2019年4月5日

真の報道は個人日誌に返る

自分は今日まで、東京の報道界が腐ってるのは記者クラブというカルテル制度の所為だと思っていた。日本人組織が往々にして陥るファシズム的な排他的協会が、記者自身の誠実性を骨抜きにしているのだろうと。しかし完璧にわかったのはこれは、個々の記者の質の低さの反映だったということだ。
 あいちトリエンナーレ2019を巡る諸々の言説を眺めていた限り、性別(sex)と性差(gender)すら陸に判別しないまま、実に子供じみた大衆扇動に耽り、美術業界への偏見報道を繰り返す或る東京の個人記者をみて、その人はネット報道の旗手という触れ込みなのに「お前もかブルータス」となってしまった。
 第二次大戦中、日帝は都内の主要マスメディア(加え大阪の某新聞社)ら全国紙が侵略含む戦争扇動を全力で行っていたのは皆知っている筈だ。そして平成安倍政権下の報道自由度が先進国とはいえない67位(2018年)なのも。なぜそうなのかといえば、組織ではなく記者個人が先進国の質ではないのだ。科学的報道ではない、ポスト真実(虚報)で恣意的に世論誘導する、客観性を欠いた印象操作に耽る、統計すら歪めその引用も自説を糊塗するのに使う、組織の論理で忖度する、政治思想から真実を改竄する、差別や逆差別を駆使し特定弱者を袋叩きにする、芸能人(或いは有名人)の私生活を暴き衆愚のみせしめにする、など。最後のはイエロージャーナリズムにすぎないかもしれないが。日本の報道記者は、少なくとも私が友人から聴き知るところのフランスでもたれている敬意は全くもたれていないし、それは一流の報道教育を受けていないからでもある。ここでいう一流さは、日本国内の自称一流大では永遠に得られない、いわゆる批判的思考の訓練を含んでいる。仲間の忖度? ありえない。端的にいえば日本の記者は世界で67位相当のダメダメ人間の集まりである。これは断言してもいい。私は美術の専門家と言ってもいいくらいの知識は一応あると思うけど、そこから美術関連の某記者とか都内報道の知的態度を見ていたら呆れるなんてものじゃなかった。賢い子供よりひどいくらいの内容なのだ。いや「日本の」というのは語弊がある。正確には「東京都の」だ。
 確かに地方紙の中にはましなのがあるかもしれない。勿論、個人記者でもきっとましなのがいる筈だ。有名なのはダメなのしかいないが、それは国民自体が67位の人を一流と思うくらい質が低過ぎるので、大衆受けして人気だからだ。
 我々は日本語と英語は最低でも習うことが多いので、どちらの言語圏の報道も参照できる。日本の報道の質がとんでもなく低いというのは、ネット使える人はみんな知っている。だけどそれは記者自体のできが悪すぎるから、そして日本人全般の情報への批判的思考が皆無だからなのである。いわば愚民だ。公的な学校教育が減点法で教師のいうことを鵜呑みにする、東大学閥の社畜増産永久機関になっているので、AIにもとる皇室と自民党の令和な飼い犬こそ生まれどそこからは永遠に知性が生まれないというのは確かだが、問題はこの政府や企業組織から自由であるべき記者さえ、同じ低質さにのまれているのだ。
 そもそも東京の報道が低品質、もっといえばド下衆なのは歴史的に、江戸で瓦版をまきちらしていた戯作者が起源だからなのではないかと思う。要は俗受けする流言混じりの作り話で金儲けしていた、下賎な町人が生き延び、明治期に欧米の猿真似で新聞社、戦後にテレビ局へ表向き新装開店しただけなのだ。対して欧米のjournalism(journal 日誌 + ism 思想)は識字率が低かったこともあって、知的な起源をもっているといっていいだろう。庶民は文字を読めなかったのだから知識人以上の人々がなんらかの情報を得る媒体だったわけだ。その結果、アメリカは微妙だが西洋圏のジャーナリストは知識人の一部だ。
 結局、日本は敗戦後、GHQを経てアメリカの影響を受けたのでジャーナリスト(和訳で記者)はアメリカ風の庶民派になっている。そのうえ東京では瓦版戯作者の通称「読売」(某新聞社の語源)が起源だから、ますます通俗的な内容で俗受けするのが是みたいになっている。真実の追求なんて全く関心がない。なぜ東京の報道自由度が恐ろしく低くてカルテル組んで金儲け政権忖度しあってるか、そしてなぜ国内報道が全然信頼に足らなくて英語圏だの西洋圏だのからわざわざ日本国内の真実を知るためにさえ(!)記事を読まないといけないかこれでおわかりいただけたろうか。菊タブーもまさに中世でしかない。
 東京の自称ジャーナリズムだかジャーナリストだかと名乗っているもと戯作者の末裔達が最悪の時、公然と冤罪報道を垂れ流し無実の人を死刑においつめたことさえある。もっと最悪なのもあって、ある囚人の無実な家族や親戚を大勢で昼夜を置かず囲い込んで世間で生きられなくし自殺させた。金儲けの為だ。
 もう少し詳細に述べよう。私は特定地方紙が信頼度でいえば都内の大勢よりましなことが多いのは知っている。倫理綱領の面でもだ。これは幾つか理由がある。第一に定常的地元人を裏切る報道は凄くし辛いので誠実にならざるをえない。第二に定期購読者だらけなので金儲けに焦らなくていい。第三に地元に知り合いという人間の目がはりめぐらしてあるので単なる風説で真実を欺けない。いわば田舎のよい面が都会におけるより発揮され易いので、少なくとも東京戯作者連中よりましな内容になっているということだ。ところが笑い話なのだが東京戯作者の方は自分が上だと思い上がっている。ダニング・クルーガー効果よろしく都内戯作者は嘘八百をまきちらし、各地方を散々作り話の虚報で騙し、しかも土下座しろくらいの態度で偉そうにそのどうしようもない質の情報を売りつける。下らんテレビ番組とかです。なぜなら田舎にあぶく銭が足りない(誠実と信頼の連環による良貨だらけなのだが)。
 私はこういう報道界の事情はある程度知っていたから自力でジャーナリズムを立ち上げていた(今の名前は『北茨城学』というブログ。同内容だが、昔は科学報道を目指してたので別名『北茨城科学日誌』だった)。何がいいたいかというと、個人報道には信頼性がある筈だと思っていたのである。今も少し以上はそう思う。
 だが今回、「この人は大丈夫なんじゃない? だってネットメディアでしょ? 個人が見えてるのに、欺く動機あるの?」って思ってみてたのが、大衆側に媚売ってポスト真実に耽っているのを確認し、これはもうだめなんだなと分かった。商業ジャーナリズム自体に限界があるのだ。利益追求に耽ってしまう。
 今後、我々は(宮内庁2階にかき集めた日本最大の記者クラブ・宮内記者会に守らせた菊タブー下の違憲な上皇と)令和時代に突入するが、そこで最も信頼に足る報道は、「誠実な個人」が一切の利害を離れ、大衆受けも金儲けもしていない状態、いわゆる日誌でしか発揮されない。私はそう確認したのだった。