも愚か者の方はそれに感謝もしなければ、そもそも山道を登るつもりでもない。実際、その手助けをやめれば勝手に下山するか途中で遭難する筈なのだから。ではなぜ愚者を助けるつもりなのか? そもそも愚者など理解できない。
 賢愚がそれぞれ同質の脳の特性だとすれば、愚者を助けるという考え自体が愚かさの一種だといえよう。何らかの合理的思考ができない人は、単に当人と似た集団に属する。つまり彼らが合理的思考の人に似せようとする必要はない。
 遺伝的、文化的多様性を省みれば愚者の集団がいることは寧ろ全体の利益である。その集団の悪例があればこそ、失敗を避けられる人がいるのだから。ではなぜ慈悲だの慈愛という考えでその愚者の集団を助けようと考える人がいたのか。彼らはただの救世主願望の持ち主で、一種の自文化中心主義に耽っていた。宣教師がそうだったよう、植民地主義の一種として未開を定義していた。別の見方をすれば愚者とみなされた側が何らかの点で優れていて、調度、真名と仮名の道具的価値が逆転したよう、ある場合にはより適応的になる。やはり啓蒙はただの偽善である。人は自分と類似の人と会話可能だが、その中でも自分より僅かに優れた人から何かを学ぶに過ぎない。
 自称先進国民が優位だとする妄想はその中で自殺願望をもっている愚物が幸福な途上国民を見下し、経済発展の名目でラットレースをおしつけたりする資本奴隷制や天皇制ファシズムの欺瞞であり、ただの傲慢な悪意以外なにものでもない。この種の愚物がいかに多いことか。結局この意味でも愚者を救うことなどできない。愚者自身の一生涯が反例となってより賢い人の進歩の参考例になるだけだ。