金儲けに費やした一生は、虚しい。それは無限に続くねずみ競争に夢中になっていた間、己の独占が原因で増え続ける貧困を無視していた代償であり、死後はいうまでもなく生前も、金持ちは憎まれる。もし自分より金持ちを褒めたり憧れたりしている人がいれば、その人は相手から何らかの恩恵を嫉妬の苦痛以上に受けているだけである。他方、金銭の独占が与える損害は資本の適切な使い道ができない人にあっては甚大すぎる為、単に徴税という罰以外に良識的人類から絶えざる非難が加えられる。
アリストテレスが忙殺を最も不幸な状態と見なしたのは、金儲けの奴隷である商売人達一切にあてはまるであろう。もし無我夢中の状態としての流れ体験が忙事のさなかにみいだされても、守銭奴の状態は何ら利他的ではない以上、資本主義は不幸の発生装置と定義して構わない。
資本家が幸福たり得るのはその資本の使途が最善の時だけであり、単なる収益が目的化している時は常に他の資本家に対して競争的なので、当の資本家自身が市場の手段にされ不確定な収益予想に振り回されて終わる。いいかえればかねの使い方が利他的である範囲に限って資本家が敬意を持たれえる。蓄財どころか搾取そのものが一般に他者へ有害で、奉仕の代価から利益を得る商売自体が他者の不幸を意味するのだ。アリストテレスが幸福な状態と定義する程々の資産とは、接する他者に対して多くも少なくもない程度である。したがって、仕事と呼んでおこなっている搾取や利潤追求活動の一切は、もし喜捨や寄付、慈善等全く非収益的でない利他行為による散財を伴うのでなければ、利己性が過度でない時に容認される。代価を受けずに行う仕事は、明らかに尊い。返礼を省略する為の代価要求が利他的なほど十分低い時、それは収支ゼロか赤字である。金銭的利益の一切は代価が黒字であった時に生じるので、利己性の結果に他ならない。このため金儲けは賎しく、金持ちは憎まれるのだ。