自分より悪徳に満ちた愚者に関わらずに済むことこそ、人生で最も幸福に値する最上の状態である。この意味で孤独が最も幸せなのが疑いようがない。
勿論、自分より優れた人、自分より善徳に満ちた人、より賢い部分を持つ人からその部分を学びとる必要は常にある(故に人は基本的に孤独でありえない)が、その様な人間が見つからない場合、少なくとも他人と接さないことによってしか我々は幸を得られない。人が厳正な自己の客観視や反省を通じても世人を悪徳に満ちた存在と感じていれば、既に自らの徳目の方が上位にあるので、社交全般より孤独の方が幸福と感じる筈だ。
私は慈善という概念をかなりの期間、慎重に検討していた。そしてこの考えは全くの間違いだと悟った。慈善とは救世主願望、メシアコンプレックスの発露に他ならず、いわゆる偽善でしかない。単にその結果が利他性を自己正当化・合理化する為に、社会的有用性が高いだけである。或る人が善行によって自己救済の確信を得る手段として救世主的役割を慈善家や聖人として振る舞いたがるのだが、元々人の遺伝子は本能の究極に自己増殖しか植えつけられていないので、行動ミームの中でさえ自らの尊さを自己犠牲によって信じたがっているだけである。そして助けられる側もまた人であれば常に、感謝や恩義より利己性の方が優位なので、最終的に救世主ごっこをしていた偽善者を聖人視して拝みこそすれど、元々助けられたことより自分の生存を強化する方に帰ってしまう。なぜなら神以外ならば本能を否定できないからだ。こうして慈善家が自己犠牲を定言命法に基づいて追求したとしても、それは最終的に自己の良心の満足という単なる利己性に還元されるのだ。そもそも他人の意志は自分にはうかがい知れないのであって、そこで類推された共感性には本質的に限界がある。自分が助けたという恩着せの蓄積、即ち積善の方が、真に相手側の満足より優先されがちなのはこの為で、幾ら改良を試みても結局は助けられる側の究極の満足には繋がらない。そもそも助けられてしか生存できないとか、助けられたという恩義そのものが、その人達の依存性や恩返しへの負担、自由への制限をつくりだし不快の原因になるからだ。だからガウタマが慈善と孤独を両方とも追求していたのは、彼自身、この両者の間で惑っていたからに他ならず、乞食しながら等価交換する生産物や奉仕性をもっていなかった彼が、自己正当化の為にこねくりだした大仰な理屈が、慈悲だったのだ。いいかえれば慈善より孤独の方が、人生にとって正しい目的だったのである。慈悲に基づく法施とは、単に詩作による他人への啓蒙に過ぎず、愚人や考えの異なる人々にとって往々にして無意味だったろうし、要するに乞食集団の自己満足の為にあった慣行だったのである。
我々が慈善を、少なくとも利己的な贅沢、顕示的消費、浪費等よりましな目的だとみるのは、それを受ける他者にとっての効果によるのであり、いいかえれば元々与えるべきものをもっていない人はこの種の罪滅ぼしをする必要すらない。つまり慈善以上の立場があって、それは孤独の中で清貧に住んでいることなのだ。勿論そこに義務などないし、単に自由があるだけだ。